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【連載】長谷川 濬―彷徨える青鴉

第8回 ポールトのなかの海

 長谷川は、小さな船室のポールトと呼ばれる円い窓から、ひとり海を見るのがなによりも好きだった。甲板に立ち、潮風を受けて一面に広がる大海原を見ることよりも、円い小さな窓から見る海が好きだった。船の揺れを感じながら、ポールトから見える海をながめると、不思議に心が落ち着いてくる。そしてポールトから海を見ながら、彼は「青鴉」と題した大学ノートに、自分の思いを一心不乱に書き続けた。夜になると、ノートに文字を綴る自分の顔がポールトに映し出される。海のざわめきを聞きながら、海の中に映し出される自分を見つめながら、長谷川はいままでの自分が歩いてきた道のりをふりかえる。
 「青鴉」の中に、ポールトを歌ったこんな詩がある。

「私はその円さを愛す
四季の海を
映し投げ入れ
私に移り変わる海の相(すがた)を見せる
海の青さが
円く私の心にうつり
白い雲の消える処
にくしみもよろこびも
海に流れて・・・
ポールトよ
ざわめく海のささやきを
今日も伝えてくれる」(1959年7月28日)

 雑踏を離れて、ひとり、大好きな海の上で、自分と見つめ合う、この時間が、なによりもいとおしかった。そしてここから彼は自分の文学をつくりあげていく。長谷川が戦後発表した小説、詩、エッセイのほとんどは、この海の書斎から生まれたものだった。

「北方航路は私にとって一つの修行である。船は海上ホテル。私はキャビンに独居して本をよみ、文を作る。甲板に出て海をながめ、ブリッジに上り、海を展望し、時々は舳の先端でくだける波を見下ろし、或いはともで航路を惜しみ、また水夫部屋でマドロスと語り、浴室で潮湯をたのしむ。ポールトから空をながめ、独居をたのしむ。広い自由なる海の変化の中に、沈思すると、詩が生まれ、本をよむ。」(1958年8月11日)

 長谷川はこの時、ソ連から木材を運ぶ船の通訳として働いていた。行き先はサハリン、アムール河流域のマゴやラザレフ、ナホトカ。出発地は小樽、舞鶴、伏木、横浜、川崎、東京、門司、尾道、和歌山等々まちまちだった。
 彼の仕事は、ソ連領内に入って、検疫、通関、荷役の打ち合わせなど、ロシア語が必要とされる時に、現場で通訳することだった。つまり目的地に着くまで、そして作業を終えて日本の港に戻るまでは、まったくの自由時間となる。彼が残した「青鴉」のほとんどは、この往来の船中で、ポールトを見つめながら書かれたものである。
 出発地や目的地、さらには気象状況によっても行程は違うのだが、例えば1958年8月サハリンへの航海の行程は、このようになっている。

8月19日 アムールへの航海を終えて、七尾港着
木材の荷卸し、長谷川はそのまま七尾にとどまる
8月21日 七尾出航
8月22日 新潟岸壁に接岸、18時出航
8月24日 小樽沖航行
8月25日 サハリン沖航行
8月26日 ムガチ沖に投錨、荷役開始
8月27日 荷役続く、上陸して映画『陽気な連中』を見に行く
8月28日 13時サハリン出航
8月30日 礼文島沖通過
8月31日 宗谷海峡通過
9月 1日 津軽海峡通過
9月 3日 横浜,鶴見港入港

 天候にもよるが、およそ5日か6日かけて目的地に到着している。この時は着いてすぐに荷役作業に入っているが、天候やソ連側の事情や、他の日本船の荷役状況などによって、目的地に着いてから3日、ひどい時は一週間何もできずに、ただ待機するだけということもしばしばあった。航海中の通訳としての長谷川の仕事は、航海中は税関検査や検疫などのためのクルーリスト作成だけ、船がソ連領に入ると、検疫、通関、パイロットとの打ち合わせ、インフロート(外国船公団)との打ち合わせなど、通訳としての仕事がはじまる。ときには上陸して、船員たちを街に案内することもあった。荷役を終え、出国のための通関手続き、検疫が終わると、彼の仕事は終わる。彼はこの時日記に「やっとロシア語から解放される」といつも書いている。通訳として現場で緊張を強いられていたのだろう。
 それにしても天は、北への航海の仕事を、彼に授けたものだと思う。この北への航海は、失われた過去と向き合うことを余儀なくしたのである。ほとんどの航海で、彼は津軽海峡を渡る時、生まれ育った函館の街を洋上から見ることになった。そして間宮海峡を通過するときは、逸見猶吉が歌った詩を思い起こし、サハリンに着けば、満州と同じようにかつて植民地だった痕跡を目にし、アムール河流域を訪れるとき、この大河がかつて満州時代に訪れたアルグンへとつづいていることに思いを馳せ、満州時代の自分と見つめ合うことになる。北方航海のなかで、彼の時間は止まる、思いは過去へ、過去へと飛んでいく。洋上で書き留めた「青鴉」と名づけられた日記は、こうした過去への旅の記録でもあった。

 しかし北への航海はただ過去への旅に誘ったばかりではなかった。自然の猛威、それと闘う人間の崇高さを見つめ、またロシア人との交流、船員たちとの交流のなかで、生きることの尊さを実感することになる、そこから未来へ続くひとつの道のりを見つけることにもなった。
 その意味で、1954年9月のサハリンへの航海は、生涯忘れることのできない貴重な体験となった。

