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『神彰−幻を追った男』

第四部 驚異の素人集団「アートフレンド」
 第十章 世界の恋人は来なかった

世界の恋人がやって来る
公演演延期から公演中止へ

世界の恋人がやって来る

 1959年2月に出た『アートタイムス』創刊号で、AFAの本年のスケジュールとして、4月ミルカ・ポコルナ(チェコ、ピアノ)、10月チェコフィル、11月リタ・シュトライヒ(ドイツ、ソプラノ)が紹介されているが、そのあとで「もちろん以上は本年度スケジュールの一端です。色々の関係で公表をひかえておりますが、すでに決定している公演事業は、その発表にともなって本年最大のセンセーションをまきおこすことを確信しています。次号あたりで予告するつもりです。御期待下さい」と思わせぶりなコメントがついている。
 そして翌月『アートタイムス』で、シャンソン界のトップスター、人気絶頂にあったイブ・モンタンの60年1月来日公演が正式に発表された。公演会場も日程も入場料金についての情報もなにもなく、ただ「唄う太陽イブ・モンタン<来年1月来演>」と一行の紹介文と、モンタンの歌う写真がのせられているだけだ。これだけで世間はアッといったのである。イブ・モンタン来日は、日本中に大きなセンセーションを巻き起こすことになった。
 神彰にしても、AFAにしても久々の大型企画であった。当時モンタンは呼び屋の業界では、日本に呼びたいアーティストのナンバーワンであった。すでに東宝の菊田一夫が新宿コマ劇場のこけら落とし公演のため、水面下で招聘を画策したことがあったし、興行界の大立者の一人、日新プロモーションの永田も交渉したが、いずれも成功しなかった。
 「めぼしいところは、みんなきてしまった。クラッシック畑では、ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団だが、ポピュラーの大物は、なんといってもイブ・モンタンだ。大入り間違いなしは、この二つだけだ」(週刊現代1959年3月24日号)と業界で言われていたビック・アーティストだったのだ。
 週刊誌などで神が、イブ・モンタンを呼ぶために1日1回135万フラン(日本円で当時およそ100万円)という多額の報酬を支払う契約を結んだと騒がれた。
 神自身はこれを否定しているが、絶対に当たるものに彼が投資しないわけがない。相当な報酬を支払うことを約束したことは間違いない。入場料が当時としては破格の3000円だったことからもそれがうかがえる。
 後日発表された社告(読売新聞社主催)を見て、公演を楽しみにしていた人々は、その入場券の高さに驚いてしまう。

 「1月20日(水)−24日(日)午後六時半開演
  会場 松竹セントラル劇場
  特別席 3000円,A 2500円,B 2000円,C 1500円,D 500円」

 あのボリショイバレエでさえ、またそのあと来日したイタリア歌劇団でさえ、一番高い席が2500円だったことを思うと、1時間半で約20曲を歌うステージでこの3000円という入場料は破格の高さだった。しかし12月10日にプレイガイドで発売されると、30分もかからないで売り切れてしまうのである。おりしも日本で彼のモスクワ公演の記録映画『シャンソン・ド・パリ』が公開され、レコードで聞くだけでなく、演じるモンタンの魅力に人気が沸騰していた時だった。
 しかも神は、さらに巧妙にこの売り出しを演出していた。一般の売り出しにさきがけ、AFAはアートフレンドの会会員を対象に先行予約を受け付けていた。2500円以上の券に関しては、会員に限り特に三ヶ月の月賦払いとするという、当時としては画期的な販売方法を打ち出していたのだ。いまはカードでクレジットで入場券を買うことは当たり前のことになっているが、30年以上もまえにファンクラブ会員への先行販売、さらには入場券の月賦販売を思いつくところに、神彰とAFAという集団のユニークさがあった。
 会員に大量に入場券を売りさばいたあとで、プレイガイドに割りつけられていた券はほんの僅かしか残っていなかった。30分で売り切れたのは当然のことだった。
 すかさず神は、新宿コマ劇場での追加公演を発表する。

