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『神彰−幻を追った男』

第三部 赤い呼び屋の誕生
 第六章 鉄のカーテンをこじ開ける

狸穴通い
鉄のカーテンの向こう
日ソ国交樹立の影で
ソ連のテスト

文中、「AFA」とあるのは「アート・フレンド・アソシエーション」(神が設立したプロモーション会社)の略です。

狸穴通い

 ドン・コサック合唱団が日本を去った二ヶ月後、1956年(昭和31)7月26日エジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言した日のことを、神は生涯忘れることがなかった。この日神は、麻布狸穴にあるソ連代表部を訪れ、鉄の扉を初めてノックしたのだ。日ソ間の国交は回復されておらず、まだ大使館はおかれていない時のことである。高いコンクリート塀に囲まれた正面の鉄扉には、鋤とハンマを稲で取りまいた赤い星のマークがついている。その鉄の扉を押し開けて玄関に入った神は、名刺を出し「文化担当官に会いたい」と申し出た。
 受付にいた中年の婦人は、この突然の訪問者に驚いたようだった。どこかに電話をかけて連絡をとっていたが、しばらくして「いま、担当者がおりません」と答える。「いつ会えますか」とたずねる神に対して「本人でなければわかりません」と判で押したような返事がかえってきた。
 「その本人というのは、いつならいるのか」
 「本人でなければわかりません」
 「では会う約束はできますか」
 「本人でなければわかりません」
 埒のあかない押し問答が続いた。すぐには会えないと思ってはいたものの、ソ連の鉄のカーテンの厚さを思い知らされた。しかし神はこの時覚悟を決めていた。

 「まったくの暖廉に腕押しである。私は少し意地になった。よし、必ず会ってみせる。もとより、どうしても会わなければならない必要があったのだ。以後、毎日の朝九時になると印を捺したように日参した。だが、受付の返事が、これまた印で捺されたようなものであった。「本人でなければわかりません」その一言、飽きもせずに繰り返すのみであった。まったく、短いテープレコーダーのようなものである。その表情はまさにシベリアの凍てついた氷の彫刻のように、眉一つ眼の玉一つ微動だにしない。思わず自分はチエホフの描く帝政時代のロシアに迷いこんだのではないかと眩いたものだ」(『幻談義』)

 こうして毎日午前九時、狸穴のソ連代表部へクライスラーを乗り付けることが、神の日課となる。

 「最初はいささか腹もたったが、だんだん慣れてくると、それが一種のおかしさに変わってきた。まったく同じ台詞が、こうして延々三週間ものあいだ繰り返された」

 この無謀ともいえる訪問の前に、神は布石をうっていた。
 日本と国交のないソ連ではあったが、共産党や社会党の招きで、来日してくるソ連の共産党幹部に託し、手紙を送り続けていたのだ。木原はこう語っている。

 「広島や長崎の原爆記念日の打合せのために来日するソ連の共産党の代表に宛てて、手紙を書きましたよ。共産党員でしたからね、私は。こうした手紙を書くのは、ある意味でお手のもんでした。国交はないかもしれないが、文化交流をしたいとね。それを石黒がロシア語にするわけです。しかしいつになっても返事は来ない。神が、モロトフ外相に直接、電報を打とうと言い出してね。かなり気合を入れて文章を書いて、石黒がそれを訳し電報を打ったこともあります。たぶんこれが功を奏したと思っているのですがね」

 三週間後、ついに神はソ連代表部の門を開けることに成功する。

 「二十一日目のことである。いつもの時間に、いつもの場所で、いつものとおりに顔を合わせたのだが、その日の受付氏の口元が徴かにゆるんでいるのを認めた。私はなにかしらの変化を予測したが、ことばのやりとりは、いつものテープ・レコーダーであった。私は期待をかけただけに、いささか落胆して戻ろうとすると、このとき受付氏は一言だけつけ足した。「本人でなくてもよろしいですか」「いいですとも!」
 私は、そのとき初めて、笑顔をかえした。
 「パヂャルスター」受付氏はロシヤ語でいった。すると年増のロシヤ婦人が現われて、私を奥に案内した。三週間も通いつめて、初めて鉄のカーテンの一角へ足を踏み入れたわけである。ふと、ドン・コザックの資金のことで銀行の麹町支店に通ったことが思い出された。」(『幻談義』より)

