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【連載】長谷川 濬―彷徨える青鴉

第7回 ウルトラマリンの底の方へ

 その時長谷川が、口ずさんだのは、「報告」と題された詩だった。

「ソノ時オレハ歩イテヰタ ソノ時
外套ハ枝二吊ラレテアツタカ 白樺ノジツニ白イ
ソレダケガケワシイ 冬ノマン中デ 野ツ原デ
ソレガ如何シタ ソレデ如何シタトオレハ吠エタ
《血ヲナガス北方 ココイラ グングン密度ノ深クナル
北方 ドコカラモ離レテ 荒掠タル ウルトラマリンノ底ノ方へ――》
暗クナリ暗クナツテ 黒イ頭巾カラ舌ヲダシテ
ヤタラ 羽搏イテヰル不明ノ顔々 ソレハ
目ニ見エナイ狂気カラ転落スル 鴉ト時間ト
アトハサガレンノ青腿メタ肋骨ト ソノ時オレハ
ヒドク凶ヤナ笑ヒデアツタラウ ソシテ 泥炭デアルカ
馬デアルカ 地面二掘ツクリ返サレルモノハ 君モシル
ワヅカニ一点ノ黒イモノダ
風ニハ沿海州ノ錆ビ蝕サル気配ガツヨク浸ミコンデ 野ツ原ノ涯ハ
監獄ダ
歪ンダ屋根ノ下ハ重ク 鉄柵ノ海ニホトンド何モ見エナイ
絡ンデル薪ノヤウナ手ト サラニソノ下ノ顔ト
大キナ苦痛ノ割レ目デアツタ 苦痛ニヤラレ
ヤガテハ霰トナル冷タイ風ニ晒サレテ
アラユル地点カラムザンナ標的ニサレタオレダ
アノ兇暴ナ羽搏キ ソレガ最後ノ幻覚デアツタラウカ

弾創ハ スデニ弾創トシテ生キテユクノカ
オレノ肉体ヲ塗沫スル ソレガ悪徳ノ展望デアツタカ
アア 夢ノイツサイノ後退スル中ニ トホク峰火ノアガル
嬰児ノ天ニアガル
タダヨフ無限ノ反抗ノ中ニ

ソノ時オレハ歩イテヰタ
ソノ時オレハ歯ヲ剥キダシテヰタ
愛情ニカカルコトナク 彌漫スル怖ロシイ痴呆ノ底二
オレノヤリキレナイイツサイノ中ニ オレハ見タ
悪シキ感傷トレイタン無頼ノ生活ヲ
顎ヲシヤクルヒトリノ囚人 ソノオレヲ視ル嗤ヒヲ
スベテ痩セタ肉体ノ影二潜ンデルモノ
ツネニサビシイ悪ノ起源ニホカナラヌソレラヲ
《ドコカラモ離レテ荒掠タル北方ノ顔々ウルトラマリンノスルドイ目付
ウルトラマリンノ底ノ方へ――》
イカナル真理モ 風物モ ソノ他ナニガ近寄ルモノゾ
今トナツテ オレハ堕チユク海ノ動静ヲ知ルノダ」

 ゴツゴツとした剥き出しの言葉の塊が、衝突しながら、極へ向け、限りなく落下する陶酔感に、おもわず引き込まれてしまいそうになるこの詩を書いた逸見猶吉は、この時まだ二十二歳であった。この詩によって、彼の名は文学史に永遠に刻み込まれることになった。伊藤信吉が編纂する『学校詩集』に、この「報告」の他に、「兇牙利的」と「死ト現象」の作品をまとめ、「ウルトラマリン」と名づけ発表するのだが、これを読んだ詩人吉田一穂は、こう絶賛していた。

「私はこの中から初めての詩人逸見猶吉君の詩「ウルトラマリン」を声をあげて推讃する。その最も新しい尖鋭的表現、強靱な意志の新しい戦慄美、彼は青天に歯を剥く雪原の狼であり、石と鉄の機構に擲弾して嘲う肉体であり、ウルトラマリンの虚無の眼と否定の舌、氷の歯をもったテロリストである」(『詩と試論』昭和5年3月刊)