 9月21日長谷川は、前に一度乗ったことのある松久丸に乗船し,九州の若松港を出発する。日本海を北上し、北海道沖にさしかかった26日、長谷川はかつてない時化に遭遇する。

「昨日の時化は私のはじめての経験であった。風速30米。食器は全部割れてしまった。立っていれない。止むを得ず横たわったが、ベットの中でゴロゴロする、波は船を越える。あらゆるものが転がりはじめた。廊下に突然非常汽笛が鳴りひびいた。はね起きると、それは風の作用でうなりを生じているのだ。
 私は眠った。目をさますと、風は弱まり、猛然たるうねりである。食堂の机は横倒し、第二食堂で飯を食う。日本では相当の被害の由、青函連絡船の沈没その他あり。
 台風通過の兆しは風の吹き具合で分かったので、安心して眠れた。とにかく運を天に任せた形だ。エンジンルームは水びたしで総員水くみ、防水作業に徹夜し、辛うじて船を保った由、SOS直前の所まで来ていたのである。・・・
 あの荒れる海の美しさは想像も出来ない。それは怒りの表情である。通訳か業もわるくない。こんな時化に会って、かせがなくちゃならない。」(9月27日の日記から)

 前日の9月26日台風15号が、北海道を直撃、青函連絡船洞爺丸が遭難し、死者・行方不明者1698人という大惨事をもたらしたことを、この時長谷川は知る由もなかった。この惨劇がおこったところからそう遠くないところで、時化に遭遇したのである。それにしても、いつ転覆遭難しても不思議がなかった嵐のさなかに、眠っていたというのだから、長谷川もかなり胆のすわった男だったといえよう。しかも荒れる海が美しいとまで言っているところに、大陸的な一面を垣間見ることもできる。
 9月28日サハリンの東岸ウグレゴールスクに着くが、かつて恵須取と呼ばれたこの町に上陸し、丘の上で植民地時代の名残である鳥居を見たり、少女の葬儀に出くわしたりするなかで、満州時代のことに思いを馳せる。インフロートの役人、ボヤルチュークの家に招かれたり、「トルード」編集長と一献傾け、一所に「ヴォガージャ」を歌ったり、ロシア人と胸襟開いてつき合うなか、ロシアの懐の大きさを実感することになった。ロシア文学をこよなく愛していた長谷川であったが、新京で敗戦を迎えた時、侵攻してきたソ連軍の兵士たちの応対に消耗させられ、ずっとロシア人に対する恐怖に囚われていたのだが、ボヤルチュークのような根っから明るく、開け広げなロシア人と面と向かってつき合う中で、そんな思いも氷解していく。ボヤルチュークが、長谷川が詩を書くと知って、プレゼントしてくれたマヤコフスキイの詩集を手にとり、ぜひこの本を翻訳しようと決意する。

 ロシア語から解放されたその日の日記に彼は、こう書き残している。

「今度の通訳航海は最も充実した生活であった。先ずあの台風に会って試練された。死も覚悟した。あの台風の真中で自然の脅威と人間の力を体験した。
 ウグレゴールスクでは雑貨積み込みで新しい言葉を沢山覚え、色々なロシア人に会った。上陸してソヴエト風景を見た。マヤコフスキイの訳のヒントをえた。
 ボヤルチュークの人間性に直接とけあってうれしかった。ウグレゴールスク−恵須取。忘れざるサハリンの町だ。」(10月11日)

 自然の猛威のなかで、どうしもなく翻弄される中、それに闘いを挑む船員たちの姿、人懐っこいロシア人たちとの交流、数十回におよぶ北方航海のなかでも、最も印象に残ったこの航海について、8年後「サハリン航海」というノンフィクションノベルにまとめることになる。これを読んでもわかるのだが、この航海で、なによりも長谷川は生きることへの強い意欲をもつことになったのである。
 10月16日若松に帰航したその日の日記に「今日でサハリン航路は終わり。忘れべからずは台風。ウゴレゴールスク風景。ソビエト人の生活。船の人々。海洋風景。読書。思索。青鴉。今日よりまた東京生活がはじまる。一刻の余裕もない。生活が犇き迫って来る。働け、働け。自分の力で。よりよき生活を創るために・・・。」と書いている。過去に縛られながらも、明日への、未来への生活への意欲にかきたてられていた。こうしたことは久しくなかったことである。
 航海は彼に思索の時間を与え、過去と対峙しながら文学へと誘い、そして未来へとつながる道を切りひらくことになったのだ。
 しかしこの次の航海、翌年の8月のサハリン航海中にかかかれた日記のなかで、彼は「此の航海を最後に通訳を止める。俺は通訳に勿体ない人物である。」(8月11日)と書き留めているのである。彼にとって生きる意欲をかきたてることになった航海を何故、やめようと思ったのか。
 長谷川濬の戦後の生活を大きく左右し、彼につきまとうことになるあるひとり人物の影が見えてくる。
航海を終えた8月16日の日記。

「私はこの航海で通訳を止めます。
 もう二度と船に乗ってサハリンに行かないでしょう。
 少なくとも今年はこれで中止。
 以後神君の仕事。」

 興行界に旋風を巻きおこした呼び屋神彰との運命的な出会いが、長谷川の人生を大きく狂わすことになるのである。


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