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【連載】長谷川 濬―彷徨える青鴉

第6回 再び、海へ−新生を賭けて

 1953年9月24日長谷川濬は、上野発の夜行列車「北斗号」にひとり乗りこむ。思えば、2年前紀州潮岬に旅したとき以来の汽車の旅であった。あの時と同じように、今度もまた海に向けての旅立ちであった。
 青森に着いたあと長谷川は青函連絡船に乗り、函館へ向かう。ここは彼が生まれ育った懐かしい故郷、およそ20年ぶりの里帰りであった。函館の知人の家に3日泊まったあと、小樽に行き、そしてここから9月30日第一汽船所有の大源丸に乗りこみ、一路サハリンをめざすことになる。
 このサハリンへの旅は、満を亡くしたのは、自分のせいだという思いに沈殿していた長谷川にとって、ひとつ転機となった。彼はこの航海で、生まれ変わる道を見つけることになるのだ。

 満の死後、長谷川の生活は当然のように荒れ、すさんだものになる。一家を養うために職探しに奔走するものの、何の仕事も見つからない、たまに憂さをまぎらすため酒を飲むと、満へのすまないという思いにとらわれてしまう。
 この時の日記のなかで彼はこんなことを書いている。

「酒をのめば、すまないと云う考えが頭のなかに、
一杯になって
寂しくなる。
死んだ満に対して
ほんとに
「すまない」と思っている。
哀れな父、
父になるべきでない男が
父になって
この失敗の泥んこの中で
にがい焼酎を呷って泣いている。
失業に就職した俺は
もう
失業者ではない。
固い夜具に寝そべって
百万円拾った空想に
目をつぶっていると
十時を打った。
何たるぐうたらの朝よ。
弱者の卑怯者!
子供さえ育てられない
哀れな俺のなきべそよ。
夜よ来い、不眠の夜よ!」

 生活に追われる日が続く、一家を支えているのはいまや妻の文江であった。長谷川は、ひとり家にぽつんと残され、どこへもぶつけようのない怒りと悲しみを、日記にぶつけるしかなかった。

「人々は金を持ちて
たのしきまとい
我には一銭もなく
きうりと塩と
外米の一椀
働かざるものの報いなり
職さがせど
口なく
ニコヨンの道さへもなく
炎天下に
水臭いきうりをかじり
一椀の飯に
明日の不安に戦う・・・
「働けど働けど
我がくらしらくにならざり」
ああ働く場なく
報いの鞭を受けて
空しき一日を送る・・」

 こんな時彼のもとに、ソ連から石炭を運ぶ船の通訳にならないかという話が舞い込む。
 船に乗れる、また大好きな海に行ける、魅惑的な話だった。彼には断る理由がなかった。しばらく使っていないロシア語が通じるかどうかという不安はあったのだが、彼は、この話に乗る。
 長谷川にとって、海は幼い時から、身近な存在であった。生まれ育った函館は、四方を海に囲まれた街、彼の家から、海が眺めおろせたし、夏になれば、時間が経つのも忘れて、立待岬のあたりで泳いだものだ。船員となってアメリカに渡った兄海太郎の影響もあり、20才の時には、船員となり、カムチャッカ航海にもでかけた。一生船乗りとして暮らすべく、そのままロシアに帰化することも考えた。さすがにこの時は両親が猛烈に反対して、諦めざるを得なかったのだが・・。カムチャッカから戻ってからも海での生活が忘れられず、伊豆に単身渡り、漁業会社で働いたりもした。
 母よりも大きな存在、自分をしっかりと受けとめてくれる海への旅立ちは、泥沼のようないまの生活から這い出すきっかけを与えてくれるかもしれなかった。
 長谷川は、再生への決意を秘めて、船に乗り込む。

 9月30日午後5時小樽を出航した船は、左舷に利尻を見ながら、一路北上を続ける。翌日海は時化、船は大きく揺れる、この揺れのため毛布が何度もずり落ち、眠れぬ一夜をすごす。10月2日晴れてきたが、風は相変わらず強く、蒼黒い海面は泡立ち、浪は船をもてあそぶ。陸影をまったく見ることができず、海が円盤のように船を取り囲んでいた。3日右舷にサハリン島が見えてくる。海は灰色、雪がちらついていた、ここはもう冬であった。遠く水平線の彼方にはシベリアの山々が望まれた。
 4日朝6時オクチャブリスカヤ沖に到着、海上は時化のため碇泊できず、やっと午後4時に投錨することができた。海岸には木造二階建の家屋が見えた、ここは学校らしく子供たちが遊んでいる姿が目に入った。石炭の山も見えた。それにしても、寒々とした風景であった。岸壁には高波が打ち上げていた。岸壁に停まる船のマストに赤旗がひるがえっている。8年ぶりで見る赤旗であった。
 沖で待機を余儀なくされたこの日、長谷川は、日記にこう書いている。