 詩人逸見猶吉の発見者であった吉田一穂が、満州から引き揚げた長谷川濬にとって数少ない相談相手となるのも、なにか因縁じみている。長谷川は詩人吉田が、逸見と同じようにウルトラマリンの底に、孤高する北方の魂を見ていたことを知っていた。三人の精神は、まちがいなく北方をめざしていた。
逸見にとっての北方の原点は、失われた自分の故郷にあった。

 逸見猶吉(本名大野四郎)は、1907年(明治40)九月九日栃木県下都賀郡谷中村(現栃木県藤岡町)で9人兄弟の4男として生をうける。ただ彼が生まれた前年の1906年に、谷中村は廃村に追いこまれ、消滅していたので、正しくは、元谷中村生まれたと言った方がいいかもしれない。谷中村は、日本近代史の汚点、公害の原点とも言える足尾鉱毒事件によって滅んでいた、しかも彼の肉親たちがこの村を滅ぼした張本人であったのだ。谷中村最後の村長は、祖父大野孫右衛門であり、助役は、父東一であった。足尾鉱山から流れる鉱毒のため渡良瀬川流域の村で、作物が枯れるという被害が続出、住民たちが銅山を経営する古河鉱業に対して大規模な抗議運動を起こし、さらには田中正造が直訴し、国会でも大きな問題となった。政府は銅山の操業を止めるかわりに、谷中村を水没させ、渡良瀬遊水池を建設することを決定する。村民の反対にも関わらず、大野孫右衛門と東一は当局側と結託、谷中村の藤岡村への吸収合併、住民の強制立ち退きを進める。肉親が、自分の故郷を消滅させていたという事実は、詩人逸見猶吉の心に、大きな傷痕を残すことになる。「ウルトラマリン」で執拗に描かれる北の荒涼とした風景は、肉親たちによって水没させられた故郷のイメージが原点となっていたといえる。
 猶吉は、生まれた翌年、谷中村消滅にともない、家族と共に東京に移住する。父の東一は、古河鉱業の非常勤重役になっていたこともあり、経済的に恵まれた環境のなか、少年時代を送っている。暁星中学に入学してから、詩を雑誌に投稿するようになり、16歳の時に同人誌を創刊、17歳には原語でランボーの詩を読んでいたという。中学を卒業して早稲田大学専門部法科に入学した後も詩作に没頭、個人詩誌「鴉母」を発行するなど、詩人としての道を歩きはじめる。大学に通いながら神楽坂にバー「ユレカ」を開店し、ここで友と酒を酌み交わし、文学談義に明け暮れ、デガダン的生活にひたっていた。1928年秋、二度にわたって北海道を放浪したことが、彼の大きな転機となる。北の辺地を彷徨いながら、彼のなかから怒濤のように、詩がわき出てくる。一連のウルトラマリンの先駆けとなる「報告」は、長谷川濬のふるさと函館を漂っていたときに生まれた詩であった。これが「学校詩集」に発表されてから、彼は詩人として認められ、本格的な創作活動をはじめ、以後、「詩と詩論」「新詩論」などに作品を発表、1935年には、草野心平、中原中也等と詩誌「歴程」を創刊するなど、新進詩人として注目を浴びることになる。
 旺盛な創作活動をしていた逸見だったが、結婚して2年後の1937年、日蘇通信社の新京駐在員として、突如満州に渡っている。詩を捨て、アフリカに渡ったランボーを真似たわけではないだろうが、この満州行きを機に、彼の創作欲は急速に萎えていく。通信社の仕事に励むというよりは、大陸を舞台に、再び放蕩生活にどっぷりとつかることになる。そんな時、長谷川濬と出会ったのだ。

