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『神彰−幻を追った男』

第二部 けものたちは荒野をめざす
 第三章 函館から満州へ−コスモポリンタンが棲む街

神彰の少年時代
大陸への憧れ
函館商業時代−絵画開眼
修学旅行の冒険

文中、「AFA」とあるのは「アート・フレンド・アソシエーション」(神が設立したプロモーション会社)の略です。

神彰の少年時代

 神彰は、1922年6月28日海産物問屋を営んでいた神英聿・サカエの四男として、函館市末広町に生まれている。
 函館駅から、函館どつく前行きの市電に乗って四番目の停留所が末広町である。ひとつ手前の停留所十字街が、かつての盛り場だったというが、いまは日中でも人通りは少なく閑散としている。末広町の神の家は、当時では珍しいコンクリート作りで3階建てだったという。
 当時海産物を取り扱うことは、たぶんに投機的なところもあり、さらに父親の英聿は、「函一」という株屋もやっていたというから、リスクの多い商売に首を突っ込んでいたといえる。父親のこうした投機的な商売感覚は、まちがいなく神彰に受け継がれることになる。
 母親のサカエは、明冶四十年ごろに開校したフランス系カソリック教会に属した聖保禄ミッシヨンスクールの第一回の卒業生で、卒業生総代として記念にフランス人の校長から大きなフランス語の辞典をもらったというモダンな一面を持っていた。
 神家は、もともと津軽藩で祭事を司っていた一族であった。五百石の禄をもらい弘前の屋敷に住んでいたが、祖父堅吉の代に、明治の廃藩にともない、津軽海峡を渡り、函館で商人になったという。いまでも神一族の聚落が岩木山の麓に残っている。神のことを回想する時、多くの人は彼が霊感を信じていたことを証言している。芸術を見抜く才覚だけでなく、本能的に「これがあたる」という霊感が、彼を導いていたところもあったようだ。これは神家のなかで、彼だけに与えられたものだった。
 祭事を司っていた血脈と、投機に夢中になる血脈、そして外国の異文化に魅せられた血脈が、混じりあったところで、神彰という異能者が生まれたと言っていいのかもしれない。
 神彰の上には、三人の兄と一人の姉がいたが、兄たちは学校の先生や国鉄職員というようにきわめて堅い仕事についている。
 しかし神彰は、幼少の頃からこうした異能を発揮したわけではない。宝小学校の1年生から5年生までの同級生で、神彰が生涯にわたって付き合うことになる、唯一の竹馬の友佐藤富三郎の話によると、子供の頃の神は、まったく目立たないおとなしい少年だったという。

 「わしは近所のがき大将で、さんざんいたずらやったりしていたけど、神さんはそんな活発な子供ではなかったですね。遊ぶっても外で、神さんと遊んだという覚えがほとんどありません。
 ただほら神さんのお母さんが面倒見のいい人で、あそこに行けばうまいもんが食えるつっうんで、遊びに行ったようなもんです。当時じゃ珍しいパイナップルの缶詰なんかをおやつだって出してくれたんです。
 同級生あたりに、神さんのこと聞いても、そんな奴いたのかって皆いうんですよね」

