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【連載】長谷川 濬―彷徨える青鴉

第11回 死して成れり

 昭和三十一年五月七日深夜のことであった。長谷川ははげしく咳きこむ、その時鮮血が口から溢れ出て、たたみに流れ落ちた。文江を呼び、器をあてがってもらい、血を吐き続けた。急に発熱と倦怠を感じ、横になったが、喉の奥は血のりでべったりとなっていた。身体を動かすと、血が流れるようで、じっと天井を見ていた。長谷川は冷静だった。ドン・コザック合唱団の公演が始まってからというもの、毎晩咳に苦しまされ、殆ど眠れなかった。むしろ血が出たことで、ホットしたようなところがあった。「青鴉」のなかで、彼はこのときのことを思い出し、こう書いている。

「血が出る毎に、何かそう快な感じが溢れて来た。不安と共に、生命の躍動、排泄の快感に似たような一種の解放が私の胸に満ちてくるのを感じた。
 夜明けまで、私は数回の喀血をつづけた。死を思わず、漠と病の時間を数えていた」

 来るべきことがやって来た、そんな気がした。
 いつも病は、これからという時に不意にやってくるのだった。それは自分の運命なのかもしれない。あの時もそうだった・・・
 二十八才の時、チタ赴任の途中で血を吐き、チタ行きは中止になった。四十才の時は、引揚げしてロシア語教授を始めようとした時、微熱と倦怠感に悩まされ、自宅で静養することを余儀なくされた。そしていま五十になって、ドン・コザックを招き、日本公演を成功させ、これからという時の喀血だった。何かを企て、仕事の緒についた時に、身体の中に巣くっている結核が、突然暴れだすのだ。

「ドンコザックコーラス、そうだ。そのコンサートに同行した結果の喀血だ。神と一もんちゃくの最中の喀血だ。これですべてが終わったのだ。」

 確かに喀血した時、長谷川はなにかが終わったことを知った。これもまた運命であることも。だから冷静に不意の病の訪れを受けとめようとしていた。
 翌日長谷川は、妻に伴われ、都立大久保病院におもむき、そのまま入院することになる。病を引き起こす遠因となったドン・コザック合唱団は、5月11日帰国の途につく。長谷川は、病床で静かに、ジャーロフに別れを告げた。喀血とジャーロフはきってもきれない関係にあったように思えてならない。

「喀血の朝を迎へ、私はいよいよ病院入りを決定。今でも私の床にこびりついている血痕を見る度に、私はドン・コザックのコーラスをきくような気がする。あのセルゲイ・ジャーロフの小柄な妖婆を・・・。あの妙な笑い顔としゃんとした背中の垂直を・・・」

 長谷川が入院した都立大久保病院は、西武新宿駅から歩いて5分、歌舞伎町の繁華街が目と鼻の先にあった。当時はこのあたりもいまのような巨大な歓楽街にはなっていなかっただろうが、病院の冷たい建物とあまりにも対照的な周囲のどぎついまでのにぎわいは、病気の身にはこたえた。砂漠の中にひとりぽつんと取り残されたそんな心境だった。

「夜の廊下に立って、新宿の夜景のすさまじさに目をみはった。黒い巨大な山塊のようなビルがそそり立ち、窓には灯、屋上にはネオンの明滅の急テンポと光の放出に彩られた新宿の夜空。その巨大なマッスを背景にして患者は黙々と横たわっている、黒い横臥体のシルエート、動かない患者の列。ギラギラとビルの山塊は窓にせまっている。彼等は都会の夜の人工装飾と電灯とネオンに病巣をさらしている。療養でない。一種の拷問だ。あけ放された窓には荒涼たる都会砂漠が立体化してる。こんな処に療養して健康回復するのであろうか?」(「ある夢想病者の手記」)