 長谷川は、初めて逸見と出会った時のことを、日記「青鴉」のなかで、こう回想している。

「昭和十四年の夏と記憶する。私が満州映画協会に入ってから北村謙二郎、矢原礼三郎、松本光庸、横田文子、仲賢礼等と「満州浪漫」第一号を出してからのことである。会が終わって、新京ダイヤ街の扇芳亭グリルに寄った時、矢原礼三郎が私を力まかせにグイグイと引っ張ってテーブルに近づき、一人の男を指さして、例の早口で云った。「これがあの逸見楢吉だ。あの逸見だ」その云いかたは、高圧的で強制的で(お前はあの男を知っているはずだ!知らないはずがない。あの有名な男を!)と云はんばかりのおっかぶせる口吻なので、私は「知らない、逸見なんか知らん」と今更云えなくなって、どぎまぎしながら、知っている振りをして、初対面の男にあいさつした。その男はテーブルに坐し、悠々とビールをのんでいた。私のあいさつに対して一寸頭を動かしただけで、不敵なしかも人なつこい微笑を浮かべていた。傲慢でぶっきら棒だが、それが如何にも似つかわしい自然のポーズのままであった。私はヘンミユウキチなる人を全然知らなかったし、彼が詩人であることも、彼の詩もしらないうかつ者であるが、一見した処、ヘンミなる人物は、ただのサラリーマンタイプではない、何か変わった男であると直感した。顔つきがギラギラ光って、浅黒く、肉がしまっている。鼻が突兀として、目じりが深く、唇をうすくかむようにしめて、何か荒々しい水夫のような面構えで野武士然とした風貌であった。荒風にふかれたような不敵な目の光りが印象的であった。
 背広もネクタイも相当くたびれていたが、一癖ある柄もので、それを無造作に着こなしてるダンディ振りで一種のボヘミアンらしい気分が漂っている。
 「のみましょう!」と云って、彼はコップにビールを注いで、悠然と構えている。こんな初対面で、私は逸見と付き合ったのである。彼が日本であの「ウルトラマリン」で吉田一穂氏の絶賛を浴びて詩人として名をあげたことを知ったのも、それ以後のことで、逸見自身は詩のはなし等を私に話したことは殆どない。彼との会見は、多くは酒の場であり、逸見在るところ必ず酒ありと云うテーゼの下に、私と彼の間柄は深くなっていった。」

 長谷川は、詩人逸見猶吉ではなく、自分と同じように満州へ流れてきたボヘミアンの仲間として、付き合いはじめた。長谷川は逸見と酒を飲み、語りあうなかで、あの「報告」に、自分の故郷函館郊外の千代ケ岱を彷徨いながらみた風景が描きこまれたことを知り、逸見という詩人にとって、北方の荒々しい郷愁が原風景となっていることに共感をもつ。逸見も長谷川が、北方をめざしている同志であることを知った。はじめて出会ってから3年後の1941年、長谷川がザバイカルのコサック調査に旅立つ送別会で、逸見は「長谷川の磁針はやっぱり北を指す」と餞のことばを書いている。この北への磁針という逸見のことばを、長谷川は一生忘れることがなかった。サハリン・沿海州航路につくたびにこのことばを思い出すことになる。