 ちょっと意外な気がするのだが、こんな目立たない少年に育ったのは、なによりも6才の時に大ケガをし、心と身体に大きな傷痕を残したことが大きい。
 兄と一緒にスケートをしていたときに転倒した神は、左足を痛める。兄に背負われて家に帰った神は、その夜、激痛に襲われた。心配した母は近所の骨つぎの名人といわれた老婆の家に連れていく。老婆は熱心に小さな足を一週間ももみ続けたが効果はない、足はますます腫れ上がり、さらに脹らみきってしまう。傷口に黴菌が入ってしまったのだ。母親は慌てて、二十軒坂を登った馬野外科に入院させた。
 この時院長は、もう一日遅れていたら死んでいただろうと言い、直ちに左足を切断することを進言、その準備にかかった。
 母親も切断止むなしと、医者の指示に従おうとした時、彰のことを特別に可愛がっていた祖母のキクがかけつけ、院長に足を切断しないで治してほしいと、土下座をして懇願する。院長はやむをえず切断を断念するが、いずれにしても膿は出さなければならない。神の左足にメスが入れられた時、たまりきった膿が噴水のように噴き上げ、骨の髄まで響くその激痛に、神は泣きわめいたという。
 この時のことを神は、「私は波瀾万丈ともいうべき人生航路を予感していた。そして、人間には、哀しいできごとが待ち構えているのだな、と子供心に悲しさが湧いたことが思い出される」と振り返っている。
 一年余で退院した神は、小学校の一年三学期からやっと通学するようになったが、しばらくは歩けないため、店の番頭に背負われて通学、二年になって松葉杖をついて、やっと一人で通学するようになった。
 少年神彰にとってこの足の傷は、大きな負い目となる。なによりも辛かったのは、運動会だった。走ると必ずといっていいくらいびりで、しかもはるかに引き離されてしまう恥ずかしさに、スタート間際に便所にいって、逃れたこともあった。
 左足の膝から足首までのあいだに、三つもあった大きな傷跡は、生涯消え去ることがなく、神自身「わが人生におけるただ一つの負い目」であったと語っている。神はこのため生涯決して半ズボンを穿かなかったという。

 一九三四年三月二十一日、神彰十二才の時に、函館は未曾有の大火に襲われている。海に囲まれ、風が通り抜ける町でもあった函館は、何度か大火に見舞われているが、この時住吉町の民家から発した火災は、おりしも風速二十メートルの東風にあおられ、翌日朝に鎮火するまで、函館を火の海に化し、焼失家屋二万四千戸あまり、死者二千五十四人、重軽傷者一万二千五百九十二人、行方不明者六百六十二人という大惨事をひきおこした。当時函館には四万二千戸の戸数があったというから、およそ半分が被害にあったことにある。
 出火現場の近くに家があった佐藤の記憶によると、当時コンクリート造りの家は、神の家だけで、近くの者たちは最初はここに避難していたが、火勢はとどまることを知らず、結局神の家も焼けてしまったという。
 この函館史に残る大火のあと、実家の海産問屋も引っ越し、郊外に移ったのにともない、神も宝小学校から郊外にあった中島小学校に転校する。佐藤富三郎は、このあとの神の消息についてはまったく知らなかったという。佐藤が神と再会するのは、神が義子と二度目の結婚をしたころである。
 この学校に初登校した日、担任に、前の学校の通信簿を持ってきたかと聞かれ、持参しなかったが内容は覚えていると答えると、それを言えといわれた。
 神は即座に「図画が甲、算術が丙で、あとは全部乙です」と答える。担任は「なるほど、それだから覚えやすかったのだね」と笑ったという。
 少年時代の神にとっては、海を見ること、そして絵を描くことだけが、唯一の慰めだった。

大陸への憧れ

 「私の生まれた函館は、街中どこからでも海が見えた。アメリカやロシアからやってきた外国船を見ながら、子供のころ、船に乗って外国にいきたいと憧れたことが思い出される。港の向こうには、くすんだ青色の日本海が広がり、函舘山の向こうには緑色の津軽海峡が横たわっていた。反対側の砂山に登ると、遥かな太平洋が荒々しい波を立てながら白い牙をむいて大森海岸に迫ってくるのが見える。子供心に海は色彩帖のようであった」

 神は、自分が生まれ育った函館の街のことをこう思い起こしている。
 末広町から、海まで歩いて数分、そして函館名物の坂も歩いて数分、坂をあがって、ちょっと振りかえると海をすぐ近くに望むことができる。神彰にとって海は、いつも身近にあった。そして海はまだ見ぬ未知の大陸へつながる道でもあった。

 家で遊ぶことが多かった少年神にとって、大陸が憧れになるのは、母から万平(マンペ)という乞食詩人の話を聞いてからだった。
 「幻談義」のなかで、神彰はマンペについて、こんなことを書いている。

