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週刊デラシネ通信 今週のトピックス(2000.12.17)
神彰が兄貴と呼んだ男 上野破魔治氏と会う

 神彰の取材も2年目を迎えている。執筆の準備にかからねばと思っているのだが、いくつか空白の時期があり、それをまず埋める必要がある。そのうちのひとつが、満州時代である。函館商業を卒業したあと、神は絵の勉強をするために上京するが、まもなく満州へ渡る。この満州時代については、満州国の外郭団体に勤務したと自伝のなかで簡単に触れるだけで、およそ4年に及ぶ大陸生活について、なにをしていたのか詳しく触れていない。
 大陸時代の青春時代はどうしても抑えておきたいところなのだが、なかなか当時を知っている人はおらず、どうしようかと思っていたのだが、函館取材の時に、お目にかかった佐藤一成氏から、ハルビン学院の先輩で、神と一緒に仕事したこともある上野破魔治氏が、まだ埼玉でお元気でいることを教えてもらった。上野氏に先日やっと会って話を聞くことができた。
 上野氏こそ、神の大陸時代を知る唯一の人であった。
 ハルピン学院14期生上野破魔治は、卒業後すぐにいまの日本交通公社、東亜旅行会社満州支社に勤め、4年の抑留生活のあと、帰国、また交通公社に復職し、60才の定年まで勤めあげたあと、東洋大学短期大学で教鞭をとり、ここで観光学科をつくり、のちに学長をつとめ、70才に定年退職した。現在86歳だが、とてもそんな年には見えない、記憶力も鮮明で、かくしゃくとしている。いまはおもにハルビン学院同窓会の仕事をなさっており、その打合せなどで、しばしば東京に出てくることもある。
 ちょうど同窓会の役員会が新宿であるということで、その前に神彰の思い出を聞かせてもらえることになった。
 取材の申し込みの電話をした時は、あまりお役に立てないと思いますよとおっしゃっていたのだが、実際にお話を聞いて、空白の満州時代が埋められたばかりか、生涯を通じて、神彰が敬愛していた数少ない人物であることを知ることになる。


 「私はね、大正3年の生まれなのですが、大正9年に父親に連れられて、大陸に渡りました。それからは終戦までずっと大陸暮らしです。ハルビン学院を卒業して入ったのが、いまの日本交通公社。満州各地に支店がありましてね。ハルピン、大連、満州里、新京などあちこち転々としました。
 神と会ったのは、いつ頃だったのだろう。たぶん昭和16年頃だと思います。ハルピン案内所の副所長をしていた時に『上野さん、とんでもない若い社員がいるんですけど、面倒見てくれませんか』と頼まれたのですが、それが神だったのです。
 実際にこの男、とにかく仕事をしない。ぼけっと何もしないで机の前に座っているだけ、ちょっと目を離すと、スケッチブックをもってフラッと出かけてしまう。それに加えてぶっきらぼうで、とてもカウンターに立たせて、客の相手なんかさせられないわけですよ。
 『どこへ行くですか。エッ、聞こえないな、はっきり言って下さいよ、切符はいるんですか』こんな調子ですよ。客とすぐに喧嘩になってしまうんだから、とても客相手はさせられないですよ。しようがないから、案内所の中の装飾とか、ポスター描かせるとかやらせていました。
 絵は確かにうまかった。私も絵を描いてましたからね、わかるんですけど、ほんとうにうまかった。
 パリに留学するための資金づくりに大陸に来たって言ってたけどね、あんな暮らしじゃ金なんかたまるわけがない。実際人を食ったような男でしたね。
 でも憎めないとこはあったね。」

 上野は最初にあった神の印象を思い起こしてくれた。まるで手に負えないやんちゃな弟のことのことを思い出すような語り口だった。
 上野は終戦まで満州各地を転々とするのだが、上野以外に神のような問題児を使える人間はいなく、結局上野と一緒に神も、奉天、新京と渡りあるくことになる。

「確か奉天の案内所で働いていたときだったね。私はどうしても営口の案内所を見なくてはいけなくて、神を奉天に置いてきたんだ。その時だったね。北原白秋の一番弟子で、「たき火」なんかの唱歌を書いた巽聖歌という詩人を連れて、営口に来たのは。神は得意気に巽を私に紹介していましたよ。
 その時に神が、『上野さん、調査宣伝課の課長に殴られちゃった』というから、どうしたんだと聞くと『何か俺のことが気に入らないんだと殴ってきたんだ』と言う。『お前、殴り返したのか?』って聞くと、『殴ってもしあないし、殴られ放しにさせておいた』って言うから少しは安心してね。上司を殴り返したら、そのまま会社になんかいれませんからね、とにかく困った奴だったね。」