 「モンタンの切符発売に際しましては、混乱を来たし大変御迷惑をお掛けしましたことを深くお詫びします。早速アメリカのイヴ・モンタンと電話連絡をし続演を決定致しました。切符は都内プレイガイドで只今発売していおりますから、どうぞお買い求め下さい」

 共同主催をする読売新聞に1959年12月末にこんな広告が掲載される。もちろん急遽決まったのではなく、はじめから決まっていたことである。切符がないと煽りたて、早く買わないと手に入らないというムードをつくりあげたのである。神一流の見事な演出である。そしてこれが功を奏し、追加公演の切符もすぐに売り切れとなった。
 木原はよくいくバーでなんとか入場券は手に入らないのと何度も聞かれたという。
 ここまでは神の戦略が見事に成功していた。イブ・モンタン日本公演は、60年の年頭を飾る最大の話題として週刊誌がこぞってとりあげることになる。
 しかし大きな落とし穴が待っていた。モンタンが突然アメリカで映画を撮りたいので1月は来日できないと言ってきたのだ。20世紀FOX映画が、モンタンに対し、ジョージ・キューカー監督「恋をしましょう」へ主演しないかとプロポーズしてきた。この映画に出演するために、日本公演をキャンセルするしかないというのだ。
 神はこの知らせを聞いて「またアメリカ映画か」と舌打ちしたに違いない、そしていやな予感に囚われはずだ。

公演演延期から公演中止へ

 二年前の1958年1月神は、ジャクリーヌ・フランソワとアンリ・テーゲルのシャンソンリサイタルの公演を行っているが、当初はジュリエット・グレコが出演する予定で、契約も交わしていた。ところが20世紀FOX映画のプロデューサー、ザナックと恋に落ちたグレコは、彼が制作する映画に出演したいので、キャンセルしたいと言い出したのだ。そのため神は急遽、出演者をふたりに替えて公演せざるを得なかった。神にとってはそんな苦い思いがあっただけに、アメリカ映画、しかもFOX映画と知って、内心穏やかではなかった。
 「アートタイムス」11号(1960年2月発行)には、モンタンの「親しい日本のみなさん」という書簡が掲載されている。その中で彼はこう弁明している。

 「私の仲間であり尊敬する芸術家アーサー・ミラーの原作で、ジョージ・キューカー監督映画に、マリリン・モンローと一緒に主演するというチャンスが私に与えられました。それは俳優としての私が、どうしてものがすことができない又とないチャンスなのです。 私は芸術家として、辛抱づよく歩いてきて、そろそろもう二十年になります。私のこの芸術家としての生涯に対し、自分でこの映画出演を拒否する権利を持ちませんでした」

 契約を交わしているのに、ずいぶんと勝手な理由からの延期申し出であるが、すでに売り出した切符は完売、なんとかしなくてはならなかった。
 神と主催の読売新聞社は、公演を映画撮影が終わる5月に延期することを決定する。
 1960年1月10日の読売新聞に、アメリカで開かれたイブ・モンタンの記者会見の記事が掲載されている。一部に映画出演の報酬が日本公演よりも良かったから、延期したというニュースが流れていたので、モンタンとしても事情を説明する必要があった。ここでモンタンは「映画撮影が終わり次第日本へ飛び立ち一日も早く日本の皆さんにお目にかかりたいと思う。訪日延期により皆さんに大変めいわくをかけたので、大衆公演に特別出演する。もちろんこれは契約外の公演である」と謝罪し、お詫びのしるしに、安い料金での公演を約束している。
 これでこの延期事件はかたがついたかに見えた。実際この一カ月後には、モンタンの舞台マネージャーが、公演会場に予定されていた松竹セントラルと新宿コマ劇場の下見のためにわざわざ来日していた。準備は着々と進んでいたように見えた。
 しかし神は、グレコのことがあるだけにいやな予感がしていたはずである。なんどもモンタンに手紙や電報を出したり、電話をしながら、モンタンの動向をチェックしていた。 公演延期が決まったあと、一月十一日の手紙でモンタンは「絶対に私を信頼して下さい。以前、日本へ行かなかった芸術家がいたそうですが、そんなことはないことを、どうか信じて下さい」と書いてよこしたのだが、まもなくいやな噂が届く。ハリウッドで俳優ユニオンがストライキをおこしたというのだ。撮影は大幅に遅れることになる。
 再度神はモンタンに確認の電報を打つ。
 四月九日モンタンから「ストライキは終わった。フォックス映画に対し、どんな遅くとも、五月十一日に終わるように通告した。日本に直行する。友情をもって」とすぐに電報が来た。さらにモンタンの妻で女優のシューヌ・シニョレ(この年アカデミー主演女優賞を受賞している)が、「夫は現在ハリウッドにいるが、約一カ月以内に公演のために日本に行くことになっている」と語っているのを、パリで取材した記者が、四月十一日の読売新聞で伝えている。来日するはずだと誰もが思っていた。
 しかし来日まで二週間ほどに迫っていた時、ハリウッドでモンタンと会ったというサンケイ新聞の記者が、「日本に行けなくなりそうだ」と語ったという話が、神の耳に入る。あわてた神は、この日記者が聞いた話の真偽を確かめるため夜中の3時にマネージャーに電話を入れ「五月十四日には来日してくれないと困る」と念を押した。
 四月二十八日、AFAにモンタンから長文の電報が届く。

