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『神彰−幻を追った男』

第二部 けものたちは荒野をめざす
 第四章 たそがれの満州 その1

ハルビンからの手紙
上野破魔治の証言
アートフレンドの出発点ーハルビン

ハルビン学院
長谷川濬の満州
それぞれの終戦
敗戦の意味

ハルビンからの手紙

 函商美術部の一年後輩佐藤は、昭和16年五年生の時に、ハルビンから神の手紙をもらっている。

 「最初はどうして神さんが私に手紙をくれたのか不思議でした。そんな付き合いがあったわけでもなかったのですよ。ただこの頃自分は美術部の部長をしていましたから、そんなこともあったのかと思いました。ただうれしかったですよね。
 何が書いてあったのか、手紙を戦後のどさくさでなくしてしまったので、はっきりとは覚えていません。
 ただ大陸で元気でやっているなあ、神さんらしいなあと思ったことは確かです」

 手紙はなくしたが、この時一緒に同封されていた神が描いた水彩画のスケッチだけは、佐藤は大事にとっておいた。佐藤は、このハルビンの街の情景を描いた3枚のスケッチを、函館市博物館に寄贈している。ここは、神のひとり娘有吉玉青が父の死後、神が所蔵していたビュフェの絵画を寄贈していたところでもあった。
 取材のため函館を訪れた時、このスケッチを見せてもらった。
 床屋と質屋の看板を描いた二点のスケッチ、寺院に飾られた装飾の龍のスケッチ、水色と淡い赤のコンストラストを意識的に強調したこの水彩スケッチを見ると、神が明らかにこの時代、絵描きになることをめざしていたことがわかる。
 印象に残ったから描くというのではなく、絵描き修業のために描いている、ひとつの風景を即物的に捉え、それを絵筆に託す、そんな練習を自分に課していたような気がする。

 ところでいつ神彰は大陸に渡ったのか、そして大陸で何をしていたのか、これについてはいままでほとんど明らかにされていなかった。
 神自身は、この時代のことを『怪物魂』で簡単にこう書いている。

「上京して絵を学びながら、私は文化学院に通ったが、一年たらずで満州に渡った。太平洋戦争の起きた翌昭和十七年である、学校の軍事教練と街の軍靴の高響きにうんざりした末であった。満州もある意味では日本の延長であったが、初めて見る満州に私は眼を瞠った。日本国際観光局に籍をおいた私は、中国からさらに蒙古へと足を伸ばす機会に恵まれた」

 満州時代ハルビンに渡った神が何をしていたのか、これについては、本人がかなりうやむやに語っていたためかさまざまな説が世間に流れていた。
 例えばこのように・・・
 「ハルビン交通公社雇員だったという説もあり、また満州国治安部に出入りする商人だという説もある」(『太陽』1958年1月「旋風の興業師」)
 「満鉄の交通公社職員」(『文芸春秋』1958年8月「成功したボリショイ興業師神彰」)
 「満州外交部に勤務し、ハルビンに居住、主として情報活動に従事した」(『週刊新潮』1958年5月「ソ連を呼ぶ男」)
 「東亜交通公社の外交部に一時籍をおき、そのほかはいろいろな事業に手を出していた」(『週刊サンケイ』1959年12月「興業界で対決する二人男」)
 ボリショイバレエ公演を成功させ、一躍マスコミの寵児となったころのこうした記事を見ると、神は自分の満州時代を多少ミステリアスに演出しようとしていた気がする。
 実際は現在の日本交通公社の満州支社に勤務する、落ちこぼれ社員、穀潰し社員というのが真相だった。

上野破魔治の証言

 2000年暮れ、謎に包まれた神彰の満州時代を最もよく知っている人物上野破魔治と会い、話を聞くことができた。
 上野は、神彰の上司として終戦の時まで行動を共にしていたのだ。彼の話から神の満州時代があざやかによみがえることになる。
 上野は、日本交通公社の前身となる東亜旅行会社満州支局に勤め、戦後も日本交通公社に定年まで勤務、そのあとは東洋大学短期大学で教職をとり、ここで観光学科をたちあげ、最後は学長として70歳まで働いていた。お会いした時は86歳、ハルピン学院14期生で、現在もハルピン学院同窓会の顧問として活躍なさっている。
 とても86歳とは思えない、はっきりとした語り口で当時のことをふりかえってくれた。しかも時々確かめるように見る手帳には、自分の人生の節目となる出来事と年代がびっしりと書き記されており、人の名前、年代、出来事をはっきりと呼び起こすのには、驚かされた。
 上野破魔治にとっても、一生涯忘れることができない、満州時代と神彰の思い出に、しばし耳を傾けてほしい。