 いうまでもなく、結核が再発したという診断だった。満州里で血を吐いたときも結核と診断されたが、そのときはたいした治療もせず、二カ月間温泉で療養し、すぐに健康は回復した。若さが、病をねじ込めたのだろう。引揚げ直後も結核と診断されたが、その時は喀血もせず、自宅静養だけですんだ。今度が三度目の再発ということになる。五十という体力的に無理がきかない年にさしかかっていたことを考えると、じっくり病院で療養するしかなかった。長谷川は、六階の病室にそのまま重患として入院することになった。
 入院二週目に、廊下までの歩行をゆるされた。ベッドから床に足を下ろした時、長谷川は、歩けないことに驚く。満洲里の病院に入院した時のことが蘇える。あの時も歩けなかった。あの病室から見えたもの、それは国境の空しい丘と青い空だったが、いま六階の病棟の一室から、新宿のビル街が廊下を通して見える。アドバルーンと建設クレーンの鉄骨とビルディングの窓。病んだ都会の片隅で、ベッドに横たわる結核患者である自分がか弱い、小さな存在のように思えてならなかった。
 長谷川はベッドに横たわりながら、ただひたすら海にあこがれていた。

「ああ海へ!海へ出たい。とびちるしぶきと風のうなりと、ゆれ動いてやまない広大な水の世界へ、私の魂を拡大させて自由にする海へ。私はベッドを舟として大海原へ出たい。空高くとぶ信天翁のつばさ。雁行するとび魚の群のあたりに小さい虹が現はれ、消える。潮の香に満ちた帆。張り切るステイのトレモロ。ああ闊達なる航海よ!目にしむインヂゴーの魅力。」(「ある夢想病者の手記」)

 長谷川は病床についてから、5冊のノート「青鴉」を書き続けた。その一冊目のノート「青鴉]W(病中日記於中央病院)」は、中央病院に入院してから一カ月後の6月18日から書かれたもので、あとの4冊は転院先の松戸療養所で書かれたものである。

「私は中央病院に入り、やがて七月十二日松戸の療養所に入り、そこに三十二年の一月十二日まで入っていた。
この病院の間、私は床で「青鴉」を書き、患者生活に終始した。何を得たか。静寂と思索。そして病のもたらす恩恵を受けた。これで一切のafaとの関係を清算したのだ。私の『療養記』はその時の記録である。」(「青鴉」27)

 この5冊のノートをもとに書かれた作品が、自民党宏池会事務局長田村敏男が発行していた月刊誌『進路』に5回にわたって掲載されることになる「療養記」と、『作文』62集に発表された「夢想家の手記」である。
 これらの作品と日記から、長谷川が結核という不治の病に罹ってしまった自分の運命を受けとめ、不運を嘆くのでなく、なんとか再生の道を歩もうと、もがきながら必死になって闘おうとする姿が見えてくる。
 『青鴉』で「喀血の中に私の新しい運命が仕込まれていた。」と書いているように、この入院は、長谷川にとって大きな意味をもつことになる、ただそれは、やっと見つけた、浮上への道が永遠に閉ざされてしまったという意味なのだが・・。
 ただ彼は、必死で病を克服しようとしていたのである。
 「青鴉]W(病中日記於中央病院)」の最初のページに、長谷川はこう書いている。

「生きること−これは私のほこりだ。
到る処生命の波だ。
ひびの入った茶碗はこわれ易いが、扱いでは却って風格を持つ。病を持つ人も然り。病をプラスとして人間化せよ。風格化せよ。ひびの入った茶碗の。
「死せよ、成れよ」と云うゲーテのことばを考える」(6月18日)

 そして翌日に「私は一生病気であろう。生きるために病気にかかっている、死ぬためではない」とも書いている。
 このように懸命に、病を受けとめよう、それを新たな生への一歩としようと闘っている長谷川のもとに、荻窪時代からの盟友、そしてドン・コザック合唱団を呼んだ仲間のひとり岩崎篤が、とんでもない話しをもって、病院を訪ねて来る。