 「映画は終わらない。われわれは一日14時間も、ときには15時間も働いている。約束の期日まで日本へ行くことは不可能。貴国で私の評判が、非常に悪くなることは知っている。しかし、私になにができるだろうか。私は五週間つづいた俳優ストライキに何の責任もない。私が、たいへん悲しいとあなたに言っても、今はもうムダだろう」

 モンタン側は妥協案として、再度二週間の延期を提案してきたが、主催の読売新聞社にとっては、一度延期をしているだけにとてもこれを受け入れることはできなかった。実際に会場も空いていなかった。この日神と読売側で話し合いが行われ、公演の中止が決定された。
 翌四月二十九日の朝刊に、「イブ・モンタンの来日中止」と「皆さまにおわび−前売り券は払い戻します」のふたつの記事が社会面に大きく掲載される。
 「イブ・モンタンの来日公演が不可能になった。直接の原因は全米映画ストだ。モンタンは『私のシャンソンに大きな期待を寄せてくれた日本のファンを裏切ることになってしまい、まったく申し訳ない』とほとんど神経衰弱のようになっている」と、アメリカでモンタンを取材したロサンゼルス通信員が報じ、主催者を代表して読売新聞の副社長の「モンタンも五月十一日までに来日できるようにフォックス社に通告し、公演準備を進めてきたが二十八日の電報で来日をさらに二週間延期してくれといってきた。モンタン側にはわれわれの努力を懇切に説明したが、このような結果になって申し訳ない」とコメントを掲載している。
 ここには神のコメントも載っている。

 「公演中止となってまことに申しわけない。五月公演では公演日を一月のときと同じにするなどファンの期待にこたえるよう努力したが不本意な結果になってしまった。ファンになんとおわびしていいか・・・」

 延期したときに、公演をもっと遅くしておけばよかったかもしれないという、神の正直な胸のうちが吐露されている。
 翌日の読売新聞に、「悩み抜いた訪日断念」と題されたモンタンからのメッセージが社会面で紹介されている。ここでモンタンは、ストのために撮影が大幅に遅れたため、撮影を一時中断して、日本に行くことをフォックス側に相談したが、共演者のモンローも監督のキユーカーも、それではスケジュールの都合がつかないと言われ、映画出演をやめるか、日本公演を中止するかのふたつにひとつの判断を迫られた、しかも自分は、撮影中に歌を全然歌っていない、十分な稽古をしないで舞台に立つことは自分の良心が許さない、そのためになくなく日本公演を断念したのだと、弁明している。

 「私はいま日本のかたがたが私に対してどう考えているかわかります。しかし、私も日本を訪れることのために随分痛めつけられました。夜も眠れなかったこともしばしばあります。でも私はどうすることもできませんでした」

