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【連載】長谷川 濬―彷徨える青鴉

第10回 ヴロジャーガの唄

 長谷川濬が、生きる勇気を与えてくれた北方航海の通訳をやめ、「神君の仕事」に専念することを決意した理由はどこにあったのか。この航海中につけられた日記「青鴉」の中にこんなメモが残っている。

事前宣伝
「ドン・コサック合唱団の夕べ」
1あいさつ 神彰氏
1ドン・コサック合唱について まゆづみ氏
1学生合唱連盟団合唱
1映画ニュース
1ドン・コサック映画
1レコードによる合唱(来年5月終わり)
文部省、朝日新聞社事業部
JTB
ニコライ堂幹部
白系露人協会
学生合唱団の幹部を招待−ドン・コサック招聘の主旨を説明、援助を乞う
会長茂木久平氏よりあいさつ
ポスター1万枚
プログラム2万枚
合唱団曲目ノート販売3万枚
プログラムのレーアウト
ヂャーロフ略歴
合唱団略歴
ヂャーロフのメッセージ
映像
 画家 福田新生
     長谷川りん二郎
歌手 牧つぐんど
詩 吉田一穂先生
文化人名簿
(「青鴉」1955年8月11日)

 長谷川は、翌年日本中を席巻することになるドン・コサック合唱団を招聘する仕事にのめり込んでいたのである。

 この航海に出る一年前の秋、長谷川は、近所に住む満州帰り、しかも同じ函館出身の神彰という画家志望の青年のアパートをしばしば訪れていた。同じ満州帰りで、将軍というあだ名をもつ岩崎篤がいつも一緒だった。焼酎を飲みながら、満州時代の思い出話、現在の生活への不満を肴に口角泡をとばしながら議論をたたかわしていた。定職をもたない長谷川、画家として生きることに自信を失いかけていた神、一旗揚げようと企んでいた岩崎が、行き場のない憂さをはらしていた。そんなある日長谷川が、堂々巡りする議論を断ち切るかのように、突然歌いはじめた。彼の十八番のひとつ「ヴロジャーガ」(『バイカル湖の畔』)であった。

1.こがねを秘めるザバイカルの  荒野(あらの)をあてもなく
  さだめをのろいながら  さすらい人はあゆむ
2.昼なお暗き森は  小鳥が歌うのみ
  肩に袋を背負い  腰にはなべをさげて
3.まとうはやぶれたルパーシカ つぎあとさまざまな
  かぶるは囚人服  囚人服もよごれ
4.正義のゆえに苦しみ  闇夜に牢をのがれ
  歩む力は尽きて  バイカルを前に見る
5.バイカルの岸辺に下りて  いさりびぶねこぎいで
  悲しき歌をうたう  なにやら故郷の歌を
6.残せし若き妻よ  幼きいとし子よ
  いつの日かあえん  明日をも知れぬ身で
7.バイカルを渡りて 行けば  なつかしい母に会えぬ 
  俺だよ俺だよ 母さん  父さんは おたっしゃですか
8.お前の父さんは無くなり  冷たい土に眠る
  お前の 兄さんは 捕まり  シベリアに流された
9.行きましょ 行きましょ 息子よ   わしらが あばらやに
  お前を 待ちわび   妻や 子どもが泣いてる (【訳詞】大胡敏夫)

 歌いおえた長谷川がふとつぶやいた。
 「ドン・コサック合唱団を日本に呼ぶっていうのはどうかな」
 長谷川が、ドン・コサック合唱団の歌を初めて聞いたのは、二五才の時(大阪外国語学校ロシア語の学生の時)だった。

 「はじめてセルゲイ・ジャーロフ指揮するドン・コサック合唱団吹込みのレコードでステンカ・ラージンをきき、その時以来、私はドン・コサック合唱団に魅惑され、あの肉声を直接きいたらどんなにすばらしいであろうかと夢想しつづけた。」

 大地からわき出るような合唱の力、いま自分もそうであるように戦争で痛めつけられた日本人に必要なのは、生きる勇気、力を与えてくれる、こんな大地の響きをもつ音楽なのではないだろうか。彼は満州時代、アムール・アルグン河実態調査員として国境河川を三ヵ月にわたって旅した時、耳にしたあの歌声が蘇えってきた。

