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日本人の足跡−沢田豊

第7回

以下は産経新聞のHP、産経Webからの転載です。


【日本人の足跡】
平成 13年 (2001) 4月26日[木]


日本人の足跡(92) 沢田豊(1886−1957)7


サーカス芸人
【“故郷”で静かな終幕】
半世紀ぶり夢の館復活へ

 日本の敗戦を新京(現、長春)で迎えた沢田一家。新京の支配者は、めまぐるしく変わった。日本に宣戦布告したソ連軍、中国共産党八路軍、そして国民軍。そのたびに、街は混乱に陥った。

 「この街では、生きていけない。何とかしなくては…」

 沢田は、こう思ったに違いない。一九四六年七月、一家は天津に向かった。天津には当時、イギリスやアメリカの軍隊が駐留していた。ナイトクラブやパーティーに二男のマンフレッドら子供たちが出演し、わずかな日銭で生活をつないでいくことができた。

 このころ、沢田は長年の厳しいステージが影響して、足先などの神経の感覚がなくなっていた。四八年末にはドイツへの“帰郷”を決めて上海に移り、翌四九年六月、沢田一家はキャプテン・マルコス号に乗船して四年ぶりにドイツに帰った。四八年五月に勃発したイスラエルの独立戦争でスエズ運河を経由できず、ケープタウン経由の約三カ月の大航海だった。

 〈二十世紀のオデュッセイヤ〉

 ドイツを追われた沢田一家が、ドイツから中国までの往復を強いられた四万キロの旅を、ドイツの『グリューネ・ブラット』紙は、大々的に取り上げた。トロイ戦争で、十年間放浪して故郷へ帰った古代ギリシャの物語を描いたホメロス作とされる大叙事詩オデュッセイヤになぞらえて報じたのだった。

 大学の町で知られるドイツ中央部に位置するゲッティンゲンが、沢田が晩年を送った街となった。長女のタニコたちが、平穏な生活を送れるよう、小さな家を購入した。沢田は余生を、日本にいる親せきとの文通に費やすようになった。

晩年の沢田 〈ご迷惑でなかったらお願いがあるのですが、それは日本の講談本で振りがついたものがありましたらお送りいただけないでしょうか〉

 〈今病気で退屈なので荒木又エ門の外に水戸黄門でも送っていただければ、有り難いと存じます〉

 姪(めい)の須藤晁代(あきよ)さんとの手紙のやり取りが、しばらく続いた。子供たちの訪問を楽しみにする、静かな老後の生活に入った。

 一九五七年九月三日、沢田は発作をおこして椅子(いす)から転げ落ち、意識不明になった。妻のアグネスが三女ルイーザと沢田をベッドに運んだ。しばらくすると、沢田の目はゆっくりと開いた。そして最後の言葉を残した。

 「アウフ・ヴィーダーゼーン(さようなら)」

 戦争に翻弄(ほんろう)され続けた生涯が、静かに幕を閉じた。

タニコさん(ラッパーズビル) タニコさんは今もなお、現役のサーカスマン(ウーマン)だ。七〇年代から、スイスのサーカス「クニー・サーカス」に勤め、タニコさんの長女・アンゲリーナさん(六一)とスイス北部のラッパーズビルで暮らしている。

 二人は、けがで芸人生活を引退。タニコさんが団員の調整係、アンゲリーナさんはサーカスの司会・進行係を担当している。

 自宅を訪れた私に、タニコさんは現役当時の日本風の衣装を着てみせてくれた。そして沢田の写真やトロフィー、楯など、トップスターにふさわしい遺品を紹介してくれた。

 「芸の教えはとても厳しかったですが、それ以外は普通の父親でしたね。ただ、四人の女の子供のボーイフレンドのチェックは厳しかった。子供ができたら、家族でサーカスができなくなるということがあったのでしょうね」

