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『神彰−幻を追った男』

第三部 赤い呼び屋の誕生
 第七章 ボリショイの奇跡 その1

ボリショイ旋風

ボリショイ旋風

 1957年(昭和32)5月4日共同通信は、8月ソ連のボリショイバレエ団が来日公演を行うことを報じた。神の幻が、いよいよ実現に向けてスタートする。
 日本公演の会場と日程もまもなく主催者の読売新聞社から発表された。

 8月28日〜8月31日東京・新宿コマ劇場
 9月3日〜8日 大阪・宝塚劇場
 9月10日〜23日(12・18・22日休演) 東京・コマ劇場
 9月24日 国際スタジアム

 会場を決めて、マスコミ発表をしながら、神はこの時大きな不安を抱えていた。
 ボリショイ劇場が、日本から送られてきた新宿コマ劇場の図面を見て、公演は出来ないと言ってきたのだ。しかも他の会場をすぐ探さないと、来日は出来ないという強硬なものであった。ここまでこぎつけたのに、政治的な理由でなく、現場レベルで出来ないと言ってきたことに神は焦りを感じていた。新聞発表もし、入場券の売り出しもはじまり、もしもここで出来ないということになると、いままでの苦労はすべて水泡に帰してしまう。それどころか再起不能となる致命的なダメージを被ることは、はっきりしている。急遽、6月劇場総裁シャシキンが来日し、劇場視察することになった。
 おそらくソ連側にすれば、ここで公演が出来なくなることは、自分たちにとっても大きなダメージとなることを踏まえた上で、妥協策をさぐるための来日であったのだろう。コマ劇場名物の回り舞台の床を全面的に張り替えることを条件に、ここでできる番組をシャシキンは、綿密に検討したうえ、最終的にゴーサインを出した。

 「神はこの時、大喜びしていたね。ボリショイバレエに関しては、最大の問題は会場のことだった。あの神もこのことをずっと気にしていた。下見のあと、シャシキンがここでできると断言したことで、神はこれでこの勝負は終わったと思ったんじゃないかな。それほど会場に関しては、真剣に心配していたんだろうね」

 木原は、この時のことをこう振り返っている。
 たしかに会場問題をクリアーできたことによって、神はこの公演がまちがいなく成功することを確信していた。
 実際に入場券は、飛ぶように売れていた。
 神と木原は、神がかつて勤めていた日本交通公社とタイアップしながら、アメリカやハワイに住むアメリカ人向けに券を発売することを思いついた。これが大当たりする。世界最高峰の芸術、しかもアメリカでは絶対に見れない、公演を日本まで来て見ることは、バレエファンにとっては、たまらない魅力だったのである。

 8月23日、ボリショイ・バレエ団一行54名が、午後十時四十分羽田着エールフランス機で来日した。空港には松山バレエ団員をはじめ、七百人のファンが出迎えた。翌24日今回の宿舎となった新橋第一ホテルで、記者会見が行われ、団長ら15人の幹部が出席した。ここでシャシキン団長は、「これだけの人数ではボリショイ劇場の全容を伝えることは困難かもしれないが、その神髄はおめにかけるつもりです」と抱負を述べたあと、プリマドンナのレベシンスカヤは、またツバメの話を引き合いにしながら、「私たちソ連の国民はツバメを愛している。なぜならツバメはリンゴの花が白く咲くころにやってきて、喜びと楽しみをもたらしてくれるからです。私たちは日本の皆さんに喜びをもたらすツバメでありたい」とにこやかな表情で語った。
 この日の夕方小石川の椿山荘で催された歓迎会には、ソ連大使、松永文相、鈴木茂三郎、山田耕作、石川達三、千田是也ら約三百人の政財界、文化人が集まったという。神にすれば、鼻高々だったに違いない。これだけの著名人たちを集めることで、三十五歳の神彰という男がただのプロモーターではない、文化使節として役割を果たしているのだということを、対外的に知らしめるためには、絶大な効果をもたらしたはずだ。
 8月28日の初演に先立って、神は開幕の挨拶を述べている。

「芸術を愛する誰もが、心から実現をねがっていたモスクワ国立アカデミー劇場バレエ団の日本公演が、全国民の熱意とソ連文化省のご好意によって二年間にわたる準備のすえ、ここに歴史的大公演を開幕できたよろこびは筆にも尽くし得ません。来日されたレベシンスカヤ女史をはじめ、一行の方々を心から歓迎するとともに、この公演によって『芸術に国境なし』の感をさらに深めました」

