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【連載】長谷川 濬―彷徨える青鴉

第14回 風の人

 一九六二年四月二日の夜、長谷川は血を吐く。この二、三日前から血痰がでていやな予感はしていた。

「四月二日 風呂に入る。AfAの帰り、国電車内にて汗おびただし。むしぶろなり。(これ命とりなり) 夜、小喀血す。心細し、みんなの名をよぶ。哀れなり」

 翌日近所の河北病院で診断を受けた結果、胸に空洞が発見された。松戸療養所を退院してから、五年後の再発であった。せっかく生活も仕事も軌道にのりはじめたときだったのに、またかという思いにとらわれたはずだ。四月六日長谷川は河北病院に入院する。
 再び入院するまで、相変わらず豊かとはいえないが、生活は落ち着きはじめていた。松戸療養所退院直後は、航海にも出れず、アートフレンドとも決別し、生活が不安定になり、一時期荒れた生活を送ったこともあったが、一九五七年八月から再び航海にではじめてから、生活は次第に安定してくる。再入院するまでは、春から晩秋まで、サハリン、ナホトカ、アムール河へと航海をつづけていた。ソ連木材の需要が高まっていたこともあり、長谷川は一年のうち四ヶ月から五ヶ月海上生活を続けることになる。松戸療養所退院直後の一九五七年四月には、杉並区成宗に引っ越し、ストレスの原因ともなっていた母や妹との同居生活に終止符をうち、小さいながらもやっと自分たちだけの家で暮らすこともできるようになった。
 子供たちもそれぞれ成長し、自立していった。長女の嶺子は病院勤務、次男の寛も一九六二年には就職、三男の瀏は料理人の道を歩んでいた。

 一九五九年冬から長谷川は、袂を分かったアートフレンドで、航海のない秋から春まで嘱託のようなかたちで勤務しはじめる。ドン・コザック合唱団の公演終了後、自分が病に倒れたこともあったのだが、神のやりかたに不満をもち自らとびだすことになった長谷川であったが、その後ボリショイバレエやボリショイサーカス、レニングラードフィルの招聘により、まさに国内に旋風を巻きおこしていたアートフレンドの進撃ぶりを見て、いてもたってもいられなかったのかもしれない。招聘業務、営業、現場の仕事に長谷川が首を突っ込むことはなかった。彼が入り込むすき間はなかった。もっぱらアートフレンドが発行していた機関誌『アートタイムス』の編集やら、翻訳の仕事をするだけだった。
 快進撃を続けていたアートフレンドだったが、六〇年安保闘争の真っ只中に公演することになったレニングラードバレエの公演が、失敗に終わり、苦境に立たされる。しかも神のワンマン経営に反発する社員たちの不平不満が爆発寸前のところまできていた。神は、自分のやりかたに反発していた社員を、営業不振を理由に一掃するという手段にでる。興業の失敗に乗じての荒技であった。一九六〇年八月一四日神は、長谷川とともにドン・コサックを呼んだ岩崎他七名に退職金を払い解雇する。翌日事務所を訪ねた長谷川に、神はこう言ったという。

「8月15日
アートフレンドの新しい事務所に行き、神に会う。「しゅんさんはくびにしないよ」と。相不変」

 また神の気まぐれがはじまったかとは思ったものの、悪い気はしなかったはずだ。神は、新しい体制のもと結束を固めるため箱根社員旅行を敢行する。そこに長谷川も誘っている。

「8月19日
十六時小田急にて箱根湯本きのくに屋に泊まる。一同のみ、うたい。各個々分室して語る。雨の音をきいて談論風発なり。神を攻撃、批判す」

 長谷川には、アートフレンドでやりたかったことがいくつもあった、芸術に関しては、俺の方がずっとわかっているという自負もあったはずだ、その思いをぶちまけたのだろう。この時神も、長谷川の話に熱心に耳を傾けていた。そんな手応えがあったからこそ、彼は生活のために再び航海にでることがもどかしくてしかたがなかった。

