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『神彰−幻を追った男』

第一部
 第一章 虚業成れり−ドン・コサック招聘秘話

『バイカル湖のほとり』
最初の有吉との出会い
われ虚業成る
クライスラーに乗って

『バイカル湖のほとり』

 荻窪にある15畳のアトリエを兼ねた神彰のアパートでは、いつものように三人の男たちが、酒を酌み交わしながら、口泡を飛ばしながら議論をたたかわしていた。
 ひとりは、この部屋の主である神彰。画家になることをめざし函館から上京して三年になるが、部屋に散らばっている乾いた絵の具と、途中まで描いたまま放り捨てられているカンバスが物語っているように、絵描きとして生きていくことに自信を失いかけていた時であった。もうひとりは岩崎篤、あだ名は将軍、元満州国治安部の軍人であった。あとのひとりは、長谷川濬、元満州映画協会社員、終戦の時甘粕理事長自決の現場に居あわせていた男だ。戦前日本でもベストセラーとなったバイコフの『偉大なる王』を訳したロシア通でもある。
 議論に飽きると、酔いにまかせて歌をがなりたてるのが常だった。ある日長谷川が、突然ロシア民謡を歌いはじめた。

「山々には黄金のうずもれている
 ザバイカルの荒野をとおって
 さすらい人は運命をのろいながら
 背負袋を肩にさまよう

 彼は密林を歩いてゆく
 そこでは小鳥が歌っているだけだ
 腰につるした鍋が鳴り
 乾パンとスプーンがぶつかりあう・・・・」

 「バイカル湖の畔」であった。
 シベリアの凍てつく荒野を漂う哀愁がこの歌にはあふれている。三人の男たちの脳裏に満州の荒野がよみがえってくる。何をしていいかわからない、ただ酒を飲み、うさを晴らすしかない三人の男たちの胸に、この歌は何かを訴えかけてくる。
 長谷川がふとつぶやいた。
「ドン・コサック合唱団を日本に呼ぶっていうのはどうかな」
 木製のベットにゴロリと横になり、天井を睨みつけていた神が、むっくと起き上がった。「濬さん、それだ、ドン・コサックだ、ドン・コサック合唱団を日本に呼ぶんだ」
 神はもう酔ってはいなかった。目は真剣だった。
 でもどうやって、ドン・コサック合唱団を呼ぶんだ?
 三人の男は、このアイディアに夢中になっていた。

 長谷川は、東京で発行されていた白系ロシア週刊誌「ニェジェーリ」で、ドン・コサック合唱団が、カーネギーホールで公演をしたという記事を読んでいた。長谷川は、ロシア語で、指揮者のセルゲイ・ジャーロフに手紙を書き、ニューヨークにある「ニェジェーリ」気付で、それを投函する。
 「私たちは、あなたの合唱団をぜひ日本へ招きたいのです。何故なら素晴らしいあなたの合唱団の歌によって、荒廃した日本人の心に、希望の息吹を与えて欲しいのです。どうか、私たちの熱意をご理解ください」と書いた手紙に、ジャーロフから返事が届いたのは、一ヵ月あとのことである。
 「われわれは、まもなくベルリンへ向かって出発しようとしている。ニューヨークに国際電話を乞う。セルゲイ・ジャーロフ」
 三人はこの返事に驚き、興奮する。しかしいまやらなくてはならないのは、ジャーロフに電話することだ。
 この日神は長谷川を連れ立って京橋の友人が経営する喫茶店へと向かう。手許に国際電話をかけるだけの金はない。喫茶店の主人に頼み込み、通話料の支払いは後日ということにしてもらった。長谷川が、さっそく受話器を手にしてダイヤルを回す。ジャーロフがすぐ電話口に出た。
 緊張した面持ちの長谷川の受話器を握る手が汗で滲む。なんとか誠意をわかってもらいた、必死にロシア語をしゃべる長谷川の肩に、神は祈るような気持ちで、そっと手を置いた。
 ニッコリと笑みを浮かべ、受話器を置いた長谷川の表情で、神にはすべてが飲み込めた。長谷川の説明を聞くのももどかしく、いつの間にか神は長谷川を抱き上げ、躍り出していた。それを制するように、長谷川は「近くヨーロツパの公演があるので、終わったら日本に行くスケジュールを組むってよ。契約書を送ってくれって言っていた」といまのやりとりを解説する。
 夢ではないのだ、ドン・コサック合唱団が日本にやってくる。
 神彰が絵描きから、呼び屋として生まれ変わった日でもあった。