「混濁の都より逃れ、独り、韃靼の海に来れば
風浪激しく、我をもてあそび、安らう港さえなく
船は沖をさまよう
波立てる海面を見れば
我が生活の混沌乱脈無気力が
はっきり反省させられ
この極海の教えで
新生の我を見る
働くこと
自ら進んで
人々を愛すること
自分を愛する如く
自他一体の心で
世界を見ること」

 寒々とした韃靼の海こそが、いまの自分にはふさわしいところだったかもしれない、新生への道は、荒野からはじまる、そんな思いを胸にしていたのではないだろうか。
 5日朝、医者や国境監視官、その他役人幹部が船に乗りこんできた。いよいよ長谷川の仕事がはじまる。矢継ぎ早に検疫手続き、点呼、積み荷交渉の通訳をすることになる。

「久し振りのロシア語の会話を交わす。ロシア語使用は満州引揚げ以来八年振り」

最初は錆び付いたロシア語で大丈夫かという不安もあったが、ロシア人を相手に交渉するうちに、仕事をしているという実感がこみあげてきた。こんな手応えをもって仕事をするのは何年ぶりのことなのだろう。ロシア語を話しているうちに、仕事以外のことでもいろんな話がしたくなってくる。若いロシア人相手に、マルクス、エンゲルス、ゲルツェンを持ち出し、議論をふっかけたりもした。段々仕事が楽しくなってくる。船員仲間ともうちとけ、作業の合間にイカつりに興じ、釣った50匹のイカを刺身にして、酒を酌み交わすこともあった。
 作業が一段落すると、船室に戻り、俳句や詩を日記に書き綴った。どんどん詩が句がわき出てくるようだった。北の海は、彼を少しずつ変えようとしていた。
 石炭を積む作業をすべて終え、サハリンをあとにしたのは、16日の午後5時、長谷川は、文江にこんな電報を送っている。
「19日小樽着、元気 シュン」
 確かに長谷川は、このサハリン航海で、元気になった。
 大源丸が小樽に到着したのは、20日早朝であった。検疫を終えて上陸した長谷川は、近くの食堂に駆け込み、ビールと一緒に好物のビフテキとチーズ、そしてざるそばをたらふく食べたあと、すぐに汽車に乗り、東京に戻る。
 22日夜に帰宅した長谷川は、翌日第一汽船に赴き、初めての航海の報告をしたのち、報酬をもらう。封筒には、2万2千六百円が入っていた。

 東京に戻ってからもサハリン航海のことが頭とからだに染みついて離れることはなかった。
 この年の暮れ、日記に書いた断片である。

「我が瞳に沈む
サハリンの荒き山々
韃靼の潮騒は
幻の如く去来してやまず
抜錨の希望と冒険
投錨の快き安堵
すでに円窓空しく
我亦帰港の懈怠に
潮の匂いなつかしみつつ
舷側に寄れば
再び出港の期待に心踊らせつつ
海岸の魂を求めるやしきりなり
ああ港よ、安堵と快美の巣よ
我をまた放ち給え
あの大洋の潮たぎりたつ彼方へ
これ港の愛撫に満ちし掟ならん」

 これほどまでに長谷川を駆り立てた北への航海は、彼の望み通り、ずっと続くことになるのである。サハリン、そして沿海州への航海は、このあと彼の一家の生計を支え、そしてなによりも彼にとって生きる勇気を与えることになる。
 もうひとつこの航海は、長谷川にとって大きな意味をもつことになる。ここで彼は、終生の幻の友、失われたひとりの詩人と出会うことができたのである。

 10月14日テルノフスクへ立ち寄った長谷川は、右舷に見える沿海州の山々に目を凝らす。白い雪に覆われた山々を目にした時、彼の胸に、ある詩人の姿が蘇えってきた。

「沿海州の山は鈍く
寂寥たる海の彼方に
白き凸凹様を作り
銀色の海はたえず動揺して
しぶきを上げ
巨浪は走る
ああ、はてなく来る我が孤身
北風にさらされ
サハリンの肋骨の軋むそのあたり
逸見猶吉の立像をしのび
あの「報告」を誦する。」

サハリン・沿海州への航海で、長谷川にとって、もうひとりの青鴉、詩人「逸見猶吉」と再会することになったのだ。


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