 6月28日、この日長谷川は、医師と相談して、本格的治療のために結核患者のためのサナトリュウムである松戸国立療養所への転院を決断した。一生背負っていかなければならない病であったにせよ、はやく治し、ドン・コザック合唱団後の新たな仕事にとりかかりたいという思いからだった。しかし岩崎の訪問が、そんな気持ちをすべてぶち壊しにしてしまった。

「岩崎氏来訪。afaの運営危機について話す。当然である。Бог(神のこと)の大福帳的経営と私利に走る商人根性ではうまくゆくはずがない。はじめからafaの行き方には、むりがあった。
一、解雇すべし
一、私、神、岩崎(いずれもロシア語)だけ残って生活資金は共有とする、そして第二の事業をもくろむ
一、解散に当たり、U,K,Sに半年分の手当てを出す。Sにも然り。
一、或いは名実共に解散。私、神、岩崎に相当額の金を分配す。一人あたり百万円也
 そもそもafaの成り立ちより神の私有化となり、特に一月の予約金入金より、その傾向著しく神の名義にて使途不明の多額の金、相当支出しあり。合名会社(神一族の)の観あり。この際一切を清算すべき時なり。松戸行きを決心す。入院する前に、afaの件を解決せざれば安心出来ない。一応私の意見を神に伝える要あり。公正なる見地よりafaを永続させる策を講ずるためなり」

 ドン・コザック合唱団公演は、日本中に大旋風を巻きおこした。さまよう白系ロシア人の魂の歌声は、敗戦にうちひしがれた日本人の心をゆさぶった、連日会場には観客が押し寄せた。この博打とも思われた公演は大成功に終わった、はずだった。興業収入は莫大なものだった、はずだった。しかし、首謀者の神は、ドン・コザックが帰国してまもなく、雲隠れしてしまったのである。

「五月二十一日、AFA事務所から、神の姿は消えた。三和銀行に対する未払金千五百万円、交通公社、ホテル、印刷関係など未払金数百万円は、公演の不調を理由に引きのばし、宣伝業者の請求約三百万円は約束不履行による不当請求として、AFAはこれを拒否する。その間、神の消息は、まったく絶えてしまった。国外逃亡説までとびだすありさまで、経済的責任のない毎日新聞を相手に、債権者の強制執行も話題になろうとした」(「旋風の興行師」『太陽』一九五七年一月号)

 多額の融資をした銀行、団員の宿泊や輸送を請け負った旅行代理店、チラシ、パンフレットを制作した印刷屋への支払いを逃れるためだった。
 絵描きから呼び屋への転身を天啓と受けとめていた神彰は、ドン・コザックの成功だけで満足するような男ではなかった。すでに次のターゲットを定めていた。そのためには、資金が必要だった。神は、長谷川のような、純粋に芸術を愛する文学青年ではない、呼び屋だったのである。
 ドン・コザックで当てた、そのおこぼれを当てにしていた岩崎からすれば、神の雲隠れは、青天の霹靂であった。盟友だったはずではないか、そんな俺をおいていくなんてと、疑心暗鬼となった岩崎は、長谷川のもとにかけ参じたのだろう。
 この時神は、ドン・コザック合唱団を呼ぼうと企てた仲間である長谷川、岩崎を無視し、次の戦略を練っていたのである。神は、鉄のカーテンを敷くソ連から、幻といわれたムラビンスキイ指揮するレニングラードフィルハーモニーを呼ぶために、東京・狸穴にあるソ連代表部に日参していた。長谷川はたまたま入院していて、その事情は知る由もなかったが、取り残されると焦った岩崎が、長谷川に相談してきたのだろう。
 長谷川は、少しずつ良くなってきている身体のことだけを考えたかった。しかしこの話しを聞いてしまった以上、このままではいられなくなる。
 翌日、今度は神が病院にやって来る。

