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『神彰−幻を追った男』

第二部 けものたちは荒野をめざす
 第四章 たそがれの満州 その2

ハルビンからの手紙
上野破魔治の証言
アートフレンドの出発点ーハルビン


ハルビン学院
長谷川濬の満州
それぞれの終戦
敗戦の意味

ハルビン学院

 偶然ハルビンの街で神と出くわした佐藤は、この街にあったロシア語専門学校ハルビン学院に通っていた。
 ハルビン学院は一九二〇(大正九)年、元南満洲鉄道株式会社の総裁、後藤新平の肝いりで設立されたロシア語を学ぶための専門学校である。設立当初は日露協会学校といい、満洲国ができてから満洲国立大学ハルビン学院と名を変えている。
 ソ連・ロシア研究を目的としたハルビン学院は、ソ連からは「ロシア語堪能者を輩出するスパイ養成学校」と目される一方、第二次世界大戦後の米国占領政策下の日本では、「ハルビンでロシア語を教えていた」という理由から、親ソ派の温床とみなされ、卒業生はブラックリストに載せられたという。米ソ双方から危険視されたハルビン学院で学んだ、優秀なロシア語つかいだった卒業生たちは、戦後の日本で、宙ぶらりんな立場に追い込まれる。彼らに活路を与えたのが、アートフレンドであったといえるかもしれない。
 ボリショイバレエ、ボリショイサーカス、レニングラードフィルと、たてつづけにソ連から、ドル箱商品を呼ぶことに成功した陰で、活躍していたのは、ハルビン学院の卒業生、石黒寛、工藤精一郎、野村昭一であった。ロシア語の達人であった彼らが、戦後日本に戻った時、この才能を生かせるところはなかったのである。ハルビンで青春を過ごしたコスモポリタンたちが、アートフレンドが展開していくロシアと日本の架け橋となる仕事に魅せられていくのは、当然だったのかもしれない。彼らもまた、神と同じように「ロシア」という幻を追うことになるのだ。ハルビンで青春をおくった神が巧みに、彼らを吸い寄せていくのは、それほど難しいことではなかったはずだ。

 ハルビン学院で学んでいなかったが、同じようにコスモポリタンの宿命を背負い、この大陸に乗り込んできた男がいた。この男が、最初にドン・コサック合唱団を呼ぼうと言い出したのだ。
 函館出身で、満州に理想郷を求めた男、そしてドン・コサックを呼ぶことを最初に思いついた男、長谷川濬の満州について触れておきたい。