最初の有吉との出会い

 ジャーロフが日本公演を承諾してくれた、これはまず第一歩。やることはたくさんある。岩崎も長谷川も、有頂天になっているが、呼ぶといっても、なにから始めるのか、神の頭は、ここでフル稼働する。契約、資金づくり、主催者を見つけること、神彰が天性の呼び屋であることは、このあと彼が何をしたかが証明している。
 まずジャーロフが言っていた契約書をつくること。実はこの契約書をつくる時に、神彰にとって大きな運命的出会いが用意されていたことを、この時は知る由もなかった。
 神はとりあえず自分で案文を作り、それを持って、友人のひとりで、第一物産(三井物産の前身)に勤めていた有吉善に相談する。しかし彼も貿易関係の契約書ならともかく、興行関係のことは全くわからない、日本舞踊家吾妻徳穂の秘書役をしている妹の佐和子だったら、そうした関係の仕事に関わった経験があるから、相談してはどうか、言われる。昭和三十年(1955)一月有吉佐和子と会った神は、用件を切り出して頭を下げるが、草案を見せるといきなり「これが契約書なのですか? これは契約書ではなくて、ただの覚書、それも穴だらけです」と言われ、唖然とする。そして理路整然と契約の筋道を説明してくれる有吉に見とれていた。たしかに彼女の言うように契約書は紛争処理の根拠であろうが、ジャーロフの出方から、紛争は起こらないという確信が神にはあった。ありがたい忠告ではあるが、見識のある白系ロシア人のものの考え方やことの運び方は知っているという自負が、満州で生きてきた神にはあった。
 この頃荻窪のアパートに出入りしていた満州時代の職場の上司上野破魔治に、神は「有吉佐和子っていうのは生意気な女ですよ。でもいい女なんだな、こいつが。先輩、いつか必ずものにしてみせますよ」と言ったという。

 結局神がつくった契約書の内容は、一九五六年(昭和三十一年)三月二十二日に東京へ必着、ギャラは一回一〇〇〇ドル、公演は三〇回、期間はひと月、ホテル代と食事を含む滞在費と旅費一切は神がにわかに設立したアート・フレンド・アソシエーションの負担、といった簡単なものであった。
 とりあえず契約書をつくり、ジャーロフに送った。
 次に問題になったのは、必要な資金を、どう調達するかであった。なにしろ額があまりにも大きい。航空運賃だけでも三〇〇万や五〇〇万円ではすまないだろう。国際電話をかける金すらなかった神に、これだけの資金を調達できるはずはない。
 しかし彼には、ひとつの信念があった。ドン・コサックを呼ぶこと、それは個人が儲けようと思って始めた仕事ではなく、敗戦で意気消沈した日本人の魂をゆさぶり、奮起を促す芸術的な精神救済事業であるという信念である。これは社会事業なのだ。神自身が一人で背負って立つ必要はない、そう考えると不意に勇気が湧いてくる。社会事業をしているという思い込みが、大きな壁に風穴を開ける原動力となった。