「事実を事実として話すこと以外にない。知らないことを憶測で言明することではいけない。事件を複雑化さすのは、人間が真実を語らず、ごま化すからである。信じるならば、その一本で行け。人間は友情とか情実とか、そういう理智でない、人間同志のしがらみにからまれて、ついかくしたり、嘘をついたりするものである。明白にするには、知っていることをありのままに話すことである。私は友情には感じる。しかしうそはつけない。うそは忽ち露見するのだ。
 引揚者としてあらゆる苦労と狂気にさいなまれたが、不正は一つもない。彼との関係は同郷人にはじまり、結局ジャーロフをよんで、すばらしい合唱を大衆にきかせたい一心で仕事をして来た。私の態度にはやましい処一つもない。とんでもない運命が私の周囲にくもの糸のように張られている。ジャーロフの手紙訳す」

 このまわりくどい記述のなかに、長谷川のとまどい、逡巡が見てとれる。誰が本当のことを言っているのか、5月8日に倒れて以来、アートフレンドでなにが起きているのか、彼はまったく何も知らなかったのだから。
 そして翌日、長谷川はこんなことを「青鴉」に書き留めている。

「afaの経営を考える。神にもはや熱はない。ドンで利を得たら、もう用はないと云った表情である。宇野木も気の毒である。俺はドン日本招へいでコンツェルト開催の任務を果たした。あの大衆の感動よ!
 次の仕事をプランしているが、神とは出来ない。退こう。
 岩崎の如く腰巾着になって魂をくさらす行為はやめよう。断乎として骨のある、正しい男でなければならない。目前の利、生活の糧に目をくらませてへばりついてはいけない。早く清算しよう。我々の新しいアートフレンドを作ろう。全世界の芸術家は私の友だ。不正がのさばり、正がすくんでいるのは当を得ていない。私のドンは終わった。私は私で自由に歩む。一切の絆を脱して歩む。」

 6月28日岩崎、そして翌日の神の訪問は何を意味するのか、おそらく金の分け前のことだったのではないか。岩崎は金のことしか頭になかった、その取り分がまわってこないかもしれない、それで焦って長谷川のもとを訪れ、神のとった行動を暴露した。ただおそらく岩崎は神にうまく丸め込まれたのだろう。同じように神は、長谷川に、なんらかの条件をだして、この場をおさめようとした。当時呼び屋にとって、最大の問題はいかにして闇ドルを調達するかということだった。そのためにドン・コザックで得た金を、いわば闇資金としてプールしておく必要があった、それを理由に、神は長谷川を説得したと思われる。おそらくいくばかりの報酬の提供も申し出たはずだ。しかしそれは、長谷川にとっては、不正に加担することを意味する、それは、自分がドン・コザックのためにすべてを捧げたことを無にすることだった。
 この時、長谷川は病と闘っていた。それも決して完治しない結核という病と。どんなおちぶれても自分は清く生きなくてはならない、彼に生きる理由を与えているのは、満州時代の友人たちの死であり、自分の子供たちの死である、それらの死に対しての償うこと、それがいま生きていることの理由でもあった。だからこそ、彼は不正に加わりたくなかった。生活は苦しい、しかも病気になって、金はすぐにでも欲しかった。それでも彼は、金の誘いにのらなかった。

「汝シュンよ
正直に、純粋な美を分かるためにセルゲー・ジャーロフを日本に招いて五十日間のコンサートをひらいた。
何を得たか?
金か
物か
否、病である。良心のほほえみである。満足と誇りである。
あのコーラスを日本大衆に聞かせた満足である。
個の利益のために招いたとすれば 汝シュンよ!
汝は商人であって、芸術家ではない」

 松戸療養所に転院する直前の7月10日に「青鴉」に書き残した長谷川のこのひとつの決意が、無器用でもいい、でも誠実に生きようというこのあとの彼の生きかたを決定することになる。