 「私はね、大正3年の生まれなのですが、大正9年に父親に連れられて、大陸に渡ったのですよ。それからは終戦までずっと大陸暮らしです。ハルビン学院を卒業して入ったのが、いまの日本交通公社。満州各地に支店がありましてね。あちこち渡りあるきました。 神と会ったのは、いつごろだったのだろう。たぶん昭和16年頃だと思います。ハルピン案内所の副所長をしていた時に、『上野さん、とんでもない若い社員がいるんですけど、面倒見てくれませんか』と頼まれたのが、神だったのです。 実際にこの男、とにかく仕事をしない。ぼっと机の前に座り、ちょっと目を離すと、スケッチブックをもってフラッと出かけてしまう。ぶっきらぼうで、とてもカウンターに立たせて、客の相手なんかさせられないわけですよ。
 『どこへ行くですか。エッ、聞こえないな、はっきり言って下さいよ、切符はいるんですか』こんな調子ですよ。客と喧嘩になってしまうんだから、とても出せないわけですよ。しようがないから、案内所の中の装飾とか、やらせていました。
 絵は確かにうまかった。私も絵を描いてましたからね、わかるんですけど、ほんとうにうまかった。
 パリに留学するための金をつくりに大陸に来たって言ってたけどね、あんな暮らしじゃ金なんかたまるわけがない。実際人を食ったような男でしたね。
 でも憎めないとこはあったね」

 上野さんはこんな風に神の青春時代のことを思い起こしてくれた。その語り口は、手に負えないやんちゃな弟のことを語るかのようだった。
 上野さんはハルビンにずっといたわけではなく、終戦まであちこち満州各地の支店を転々とするのだが、上野さん以外に神のような問題児の面倒をみれる人間はなく、神も上野さんと一緒に、奉天、新京と渡りあるくことになる。

「確か神が奉天の案内所で働いていたときだったね。私はどうしても営口の案内所を見なくてはいけなくて、神を奉天に置いてきたんだ。その時だったね。北原白秋の一番弟子で、「たき火」なんかの唱歌を書いた巽聖歌という詩人を連れて、営口に来たのは。神は得意気に巽を私に紹介していましたよ。
 その時に神が、『上野さん、調査宣伝課の課長に殴られちゃった』というから、どうしたんだと聞くと『何か俺のことが気に入らないんだと殴ってきたんだ』と言う。『お前、殴り返したのか?』って聞くと、『殴ってもしゃあないし、殴られ放しにさせておいた』って言うから少しは安心してね。上司を殴り返したら、首になるわけだし、とにかく困った奴だったね」

 上野は神の画才を見込んで、どうだカレンダーをつくってみないかと、誘ったことがあった。この時神は、珍しくやる気になって、出来上がってきたものを得意気に上野に見せる。満州の子どもたちが書いた満州の風景の絵が12枚あった。上野は、旅行会社のポスターなのに、これじゃ、満州の紹介にしかならないじゃないかと言うと、神はその場でその絵を破り捨てたという。
 神の気性の激しさを物語るエピソードといえよう。
 上野は、『お前どうやって満人に絵を描かせた、ただではないだろう』と問いただすと、神は悪びれもせず『用度の奴に一杯飲ませて、消しゴムやらクレヨンをもらって、それを配った』という返事に、上野も呆れ、一言自分に相談してからやらないとダメじゃないかと、説教した。

 「癖になるからね、とにかくあいつはなんでもかんでも、自分勝手にやるんだな、でもこのアイディアにはちょっとは感心したんだけどね」

 上野がいてはじめて、神は交通公社で働くことができたのだろう。
 ふたりは終戦を新京で迎える。昭和20年8月根こそぎ動員というのがあって、丙種合格の神のところにも徴集が来たが、いつロシア軍が攻めてくるかという話しでもちきりだったので、神はこれを無視したという。
 これからどうしようかという時に、神は上野に看板屋をやろうという話を持ち出す。いままで日本語の看板が町に立ち並んでいたわけだが、これからはロシア人や中国人が読んでわかるように看板をつくれば儲かるのではという思惑からだった。
 神と西島という交通公社でやはり調査宣伝部にいた男が絵を描いて、上野がロシア語や中国語で字を書く。この中には新京駅の正面に、神が描いたスターリンの肖像の大看板や、魯迅劇場の看板などもあったが、そんな儲けにはならず、戦勝国の人たちに足元を見られ、値切られてばかりいたという
 そして昭和20年12月13日、ふたりが別れる時がやってくる。