 満州に流れ着いた逸見は、自分のなかから詩神がすでに離れていったのを知っていた。「ウルトラマリン」は、北の大地を放浪するなかで、彼のなかに突然詩神に憑かれてしまい出来た詩であった。しかしいま彼の中からなにもことばが出てこない、だからこそ飲み歩き、北への想いを長谷川にぶつけていた。長谷川の編集する『満州浪漫』第二号に、詩を書いてみたものの、もうことばに憑かれることはなく、出来上がった詩は平凡なものだった。長谷川は、「文芸四季」に発表したエッセイ「逸見猶吉を焼く」のなかで、逸見は酔っぱらうと、彼に自分の詩を暗誦してくれとせがむので、「報告」の一節を誦しはじめると、彼は一句ごとにうなづき、両目からとめどもなく流れる涙を拭おうともせず、自分の詩に聴き入っていたと書いている。この涙は、つらいものだったにちがいない。詩神から見放されたことを誰よりも、一番知っていたのは逸見自身であり、だからこそ詩神がとり憑いたときの自分の詩がいとおしかったのだろう。
 逸見は、野たれ死する道を選んだ。この死に立ち会うことは、長谷川にとってひとつの宿命であった。
 敗戦、満州国崩壊、ソ連軍の侵攻は、結核病みの逸見の身体をさらに痛めつける。見舞いに行くたびに逸見は「俺は死ぬもんか、俺は逸見猶吉だ」と意気がるのだが、衰弱はひどく、胸は枯れ木のように細くなっていた。この衰弱ぶりをみて、実兄で、満映の理事をしていた和田日出男の口添えで、一時難民病院に収容されるのだが、そこは開拓地より流れてきた日本人重患者のための施設で、病院というよりは死の収容所といってよかった。兄の世話でやっと入れた病院だったのだが、逸見は自分の死に場所は自分で決めるとばかりに、すぐに退院し、自宅に戻る。そして退院から三日後の1946年5月17日午前五時、逸見猶吉は、38歳の短い命を閉じた。
 この日外はさわやかな快晴で、ライラックの花が香気を放ち、カッコーが啼いていた。安らかな死に顔だったが、半眼は開かれたままだった。にぶい光りが澱むその眼を見て、長谷川は、おもわず「猶吉よ、目をつぶってくれ」とつぶやく。
 翌日棺のふたを釘付けする時、集まった人はリラの花や新緑の枝をあふれんばかりに投げ入れた。長谷川は、逸見が愛用していた徳利と前菜入れ、そしてランボーの「地獄の季節」のフランス語版をそっと忍ばせた。
 この逸見の死と、葬儀のことを長谷川は日記「青鴉」のなかで、何度も何度も、書き記している。ここに紹介するのは、死んで22年経ったときのものである。

「まためぐり来る
五月十七日
この日お前は死んだ
半眼のまま
骨と皮のせんべいとなり
かかとのあかは
亀甲型にひびわれていた
棺に入れる時お前の骸が
軽いので胸にこたえた
お前の胸にランボーの「地獄の季節」の原本が
置かれた
お前を骨灰にした時
この「地獄の季節」が
原本のまま真っ白い灰になり
骨の中に鎮座していた
俺は形を崩さず
そのままそっくり
骨箱に入れた
猶吉よ、お前はランボーと共に
昇天した」

 長谷川は、逸見猶吉の死を、まるで昨日のことのように、このように鮮烈に記憶に留めていたのである。何故なのだろう。長谷川は、「逸見猶吉を焼く」で、猶吉の骨を拾うということが、自分にとっての宿命であったと思い起こし、続けて「私は彼の骨を拾った。ランボーの詩と共に・・・。これは私の彼との交渉の最後の点であり、そして未来をつないだ」と書いている。ここでつながれた「未来」とは、逸見猶吉の死と詩を背負って生きていくことを、運命として受け入れたということではなかったか。
 あの時つながった逸見猶吉との未来に誘われ、長谷川は沿海州のアムールとサハリンを航海することになったといえるかもしれない。北方の海で逸見猶吉と再会し、語らうこと、それは長谷川にとっては、青春を共にした満州を思い起こすための儀式であった。失われた過去、夢、それをひきずって生きていくことしかない、自分の定めとでもいうべきその象徴が、逸見猶吉とのサガレン(サハリン)での再会であった。
 長谷川は、満州崩壊後、満映理事長で、満州建国の黒幕でもあった甘粕正彦の自殺の現場に立ち会っている。満州崩壊の象徴ともいえる、この歴史的な現場に立ち会ったことよりも、逸見猶吉臨終の場面が、長谷川にとってははるかに重要だった。甘粕はいわば国家に殉じた男であった。長谷川にとっては、満州国という幻の国家に殉じ自決した人間よりも、詩に殉じ、野たれ死にした人間のほうが大事だった。
 何十回にも及ぶ北方への航海の途上で、逸見が北の大地から見たオホーツクの海の彼方、サガレンの肋骨が見えるところで、長谷川は、逸見猶吉の幻と出会い、そこで語りかけるのである。それは詩であり、決意であり、追想であったのだが、逸見猶吉と語り会うなか、長谷川は、捨てようとしても捨てることができない文学や詩への道を見出すことになった、それにより「未来をむすびつけた」ことになったといえるかもしれない。
 逸見は長谷川の推薦により『満州浪漫』の同人となったとき、「言葉を借りて」と題されたエッセイの末尾に「私は書かなければならない、長谷川君、そうではないか。」と書いている。
 いまの長谷川にとって、この言葉は、まさに自分のためのものであった。彼は船室に閉じ籠もり、久し振りにペンをとりはじめる。