われ虚業成る

 神は、長谷川の協力を得て、ドン・コサック合唱団の公演計画書を作成し、契約書をもって毎日新聞社に乗り込み、事業部長小野七郎に面会、公演の共催を申し入れる。
 『ドン・コサック合唱団』を日本に呼ぶことは、戦後の荒涼とした日本人の心に潤いをもたらすはずだ、社会事業のひとつとして一緒にやりましょうという神の熱弁を聞いているうちに、小野も心を動かされる。
 巷ではうたごえ運動が燎原に火をつけるように広まっていた。ここで本物のロシア民謡を歌う合唱団、しかも世界を放浪するドン・コサックが日本に来るとなれば、大きな話題になることは間違いない、小野の腹は決まっていた。
 次に神は文化放送の早坂編集局長にアポイントをとる。中継の権利を売ろうという目論見を抱いてのことである。話に興味をもった早坂は神の事務所を訪ねようと申し出たが、事務所とは名ばかりの、焼け残った倉庫の二階に机をひとつ置いてあるだけのところに来てもらっては具合が悪い、神は面会場所を日比谷の日活ホテルを指定する。日活ホテルに佐野次長ら部下を引き連れ、現れた早坂局長は、ロビーでお茶でも飲みながら話をしましょうともちかけた。しかし神のポケットには帰りの電車賃しかない。注文をとりにきたウェイターに、とっさに腹の具合が悪いからと称して、水を注文する。お茶を飲まなかったのにお茶代を払ってもらうわけにはいかない、と佐野が会計をすませてくれた。神はこの時、ほっと安堵の胸をなでおろす。しかも文化放送は、合唱団公演の放送権を是非買いたいと申し出てくれた。
 神は得意であった。ことごとく打つ手が成功したのだから無理もない。
 主催者の問題、放送権利の問題はクリアーした。
 これは幸先がよいぞ、文化放送との商談が成功した夜、神たち三人組は、荻窪駅前の路地裏にある一杯飲み屋で、まえ祝いの気勢をあげる。「いずみ」という店で、芸者上がりの女将に、早速今日の文化放送の連中との水の話をすると、「驚いたわ。まさに神は神でも水神さまね。興行は水物というけれど、水神さまがやるのだから成功間違いなしだわ」とおどける。まえにドン・コサックを呼ぶ話をしたら、応援すると言われたのをいいことに、ときおり飲みに来てはツケにしてもらっていた。神たちは準備期間の一年を通して、英気を養うと称しては、しばしば飲みに現われのだが、それでも女将はけっして嫌な顔をしなかった。
 よほどこの店の女将とは馬があったようで、神はアートフレンドが大きくなってからもしょっちゅう顔を出していたという。
 次の問題、そしてもっとも大きな問題は、資金をかき集めることであった。神たちの心意気、神たちの夢を買うのに賛同した人間はたくさんいた。ここで集まった三十万の金を手にした神は、この金を打ち出の小槌にしたのだ。一人分の飛行機代にも足りないこの金を、麹町にある三和銀行の当座預金に預けると、さっそく神は斉藤支店長に融資を申し込む。
 口説き文句は毎日新聞、文化放送を落とした手口と同じ、日本人の心はいま、病んでいる、しかし心の奥底には美しいものを見たいという夢があるはずだ、神は延々と芸術論を説く。銀行から金を借りるのに、いかに儲かるかを説かずに、夢を説くバカはいない。しかし支店長は逆に興味を持ち、神の話に真剣に耳を傾けてくれた。斉藤は、趣旨に賛同してくれたが、金を貸すとはなかなか言ってくれない。こうなったらあとは根比べである、脈があると見た神は、一カ月日参したのち、とうとう五〇〇万円を借りることに成功する。
 「君たちの事業に五〇〇万円融資することにしたよ」と斉藤に言われたときに、神の頭に、スエズ運河の掘削を企画したレセップスの言葉がよみがえってきた。
 オランダのイサベル女王は自分のエメラルドの首飾りを差し出し「人類のための事業は、あなたから始まるであろう」と声をかけてもらったレセップスは、思わず「わが虚業、いま成る」と叫んだという。
 「わが虚業、いま成る」。銀行から帰り道、神は何度もこの言葉を口にした。
 神は大きなバクチに勝ったと言えよう。