「函館山の太平洋側に立待岬があって、そこには石川啄木が函館で小学校の代用教員をしていた時代に作った詩碑が立っていた。「東海の小島の磯の白砂に我れ泣き濡れて蟹と戯る」
 その石碑を右へ登ったところに洞穴があって、いつどこからきたかもしれぬ乞食詩人“マンペ”が住んでいた。マンペはときとき店の勝手口に物乞いに現われた。ただ、私は彼の訪れを楽しみに、母から与えられた自分の菓子を彼のために大事に取って置いたものだ。優れた詩を書くことで、いつしか彼は函館名物になったが、作品は函館新聞にも発表されて、好事家の間では注目されていた。不精ひげをはやした蒼白いマンペはめったに笑わない気むずかし屋の大男であったが、松葉杖の私にはやさしく徴笑みかけ、いろいろとおもしろい話もしてくれた。横文宇のたいへんむずかしい本をたくさん読んでいたマンペは、何でも知っていた。ソ連領のウラジオストックにもいったことがあるという。変わっているが偉い人だなあと思い、童語に出てくる乞食王子ではないかなどと思ったりした」

 万平は、1908年(明治41)に亡くなっているので、当然のことながら神はマンペには会ったことがない。ただ母のサカエが、よくマンペのために弁当をつくっていたことは事実で、こんな話を聞いているうちに、マンペが行ったという大陸に心惹かれていたのではないだろうか。
 神にとって、海はいつも原点となる。人が交わるところ、海外との接点、そして果てのないところ、海は異国の臭いを持ってくる。かつては漁業基地として賑わい、本州と繋ぐ北海道の玄関口として発展した函館は、異国の香りが漂う街でもある。
 いまでも中華会館、ロシア領事館、ギリシャ正教会、カソリック教会が、街のいたるところにあり、コスモポリタンの面影が残る。
 函館に住んでいたコスモポリタンのなかでも、目についたのは、革命ロシアを追い出されるように逃げてきたロシア人たちだった。
 ドン・コサック合唱団を一緒に呼んだ長谷川濬も、函館生まれだったが、妹の長谷川玉江は、子どものころ、函館では、よく布地の行商をする貧しいロシア人の姿を見かけたという。
 なぜ、当時、函館に、それほど多くのロシア人たちがいたのか。おそらく、ロシア革命の難を逃れて流出した亡命ロシア人と、樺太の残留ロシア人(一九○五年、サハリン南部はロシア領から日本領に移った)、その双方が、この港町に流れついたものだろう。
 濬も、子ども時代、よく函館・湯川温泉の先にあるダンスケザワと呼ばれたロシア人の部落まで遊びに行っていた。
 大正末期から昭和初期にかけて函館の湯川には、「ロスケ部落」と呼ばれた一角があり、大正15年のはじめには、六棟九戸男二二名、女一六名のロシア人が住んでいた。彼らは、パン、羅紗、旧教徒独特のアルコールを売りながら、生計を立てていた。
 函館の町をさまようロシア人を見ながら育った神にとっても、長谷川濬にとってロシア人は、身近な存在だったといえるかもしれない。

 海に憧れていた神は、小学校から函館商船に行きたいと思っていたが、商人だった父の意見もあり、函館商業に通うことになる。
 目立たたないおとなしい少年は、あるひとりの人物と出会うことで、大きく脱皮していく。絵を描くことを通じて自信をもった神は、この学校で異能者としての才覚を発揮していくのである。