「9月24日
通訳門司にて転船されたしとの意向の由。私は下船。一路東京へ帰り、AFAの仕事に専念の決意なり。
25日
私はAFAの仕事をしなければならない。ことに十月より多忙になるのである。故に今回はこれで通訳の仕事は打ち切りたいのである。」

 しかし長谷川は、アートフレンド一本でやっていくことはできなかったのである。東京オリンピックを前にして、日本には建設ブームが訪れ、ソ連材木の需要はますますたかまっていた。相次ぐ乗船依頼を、長谷川は断ることができなかった。そしてレニングラードバレエの失敗と社員の反発で弱気になり、かつての盟友長谷川の力を必要としていた神も、また自信を取り戻していた。一九六一年正月に、アメリカの黒人ジャズ、アートブレイキーの公演を大成功させ、さらにはこの年夏呼んだボリショイサーカスは、空前のヒットとなり、いまで言えば数十億の収益を得るなど、彼の呼び屋人生の新たな幕がまた上がろうとしていた。長谷川の助言もロマンチズムも神にはもう必要なかった。
 長谷川はまた六〇年八月以前と同じように、アートフレンドで翻訳やら編集といった仕事につくことになる。当然面白みのない仕事だった。
 そんなストレスがたまった時の入院だった。今回は九月一五日までおよそ五ヶ月入院することになる。
 長谷川は入院直後の四月一〇日の日記に、わざわざロシア語でこんなことを書き留めている。

「昼も夜も横になる。未来のことを夢見る。ただ未来を。他はなにもない。」

 長谷川が入院中に、神は売り出し中の女流作家有吉佐和子と結婚している。まさにこの世の春を彼は手にしていたのだ。
 有吉と長谷川が結婚式をあげた日長谷川は、日記にこう書き留めている。

「4月20日
本日神彰の結婚パーティ。彼にはがきを書き、中央公論を求め、有吉の一文をよむ。中々用心深い。思わせぶりだ。ドンコサック合唱団当時の神を思う。彼は一個の怪物だ。」

 長谷川は病床で、有吉佐和子との結婚、そして前述したように、同人のひとりの芥川賞受賞という、近しい人が手にした栄光のニュースを、ひとりひっそりと受けとめていた。自分のもとにおこるはずだったドラマは幕をあけてすぐに、おわりを告げた。
 この年の9月15日長谷川は退院する。再び長谷川は、AFAに通いはじめる。
 しかし長谷川にとってAFAは、決して居心地のいいところではなかった。

「10月31日
今日で十月終わる。
AFAは村八分の黙殺。ねばるだけ。明日からがっちりとAFAにでる。と決心する。つまらないが食うため。」

 有吉との結婚で、この世の春を謳歌していた神であったが、この結婚が1年後のAFA解散の引き金をひくことになる。いままで神を支えてきた木原、石黒、富原、工藤といった幹部社員と神の間の溝が深まり、さらには結婚直後に公演したアメリカの大西部サーカスが大コケし、いままでの貯金を全部吐き出すばかりでなく、莫大な借金までつくりだしてしまう。かつてのような梁山泊のような雰囲気はなく、社内には内紛のキナ臭い匂いがたちこめ、ピリピリしていた。そんな内情も知らず、長谷川は、ひとりただ生活費を得るために、AFAに通っていたのである。

