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『神彰−幻を追った男』

第四部 驚異の素人集団「アートフレンド」
 第九章 俺はディアギレフになる その2

プラハの街角で
チェコサーカスの悲劇

プラハの街角で

 ボリショイバレエを呼び、ボリショイサーカスを成功させた神が次に見た幻、それは東欧のチェコのアートを紹介することだった。コスモポリタン神彰を誘う何かがチェコにあったのだろう。
 ボリショイバレエ、レニグラードフィルを呼んだあとの神の大きなターゲットのひとつは、ドボルザークやスメタナを生んだ国が世界に誇る交響楽団、国立チェコフィルハーモニーオーケストラ(以下チェコフィル)を日本に呼ぶことだった。木原は神が「軍靴を打ち消し、はね返すのが音楽なんだ、だからチェコの本物が演奏するドボルザークやスメタナを聞かせたい」と何度となく語っているのを聞いている。
 1958年11月来日していたチェコ・コンサート公団連盟代表ジドコ代表と神の間で、115名編成のチェコフィルが来年10月日本で公演する正式契約が交わされた。
 この契約締結のあと、神と石黒はヨーロッパに出張に出かけているが、パリ、ロンドン、ウィーンと回ったあと、プラハも訪れている。大きな目的は、日本公演の曲目とメンバーを固め、公演プログラムを決めることだった。
 パリから、神は木原にチェコフィルに関して、次のような指示を出している。

「〇NHKから確実な返事がない旨電報を受け取りました。
 〇打ち合わせスケジュールで会場を各地共確保しましよう。
 特に大阪フェステバルホールは半金を入れて予約証文を受け取って置いて下さい。
 〇読売新聞社と共催の線で直ちに交渉お願います。しかしNHKを断らないで置いて下さい。
〇名古屋の件
 中日新聞社が先に話があったのだし、事業部長、課長そろって事務所へ来たのだから先ず中日新聞社へ条件を提示してOKなら中日に決めましょう。名古屋公演は売り方針。
 1、条件 ギャラ 300万−最低250万
 1、大阪−名古屋運賃
 1、一泊ホテル、食事持ち
 1、自動車、バス持ち
 中日新聞はオーケストラとポコルナ抱き合わせ承知と云っていた
〇ポコルナはスケジュールを早く組まぬと間に合わぬ。
 3月28日に東京へ来てもらう様に話す
 4月2日位に初演を考えられたい。東京を先ずきめる事。これがスケジュールの先決です。東京交響楽団橋本氏に2回位出演する様話しています故。プラグからコンチェルトの曲名をしらすから契約をして下さい。
         一三日午後二時半  paris jin」
「〇老婆心を以てNHKの牧氏に17日プラグに入るからそれまでに決定して欲しい旨手紙を出して置きました故、最終的に連絡してみて下さい。」

 いままで新聞社と組んで公演してきた神だったが、チェコフィルについてはNHKを、名古屋公演は中日新聞を主催に考えていたようだ。
 クリスマスを間近に控えた12月18日神と石黒はプラハに入り、プログラムを決定した。

「1、チェッココンサート連盟ディレクトルSTEJSKAL氏及びアンチエル氏と共に同封曲目を決定した。
2、曲目は外部へ絶対に秘密にして欲しい。NHKが契約を決定するならばそのかぎりにあらざるも、慎重を要す。
3、10月19日東京初演日比谷を手配されたい、その他の全会場を速やかに予約されたい。
4、ミルカ・ポコルナのスケジュルを速やかに決定すること。
5、現在チェッコサーカスの招聘を協議している有望である。

この手紙を書いているのはプラグの19日夜11時ですが東京は20日朝7時です。バレエーの公演を明日にひかえて忙しい事と思う。成績が心配です。
パリで40%の電報を受け取ったきりですから
ソ連側のビザがまだ下りていないのでモスクワへ電話をしたい、文化省では指示を出したとの事、外務省関係でじゃましているのではあるまいか?
とにかくここの大使館で電報で問い合わせとの事なり。19日夜
                     JIN」

 幻想的なプラハの街は神に深い印象を残すことになる。
 アートタイムス創刊号に掲載された「霧・財産・石たたみ−ヨーロッパ芸術風土記」と題されたエッセイで、古都プラハの街を訪れた時のことを振りかえりながら、神は次のように書く。

「ヨーロッパの中心に位置して、それは多くの小民族がたどらねばならなかった苦難の過去を横たえている。
 郊外には古城をのこし、首都プラハは石だたみの美しい街だ。しかし、この石だたみはいくどか流された血をすいとっている。街のいたるところに芸術的にもすばらしい迫力をもつ彫像があり、われわれはふと中世紀にいる錯覚におそわれる」

 プラハの石畳を歩くうちに、神の中でチェコのイメージがだんだんとふくらんでいったのかもしれない。木原に宛てた手紙で、神はこう書いている。

「木原兄
チェッコと日本の合作映画をつくろう。プラグの街はロマン的だ。
フィルハーモニーの日本公演をとらへて映画をつくろう。
   23日AM10     JIN」

 神は、当初は予定に入っていなかったサーカスまで呼ぶ契約を交わすことになる。木原は電話が来て、「チェコのサーカスをやるから、国技館を押さえておけって言われてびっくりした」と思い起こしている。

 翌年1959年はAFAにとってチェコのための一年となった。
 4月には女流ピアニスト、ミルカ・ポコルナの公演、7月にチェコ国立大サーカス、そして10月にはチェコフィルと、チェコものの公演が続いた。