 7月12日、長谷川は妻に連れ添われ、国立松戸療養所へ向かう。ここに向かう前、長谷川はノートにこう書いている。

「本日は松戸にうつる日なり。
五月十三日、重病患者として六一三号室に入院、今日に及ぶ。(中略)一生の病気なり。入院中不快なるは、例のギャグに値する彼等の追求なり。これはすべて神の胸中、小生の知る処に非ず。神の善処(良心による)をのぞむ。
小生は知ることを話すだけ。
小生は興行主に非ず。
小生は詩人なり。
ロシア音楽を愛する一人なり。
小生の行動には何等不正なる処なし」

 国立松戸療養所は、JR総武線本八幡駅からバスで20分、高津新田の林のなかにあった。バス停から並木道が続いていた。ほとんど人が歩いていないこの暗い道を歩いていると、だんだんと心細くなってきた。まるでこれから「魔の山」に入るような、そんな気にさえなってきた。
 平たい建物の玄関で入所手続きを終えて、自分が入ることになる六病棟に向かった。病棟と病棟をつなぐ廊下がとても長く感じられた。

「六病棟九号室、八人部屋の一人となる。妻のスカート姿忘れがたし。俳句について同病者と語る。句会に出席をすすめられる。「魔の山」の如くここに何年滞在するや、周囲広々とした葉茂り、閑静なり。涼風通り、さわやかなり。騒音なし。中央病院より快適なり。」(7月12日)

 病室の人たちにあいさつをすましたあと、もってきた本やノートを整理したあと、長谷川は、詩人の吉田一穂が、ドン・コザック合唱団へのサリューとして書いた詩を壁に貼り付けた。この時ラジオから、ドン・コザックの「ヴォガージャガ」が流れてきた。長谷川の目から涙があふれでてきた。

「私はコーラスをきいている裡に自ら涙が流れた。私は涙を拭いもせず、枕にしみこましたまま棺の中の人の如く静臥の姿勢で「放浪者」を傾聴した。云わばドン・コザックと私の病気は一体環となって私の体内に一つの宿命として巣くっているのだ。そのサリューの詩を療養所の壁に持ちこむことが、私の魂の支えとなっていた」(『療養記』)

 歌舞伎町のど真ん中にある病院とはちがい、閑静な自然につつまれると、心が落ち着いた。しかしまわりが結核患者だけということに息苦しさを感じたのも事実であった。それは、もしかしたら、自分はもう治らないのではないかという不安にもつながっていく。

「7月18日 年を取ってからの結核は辛い。時間が迫って来るように思われる。」

「7月19日 脱走したいのだ。なじめないこの生活。何故人々はかくも浮き浮きとこの所内に生活しているのであろう。僕にはあきらめきれない。僕の病は治るのか、どうか・・・
迫る時間に追われるような焦慮だ。」

「7月21日 何と中心のない漠たる生活であろう。この生活に堪えるには無神経になるよりほかなし。わいざつと放漫とたよりない生活。死んでいる生活。しかも生きるために病人は闘っているのだ。」

「7月30日 病を友とせよ。人間は病める葦である。病は病によって救はる。病に生きて病を克服する。」

「8月12日 死を思う。俺が死んでも合歓の花は咲き、蝉は鳴き、人々は笑ったり、生まれたり、恋したりするであろう。」

「8月30日 ああ、とにかく退屈で出口なし。自己嫌悪。自作忌否。劣等感。」

「9月11日 十号室の大塚氏死す。無常迅速なり。死は常に私の傍にいる。」

「9月13日 病気への恐怖は死に通ずる。しかし死を同伴する事が人生の日常である。」

 死と隣り合わせに生きている、そんな日常、それが療養所での生活であった。挫けそうになる時、支えとなったのは、吉田一穂の詩だけではなかった。
 療養所の石門のそばに、一本の巨木があった。廊下を歩きながら、この木を見ているうちに心を奪われる。丈が高く、気品があり、三角形の立体美が、北方の凛々しさをにじませていた。北方で生まれ、満州の地を遍歴してきた長谷川にとって、北方の峻厳さを感じさせるこの巨木は、病に挫けてはいけない、きびしく生きよと語りかけているようだった。ある日この木に見とれていたとき、通りかかった中年の患者が、この木が「槙」であることを教えてくれた。

