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『神彰−幻を追った男』

第一部
 第二章 ドン・コサック旋風

切符売り切れ
ドン・コサック合唱団来日
ドン・コサック初演
ドン・コサック日本列島縦断
ドン・コサックのためのアリア
夢の後始末、そして出発
函館の街から

切符売り切れ

 昭和31年(1956)1月5日、毎日新聞社朝刊社会面にドン・コサック合唱団日本公演の社告が掲載された。
 「全世界に名声を輝かせているドン・コサック合唱団(セルゲー・ジャーロフ氏指揮)一行二十五名は陽春三月日本を訪れ、東京はじめ全国主要都市で演奏会を開きます」という簡単な解説のあと東京公演の日程と、曲目、入場料、入場券発売所が紹介されている。

3月27日(火)午後一時開演 東京宝塚劇場
3月28日(水)午後6時開演 日比谷公会堂
3月29日(木)午後6時開演 日比谷公会堂

 いずれの公演も入場料は、A席1500円、B席1000円、C席700円、D席400円であった。
 主催は毎日新聞社とアートフレンドアソシエーション。アートフレンドアソシエーションは、この公演のために神たちが興した会社である。
 この広告が掲載された5日朝、有楽町の毎日新聞本社のまわりをぐるりと長い列がとりまき、出勤前の人たちを驚かす。午前10時ころには、その数は600人ちかくになっていた。ドン・コサック合唱団の入場券を買い求める人たちであった。
 入場券はまたたくまに売れ切れ、1月31日に、4月2日(月)午後1時 東京宝塚劇場、3日(火)午後6時 日比谷公会堂での追加公演が発表されている。

 2月23日ちょっとしたアクシデントが起きる。3月31日の公演会場だった共立講堂が火災で全焼してしまったのだ。翌日急遽共立講堂での公演を中止、入場券も払戻しする広告が掲載されている。しかし3月4日には、共立講堂での公演の代わりに、4月1日午後7時半から東京宝塚劇場で開催されることが発表された。公演をわずか三週間後に控えているのにもかかわらず、代替公演を決定するというのは異例といってもいい。主催者には、それでも売れるという確かな手応えがあった証拠である。
 毎日新聞紙上では連日のように、ドン・コサック合唱団の記事が掲載される。
 3月6日には、指揮者ジャーロフから「ドン・コサック合唱団および私は貴国を訪問することは私たちの長い間の夢でしたが、それが実現するようになったのは神々の導きとお招きと思い感謝しております」というメッセージが紹介されている。このなかでジャーロフは、日本公演を目の前にしたヨーロッパ公演の時に、アート・フレンド・アソシエーションから二十五個の『お守り』が団員一人一人に送られてきたことを明らかにした。ジャーロフは「日本の宗教によって祝福されているというこの『お守り』をもらったことは団員を心の底から感動させ大切に保存しております」と語る。
 敬虔なロシア正教の信者たちでもある団員へ、日本のお守りを贈るなど、なかなか普通では思いつかないことである。神たちはアーティストたちの心を確かに捉えていた。
 音楽界の大御所三人、芥川也寸志、黛敏郎、団伊玖磨による座談会も掲載された。この中で団は「ドン・コサックは故郷を失ってはいるが、決して国籍喪失者の集まりではない。だからこそ彼らの歌は望郷の嘆きがあり、それがみんなを感動させるのだと思う」と語っている。
 彷徨える望郷の合唱団というイメージは、戦後まだ復興途上の日本人の心を揺さぶる。いやがうえでもドン・コサック合唱団ブームは高まる。そしてこれがさらに加速するのは、彼らが来日したときにとったある行動だった。