チェコサーカスの悲劇

 熊のサーカスで大評判をとった前年のボリショイサーカスと比べて、今回のチェコサーカスの陣容は地味で、華やかさに欠けていた。メインの芸は、十四頭の馬からなる曲馬ショーだった。団長もつとめるシュプカが指揮する、スペイン馬術、ウィーン馬術、大曲馬と三つの馬のショーがプログラムに組み込まれていた。ヨーロッパで曲馬はサーカスの花形なのだが、日本ではなじみも薄く、やはり熊とか象といった動物ショーの方が好まれていた。
 曲馬だけでは客は呼べないことは、神も薄々気づいていたようだ。彼は天井にカレイドスコープを映し出すという方法をとり入れ、総合演出家として、映画監督のリピスキーを抜擢した。リピスキーが考案した巨大なプラタススコープによる映画とサーカスのドッキングを目玉にし、大々的に「プラネタシステム・サーカス」と銘打った宣伝が出回ることになる。
 「世界最初のプラネタスコープ方式映画やパースペクティブHIFI音楽装置による近代的かつ巨大な総合公演形式等において、昨年私たちを驚倒させたボリショイサーカスをしのぐものです。・・・まさに宇宙時代にふさわしい科学と芸術の結婚による一大饗宴といえるでしょう」
 映像をつかい、照明・音響効果を生かす演出方法で、サーカスを見せようという神のアイディアは、斬新である。サーカスを総合芸術として見せようとしたことは、いま世界を席巻しているカナダのサーカス団『シルク・ドゥ・ソレイユ』の演出方法と、あい通じるものがある。サーカスを一大スペクタクルとして見せるために、音楽や照明を駆使しながら、綿密に構成したステージをつくり成功している『シルク・ドゥ・ソレイユ』のやりかたを、神は三十年以上前にやろうとしていたのである。たいした先見の明なのだが、あまりにも早すぎたというべきであろう。曲馬をメインにし、映像をつかった、新しい演出のサーカスという切り口は、いかにも大人向けであり、これでは子どもたちを呼ぶことはできない。一年前ボリショイサーカスが大成功したのは、家族連れが押しかけてきたこと、そして口コミの効果だった。子どもが動かなければ家族も来ない、そして内容的にも「プラネタシステム・サーカス」は話題としては、熊の自転車乗りとくらべてインパクトが弱すぎた。暗転がきくとは思えない体育館での公演で、映像もぼけてしまい、たいした演出効果を生み出すことができなかったろう。

 東京公演は蔵前国技館で7月1日から8月12日という一ヶ月以上のロングランとなった。一昨年前のボリショイサーカスの成功が頭をよぎっていたのだろう。サーカスだったらまた客が来るはずだ、二匹目のドジョウを狙っていたこの目論見は見事に外れてしまう。ボリショイの時は、日が経つ毎に客足が伸びたのだが、今回は日が経つにつれて客が減っている。口コミもきかず、宣伝も思うような効果をあげなかった。およそ半分ぐらいの集客に終わった、明らかな失敗公演となった。
 このあと福岡(8月18日〜30日)、大阪(9月4日〜17日)、名古屋(9月20日−25日)と巡業するが、どこもいい数字をあげることはできなかった。
 この年9月の週刊現代はコラム欄で「苦境にたつ神彰−儲けそこなった民間文化大使」と、ボリショイサーカス・バレエとヒット作が続き、興行界を震撼させた神彰がいま苦境にたっているという記事を掲載している。

 「その直接的な原因は、この夏にチェコから招いたサーカス団が、まったく予想に反して約五割程度の観客動員しかできなかったことにある。
 先年のボリショイ劇場サーカス団のバカ当たりから、こんどのチェコ・サーカス団も悪くて八割という予想がたてられていたのが、まったくハズれて五割程度しか入らなかった。」

 さらに追い打ちをかけるような、最後に不幸な出来事が待ち構えていた。こればかりは不可抗力としかいいようのないことだった。
 名古屋公演の最終日、5101名の死亡行方不明者をだした伊勢湾台風が直撃したのだ。港の倉庫に置いてあった道具や衣装などは全部海水に浸かってしまった。いくら台風とはいえ、被害をうけた衣装道具の損害を誰が負うのかで、チェコ側と係争が起こる。
 この係争の矢面にたたされた石黒は、哈爾浜学院史のなかで「工藤精一郎君と二人でチェコスロバキア文化大臣に不可抗力であった旨の説明の手紙を徹夜で作成して送り、やっと事態を収めたが、後味はまことに良くなかった」と書いているが、戦後最大といってもいい被害をもたらした伊勢湾台風と正面で遭遇するとは、不運としかいいようがない。

 この台風が去って一カ月もしないうちに、チェコフィルのメンバー117名が来日する。レニングラードフィルに匹敵する人気も実力もあったチェコフィルの初来日であったが、彼らもまたタイミングが悪いときに来日してしまった。日本では彼ら以上に有名であったカラヤン指揮ウィーンフィルが同じ時期に来日公演をしていたのである。
 一年前のボリショイバレエ、ボリショイサーカスと立て続けに興業を当てたAFAであったが、この年はチェコフィル以外は赤字という結果に終わる。
 この埋め合わせは来年1月やって来るイブ・モンタンがなんとかしてくれるにちがいない、AFAの社員はみんなそう思っていた。


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