長谷川濬の満州

 ドン・コサック合唱団が日本で公演していた時に、アートフレンドに入社した木原は、同じ職場に長谷川濬がいたのに驚いたという。文学青年だった木原にすれば、長谷川は眩しい存在だった。戦前読んだ当時のベストセラー小説、白系ロシア人ニコライ・バイコフが書いた『偉大なる王』の訳者として、長谷川は有名だった。その長谷川と一緒に仕事をすることになるとは、夢にも思わなかったという。
 この『偉大なる王』が文芸春秋社から出版されたとき、長谷川濬は三四歳、作家で、満洲映画脇会(満映)の社員だった。彼はこの『偉大なる王』の翻訳で一躍日本でも名を知られるようになる。
 濬は、谷譲次の名で「めりげんじゃっぷ」ものを書き、林不忘の名で時代小説《丹下左膳》ものを書き、牧逸馬の名では風俗的な家庭小説を書きまくり、まさに縦横無尽の作家活動をしていた長谷川海太郎の弟でもあり、『シベリア物語』『鶴』などで知られる作家長谷川四郎の兄でもある。さらにいえば、海太郎と濬のあいだに生まれた次男の長谷川りん二郎も画家として知られている。戦前戦後、日本の文学界美術界に大きな足跡を残した「長谷川四兄弟」のひとりであった。
 長谷川濬は、一九〇六(明治三九)年七月四日函館市で生まれているので、神彰より十八歳上だったことになる。地元の新聞社『函館新聞』の社長で、主筆もしていた父長谷川淑夫は、当時の昭和右翼の第一人者であり、二・二六事件の黒幕となる大川周明と北一輝と交遊があった。そのころ淑夫は、大川の行地社の社友であり、北は彼が佐渡中学で英語教師をしていたころの教え子でもあったのだ。
 アメリカに単身無銭旅行を敢行した兄海太郎の影響を強く受け、海外に目を向ける大事さをたたき込まれた濬が、憧れた国はロシアであった。函館出身の濬にとって、ロシアは身近な存在であったのだ。函館中学校卒業後カムチャッカ半島ペトロバウロスクに赴き、各種労働に従事、冬は函館で働きロシヤ語を勉強したという。一九二九(昭和四)年大阪外国語学校露語科に入学し、本格的にロシア語を学びはじめる。この時の先生のひとりに、有名な民族学者ネフスキーもいた。一九三二(昭和七)年卒業した濬は、同年五月十五日満州に渡る。彼が満洲に渡った時、北や大川が紹介するのに一役買っていたという。
 満州国資政局自治指導部訓練所で地万県参事官になるため訓練をうけたあと、長谷川は、満洲国外交部に入りチタ領事官として勤務したあと、翌年東京で鈴木文江と結婚。六月弁事処通訳官としてポクラニーチナヤ(綬紛河)に赴任する。ここで三年過したのち、一九三四(昭和十)年外交部俄国科に転勤となり、新京に転居した。そして一九三六(昭和十二)年幻の国家満州の象徴となる、満洲映画協会(満映)に入社している。ここで長谷川濬は宣伝副課長、調査役などを勤めることになる。濬がバイコフを知ったのは、満映入社後で、一九四〇(昭和一五)年暮から満州日日新聞紙に「偉大なる王(ワン)」の訳載を始めている。
 これを書いたバイコフもまた、コスポリタンとして世界を渡り歩く運命を背負った男だった。その意味では濬のたどった運命とかさなりあうものがある。
 ニコライ・A・バイコフは、ウクライナのキエフの生まれで、しかも、一九世紀のカフカス(ウクライナからは遠い)反ロシア闘争のリーダー、シャミールの血を引くことを自慢にしていた。革命ロシアを追われ、満州にたどりついたバイコフは、濬の翻訳により日本でも知られるようになり、菊池寛の招待で日本を訪れたりもしている。しかし戦後、バイコフは日本には身を寄せず、中華人民共和国となったハルビンに、五六年までとどまった。それから、八三歳でパラグアイに移住することを考え、香港まで動いたが、老体での長期間の船旅は無理だと判断しなおし、結局、オーストラリアのプリズベンに渡る。そして二年後、八五歳で、バイコフはオーストラリアで没している。
 濬にすれば、大陸の「満州」は彼の理想を実現するところだった。彼は「満洲建国は世界的建設である」「天心のいうアジアは一つ−これは新興満洲文学を指向する予言」、こういう威勢のいい大演説を何の疑問もなくしていたという。しかし彼は、日本の敗戦のなかで、この幻の国家が音をたて、いとも簡単に崩れていくのを目撃することになる。

それぞれの終戦

 敗戦以来、濬は身近な人々の死に立ち会うことを余儀なくされる。
 満映の理事長甘粕正彦が、服毒自殺したことは有名な話であるが、濬もその現場に立ち会っていた。日本の敗戦、そして満州国の崩壊という現実のなか、この幻の国家のプロデューサーのひとりであった甘粕正彦が、自死という道を選ぶだろうということは予想されていたことだった。そのために濬は、自殺防止のための監視役にあたったのだが、それをとめることができなかったのだ(四五年八月二〇日)。
 甘粕の死よりも、濬にとってショックだったのは、大事な友人のひとり、詩人逸見猶吉の死に立ち会ったことだったかもしれない。一九四六年五月一七日逸見猶吉は肺結核と栄養失調で、朽ちるように死んでいった。逸見猶吉は、幻の国家の死滅と共に「自死」という道を選べた甘粕とはちがって、この国家が亡くなったことで、生きる可能性を得たはずだった、だからこそ生きたかったはずだった。
 濬はこの友人の遺骸を野原で焼き、骨を拾っている。
 そして濬は、同じ年に、引き揚げの列車のなかでは、三女を失い(同年七月)、さらに日本に戻ってからも、自身と同病の結核で、長男を亡くしている(五一年三月)。
 戦後、彼が私家版のタイプ・ガリ版印刷でだした詩集『海』に、こんな詩がある。

《とど松の群生寒くして/まだ花もさかない/なだれこむ粉炭の徴粒は/黒い汗の如く/海岸をちりばめ/桟橋のベルトは空転し/はしげに人影もない−ムガチ炭坑地/岸をかむ白い波/俺は白い歯をむき出して/お前の死灰、骨灰の軽さを思い出している》
(「サハリン航路−逸見猶吉に(ムガチ沖にて)」より)

 こうした身近な人々の死と向き合うなか、濬は自分の内部の決定的な何かを、へし折られていったのかもしれない。だからこそ、ドン・コサック合唱団を呼ぶことは、長谷川濬にとって、死の世界からの蘇り、再生を賭けたものだった。