「ロシア兵がやって来ました。確かこの時神もいましたよ。あいつはね、ロシア兵が来たのを知って、隣の部屋に閉じこもって出て来なかったな。臆病なところがあるんだよ。あいつは。
 ロシア軍の中尉がピストルを突きつけ、『お前は、上野だな』と聞かれ、そうだと答えたら、『寒いところに連れて言ってやる』といわれそのまま連行されて、取り調べです。交通公社の仕事で、外人の世話でヨーロッパにアテンドすることもあるのですが、その時シベリア鉄道で移動中に、ロシア軍の兵力を克明に記録して、あとで関東軍に教えただろうという、スパイ容疑だったわけです。」

 徹夜で取り調べを受けた上野は、クリスマス前に帰してやると言われて、翌日トラックに乗せられたという。同じトラックには、十七−八人の日本人が同乗していた。広い空き地でトラックが停まり、みんな下ろされて、ここで解散だ、好きなところへ行けと言われる。上野はこれを通訳する。ヘッドライトがこうこうとつけられ、皆喜んで走ろうとするが、背後にただならぬ気配を感じた上野は、『撃ちます!みんな伏せて!』と叫ぶが、マンドリンの銃で乱れ撃ち、次々に人が倒れていったという。上野も腰になんかに当たった感じがしてそのまま倒れ、意識も一瞬失う。気づくとロシア兵が『まだ生きているぞ、通訳だ、連れて行け』と言っているのが聞こえて、まだ生きていることを知った。襟のところをもたれて、引きずられて運ばれた上野は、まさに九死に一生を得たことになる。この時もうひとり領事館に勤めていた人も腕に掠り傷をうけただけで助かったが、あとはみんな銃殺されてしまう。
 翌日新京郊外の寛城市から貨車に乗せられ、上野は抑留地カザフスタンのアルマトゥイまで何日もかかって運ばれることになった。
 上野はアルマトゥイで3年間、カラガンダというカザフの炭鉱町で1年間抑留生活を送ることになる。この時ずっと一緒だったのが、のちにアートフレンドの外国部長となる石黒寛である。石黒は、上野と同じハルビン学院出身、のちに上野の紹介でアートフレンドに入社することになる。
 上野が神と再会するのは、抑留生活を終え、日本に帰ってきてすぐ、たぶん昭和26年か27年の頃だった。その時神が荻窪のアパートにいることを知って、ひょっこり訪ねる。部屋には長谷川濬、岩崎篤などの満州帰りがたむろしていた。上野もしばらく、ここを毎日のように訪れるようになる。

 「あそこへ行けば、絵の話しや、ロシア音楽の話しができるわけですよ。酒もあったしね、あの頃神は金があったのだと思うな。長谷川濬も、いい加減なところがあったけど、面白い人だったし、岩崎もいい人だった。長谷川は満州で有名だったからね。こんな集まりからドン・コサックを呼ぼうということになったと聞いてます。」

 上野は、3ヶ月ばかりここに出入りするが、すぐに日本交通公社に復職する。ドン・コサックを呼ぶとなってからは、いろいろ相談も受けたという。この時よく覚えているのは、ドン・コサックとの契約書の件で、有吉佐和子と会ったときのことを、生意気だけど、いい女だ、いつか必ずものにすると盛んに言っていたということだ。
 実際にこのふたりは、のちに再会して結婚することになるわけだが、上野は、「まあ化けの皮が剥がれたということでしょ。馬鹿にされたんだと思う」と語る。
 上野も、神から一緒にアートフレンドに入って仕事しないかと誘われたというが、自分は旅行会社の方がいいと言ってやんわり断わったという。
 「いま思うと、本当にあの時アートフレンドに入らなくてよかったと思う。あそこに入ったらと思うとぞっとするよ」と苦笑いしながら語る。
 神は死ぬまで、上野のことを「兄貴」とか「はまちゃん」と呼び、慕っていた。満州時代に上司として面倒みてもらった上野に、神は肉親以上の愛情をもって接していたのではないだろうか。女のことでも、事業のことでも、何の気兼ねなく相談できたおそらく唯一の人が、上野だったように思える。
 上野は一枚のハガキを私に見せてくれた。神の晩年、鎌倉に移る前に書かれた手紙が、そんなことを思わせてくれる。
 神に一度来てくださいよ、と有栖川公園のマンションの地図をもらった上野は、ふらっと訪ねてみるが、あいにく神は留守だった。その時に書かれたハガキにはこう書かれている。