「大日本帝国」のパスポートを今でも大切に持つタニコさん(ラッパーズビル) タニコさんにとって、沢田を知るクニー・サーカスの団員が、「すばらしい人だったね」と言ってくれるのが最高の誇りだという。

 「ユタカを紹介する当時の新聞や雑誌は私の宝物。サーカスをとりまく環境も大きく変わったことを父に報告してあげたいですね。そして、日本からあなたが訪れたことも…」

 タニコさんは、こう言って笑った。

 サラザニ・サーカスが本拠地としたドレスデンで、サーカス常設劇場「サラザニパレス」の復活が検討されている。一九四五年の空爆で失った“夢の館”が、半世紀ぶりに帰ってくることになりそうだ。

 ドレスデンで『サラザニ伝』の著者エルンスト・ギュンター氏から、私はこのニュースを聞かされた。ギュンター氏は言った。

 「施設があまりにも大きいので、州当局と交渉している最中です」

サラザニ・パレスの復活案 構想では、三つのショーが同時に開催できる三つのサーカスリンク▽ジェットコースターなどが並ぶ遊園地施設▽スクリーンが立体的に見える3Dプロジェクターを備えた映画館−などがある総合エンターテインメント施設で、総額八千万マルク(約四十八億円)の大プロジェクトとなっている。

 完成目標は、サラザニ・サーカスの創立百周年記念となる二〇〇二年の三月三十日。「インターナショナル」を掲げたサラザニ・サーカスのリバイバルを目指すため、スターだった沢田をはじめとする外国人アーティストを紹介する施設の設置も検討している。

 私は、エルベ川のほとりの建設計画地に立った。今はまだ、工場跡地が駐車場に使われ、人影も少ない殺風景な所だった。しかし、目を閉じると、目の前にはクローネ・サーカスで見た子供たちの満面に笑みが広がり、喝采(かっさい)の拍手が聞こえてきた。

 完成するころにまた、沢田を追ってドレスデンを訪れようと誓った。

 =おわり

 ≪年表≫

 1939(昭和14)第二次世界大戦勃発

 1945(昭和20)2月、ドレスデンへの大空襲で「サラザニパレス」が壊される

        6月、本国送還命令で満州へ

 1949(昭和24)3月、上海を出航し「キャプテン・マルコス」号でドイツへ

        12月、ゲッティンゲンで自宅購入

 1957(昭和32)9月3日、自宅で死去、71歳

 ≪あとがき≫ 十六歳という若さで、沢田豊はロシアに向かった。父の職業である医師への道を諦(あきら)めていたとはいえ、友人宅に身を寄せる程度の覚悟で家出し、日本を出ていった。沢田本人が数々の言葉を残した『日本新聞』の連載記事から、私はそんな印象を受けた。

 当時は、通信・交通網は発達しておらず、国内移動ですら大冒険の時代であったはずだ。そんな状況下で、海外への旅を何なく決意した背景に、私は興味を抱いた。

 外務省の外交史料館に残されている『外國旅券下付表』には、誰に旅券を発行したかが記録されている。その下付表に、多くの芸人の名が記されていた。みな、一獲千金を目指して、未知の世界に飛び込んでいったのだろう。

 だが、それだけではないような気がする。国内の情報すら十分知りえない時代だったからこそ、出国に躊躇(ちゅうちょ)しなかったのではないか。国外の暮らしが危険だったとしてもわからず、国内と国外の「境」は薄かったのだ。

 しかし皮肉なことに沢田は、日露戦争と二回の世界大戦という事態に次々と遭遇する。国家間の争いが、個人の絆(きずな)を引き裂く現実にどっぷりつかったのである。

 そんな苦難を味わいながら、コスモポリタンとして生きぬいた。そして、人間としての理想をサーカスに見いだしていった。さまざまな国籍を持つ芸人が、互いの文化を尊重し合いながら個と個の交流を深めていく。サーカスが必要とする多様性こそ、真の国際人に通じる道だったのである。

 (奈良支局 田伏 潤)


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