 こうモンタンは苦しかった胸をうちを明らかにしているが、言外にあくまでも自分も犠牲者であったことを主張している。しかし最大の犠牲者は、日本で彼の公演を楽しみに切符を買っていたファンであり、なによりもこの公演を準備していた神であった。眠れなかったのは、神だったはずだ。
 この世紀のキャンセル事件の直後雑誌『コウロン』に神は「その夜、ぼくは眠れなかった」と題したエッセイを発表している。
 この中でモンタンから来た電報を紹介しながら、彼はこう書いている。

 「彼がぼくへの手紙で暗示しているのは、三年前、来日を中止したジュリエット・グレコのことだ。ぼくは、苦しい思いをした。きしくも、同じフォックス映画出演でだ。彼も結局、アメリカ映画とドルの前に屈したのだろうか。ぼくはそう思いたくない。私的な、泣きごとめいた彼の電文は、それこそ、ぼくには「たいへん悲しい」ことだった。
 ぼくに何ができるだろうか。
 ぼくは何よりもまず、今日まで信じ、待ちつづけてもらったファンに、責任をもたなければならない。ぼくは芸術家でないが、芸術家以上に芸術とファンに責任を負わなければならぬプロモーターだ」

 私も経験あるが、公演のキャンセルにともなう仕事は、公演の準備よりも消耗するものだ。入場券の払い戻し、主催者へのお詫び、お客からの苦情への応対といった仕事もそうだが、収入が一切ないのに、入場券の払い戻しでさらに販売手数料のほかに払い戻し手数料をプレイガイドに支払わなければならない、会場へのキャンセル料、広告もぜんぶ無駄になるなど、経済的なダメージも大きい。しかも完売していた公演となると損害は甚大なものになる。
 しかしすぐに撤収をしなければならない。
 五月三日の読売新聞誌上で前売り入場券払い戻しの社告が掲載される。

 「僕はその時肺を患って病院に入院していたのです。神に呼ばれて、病院着のまま、会社へ行ったら、モンタンが来れなくなったと、てんやわんやの騒ぎになっているではないですか。しようがないから、そのまま病院に戻らないで、陣頭指揮をとって公演中止の処理にあたりました。この時医者が怒ってね。こんなことをしたら十年後に大病になると脅かされたもんです。ほんとうに十年後にたいへんな病気に罹ってしまうのですがね」

 このモンタン公演のために、「世界の恋人」という一世を風靡したキャッチコピーをつくった木原は、ふってわいたこの騒動のことをいまでも鮮明に覚えているという。
 半病人の身体でキャンセルの処理にあたっていた木原は、神が落ち込むどころか、猛然とファイトを燃やして闘おうしていたことが印象に残っているとも言う。

 「シャンソン歌手は俺には鬼門だといってましたね。グレコの時もモンタンの時もフォックス映画が絡んでいるのも、気に食わないようでしたね。アメリカ人め、というかショービズの裏を牛耳っているユダヤ人に対して、この野郎という感じだったね。
 それで賠償金をとって来るってアメリカへ出かけていったんです。ボクは無理だと思ってましたよ。そう簡単にユダヤ人相手に金などとれるわけないとね。ところが何日か後に電話が来て、金をふんだくったっていうんですよ。びっくりしたね。当時で何百万の金だったから、いまでいうと何千万になるんじゃないですか。実際に被った損害の何倍かをとりかえしたんだよ、神は。たいした奴ですよ。
 転んでもただじゃ転ばない、そこが神の凄いところだね」

 いかにも神らしい結末のつけかたであった。
 これは後日談であるが、イブ・モンタンは翌1961年1月11日に来日している。ステージにたつためではなく、アメリカ映画『マイ・ゲイシャ』の日本ロケに参加するためだった。前年の突然の公演キャンセルについてインタビューで聞かれたモンタンは、「私を待ってくれたファンの人たちには、百万ドル支払ってもおわびしきれない。おわびのしるしにこんどの映画の特別公開を行い、その収益を日本の福祉、厚生施設に寄付したい」としおらしいところを見せている。この時神がモンタンと会ったかどうかはわからない。しかし賠償金をとったことで、ふたりの間にあったことはすべて終わってしまった。
 イブ・モンタンで儲け損ねた神は、賠償金は手にしたものの、興業の恐さを思い知らされた。しかしまだまだこの年試練が続くのである。


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