「せっかくたづねていただいたのに、留守してガッカリです。
丁度娘の玉青をつれて、函館へいって居りました。「神さん」といっていた娘も最近はチチがなどといってくれるようになりました。
最近はどうも病気勝ちで身辺整理などを考えるようになりました。整理しようと思っても整理出来ない人間関係はあの世までつづくものなのでしょうか?」

アートフレンドの出発点ーハルビン

 神が最初に居を定めたハルビンは、いろいろな意味で神の出発点となったところだった。ここは、神、そしてアートフレンドにとっての原点ともいえる、コスモポリタンたちが彷徨うところだったのだから。

 ハルビンには、神が生まれ育った函館以上にロシア人が数多く住んでいた。このことに神は、ある懐かしさを抱いたはずだ。
 一八九八年から建設が始まった東清鉄道の完成によって中ロを結ぶ交通の要衝となったハルビンは、満州国が成立した一九三二年までの二十七年問、他に例をみない多数のロシア人が住む都市として発展していた。さらにロシア革命が勃発した一九一七年から、国を追われた亡命ロシア人がこの街に押し寄せ、独自なロシア文化を育んでいくことになる。戦争が終わる四五年にかけて、ハルビンには二十三のロシア正教会、十三のロシア高等教育機関、その他にも音楽大学、オペラ・バレエ団、交響楽団などが存在し、五十種類のロシアの大新聞、維誌、文芸誌が出版されていたという。革命の影響を受けない独自のロシアの民族文化、伝統、コサックの伝統が生きている都市がハルビンであった。
 それに加えて、ここが三十五の民族が住む国際都市であったということも見逃してはならない。ハルビンはそれぞれの国、民族の文化が互いに影響を及ぼしあい、互いに理解しあう場でもあった。ハルビンは中国、ロシア、朝鮮、日本、欧米の文化が相互に浸透しあう、まさにコスモポリタンの街だった。

 ハルビンから神の手紙をもらった函商の後輩佐藤一成も、17才の時にハルビンに渡る。ある日佐藤は、ハルビンの街でばったり神と出会う。この時神は「交通公社のようなところで働いている」と言っていたが、ネクタイをし、きちんとした格好であった。それから一度食事をごちそうになった佐藤は、このあと神の下宿に案内されるが、ロシア人のおばあちゃんが経営し、彼は屋根裏のようなところで住んでいたという。
 亡命ロシア人はハルビンで下宿屋をやっている人が多かった。この下宿は神の上司、上野が紹介したという。
 神は『幻談義』の中で、萬平がシルクロードの旅を終え6年ぶりにハルビンに戻る場面を次のように書いている。

 「ハルピンの市街地区(スタールイハルピン)は鉄道総局や鉄道施設関係の庁舎が建てられ、ロシア人の官吏、技師やヨーロッパから来た商人たち、また支那人の移住者の集(む)れでごった返しの有様で、駅前広場を中心に、パリの街のような石畳を敷きつめた瀟洒な道路が急造され、ヨーロッパ風なホテル、劇場、レストラン、商店が軒を並べて立つ、ヨーロッパ各地から集まったユダヤ人たちの手でパリを理想像として形どり、芸術都市建設へと急ぐ街に変わっていた。工事の騒音は昼夜を問わず、松花江河畔に面した寒村ハルピンの面影はまったく消えてない。
 騒音をくぐり抜けるように辿りついた、昔のまま変わらぬ懐かしい馬家溝の路傍に立つ楡の木の下に泥で造られた小さな家。その昔、萬平が刷毛で黄色く塗ったペンキも剥げ落ちた木製の傾いた扉の上に、ロシアの老婆の眼が扉を突き透ってそこにあった」

 これはおそらく神がかつて住んでいた下宿と、ハルビンの街を思い起こしながら書いたものであろう。黄色い扉は、おそらく神自身が塗ったものなのだろう。

この章続く


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