 日本公演のために6つのプログラムが用意されていた。いずれも「白鳥の湖」や「眠れる森の美女」などの抜粋を10数シーン集めた名場面集からなっていた。伴奏をする東京交響楽団の指揮をとったのはこの時弱冠二十六歳、のちに世界的名指揮者となるロジェストベンスキイだった。
 木原の話によると、最初の2、3日は、満員というわけでもなかったが、公演が始まり、新聞などで紹介されると、爆発的に切符は売れ、連日満員の大盛況となった。

 公演は順調に進んでいたが、いろいろとトラブルもあった。
 初演の3日前の8月25日には、宿舎の新橋第一ホテルのポールに掲揚されていたソ連国旗を三人のアメリカ兵が破り、ソ連大使館が外務省に厳重な抗議を申し出るという事件がおこった。木原の話によると、ホテルでは、亡命勧誘を呼びかけるビラも配られたという。冷戦時代のことである。ソ連に対する警戒は、いま以上に厳しいものがあったのは当然だった。警視庁の外事課職員がホテルに泊り込み、送迎バスにも常時添乗していたという。これは後日談なのだが、このボリショイバレエ団来日をめぐって、週刊誌などで、第七回日本共産党党大会のための資金に、この公演のもうけが流れたという説もでまわった。ソ連からの本格的な芸術使節の来日は、いろいろな波紋を呼んでいたのである。
 しかし当事者であった神の側近、木原にとってこの公演で一番ハラハラしたのは、新宿コマ劇場の公演を、生放送でテレビ中継したときだったという。

 「テレビが中継していたとき、ちょうど客席に飾られていたソ連国旗をカメラが踏みつけているのを見てね、裏で大騒ぎになった。石黒が、ひとごとのように責任者は国家冒涜罪で強制労働25年だなと、私を脅かすんだよね。慌ててね。本番中だったけど、客席に駆け込んで、カメラの位置を変えてもらったな」

 シベリアに抑留された石黒からの話だっただけに、妙に説得力があった。
 さらにプリマドンナのレベシンスカヤが、急性リウマチのために8月31日の公演のあと倒れ、新宿の聖母病院に入院するというアクシデントも起きる。日本到着4日後、初演を明日に控えた練習中に、大きな痛みを感じていたレベシンスカヤは、痛みどめの注射をうちながら、なんとか舞台に立っていたが、ついに前半の東京公演最終日に倒れてしまった。気丈なこの四十二歳のプリマドンナは、一ヵ月の絶対安静という医者の診断に対して、局部麻酔をしながら、舞台に立つことを選んだ。
 彼女は読売新聞のインタビューに答えて、こう語っている。

 「どんなに疲れていても、病気であってもひとたび音楽が始まると全身に踊りがかけめぐるのです。わたしは踊りつづけるでしょう。踊りは私の生命なのですから」

 さまざまなドラマを紡ぎながら、日本中のバレエファン、音楽ファンを魅了したボリショイバレエ団の公演は、9月24日の東京・両国の国際スタジアムでのさよなら公演で幕を閉じた。この公演は、少しでも大衆的な料金でよりたくさんの人々に見てもらいたいという名目で開催されたもので、この日本公演を実現するにあたって橋を架けたひとり、元首相鳩山一郎が会長をつとめていた日ソ協会が中心となった。
 一万二千人という大観衆を集めたこの公演では、「白鳥の湖」二幕、「コッペリア」の一幕、二幕が上演された。公演終了後、鳩山薫子夫人から、レベシンスカヤに花束が舞台中央でおくられ、全員がホタルの光を合唱するなかフィナーレとなった。
 公演は大成功に終わった。東京、大阪二十回の公演で六万人の入場者があった。なかでも特筆すべきは、いまでいうS席・A席にあたる入場券の五割は旅行代理店や航空会社を通じて、海外でさばけたということだった。この時の収益は当時のお金で二千万とも四千万とも言われている。この公演の成功に大きな役割を果たした、木原と石黒はボーナスがわりに、家を貰ったという。

 ドン・コサック合唱団の公演は博打だった。あたるかはずれるか、それに賭けること、それが神のひとつの生きざまであった。ボリショイバレエ日本公演の成功は、あの日狸穴のソ連大使館の鉄の扉をこじあけた時から、ある意味で予想できたことだった。今回の成功は、賭けではなく、しかるべく得たものだったといえるだろう。そしてこの成功は、明日へと繋がるものだった。神は、これを起点にして、さらに快進撃を続けるのである。
 赤い奇跡は、まだまだ続く。
 神が最初にみた幻、レニングラードフィルがジェット機に乗ってやって来るのは、ボリショイバレエ団来日から八ヵ月後、1958年4月のことであった。


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