函館商業時代−絵画開眼

 神彰が、函商こと函館商業学校に入学するのは1936年(昭和11)、近衛連隊の将校ら千四百名が反乱を起こし、首相・重臣などを一斉に襲い、斉藤内務大臣、高橋是清蔵相を射殺した二・二六事件が勃発し、日本中が騒然となった年である。この事件を契機に日本は、軍国主義の道をひたすら歩むことになる。翌37年には支那事変が勃発、神の家でも兄二人が召集され大陸に出征する。軍靴の足音は、遠く北海道の地まで音をたて、近づいてきた。こうした軍事調の暗い色彩に世の中がおおいつくされようとしていた時代に、少年時代に別れをつげた神彰は、青春時代を迎えようとしていた。
 1887年(明治20)創立された函館商業学校は、北海道で一番古い商業学校で、函館中学校、函館高等女学校とともに市内有数の名門校であった。
 当時は五稜郭公園にあったこの学校は、一学年250人、五年制の男子校であった。小学6年を卒業してから入学できるが、半分近くは高等2年卒業後に入学していたことでもわかるように、レベルが高かった。
 地元の問屋や商店の息子たちなど、地元の商家の跡取り息子たちが多く通い、いわゆるボンボンたちが多かった。毛織のサーチでびっしり決める生徒、女中に送り迎えさせている生徒もいたという。商業学校なのにもかかわらず、実業家になった人はあまりおらず、益田キートン、瀬川昌次などのようなどちらかというと芸術家肌の人間を多く輩出していた。
 こうした鷹揚とした自由な校風は、神彰にとって幸いしたかもしれない。しかもここで神は、小学校時代唯一得意だと自慢できた絵画の才をおおいに伸ばすことになる人物と出会っているのである。
 函商の先輩で、1928年に道展北海道長官賞受賞、さらには二科会に入選した新進気鋭の画家田辺三重松が、美術の先生として母校で教壇にたち、さらには神が入っていた美術部の顧問に就任していた。
 美術部の神の一年後輩の佐藤一成の話によると、田辺は、佐藤が二年生、神が三年生の時に美術部の顧問になったという。田辺は、前の美術の先生が出征したあと、非常勤というかたちで美術の先生になった。彼は、函商だけでなく、いくつかの学校で非常勤の美術の先生をしていた。

 「田辺さんは、画家として当時も有名でした。神さんのことをとても可愛がっていました。熱心に指導していたのは、やはり神さんに才能があったことを認めていたからだと思いました。うらやましかったですね。神さんは私たちからすれば、有名な田辺画伯の目にかない、才能にも恵まれていたので、将来は絵描きになるだろうなと思っていました」

 佐藤一成は、当時のことをこのように回想している。佐藤によれば、神の絵も、田辺三重松とタッチが似ていたという。
 田辺は、北海道の自然を題材に、明暗の鮮やかな対比と単純化を通して、フォービズム的な風景を描いていたが、後年神がいれあげる長谷川利行や梅原龍三郎、棟方志功に通じるものがあるといえるかもしれない。
 神は田辺が特別に指導してくれたことに、自分の隠されていた才能に気づき、自信を抱き始めていた。佐藤が神が画家になるのだろうなと回想しているように、おそらく神自身は「俺は絵描きになる」と心に決めていたのだろうし、美術部の仲間にもそんなことを言い触らしていたのだろう。
 神も回想で、「田辺は、私の描く妙な絵を認めて、特別に指導してくれた。そんなときに、海産間屋のほうは隆盛であったが、父が株に手を出したことから、家は傾きかけていた。それもあって私は密かに、絵を描くことこそわが道と思うようになっていた。白いカンバスに自已の夢を自在に描きあげることが、なにか魔術のようで感動を覚えたものだ」と語っている。
 田辺は、神が卒業した年、佐藤が5年になったとき、函商をやめている。
 神と田辺の縁は、これだけでは終わらなかった。のちに上京した神に、各界の有名人などを紹介するなど、いろいろ面倒みていたというし、AFAの幹部、外国部長としてロシア関係の交渉をきりもりする工藤精一郎は、妻の叔父だった田辺の紹介でAFAに入社していた。
 漁業基地として賑わっていた函館という土地柄があるのかもしれないが、函商の名物のひとつに、ロシア語の授業があった。第二外国語としてロシア語の課外授業が4、5年生の希望者を相手に行われていた。教鞭をとっていたのは、ハリスト正教会の白岩牧師であった。神もこの授業に通っていた。後年「函商百年史」に寄せたエッセイで、神は次のようにこの頃を回想している。