 貧困のなか、死んでいった満は、長谷川にとって、夜毎やってくる一羽の「青鴉」だった。そして異国の荒野で、死にたえた逸見猶吉も、もう一羽の「青鴉」になったのである。長谷川が残した「青鴉」ノートのなかには、60数篇の逸見猶吉へ捧げられた詩が書き留められている。そのひとつを引用しよう。

故逸見猶吉へ

猶吉よ
お前と北の海で酒をのんだら
お前はせいうちのように
吼えるであろう
「ウルトラマリンの底の方へ・・・」
やたらに羽ばたき
北の魂や鴉共を
みのがして
俺はお前と酒をのむ・・
星座はゆっくりめぐり
深海魚は発光している
お前の鼻先から
涙が流れ滴り落ちる
お前は泣いていない
ただ涙を流すだけだ
俺の指針はやっぱり
「北をさしている」と云ったな
その通り
極北の北のまた北へ行くんだ
そこで人生の
悔恨を凍結させて
お前と死にたいのだ
猶吉よ!せいうちの猶吉よ
(1958年8月1日の日記より)

 「そこで人生の、悔恨を凍結させて、お前と死にたいのだ」という言葉にこめられている痛切な想い、ここに生き残った者――長谷川濬の戦後が浮き彫りにされているような気がする。

 長谷川は、自分の日記に「青鴉」という表題をつけていた。この「青鴉」という意味深な言葉も、逸見猶吉によって誘われて、生まれたものだと思う。
 「報告」のなかに、「目二見エナイ狂気カラ転落スル 鴉ト時間ト」という詩句があるが、逸見にとって、「鴉」は重要なイメージとなっている。「ウルトラマリン」に収められる「冬の吃水」と題された詩にも「錯落スル 鴉共」とか「サカシマノ防風林 鴉共」という一節がある。それだけでなく、彼は鴉を主人公にした「火を喰った鴉」という童話も書いている。『逸見猶吉の詩とエッセイと童話』の編著者森羅一が「『鴉』はそのまま逸見の詩人としての核をなす象徴化されたものである」と書いているように、鴉は、逸見にとっての原風景となる北の荒野をさらに荒涼にするためのなくてははならない存在であった。
 逸見の「鴉」を誰よりも理解し、自分の精神に溶かしこんだのが、長谷川だった。彼は「逸見猶吉覚書」(『文学四季』新年号・昭和34年)のなかで、「『ウルトラマリン』には北方の荒々しい郷愁がにじみ出ているし、牙をむいてぶつかってくる動物のはげしい狂気がある。あの青い海峡や岬や、雲の色が『ウルトラマリン』にマッチするし、そのトーンはとび交う烏の群の羽ばたきにも似ている」と書いている。
 長谷川が、自分の日記に『青鴉』というタイトルをつけているのは、まちがいなく逸見の「鴉」のイメージを受けてのことであろう。鴉に青を冠しているのは、長男の満と同じように、この世に存在しないもの、儚いもの、失われたもの、あるいは幻、そんな意味あいをこめているからだった。失われたものに誘われて、北の海を彷徨する自分の姿をみるための鏡、それが「青鴉」であった。
 そして逸見猶吉という青鴉は、サガレンの洋上で、長谷川にとって、満州崩壊以来、閉ざされていた文学への道を照らしだす灯台となったのである。


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