ドン・コサック合唱団来日

 3月24日午前11時40分、ドン・コサック合唱団一行25名を乗せた日航機が羽田空港に降り立った。一行がタラップを降りてくると、待ちかまえていたポリドール児童合唱団の少女たちや新東宝の女優たちが笑顔で出迎え、花束を贈る。
 後にこの時のことをジャーロフは「背丈にあまる花束を両手に持ちこたえ、人形のように、キモノを着て近づく少女の列を見たとき、私はいままでにかつてない感動に震えた。何となれば、私の長い合唱生活ー欧米遍歴のすべてを通じて少女たちにかくも多数迎えられたの経験は初めてであったから・・・。これは私の人生のひとつのエピソードとして希有な事実である」と思い出している。
 花束を受け満面笑みを浮かべるジャーロフに、通訳する長谷川に伴われ神彰が近寄り、握手を求めた。この時ジャーロフは自分たちを日本に招いたプロモーターが、まだ若い青年であったことに驚く。神彰はこの時30才、こんな若造が、自分たちを日本に呼んだのか、ジャーロフのちょっと驚いた顔がそう語っていた。
 ジャーロフは空港ロビーで集まった取材陣を前に、「日本にくることをみな非常に期待していた。日本の国民は優れた音楽愛好者で、理解も深いと聞いているので私たちも張り合いがある。日本民謡の『五ツ木の子守歌』や『荒城の月』も練習してきたので張り切ってやるつもりです」と語る。
 神たちは、合唱団一行を宿舎の赤坂プリンスホテルヘ案内しようとしたが、まずは教会で祈りを捧げたい、とジャーロフが希望したことで、急遽車は、神田聖橋にあったニコライ堂へ寄り道することになった。空港から一緒についてきたマスコミ各社の車は、赤坂ではなく御茶の水方面に向かっているのを訝しげに思いながらも、そのままニコライ堂までついてくる。
 午後1時半一行はニコライ堂に到着する。鐘の音に迎えられて教会に入った合唱団は、黒のルバシカと、ズボンの横に太い赤線のはいった軍服に、昔のドン・コサック騎兵そのままの黒い長靴、腰にベルトをきりっと巻きつけた姿に着替え、礼拝堂に現れた。空路安全を感謝するギリシア正教の祈り(モーベン)をささげるため、神の前に額ずき、敬虔な長い祈りを捧げた。
 それが終わって立ち上がった団員に、ジャーロフが静かに合図すると、ハミングのように静かな聖歌が流れてくる。厳かで地から湧いてくるような歌声には、透明な美しさが滲みわたっている。それは故郷を追われ、流浪する民の哀しみを歌っているようにも聞こえた。これが、来日したドン・コサック合唱団の第一声となった。
 ニコライ堂という厳かな雰囲気の中で、敬虔な祈りのあとに、鳴りひびく圧倒的な迫力の歌声は、居あわせたマスコミ陣を興奮させる。翌日新聞各紙はこの模様を「ドン・コサック、ニコライ堂で歌う」とこぞってとりあげた。さらに当時映画館で本編前に上映されていたニュース映画にもなり、日本中に流れることになる。
 テレビが普及していないこの時代、新聞と同じように大きな宣伝媒体になっていたのは、映画本編の前に上映されていたニュース映画であった。昭和33年の記録によると、この年の映画入場者数は、延べ11億人を越えていたという。つまり当時日本人は平均して年に11回映画を見ていたことになる。
 映画の前に上映されていたニュース映画は、当時はテレビやラジオより大きな宣伝媒体になっていた。

 神は後年「なにしろ舞台装置が最高によかった。それに神話的な情緒がある。歌声は期待どおりの超一級品であった。もしこれがプロ野球なら、さしずめプレーボールと同時に、初球でホームランを打ったようなものである。私は聴衆として感動し、主催者として感激の涙を流した。それにしても、計算ずくではなかったであろうが、マスコミ関係者を後に従えて、まずは教会で歌わせたジャーロフは、指揮者としてばかりではなく、演出家としても超一流である。私は利害を離れて、心から彼に敬意を表した。つくづく、この男の指揮する合唱団を呼んでよかった!と神に感謝したものである」と語っている。
 日本公演の成功を約束したような見事な演出であった。予定にはなかったこのハプニングは、事前にジャーロフと、アートフレンド、ニコライ堂との間で打合せをしたうえで、行われたものであろう。マスコミは、神たちの企みに見事にはめられた。
 到着後午後2時半に、赤坂プリンスホテルで記者会見が開かれた。
 ジャーロフはここで「日本はあこがれの国だった。しかもサクラの花の咲くころに来あわせて二十歳は若返った気持ちだ。それに日本婦人の美しいキモノ姿をみたらまるで天国へ来たようだ」と、日本への賛美を忘れなかった。
 ドン・コサック合唱団は、昭和31年(1956)春、日本人の注目を一身に浴びることになる。これから帰国するまでの一ヵ月間ドン・コサック旋風が日本中で吹き荒れる。