鉄のカーテンの向こう

 神が案内されたのは、中央の壁にレーニンの肖像画が掲げられた大きな部屋だった。まもなく二人のロシヤ人が入ってくる。一人は六十年輩の赤ら顔の大男、もう一人は髭をたくわえた小男であった。小男は通訳であった。彼は流暢な日本語で大男を紹介した。この大男が、ソ連代表部の首席ドムニツキーだった。文化担当官ではなく、いきなり責任者が現れたことに神は驚く、しかも彼は前置きもなく、「あなたは、どういう交流を望んでいるのですか」といきなり質問してきた。
 こんな質問がすぐにくるとは予測していなかった神は、咄嗟に答えが出ない。しかし、この時彼の希望がソ連本国から代表部に伝えられていたことだけは、理解できた。三週間毎日のように受付のおばさんには面会していたが、一度も要件を伝えていなかったのに、この質問である。ミコヤン副首相とモロトフ外相に送った手紙に、ソ連の芸術を日本に紹介したいと書いてあったのだ。ドムニツキーの質問は、この手紙の内容を踏まえてのものであった。

 「彼は聞きたいだけのことを聞き終えると、そのまま席を立った。それはまるで入社の面接試験を受けているような場面であった。帰りの車のなかで私は、きょうの「面接」の結果を彼はどのように本国に報告するかはわからない、だが、どうやら私は「幻」を呼ぶことになるだろうという直感が閃いていた。」(『幻談義』)

 この時ソ連と日本の間にあった厚い鉄のカーテンが、まだ34歳の青年の手によって、開けられようとしていたのだ。
 おりしも終戦後の日本を牛耳っていた宰相吉田茂と激しく対立していた鳩山一郎が首相の座を射止め、中ソとの国交樹立をスローガンにしていた時でもあった。時は、神に味方したのである。というか神が、目敏くこのチャンスに乗じ、一気呵成に勝負に出たといっていいかもしれない。

