月刊デラシネ通信 > サーカス&パフォーマンス > 海を渡ったサーカス芸人 > 海を渡ったサーカス芸人列伝 > はじめに

【連載】海を渡ったサーカス芸人列伝

はじめに

日本で最初にパスポートをもらったのは、サーカス芸人だった
私と海を渡ったサーカス芸人について

日本で最初にパスポートをもらったのは、サーカス芸人だった

 慶応二年(一八六六)四月、徳川幕府は留学生や商人らの海外渡航を認める「海外渡航差許布告」を発令した。これにより奉行所に申請をし、いまのパスポートにあたる「海外行御印章」を受け取れば、海外に行くことができるようになった。外務省外交史料館には慶応二年と三年に旅券を発給を受けた人名リスト「海外行人名表」が保管されている。それを見ると記念すべきパスポート発給第一号が、隅田川浪五郎と名乗る三七歳の芸人であったことがわかる。
 隅田川浪五郎は、アメリカ人興行師リズリーがひきいる「帝国日本芸人一座」のメンバーであった。この一座は隅田川一家五名、足芸の浜碇一家七名、コマ回しの松井菊治郎一家五名からなっていた。一座は、アメリカ、欧州を巡業し、各地で一大センセーションを巻き起こし、アメリカでは時の大統領アンドリュー・ジョンソンと謁見もしている。なおこの一座の後見をつとめていた高野広八が書いた旅日記がいまでも彼の故郷福島県飯野町に残されており、作家安岡章太郎氏は、これをもとに傑作小説『大世紀末サーカス』を書いている。
 「日本帝国一座」が横浜港を発ち、サンフランシスコに向かったのは、慶応二年十月二十九日であるが、この四日前に横浜港からイギリスに向けて出航したサーカス一座があった。松井源水ら十四名の一座である。パスポート交付に関しては、隅田川が第一号であったが、最初に日本を出たサーカス芸人第一号の栄誉は、松井がになったということになるかもしれない。
 いずれにせよ幕末、日本から最初に飛びだしたのが、サーカス芸人であったことは記憶に留めておきたい。

私と海を渡ったサーカス芸人について

 「海を渡ったサーカス芸人」というテーマは、私にとって生涯を賭けるテーマのひとつになっています。日本で最初に海外に飛び出したサーカス芸人たちの末裔たちのひとりが、『海を渡ったサーカス芸人−コスモポリタン沢田豊の生涯』でとりあげた沢田豊でした。しかし彼のように、その足跡の点と点を線でむすびつけることは、きわめて稀な例です。何人かのサーカス芸人の足跡を追おうとしましたが、結局は点を線まで結びつけることはできませんでした。ここでは、線を結びつけるまで至らなかった、サーカス芸人たちの点描を連載していきます。
 第一回目は、私が沢田豊を調べる以前から追いかけていた、ロシアに渡った謎の日本人曲芸団『ヤマダサーカス』についてです。


連載目次へ デラシネ通信 Top 次へ