「或る夏の夕、ウスチロフ・キムラトに泊まった時、副アタマンの宅へ招待された。その席上、私がステンカ・ラージンをうたったのをきっかけに、集合したザバイカル・カザックが一斉にステンカ・ラージンを合唱した。男女も子供も美しいハーモニーで一大合唱が現出した。私はこのコーラスをきいて、あのドン・コサック合唱にも優るコザックの肉声に圧倒され、感動して聴き入ったことを今でも思い出す。アルグン河畔の合唱がまだ忘れられない。」(『青鴉』1956年12月4日)

 長谷川の胸に、いまこそ日本人にこの合唱のもつ力を知らせたい、そんな思いがふくらんだ。
 木製のベッドにゴロリと横になり、天井を睨みつけていた神が、むっくと起き上がった。「濬さん、それだ、ドン・コサックだ、ドン・コサック合唱団を日本に呼ぶんだ」

 あれから一年経っていた。ドン・コサック合唱団を呼ぼうなんて、酒の勢いででた話、所詮夢物語だと長谷川は思っていた。しかし神は、このお伽話を実現しようと、必死になっていたのである。
 ドン・コサックのリーダーであるセルゲイ・ジャーロフとの契約に成功すると、毎日新聞、文化放送に話を持ちかけ、主催と放送権をとりつけ、さらに今度はそれをもとに銀行から多額の融資をひき出すことに成功する。長谷川は、16才年下の神彰のあたって砕けろ精神と行動力に驚嘆するしかなかった。まさか実現できるわけがないと思っていたドン・コサックの公演の準備をわずか一年で、やりとげてしまったのである。
 公演は1956年3月からはじまることになった。急遽この公演のために会社をつくることになる。神彰が社長となり、日比谷のオンボロビルに事務所をおいた。会社の名前は、「アート・フレンド・アソシエーション」とした。長谷川のアイディアだった。長谷川には夢があった。国境を越え、すぐれた芸術を通して人々がつながるという夢だった。思えば満州文学を提唱し、打ち破れた長谷川にとっては、戦後へ引きつなぐ、夢の継承でもあった。そんな思いは、長谷川が立案した、アート・フレンド・アソシエーションのスローガンを見れば、よくわかる。

「我々は 全世界の芸術を愛する人々と互いに結び合い
その人々が国境を越えて 純粋な美を分かちつつ未来の
建設に務めることを念願しています」

 長谷川が残した日記「青鴉」には、先に引用した公演のためのメモ以外は、ドン・コサックを呼ぶために彼が実際にどんなことをしたのかについてほとんど触れられていない。「青鴉」は詩や小説の創作ノートであり、航海や入院生活以外、東京で暮らしているときはほとんどなにも書かれていないのに等しい。そのせいもあるのだろう。ただ夏場に通訳稼業で航海にでる以外は、この夢物語に没頭していたはずだ。
 相手はロシア人であり、ジャーロフとの交渉は、長谷川がやるしかなかった。神にとって長谷川は、このプロジェクトの鍵を握る男だった。公演が近づくと、長谷川の都合なんかはお構いなし、必要があるときは、神は車で長谷川を迎えにきた。
 「これがダメになったら、俺は乞食になるんだよ」
と必死の形相で神は、長谷川にせまった。ドン・コサックの魂は長谷川しか伝えることができないことを、神は知っていた。
 この年下の、ときには不遜なことも平気でやる神という男のバイタリティーが、まぶしかった。ひとつのことに賭けるその一途さに心を打たれたこともある。長谷川はどこかで神はほんとうにドン・コサックの芸術性がわかっているのだろうかという疑問も抱きながらも、彼のためになにかしたいという気持ちに駆られていたのである。
 そして、1956年3月ドン・コサックはやってくる。マスコミは大騒ぎ、そして日比谷公会堂での公演も大成功におわる。レセプションがあった夜、神は「しゅんさんのおかげだよ、ここまできたのは」と興奮して、長谷川に抱きつきキスまでした。
 長谷川は、ドン・コサックとともに日本全国を旅する。ジャーロフと一緒に行動するなかで、「到達し得ない処へ行こう」とする真の芸術家の姿に触れることになる。

 「コンサートが成功すれば、それだけに悩み、不眠で苦しみ、ウィスキイを呷るジャーロフ、小食で殆ど肉食しない貧弱な食欲と寡黙。彼はいつも姿なき天使と格闘している。何かをたぐり寄せ、おしのけているのだ。舞台をはなれたジャーロフは少女のようにつつましく無言で、片隅にぽつんと座している目立たない小男である」(「セルゲイ・ジャーロフのこと」)