日ソ国交樹立の影で

 一九五四年一二月吉田内閣の総辞職を受けて、新首相に就任した日本民主党総裁鳩山一郎は、翌年一月記者会見で、憲法改正による再軍備と、日ソ国交回復に積極的に取り組むことを、施政方針とすることを明らかにした。吉田茂がとった対米一辺倒からの脱却をはかったこの施策は、国民からも大きな支持を得ることになる。
 神と面会したドムニツキイが、この声明を受けて、早速鳩山に日ソ国交正常化に関するソ連側の文書を正式に手わたしたことにより、日ソ国交回復の動きは、急速に現実的なものとなる。
 そして一九五五年七月三日、ロンドンで日ソ関係正常化のための交渉が開始される。しかし領土問題や、シベリア抑留兵帰還の問題をめぐって、交渉は暗礁にのりあげ、一時中断された。
 この年の十一月自由党と民主党の保守政党が合同、自由民主党が結成され、初代総裁に選出された鳩山は、国内での政争にカタをつけ、いよいよ政治家として最後の懸案事項ともいえる日ソ国交回復交渉に、再び乗り出すことになる。
 一九五六年一月、ロンドンで前年九月から中断していた日ソ交渉が開始された。ソ連ではおなじころ、新書記長フルシチョフが、スターリン批判を始めていた。
 鳩山は、四月農相河野一郎を日ソ漁業交渉のためにモスクワに派遣する。漁業界の支持をバックに日ソ国交回復の交渉をもくろんでいた鳩山の意を受けた河野は、五月に日ソ漁業条約を締結するところまで、こぎつける。
 そして神が狸穴のソ連代表部を初めて訪れた六日後の七月三一日、重光葵外相がモスクワに向かい、日ソ交渉を再開する。しかしこの交渉もソ連側が提案してきた領土案で紛糾し、一時中断を余儀なくされた。
 鳩山は、領土問題を棚上げしたかたちで、再度交渉を継続するために、九月一一日ソ連首相ブルガーニンに、戦争状態の終結宣言、大使級の外交公館の相互開設、抑留者の即時送還、一九五六年五月一四日の漁業条約の発効、日本の国連加盟要請のソ連による支持を提案して決着をはかる。これを受けてソ連政府は九月一三日付の返書で、鳩山の提案どおり、国交正常化交渉を再開する用意があることを確認した。
 こうして国交回復の正式交渉のため、鳩山首相の十月訪ソが決定した。
 この訪ソ団のホステス役として、日本バレエの生みの親として知られていたバレエ界の大御所服部千恵子が、随行することを、東京新聞の記者から聞き出した神は、彼女にメッセージを託すことを思いつく。
 彼女はウラジオストックにしばらくいたので、ロシア語もできた。
 神は、服部に「ボリショイバレエ団を日本に呼びたい、直接モロトフ外相に、この旨伝えてもらいたい」と頼み込んだ。
 メッセージを託す相手がバレエ界の大御所、レニングラードフィルのことは忘れ、もうひとつのソ連の至宝ボリショイバレエを呼ぼう、神は素早く作戦を変更していた。
 すでに松竹、NHKなどの大手が、ボリショイバレエ招聘に動いてことを知っていた。この時神にとって大事なことは、何を呼ぶかということではなく、ソ連という鉄のカーテンの向こうから、「幻」を呼ぶことであった。
 十月七日モスクワに出発した鳩山を団長とする代表団は、フルシチョフ書記長、ブルガーニン首相と、十月一三日から一九日まで交渉を行い、最終日にソ・日共同宣言が調印され、出来るだけ早い時期に貿易協定締結交渉に入ること、平和条約締結交渉を継続することで合意をみた。十月十九日、日ソ国交回復に関する共同声明に両国は調印した。
 帰国した服部から、宴会の最中に抜け出し、ソ連の幹部と会い、手紙を渡したこと、またモロトフ外相、フルシチョフ首相に直接ボリショイバレエを日本に派遣するようにお願いしたこと、さらに彼女が「ロシア人は、女性の頼みを聞き入れないような固い石頭ではない」と言うのを聞いて、間違いなくこれは来るぞという確かな手応えを、神は感じていた。
 ボリショイバレエが来日した時、レベシンスカヤを囲んで日ソのバレリーナたちが集まった座談会の席で、服部は「こんどのボリショイバレエ一行の来日も、口ききは服部さんがされたんですか」という質問に対して「ええ。わたしが昨年鳩山首相一行と御一緒にモスクワへ参りました時、お話をつけたのです」と答えている。
 服部をミッションとした神の作戦は見事に功を奏した。しかしその前に、伏線として手紙をしつこく出し、電報まで打ち、そして代表部へ日参した神の行動力が、ソ連首脳部を動かしたことはまちがいないだろう。
 木原の話によると、対日工作の中心人物コワレンコが、神に「青年突撃隊」になりませんかと、さかんにアプローチしてきたという。コネを使わずに、正攻法で懐に飛び込んでくる、しかもまだ若い神のやりかたに、ソ連は関心を持ったのだ。
 十二月、AFAにボリショイバレエのプリマドンナのレベシンスカヤから一通のクリスマスカードが届く。
 「燕が飛ぶころに日本でお会いできるはずです」
 このカードを手にして、神も石黒も木原も有頂天になり、祝杯をあげた。「幻」が一歩近づいたのだ。