 上野はある時神の画才を見込んで、どうだカレンダーをつくってみないかと、誘ったことがあった。この時神は、珍しくやる気になって、出来上がってきたものを得意気に上野に見せる。満州の子どもたちが描いた満州の風景の絵が12枚あった。上野は、旅行会社のポスターなのに、これじゃ、満州の紹介にしかならないじゃないかと言うと、神はその場でその絵を破り捨て、上野を驚かせる。
 神の気性の激しさを物語るエピソードといえよう。
 上野は、『お前どうやって満人に絵を描かせた、ただではないだろう』と問いただすと、悪びれず『用度の奴に一杯飲ませて、消しゴムやらクレヨンをもらって、それを配った』という返事に、上野は呆れ、一言自分に相談してからやらないとダメじゃないかと、説教したという。

 「癖になるからね、とにかくあいつはなんでもかんでも、自分勝手にやるんだな、でもこのアイディアにはちょっとは感心したんだけどね」

 上野がいなければ、神はとてもこの会社で働き続けることはできなかったのではないだろうか。

 ふたりは終戦を新京で迎える。昭和20年8月根こそぎ動員というのがあって、丙種合格の神のところにも徴集礼状が来たが、いつロシア軍が攻めてくるかという話しでもちきりだったので、行ったら殺されると、神はこれを無視する。上野の話では、これはなにも神だけに限ったことではなく、多くの人が兵役を逃れていたという。
 これからどうしようかという時に、神は上野に一緒に看板屋をやろうともちかける。いままで日本語の看板が町に立ち並んでいたわけだが、これからはロシア人や中国人が読んでわかるように看板をつくりかえる必要がある、これは儲かるぞというのだ。
 神と西島という交通公社でやはり調査宣伝課にいた男が絵を描いて、上野がロシア語や中国語で字を書いた。大きな仕事としては、新京駅の正面に飾るための大看板を描いたことがあった。神はスターリンの肖像を描いたという。なかなかの出来ばえでロシア人たちも感心していた。また魯迅劇場の看板などもつくったが、そんな儲けにはならず、注文してくる中国人やロシア人に足元を見られ、値切られてばかりいたという。向こうは戦勝国なのだから、それも止むを得ないことであった。
 そして昭和20年12月13日、ふたりが別れる時がやってくる。

「ロシア兵がやって来ました。確かこの時神もいましたよ。あいつはね、ロシア兵が来たのを知って、隣の部屋に閉じこもって出て来なかったな。臆病なところがあるんだよ。あいつは。
 ロシア軍の中尉がピストルを突きつけ、『お前は、上野だな』と聞かれ、そうだと答えたら、『寒いところに連れて言ってやるといわれ』そのまま連行されました。徹夜で取り調べです。交通公社の仕事で、外人の世話でヨーロッパにアテンドすることもあるのですが、その時シベリア鉄道で移動中に、ロシア軍の兵力を克明に記録して、あとで関東軍に教えただろうという、スパイ容疑だったわけです」

 徹夜で取り調べを受けた上野は、クリスマス前に帰してやると言われて、翌日トラックに乗せられたという。同じトラックには、十七、八人の日本人が同乗していた。広い空き地でトラックが停まり、みんな下ろされて、ここで解散だ、好きなところへ行けと言われる。上野はこれを通訳する。ヘッドライトがこうこうとつけられ、皆喜んで走ろうとするが、背後にただならぬ気配を感じた上野は、『撃ちます!みんな伏せて!』と叫ぶが、マンドリン銃がバリバリと音をたてて火を吹く。次々に人が倒れていったという。上野も腰になんかに当たった感じがしてそのまま倒れ、意識を一瞬失う。気づくとロシア兵が『まだ生きているぞ、通訳だ、連れて行け』と言っているのが聞こえて、まだ生きていることを知った。襟のところをもたれて、引きずられて運ばれた上野は、まさに九死に一生を得たことになる。この時もうひとり領事館に勤めていた人も腕に掠り傷をうけただけで助かったが、あとはみんな銃殺されてしまった。
 翌日寛城市から貨車に乗せられ、上野は抑留地カザフスタンのアルマタまで何日もかかって運ばれることになった。
 上野はアルマタで3年間、カラガンダというカザフの炭鉱町で1年間抑留生活を送ることになる。この時ずっと一緒だったのが、のちにアートフレンドの外国部長として辣腕を振るう石黒寛である。石黒は、上野と同じハルビン学院出身、抜群のロシア語つかいだった。アートフレンドには上野の紹介で入社した。