 ジャーロフと寝食ともにしたからこそ知ることができた彼の芸術に賭けるその想いの深さ、そしてそれだからこそ「大衆と共に美を分かち会話を交える人」となったジャーロフの生きる姿に、長谷川はなによりも心を打たれていた。『進路』に掲載されたこのエッセイのなかで、長谷川は「私はジャーロフと一カ月行動を共にして私の人生の上に多くの教えを得た」と書いていたように、ジャーロフとの旅で、芸術に生きる真の「アートフレンド」を得ることになった。
 全国20都市をまわった公演は大成功だった。長谷川は、合唱の力が、放浪するドン・コサックの歌が確かに大衆に受け入れられている、そんな手応えを感じ取っていた。
 しかし盟友であり、「しゅんさんのおかげだ」と言っていた神のやりかたに少し自分とは違うもの、なにか投機的な匂いを感じるようになっていたのも事実だった。彼は、ほんとうにドン・コサックのことを理解しているのだろうか、大衆の気持ちをわかっているのだろうか?金儲けのためだけでやっているのではないか、そんな思いが日増しにつのっていた時だった。ある都市での公演、場所は体育館であった。何の設備もない体育館での公演は、あまりにも問題が多すぎた。
 ドン・コサックのメンバーから苦情が出された。神はこれに対して、なんとかやってくれと真剣にとりあわなかった。しかもその態度はあまりにも横柄だった。長谷川はこの態度に、突然かんしゃくを爆発させる。ジャーロフも神もあっけにとられた。温厚な長谷川が完全にぶちきれてしまったのだ。
 そして、この事件があってまもなく、ドン・コサックが東京に戻ってきたとき、彼は突然喀血し、病院に担ぎ込まれることになる。
 あれだけ日本中を話題の坩堝に巻き込んだこの歴史的公演の日本でのラストステージを見ることもできず、そしてジャーロフを空港に見送ることもできず、彼は病院に運びこまれた。そして半年以上長期入院することになる。
 ドン・コサック合唱団公演の成功は、国境を越え、芸術を通じて世界の人々を結びつけるという彼の夢、理想をかなえたはずだった。しかしこの病いにより、長谷川はここで切り拓かれた道を、これ以上前に進むことができなくなったのである。
 かたや神彰は、破竹の勢いで、次々に大物芸術家を招聘し、興行界の風雲児として一躍マスコミの寵児となっていく。まったくなにもない無の状態から、ドン・コサックを呼び、日本各地に旋風を巻きおこした神彰は、この後ソ連の鉄の壁をぶち破り、ボリショイ・バレエやレニングラードフィルをたて続けに呼ぶことに成功し、評論家大宅壮一から「戦後の奇跡」を成し遂げた「赤い呼び屋」と称されるようになる。
 「ブロジャーガ」の唄は、画家の道から興行師へと、神彰の運命を変えることになった。しかしこの唄を最初にうたった男、長谷川濬の運命は、変わらなかったのである。変わらなかったどころか、病という重い枷をきせられて、さらに落ち込んだと言っていいかもしれない。この唄の主人公のようにさすらいの道を再び歩くことになる。あまりといえば、あまりにも残酷なコントラストである。それは長谷川自身が痛切に感じていたことであった。

「私と神の関係。これは二人の人間の生活の典型だ。一人はせり上がり、一人は元のもくあみ。
当たり前だ。
俺は俺なりに生きた結果である。彼には彼独自の血と生き方がある。」

 しかし元の木阿弥になった自分の境涯を恨むよりも、彼にはひとつ自分の信念を守り貫いたという誇りがあった。

「汝シュンよ
正直に、純粋な美を分かるためにセルゲー・ジャーロフを日本に招いて五十日間のコンサートをひらいた。
何を得たか?
金か
物か
否、病である。良心のほほえみである。満足と誇りである。
あのコーラスを日本大衆に聞かせた満足である。
個の利益のために招いたとすれば 汝シュンよ!
汝は商人であって、芸術家ではない。」(『青鴉』1956年7月10日)

 長谷川にとって、この誇りだけが支えであった。
 せりあがった男、神彰との糸は、ここで切れることなく、神彰が呼び屋として頂点をきわめ、またそこから没落していくまで、もつれ合い、長谷川はこの男と関わっていくことになる。まるで愛人のように、愛憎交錯しながら、絡み合っていくのである。この愛憎劇の後半をみる前に、長谷川濬が死ぬまでつきあうことになる結核との闘いの第一頁となった半年の療養生活をみることにしよう。


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