「槙を発見して以来、廊下散歩の度に私は窓によって、その姿に見とれた。それは病める私に忍苦と風雪に堪える心掛けを説得しているように思われ、時にはベートヴェンを思い出した。私はその槙にツァラストラと云う名前をつけた。私はその木にオゾン豊かな高山の北方を望見していたから・・・」(『療養記』)

 最初のころはなじめなかった療養所生活だったが、まわりの雰囲気にうちとけるようになってきた。俳句の会をはじめ、療養所内で開かれるいろいろな集いにも頻繁に顔を出すようになる。かつて北方を航海したときと同じように、日記に詩や俳句のメモが多く書き留められるようになる。長谷川はなんとか病気と調和しようとしていた。ただ実際は心細かったはずだ。松戸療養所で書かれた日記に、いくどとなく長男満の死の思い出が綴られているのは、親として自分がなにもしてやれなかったという悔いのほかに、身近に接した死のリアリティーが、いま自分にも迫ってきているという実感だった。生きたい、この病に打ち勝ちたいと思っても、意志だけでは乗り越えることができない。ドン・コザックを呼んだという誇り、ツァラストラと名づけた「槙」の木の凛々しさだけでは、この死の不安を乗り越えられなかったはずだ。生きる勇気を、温もりをもって与えてくれたのは、妻文江であった。長谷川にとって、この療養所生活で最大の出来事は、並木道でかわした文江との口づけだった。

「10月7日 バス停留所まで送る。私は文江の手を握った。彼女の手はごつごつしてまるで男の手のように硬かった。荒い仕事をして、働いている手であることはすぐ分かる。それに反して私の手は、女のように柔らかく、すべすべしている。手を握りあった時、私は生活について考えた。(これじゃ、まるっきり反対だ。柔らかい手をした男が硬い手の女の手に握られている)サナトリウムを訪ねて来る妻の手に私はいつも感謝してる。・・・
 私は暗い道で文江にキスした。彼女から唇を近づけてきた。私はポグラ時代よりもっと激しいショックを文江に感じた。病気のせいであろうか。この年で私は若い時よりも彼女に強いショックを感じる。
 そして一途に彼女を愛したい情緒に身震いするのはどうしたわけであろう。第二の青春が二人の間に来た。別れの時も彼女は若い娘のように別れのあいさつを私におくる。
 女は愛されることで、愛らしく、そして幸福になれるのだ。文江は私の病気で自分を復活させたし、私も病で彼女に集中した。
 何と曲折ある長い結婚生活であったろう。三人の子を亡くした二人の間柄は、やっぱり愛の絆でむすぶ。軽率、不誠実、不信、憎悪、別れ、危機・・愚痴・・・一切を清浄化した私の病気よ。これから私の真の生活がはじまる。生きる道の典型が五〇才からひらけるのだ。人々は五十でもう完成の域に達して、満足してるかもしれない。私はこれから私なりに、新生の道を踏みたいと思う。
 この病は私にとって、天啓かも知れない。これが唯一のチャンスであろう。文江よ!真かりと手を握り合って行こう。最後の点まで・・。年をとることは、若くなることである。年令ではない。円の周辺を行く人生の輪廻よ。病の意義を発見せよ。」