ドン・コサック初演

 いよいよ3月27日日本での公演が始まる。
 午後1時、宝塚劇場は満員、開演のベルと同時に指揮者のセルゲイ・ジャーロフと二十二人の合唱団がさっそうと登場、聴衆の拍手がなりやまぬうち第一曲の聖歌「グレド(信条)」を荘重に歌い始めた。
 太い赤のタテじまズボン、黒地のルパシカ、皮長靴という帝政ロシアのコサック軍団の制服で全員が後ろに手をあてたまま聖歌ばかり四曲続けて歌った。会場は、シーンと静まりかえる。しかしこのあとは、舌を鳴らし、口笛を吹くといった軽い調子で「皇帝に捧げし命」ほか四曲のロシア民謡が歌われ、場内も和んでくる。そして「ステンカ・ラージン」「カリンカ」などコサック愛唱の民謡を披露され、ヒザと腰で踊るコサック・ダンスの演技をまじえた「ペテル街を行く」「けわしい岸を軍隊は通る」には、客席から嵐のような拍手が沸き起こった。
 アンコールは「荒城の月」でしめくくられた。
 公演は大成功に終わる。

 翌日の新聞は、ドン・コサック日本公演の記事で賑わう。
 野村光一は、『ノドが奏でる大交響楽』と題し、「パイプ・オルガンのペダルを思わせるような最低音から、裏声だがハイ・ソプラノ風の最高音にいたるまで、音域の驚くべき広さは、昔から名高いが、しかしそれよりも一層注目されるべきは、千変万化する音色である。時にオルガンのごとく、時にオーケストラのごとく器楽的機能を果たして、彼らの無伴奏合唱に光彩陸離たる音楽的効果を与える」と書き、山田耕作も「これは合唱というより、声の一大オーケストラとでもいうべきものだ」と感想を述べ、作家の吉川英治は「実に爽快だった。・・・あの声のボリューム−巨大な肉体の楽器とでもいうか、とにかく島国の人間には真似ができないと思った。音楽が清潔なのもいい。」と絶賛している。
 公演2日目の28日には、皇太子も観覧、一部終了後ジャーロフ、バリトンのマグヌチェスキイー、バスのワシレフスキーの3人が2階の貴賓席を訪ね、皇太子と握手している。この時の感動を「皇太子さま、義宮、清宮御三人と同時に握手すると四人の手が十字架のように組み合った。これはロシアの古い習慣で互いに長い友情と幸福が神から約束されるといわれ私もひどく感動した。まことにすばらしいプリンスだ」とジャーロフは語っている。
 この日の公演では、日本人になじみの深い、ロシア民謡「バイカル湖の畔」や「ステン・カラージン」、「ボルガの舟唄」が披露され、さらに会場のボルテージはあがった。
 ドン・コサックの歌声は聴衆を魅了し、人びとの心を捉えて、その人気も沸騰した。
 4月1日には、KRTVで午後8時45分から終了まで宝塚劇場から中継放送があり、翌2日には、ラジオ東京で午後8時から8時半までと、午後10時半から11時までの二回に分けて中継放送も行われている。
 ドン・コサック合唱団は日本人の心を確かに捉えた。しかもそれは全国へと発信された。こうしたことは、いまだかつてなかったことである。
 4月3日日比谷公会堂での公演で、東京での6回の公演が大成功のうちに終了する。
 そしてドン・コサックは、全国ツアーに出発した。

ドン・コサック日本列島縦断

 東京での公演を終えて、4月4日熱海で一泊したのち、ドン・コサックは5日の浜松公演から地方公演のスタートをきる。この地方公演はドン・コサックにとっても、神たちにとってもひとつの冒険であった。
 浜松公演の会場は、浜松高校の講堂であったし、九州八幡では体育館、松山でも松山東雲高校講堂、松本は松商学園講堂、郡山では国鉄工場講堂と、音響設備がろくにないところでの公演が続いた。
 いまでこそ全国津々浦々、立派な市民会館や文化会館と名のついた施設がどこにでもあるが、当時敗戦後まもない日本の地方都市には、アカペラの合唱の公演さえ満足にできない会場しかなかったのである。窓ガラスが破れたままの公会堂だったり、雨が降れば雨漏りする学校の講堂や体育館だったりで、音響効果などを云々するどころの騒ぎではなかった。それでもドン・コサックは、なに一つ嫌な顔もせず、懸命に歌った。そして観客もゴザやウスベリを敷いただけの座席で、熱心に耳を傾ける。
 ある都市では、破れたガラスから漏れ聞こえる歌声を、寒い戸外に立ちつくして聴く人々の姿もあった。人々は音楽に飢えていたのだ。
 札幌公演では、1万人も入れるスポーツセンターで開催したのにもかかわらず、客が入りきれず、乱闘騒ぎがおきたほどだ。
 興業についてはまったくずぶの素人集団であったアートフレンドは、異例の地方巡業公演を敢行するなかで、公演回数をこなすことで、出演料を抑え、さらには地方の新聞社、さらには音楽鑑賞団体をはじめとする、組織とのパイプつくりをするという、いままでにない興業方法を見つけ出すのである。
 神は後年あるインタビューで、「こうした地方公演がきっかけとなり、クラッシックの公演ができるような劇場、つまり市民会館をつくる動きに拍車をかけることになった」と語っているが、地方公演をオーガナイズできたことは、のちのちアートフレンドの大きな財産となる。