 まもなくソ連文化省から、一通の契約書が送られてくる。
 しかしそこには、ボリショイバレエではなく、誰も聞いたことがない、ひとりのバイオリニストの名前が書いてあった。イーゴリ・ベスロードヌイと言う。
 もしかしたらその時石黒は、その名前を見て思わず苦笑いしたのではないだろうか。
 ベスロードヌイを日本語に訳すと、故郷喪失者。コスモポリタンの集団AFAにとっては、ふさわしいパートナーであったかもしれない。

ソ連のテスト

 威勢のいい若者の実力を試そう、それがこの無名のバイオリニスト派遣の裏にあったソ連側の真意である。これは神も石黒も、木原も充分にわかっていた。準備期間はあまりないが、儲けは二の次、まずは会場を満員にし、いい公演にし、アーティストに満足してもらう、そしてソ連側に自分があたりまえの興行師ではないことをアピールしなくてはならない。
 神は、この時も東京や大阪だけでなく、横浜、静岡、松本、札幌、函館、仙台、八幡など地方都市で公演をすることを決める。名の知れたドン・コサック合唱団と違って、まだ27歳の、しかも無名のバイオリニストの公演を全国で18回やるというのは、暴挙といっていいだろう。しかしこれは公演回数を多くすることによって、出演料を少なくし、しかも大都市だけでなく、地方都市でもソ連の芸術を紹介するという大義名分をつくることにもなる。神らしいやりかたであった。
 ドン・コサック合唱団のこともあったので、地方公演もひとまかせにせず、それぞれ担当を決めて、自分たちで運営することにした。九州地区を担当した木原が忘れられないのは、松本を担当していた将軍こと岩崎が、『我満員の感あり』という電報を送ってきたことだという。
 木原、石黒の入社によって、AFA創立メンバーで、ドン・コサックを呼んだ中心メンバーのひとりだった岩崎の影は日に日に薄くなっていた。それは彼自身が一番よくわかっていた。この電報は、そんな岩崎なりの、俺もまだいるぜというメッセージだったのかもしれない。
 当時立派な会場は地方にはなく、体育館や映画館などを借りながらやった公演だったが、ベズロードヌイも、まだ若手、そんなことに文句も一切言わず、自分のもっている力を精一杯発揮してくれた。
 大阪は、宝塚劇場で公演したのだが、ここのオーナーでソ連嫌いの小林一三がソ連のアーティストのために小屋を貸したと当時は、大きな話題となった。しかしあまり客が入らず、舞台に立ったら客がいないとベズロードヌイが、また袖に戻ってくるという一幕もあった。
 AFAの招聘したアーティストのなかでは、そんな大物ではない彼のことを、木原も、竹中も、いまでも懐かしそうに思い出している。陽気で人なつこい性格だったのだろう。若手バイオリニストとして将来を嘱望されていたベズロードヌイだったが、日本公演のあと、交通事故に遇い、芸術家として大成することなく消えてしまったという。
 一九五七年(昭和32)三月一日の東京・産経ホールを皮きりにベズロードヌイの公演がスタートしたのを受けたかのように、三月ソ連の対外文化担当責任者である国際文化交流局長ステパーノフが来日する。ステパーノフは、神と会談、ドル箱といわれたソ連の三つの財産、ボリショイバレエ、レニングラードフィル、ボリショイサーカスの招聘を神に託すことを決め、議定書にサインした。
 ソ連のテストに神は受かったのだ。
 そしてその二ヵ月後五月四日モスクワ発共同通信は「ソ連政府は、ソ連大劇場(ボリショイ)バレー団が八月から一ヵ月、東京と大阪で公演することを発表。一行はレベシンスカヤ、チホルノワ女史も参加する」(五月六日付け新聞)と報じた。
 神は、鉄の扉をこじ開けて、「幻」を手にしたのだ。
 神が「赤い呼び屋」という名前で呼ばれるのは、「ボリショイバレエ」が来日してからであった。そしてこのあと神彰は「赤い奇跡」を呼び起こすことになる。


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