 文江はこの時、決して同情とかいたわりの気持ちで、自ら唇を近づけたのではないと思う。自然な気持ちだったのだろう。たぶん、それは文江の、精一杯の愛の表現だった。まぎれもない愛だったからこそ、長谷川は感動したのだ。
 このキスが、どん底に追い詰められた男を、救ったのである。うちひしがれた男に生きる勇気を与えたのである。
 この時長谷川は、またしてもすべてを失っていた。ドン・コザック合唱団の成功の栄誉も、当然受取るべき報酬も、友情も、そしてなによりも健康を失っていた。その時長年連れ添った妻がよせてきた唇の温もり、それが、彼に生気を取り戻すことになった。これは「療養記」にも「ある夢想家の日記」にも書かれていない。「青鴉」だけに書かれていることである。長谷川は、5冊目となる「青鴉」にこんなことを書きはじめている。

「12月22日 生きる自信を得た私――病気のおかげで私は働くこと、ものを云って行動することの自信を得た。これからだ、私の人生は。」

「12月31日 今日が一九五六年の最後の日なり。今年は五月七日までドンコサック。七日以後は病院に終わった。これもよし。一切は終わった。
 松戸サナトリューム生活は私には意義があった。よむよりは見ること、考えること、書くことを学んだ。
 病者とは何人なりや?病気とは何。病理学は存在する。しかし人間の肉体とオルガニズム、魂は別個に存在する。詩と、ことばの差。そんなものである。本年は私の人生に於いて意義深い年である。この年を踏み台として来年に飛躍する。」

 長谷川は、1月12日、およそ半年の療養生活を終えて、退院する。せっかく見つけた天職とも思ったAFAという仕事も失い、またしてもお先真っ暗ななか、彼には生きる意欲が残っていた。
 長谷川は、そんな思いをひとつの詩に託す。退院の前日に書かれた詩は、唱歌「槙の木」と名づけられた。

唱歌「槙の木」

一、高塚の丘の上に
  そびえたつ槙の古木よ
  病癒す人々に
  愛のことばをささやき
  その心のうるはし

二、嵐にも堪えし 梢よ
  空高く 雲と語り
  病の窓に そそりたちて
  強く生きよと 示しつつ
  その姿の 雄々しき

三、病癒えて 丘を去る人
  仰ぎ見よ 別れの間際に
  みどりなす 槙の古木を
  家路急ぐ人を見送る
  その情ぞ ゆかし

国立療養所松戸病院記念碑
国立療養所松戸病院記念碑
旧病棟
旧病棟

 この歌を読んで、これだけ長谷川に勇気を与えた槙の木を見たいと思い、松戸の病院を訪ねてみた。しかし平成四年に松戸国立療養所は閉園し、現在は東松戸市民病院に生まれ変わっていた。白塗りの見るからに新しい病院の裏に、二階建ての古い病棟が四棟、長い廊下で結びつけられていた。長谷川はこのどこかで療養していたのだろう。中庭に国立松戸療養所の碑があった。しかしどこを見ても長谷川が「ツァラストラ」と名づけた威容を持った槙の木はなかった。おそらく病院を改築する時に伐られてしまったのだろう。
 退院する時、再生への決意をこめて、この槙の木をなんどもふりかえりながら、「死して成れよ」というゲーテのことばをかみしめながら、松戸の療養所をあとにした長谷川であったが、このあとも、一度長谷川の身体に巣くった結核という不治の病は、年老いた長谷川を蝕んでいくのである。六年後の1962年に阿佐ヶ谷の河北病院に五ヶ月、69年には小金井の桜町病院に七ヶ月間と長期療養を余儀なくされ、そして72年に三度入退院をし、死を迎えることになった。
 入院するたびに、死が確実に近づいているのを感じながら、長谷川はいつもゲーテのことば「死して成れり」を、なんどもなんども日記に書き留めながら、病と闘おうと自らを奮い立たせるのだった。
 喀血、そして入院は、「全世界の芸術を愛する人々と互いに結びあいその人々が国境を肥えて、純粋な美を分かちつつ未来の建設に務める」というアートフレンドの夢も、打ち砕くことになった。彼に残された道、それは文学しかなかった。退院した長谷川は、猛烈な勢いで詩を、小説を書きはじめるのである。


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