 また4月28・29日には、東京体育館で「マナスル基金募集」のための追加公演を行い、一般席として300円の席をつくり、低料金でより多くの観客に見てもらうという手法を生み出す。これは労働組合を中心に捌かれ、当日体育館には、8000人の客が集まった。当時関鑑子を中心に日本各地にひろがっていたうたごえ運動で、おもに歌われていたのが、ロシア民謡で、さらにこれが、職場の音楽サークルからひろがったことを考えると、まさに狙いは見事的中したことになる。この公演では都労連傘下の音楽団体のメンバーが押しかけた。

 ドン・コサックのメンバーも、このツアーの中で、日本について多くのことを学ぶことになる。
 4月12日広島に着いたドン・コサックは、すぐにその足で原爆記念碑に行き、祈りを捧げた。さらに公演の翌日、公演のときにもらった花束をもって再び記念碑を訪問。荒城の月を歌う。当時のことの説明を受けたとき、団員のほとんどが涙を流し、ジャーロフは「悲しいことだ」と一言いったきり、声が出なかったという。
 ジャーロフは、静かな日本の客席の反応に対してこう語っていた。
「日本の聴衆は、注意深く静粛で、規律正しく、彼らの興奮を抑制している。他の国の人々は床を踏み鳴らし、舞台に殺到してアンコールを叫ぶ。日本の聴衆は、じっーと心のアラシにたえている」
 彼らにとっても、この日本公演は大きな区切りとなっていた。
 「私の芸術は日本訪問から新しい一歩を踏みだすであろう。・・・ドン・コサック合唱団35周年を日本で迎え、公演をはじめて日本で行うことは、私にとって意義深い。それだけ日本の印象は極めて鮮明であり、希有な経験である」
 ジャーロフは、日本の観衆と触れ合うことで、この国が文明ではなく、文化の根ざした国だということを実感していた。
「文明は技術であるが、文化は魂の伝統である。後者が日本にちゃんと存在していることを見た」と語っている。(4月22日毎日新聞ジャーロフの「日本印象記」)

ドン・コサックのためのアリア

 「彼方にして、グレコ・ビザンティンの寺院
  つねに遠く 鐘は霧の中をひびきつたえる
  母なる大地の韵 ドンの流れ
  歌いつつ自由の民は彷徨う

  信を結んで微笑し 小鹿の瞳なる妖精の
  指先から噴きあがるロシアの地霊
  天地合体の竜巻! それは自然荘厳の
  火をめぐるディオニソス全圓である

  名残りの寛袴 長靴にして馬なく
  出埃及記の道をゆくドン・コサック
  草原を狩る吹雪の狼喊!
  呼び合う声の化身 それはミューズへの讃歌
  故国は一にして萬人共感の第七天楽である!」