クライスラーに乗って

 しかし虚業家神彰が本領を発揮するのは、これからであった。
 彼はドン・コサック合唱団招聘のためにいくらかかるか冷静に考えてみた。計算すると公演をひと月やるためには、いっさいの経費を含めて、三〇〇〇万円が必要になる。五〇〇万円を借りることができたが、それではどうしようもない。このときアメリカの高級車、というより連合国軍最高司令官として日本に君臨していたマッカーサー元帥が乗っていたことで誰一人知らぬ者もなかったクライスラー・ニューヨーカが売りに出ていると知って、頭にひらめくものがあった。これを乗り回して資金を集めようというのだ。
 売値は五〇〇万円で、当時の平均的なサラリーマンの年収の五〇倍を超えるべらぼうな値段である。しかし神は印鑑を手に、それを買う金を下ろしに銀行へ出かける。
 「そんな無駄な賛沢をさせるために、銀行は金を貸そうとしたのではない」と憤然とする斉藤支店長に、神はいったん借りた金を自分がどう使おうと勝手なはずだ、平然と「いや、その車であとの資金を作ります。そのための投下資本とご了承ください」と一蹴する。このあたりの神のふてぶしさは、生涯かわることはない。銀行に金を返すために生きているのではないし、商売を興したのでもない、これは立派な社会事業、文化事業なのだ、そのためには手段を選ばない、これが神のやりかたであった。
 夢を熱心にとく神と、ふてぶしくふるまう神、どっちに本当の神の本性があるのか、斉藤支店長はおろおろする。この男を信用したのは、間違いだったのだろうか、そんなことを言ってもいまはどうしよもない、あとは成り行きを見守るしかない。
 神彰と付き合うことになった人間で、同じような目に遭った人は数えきれないのではないだろうか。どちらにも神彰の本性があるのだ、夢を語りながら、そろばん勘定をする男、それが神彰だった。
 クライスラーを乗り回す「大社長」に昇進した神は、毎日のように企業や団体を訪ね、夢を説く。一カ月間の公演を実施するために、東京だけでは足りない、彼は日本全国ツアーをすることを考えていた。クライスラーに乗って、神はいつのまにか名古屋、大阪、横浜、静岡、浜松、日立、松本、長野、新潟、広島、宇部、福岡、長崎、松山、高松、仙台、盛岡、函舘、札幌など二〇都市で公演することを決めていた。それまで来日した外国の芸術家の公演は、ほとんどが東京、大阪の二大都市に限られていた。地方巡業はまったく異例なことであった。しかし神は興行を打つためにドン・コサック合唱団を呼んだのではない。これはあくまで、沈んだ日本人の精神生活を鼓舞し、日本人の心を明るくする芸術運動である。それによって社会に貢献しようという願望と、そしてそれなりの自負が、彼にはあった。それゆえに興行界の常識を破って、日本国中の津々浦々にドン・コサックの歌声を届けようと、地方公演を企画したのである。
 そうした怖いもの知らずの素人の、無謀きわまる企画に、世のプロたちは侮蔑の眼を向け、せせら笑っていた。
 確かにこれはあまりにも無謀なやりかたであった。いまでこそ各自治体は、立派な会館と呼ばれる劇場をもっているが、当時地方都市にはこれだけの公演をする劇場(小屋)がなかったのだ。そしていったい誰が見にくるというのだ。
 しかしこの無手勝流の神のやりかたは、見事に成功するのである。
 暗い世相の中で人びとは、精神的な糧として、芸術的な第一級の美を渇望していたのだ。ドン・コサックを呼ぼうというアイディアを最初に思いついた長谷川濬も、岩崎もこれだけのことを神がやるとは思っていなかった。いつのまにかドン・コサック合唱団を呼ぶことは、神にとって絵を描くことにとってかわり、ひとつの表現手段になっていた。
 ボスターのデザインも神が若いデザイナー大智浩に依頼していた。ジャーロフの高く手を挙げた独特なボーズを正面に、その斜め下に並んで歌う合唱団を配し、バックに赤い十字架をあしらったボスターも、好評だった。
 このポスターは、全紙大、半載、中吊り用の三種に刷り上られ、20か所の公演地に配布された。
 ドン・コサック合唱団日本公演は、いまや戦後日本の社会的な事件になろうとしていた。


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