 上野破魔治がソ連軍に捕らわれた時に一緒にいた神彰は、一番頼りにしていた上司がいなくなったことで、早々にこの地を去っている。
 『怪物魂』のなかで、神はこのどさくさの時代をこう振り返っている。

「やがて戦局は傾き、兵隊検査で丙種合格だつた私にも、ついに現地召集の令状がきた。しかし約一と月あとにはソ連軍が乱入してきて、日本軍は降伏し、そして武装を解かれる。未曾有の敗戦で茫然自失した軍隊は、武装解除されるともはや烏合の衆であった。現地召集の仲間に脱走の相談をかけたが、群れを離れるのは恐ろしいと応ずる者はいない。そして酷寒のシベリヤ連れられて捕虜となった。
 やむをえず私はひとり逃走して、九日間荒野をさまよい歩いて新京に辿り着いた。同じ職場にいた仲間の残された家族たちを養うために、にわか看板屋を始める。現地で出征した先輩の二歳になる子供を抱きかかえ、子供だけの食糧を詰めたリュックを背負って、博多港に引き揚げてきたのは、終戦の翌々年の秋であった。子供を久留米の親元に届けると、私は函館に帰り函館新聞社の文化部に勤めた。二年後に画心抑えがたく上京する」

 上野と共にカザフスタンで抑留生活をおくることになる、のちにAFAの屋台骨を支えたひとり石黒寛は、終戦後まもなく奉天駅で逮捕されている。逮捕したのは、石黒が満鉄でつかっていたロシア人の運転手だった。彼は赤軍の大尉だったと石黒におもむろに告白したという。

敗戦の意味

 函商美術部の一年後輩佐藤は、戦後函館の市電のなかで、偶然神と出くわした。
 ハルビン学院出身の佐藤もまたシベリア抑留組のひとりで、一九四七(昭和二二)年日本に引き揚げていた。神と再会したのは、シベリアから函館に戻ってまもなくのことだったという。

 「五稜郭から市電に乗ったのです。となりに顔見知りの人が座っている。神さんだったのです。『おおっ佐藤君ではないか』って声をかけてきたので、びっくりしました。思わず聞きましたよ、『先輩何をやっているのですか?』と。
 そしたら東京からズーチンとかサッカリンを持ってきて、昆布とか買い込んで商売しているんだというのです、担ぎ屋じゃないのかと思ったのですが、神さんはあっけらかんと『儲かるぞ』って言ってましたよ」

 東京と故郷函館を行き来しながら、担ぎ屋まがいのことをしたあと神は、しばらくの間函館で、地元紙「函館新聞」で働いていた。いまでいうとイラストレーター、記事を書く記者ではなく、記事の挿絵のようなものを描いていた。この時の上司が、のちにAFAの制作部長となる富原であった。

 いくつもの辛い死に立ち会っていた長谷川濬が、胡蘆島より引揚げてきたのは、一九四六(昭和二一)年八月のことである。彼はこのあとすぐに、実家のあった東京都杉並区荻窪に戻っている。
 昭和二二年より満州でしらぬ間にかかっていて気管支拡張症に伴うぜん息を病んでいた濬にとって、また大きなダメージとなったのが、長男満(一五才)を失ったことだ。その悲しみをふりきるように、濬は一九五四(昭和二八)年ナホトカ行貨物船の通訳となり四三年まで働くほか、漁船の乗組員通訳として沿海洲、サハリン、アムール河等を往することになる。
 きっと濬にとっても、将軍と呼ばれた岩崎にしても、大陸から日本に戻り、満たされない思いに鬱々としていたときに、ふってわいてきたのが、ドンコサック合唱団を日本に呼ぶことだった。この突飛なアイディア、幻を実現すれば、すべてが終わるはずだった、それは彼らのほんとうの意味での終戦になるはずだった。
 しかし神彰だけはちがっていた。これは終戦ではなかったのである、ドン・コサック合唱団を呼ぶことは、ある出発だったのである。彼のまなざしはすでに遠くを見据えていたのだ。神はこのときまた別の幻を追おうとしていたのだ。それを知らなかったふたりの旧友は、静かにAFAを去っていくことになる。そしてそれに引導をわたしたのは、木原というのちに神の右腕となる、策士だった。木原の出現により、AFAは新しい、飛躍の時を迎える。


 神彰が育った函館、そして青春をすごした満州から離れ、またドン・コサック合唱団が日本中を話題の坩堝にまきこんだ、その時代に戻ることにしよう。あらたな荒野がそこには待ち構えていたのだ。


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