 これは『ドン・コサック合唱団日本公演記念パンフレット』の冒頭に掲げられた吉田一穂の「ドン・コサック合唱団のためのアリア」と題された詩である。しかもこの詩は、長谷川によってロシア語に訳されている。
 神たちは、この公演にすべてを賭けていた。それは金儲けというよりは、幻の合唱団を招聘することで、自分たちの生き方を表現するんだという気概でもある。この昂りのようなものが、神自らがデザインしたアブストラクトな赤い表紙のこのパンフレットから伝わってくる。
 執筆陣も、團伊玖磨、黛敏郎、芥川也寸志、米川正夫、諸井三郎、大木正興と豪華である。
 このパンフレットの最後の頁には、次のようなメッセージが掲げられている。
 「我々は、全世界の芸術を愛する人々と互に結びあい、その人々が国境を超えて、純粋な美を分かちつつ未来の建設に務めることを念願しています」
 そしてこれも、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語に訳されている。
 このアートフレンドの理念を掲げたメッセージは、アートフレンドが解散するまで、どんなパンフレットにも必ず載せられることになる。
 さらに神たちは、ドン・コサック合唱団の経歴を写真入りで本にして出版さえしている。ジャーロフから宣伝物といっしょに送られて来た三〇〇ぺ−ジに及ぶロシア語の「ドン・コサック合唱団」を長谷川叡が翻訳して、『歌う、ドン・コサック』という本をつくってしまったのだ。
 売れる売れないに関係なく、自分たちが呼んだものへの、自分たちなりの思い入れをかたちに残す、それがアートフレンド、そして神彰のやりかたでもあった。
 海外から金になるアーティストを呼ぶだけでなく、そこになにか呼んだ自分たちの思いを込めようとする、そこが他のプロモーターとは一線を画すところだろう。
 出発点から神彰は、単なる呼び屋ではなかったのだ。

夢の後始末、そして出発

 5月11日正午の飛行機で、31回の日本公演を終え、まさに日本列島を熱狂と感動の渦に巻きこんだドン・コサック合唱団は、「日出国のみなさんと、魂の交流をすることができた楽しい思い出を抱いて、われわれは帰ります」とジャーロフのメッセージを残し羽田空港を飛び立った。
 公演は大成功だった。
 神は、この公演によって画家の道を捨て、プロモータとして生きることを決めた。
 プロモーターは、「天がわれに与えた仕事であった」と神は思いおこす。
 しかしこれはまたあとで詳しく触れることになるが、神はこの公演の後始末に莫大なエネルギーを費やすことになる。
 地方巡業をやるために、新聞社の支局に公演を委託したことで、精算に追われることになったのだ。しかも地方では、はじめて迎えた外国の一流音楽家を歓迎することに夢中になり、我を忘れ無制限に切符の売上金で大盤ふるまいをしていたのだ。予定した地方公演の切符の代金は送られず、にっちもさっちもいかなくなってしまう。「残ったのは借金だけか」と神は誰もいない事務所でため息を吐くことになる。
 しかし神は、幻を追いかける魅惑にすっかりとらわれていた。
「日本の人たちは現実を超えた美しい夢を望んでいるのだ。世界最高の芸術家たちを呼び、日本を芸術国家に仕立て直すのが俺の役目だ!」、心の中でこう叫びながら、神は秘策を練っていた。
 答えは簡単であった。また別な幻を追えばいいのだ。
 今度はドン・コサックを流浪の旅に追いやったソ連という国から、芸術家を呼ぼう、それが次に神が追いかける幻だった。

函館の街から

 ドン・コサック合唱団は、神の故郷、函館でも公演した。当初予定されていなかったこの公演(4月23日函館HB劇場)に駆けつけたひとりの女学生がいた。
 この女学生にとって、この公演を見たことが運命の別れ道となった。

 石坂洋次郎の小説『青い山脈』の舞台になる函館のミッションスクール、残愛女子高に通っていた芦沢丸枝である。
 神と同級生だった兄に誘われた芦沢は、超満員の会場で通路に座ってこの公演を見ていた。強烈な印象だった。ゾクゾクしてくるのだ。ドン・コサックの歌声にも感動したが、自分たちに感動を与える仕事があるということに、彼女は興奮していた。こんな仕事がしたい、この会社で働きたい、芦沢の心は決まっていた。
 次の機会に神が函館に来た時、兄に頼んで会わせてもらい、直談判し、芦沢丸枝は入社を認められることになる。そして芦沢はアートフレンドの経理として、またムードメーカーとして、なくてはならない人材になるのである。

 芦沢丸枝、そしてやはりアートフレンドで働くことになる姉の長は、函館の湯川温泉の生まれである。神も函館出身、そしてドン・コサックをきっかけをつくった長谷川濬も函館生まれであった。
 のちに神彰の片腕となる木原は、神が呼び屋となった原点は、国際都市函館、そして満州にあったと言っていた。
 大陸を彷徨う合唱団を呼ぼうと思った神も長谷川も函館生まれで、満州で青春をおくっていた。これは決して偶然ではない。函館は大陸へ繋がるコスモポリタンの街だったのだから。


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