 「私は生来が数学に弱く、簿記やソロバンは全く駄目で、課外科目のなかで、街の毛皮屋の陶先生の支那語・ハリスト正教会牧師の白岩先生の教えるロシア語にすこぶる興味をおぼえ熱心に教わった」

 絵画、そしてロシア語と自分に好きなものに出会えたことは、神のその後の人生を見るならば、この函商時代は、大きな意義をもっていたといえる。
 二・二六事件、支那事変と内地が戦争一色に染まっていくころ、海に囲まれた函館の街で、神は小学校時代の足の傷による負い目から解放され、のびのびと青春時代を謳歌していた。
 後輩の佐藤によると、この頃の神は、豪放磊落、自分たちとはちょっと違うスケールの大きい若者だったという。湯川温泉の近く鮫川で、神はのちのAFAの経理を担当する丸枝の兄で、神の同級生であった横岩や、佐藤を引き連れ、うなぎとりもした。内地にくらべて圧倒的に食卓が豊富だった函館にも、戦争の影響で食料不足の波が押し寄せてくる。神が四年生になった昭和15年には米や味噌、砂糖などが配給制になり、菓子類も町から姿を消していった。育ち盛りの若者たちにとって、うなぎとりも飢えをいやすためのなくてはならない生活の手段でもあった。

修学旅行の冒険

 こうした不景気な時代にもかかわらず、商人たちの悴が多いということもあったのだろうが、函商の学校行事は他校に比べるととにかく派手であった。二年生の時には、道内の修学旅行、五年生に進学すると内地への修学旅行があった。この内地への修学旅行が、生徒たちにとっては最大の楽しみとなっていた。
 上野に出て、伊勢神宮、奈良、京都、神戸をまわり、神戸では、船会社を経営していた函商の先輩に、教師・生徒およそ三百人が西洋料理のフルコースを御馳走になったというから、当時のことを考えれば、また現在でも考えられないような破天荒な贅沢三味の旅行であった。
 そしてこの旅行中に神は、いよいよ異能者としての本領を発揮している。「函商百年史」に寄稿したエッセイ「修学旅行秘譚」で、神はこう書いている。

「実は内地への修学旅行で秘かに楽しみにしていたひとつのことがあった、それは東京の銀座で一番のダンスホールのフロリダで踊りたいという当時の中学生としては全く異端な行為であった。
 この修学旅行のチャンスを逃しては一生実現不可能になると思ったからである。政府のぜいたく禁止政策によって、この年の十一月には、ダンスホールが禁止されることを東京の従兄から聞いていたからであった。
 上野に着いた後、市内見物を終え夕食をとった後が夜の自由行動である。兼ねてからリックの中に入れてひそかに持ってきた兄貴の背広を銀座の喫茶店で素早く着替えて、独り目ざすフロリダへと出かけた。薄暗い場内に淡いブルーの照明が、モダンであった。一流のジャズバンドが軽やかなテンポで演奏している。これは自由な東京の文化の匂いである。チケットは十枚綴りで一円。僕は五円分のチケットを買い求め、フロアーの中で一番オシャレな感じのする赤いドレスを着たダンサーに勇気を鼓して申し込む。
 夢にみた飯より好きなジャズの生演奏、今、僕はチャーミングなダンサーとワルツを現実に踊っているのだ、ここには全く軍国調はなく流れるものは世界の音楽である」

 すでにここには、傷を負い目にもつ気弱な目立たない少年の影はない、狙った獲物は逃さないふてぶてしさ、軍国主義など歯牙にもかけない、大胆で、行動力あふれる青年神彰の姿が見えてくる。
 そして神は、いよいよ次ぎなる荒野を目ざして憧れの大陸へと向かうのである。


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