 上野が神と再会するのは、抑留生活を終え、日本に帰ってきてすぐ、たぶん昭和26年か27年の頃だという。その時神が荻窪のアパートにいることを知って、ひょっこり訪ねてみると、部屋には長谷川濬、岩崎篤など満州帰りがたむろしていた。上野もしばらく、毎日のように神のアパートを訪れるようになる。

 「あそこへ行けば、絵の話しや、ロシア音楽の話しができるわけですよ。酒もあったしね、あの頃神は金があったと思うな。長谷川濬も、いい加減なところがあったけど、面白い人だったし、岩崎もいい男だった。長谷川は満州で有名だったからね。こんな集まりからドン・コサックを呼ぼうということになったと聞いてます。」

 上野は、3ヶ月ばかりここに出入りするが、まもなく日本交通公社に復職する。ドン・コサックを呼ぶことになってからは、いろいろ相談も受けたという。この時よく覚えているのは、ドン・コサックとの契約書の件で、有吉佐和子と会ったときのことを、神が何度も『生意気だけど、いい女だ、いつか必ずものにする』と言っていたことだ。
 実際にこのふたりは、再会して結婚することになるわけだが、上野は「まあ化けの皮が剥がれたということでしょ。馬鹿にされたんだろうな。相手は才女だし、それですぐに離婚でしょ」と語った。
 上野も、神に何度もアートフレンドに入って一緒に仕事しないかと誘われたというが、自分は旅行会社の方がいいと言ってやんわり断わったという。
 「いま思うと、本当にあの時アートフレンドに入らなくてよかった。あそこに入ったらと思うとぞっとするよ」と苦笑いしながら語った。
 神は死ぬまで、上野のことを「兄貴」とか「はまちゃん」と呼び、慕っていた。満州時代に上司として面倒をみてもらった上野に、神は肉親以上の愛情をもって接していたのではないだろうか。女のことでも、事業のことでも、何の気兼ねなく相談できたおそらく唯一の人が、上野だったように思える。
 上野は一枚のハガキを私に見せてくれた。神の晩年、鎌倉に移る前に書かれた手紙が、そんなことを思わせてくれる。
 神に一度来てくださいよ、と有栖川公園前にあった当時の住まいの地図をもらった上野は、ふらった訪ねてみるが、あいにく神は留守だった。その時に書かれたハガキにはこう書かれている。

「せっかくたづねていただいたのに、留守してガッカリです。丁度娘の玉青をつれて、函館へいって居りました。「神さん」といっていた娘も最近はチチがなどといってくれるようになりました。
最近はどうも病気勝ちで身辺整理などを考えるようになりました。整理しようと思っても整理出来ない人間関係はあの世までつづくものなのでしょうか?」

 上野もこのハガキを見ながら、なかなかいい手紙だなと呟いていた。

 神のまさに勝手気儘な満州大陸時代のエピソードをいくつか聞いているうちに、10才近く年上の上野という上司がいて、初めて羽根をのばせたのだろうと思う。それはまた神彰という怪物を育むことにもなったのではないだろうか。

 「とんでもない奴だったよ。芸術家が美しい絵を描きながら、うらで奔放な生活をしていたということありますよね。そんな二面性を持った男ですよ。そういうことを平気できた男、怪物ですよ。神は・・・。でも『兄貴』とか『はまちゃん』とか言ってくると、またなんかあるなと思っても、聞いてしまうんだな。そんな憎めないところがある男だった」

 こんなことを最後に言ってくれた。神彰にとって、上野破魔治という男は、いつでも甘えられる、それは、自分の長所も短所も知られている、そんな安心感があって付き合える人だったように思える。
 最後に上野は、こんなことを呟いていた。

「そういえば、今日は12月14日ですね。いまから55年前に、あの銃殺事件があったのですよね。こんな日にあなたと会って、こんな話をするというのもなんかの縁なのかもしれないね」


 上野と神、そして上野と石黒をつなぐ不思議な運命の繋がり。そして12月14日の私と上野の出会い。神彰を追い求める旅にはまだまだドラマが待っているかもしれない。


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