「10月3日AfA赴き、すぐ帰る。用なし。
4日AfAに行く。松田君戻る。相不変。殺風景なり。
9日AfAに行く。AfA事務所は荒れ、木原独りいる。相不変、人づき悪く非文化的表情。
16日AfAに赴き、原稿渡す。すでにレイアウト済。ハチャトリアンのことをしらべる。木原のヒステリー嵩じている。
22日AfAに赴く。月給不渡。西部サーカスで大欠損、手形発行のため信用なし。木原、富原君ボソボソ話しおり。荒廃の色あり。どうせ興行師だ。こんなこともあるだろう。
24日AfAで5,000円前借り(7月分給料より)
東洋で飯。細川、長さんと。
11月1日AfAに行く。月給でる。5,000円返す。石黒君に会う。
8日AfAで原稿書く。細川、東とそばたべる。神のウクライナみやげのシャツをうけとる。
22日AfAに行く。相不変。月給なし。いまだガトーフ(ロシア語)なし。ピンチか?
12月1日AfAに赴く。給料(ロシア語ジェラバーニエ)をとる。石黒、東と昼食をする。給料も遅配が続く。
3月28日
AFAに赴き、細川と会う。
4月19日
細川君と東京温泉に入る。月給貰う。ほんのちょっぴり。
4月25日
終日在宅。AFAにやるべき仕事なし。神と木原でやるべし。その他は雑魚役なり。どうせ呼び屋の仕事だ。」

 長谷川はAFAに、そして神にただならぬ異変が生じたことに少しずつ気づく。この時確かに神は、人生最大の危機に面していたのだ。いままで興行界に旋風を起こしてきた神であったが、大西部サーカスの大失敗、彼を支えていた幹部の離反にともなう分裂、解散の危機、それはやっとくどきおとし、作家として思う存分に活躍させるために結婚したはずの有吉に借金させるという、彼にすれば屈辱的な事態にも面していたのである。ただこんなことは長谷川にとってはどうでもいいことだった。生計をたてるために、彼はAFAに通っていたのである。
 二度目の入院のあとに書かれた日記は、作品の構想メモ以外はAFAでの出来事が中心になっている。ここにしばしば名前がでてくる細川の存在が、長谷川にとっては慰めとなる。
 細川剛は長谷川のことをこう振り返る。

「濬さんのことは忘れられません。ずいぶんと可愛がってもらいました。自分がAFAをやめてからも、よくサハリンとかナホトカからハガキをもらいました。そういえば濬さんが出した詩集も送ってもらったりしました。あの時濬さんは56才をすぎたばかりだったのではないでしょうか。でもずいぶん老けてみえました。年を聞いてびっくりした記憶があります。
よく覚えているのが、神さんが有吉さんと結婚することになって、濬さんを紹介するとき、「朽ちかけている巨木だ」と言っていたことです。神さんらしいですよね。濬さんのことを見事にいい得ていたことばだと、思います。」

 そしてAFAは解散に追いこまれ、神は最愛の女性であった有吉とも離婚する。

「6月26日
才女有吉、神と別れる、屁理屈の利口馬鹿なる女かな。
やりこめてやっつけてよろこぶ才女かな。何処見ても債鬼に見えて梅雨ぐもり」

 長谷川にとって、アートフレンド、そして神の存在はなによりもかけがえのないものだった。そこに夢を賭けたのだから。
 58才の誕生日となった1964年7月4日の日記に彼は、こう書いている。

「今日でぼくは五十八才、五十八回の誕生日である。これから文学手習いに入る。AFAの夢敗れたり(昭和三〇年−三九年)」

 さらにこんなことも書いている。

「7月14日
俺はAFAを創り、それに魂をふきこみ、スローガンを作り、AFAを愛した。だから最後まで踏みとどまった。沈没するまで。AFAは終わった。だから去ったのだ。神、何物ぞ!ハム野郎!」

 悪いのは夢をビジネスに変えてしまった神彰なのである。ただ夢を実現できたのは、神のおかげであったことを長谷川は知っていた。でも、と彼は思う。

「7月15日
俺は勝った。AFAの仕事は俺のスピリットで大衆にとけこんだ。神は金と名利にのみ売ったユダヤ人だ。」

 AFAが解散し、神が有吉と離婚したことを知ってまもなく、長谷川は2年ぶりにまた木材船の通訳として船に乗りこむ。それは神彰という男、そしてこの男と一緒に夢をみた、AFAに訣別するための旅でもあった。

「7月24日(1964)
昨夜夢を見た。神彰が家を持ち、そこに仏像あり、町の人々参詣に行く。香煙立ちけぶり、幕かかり由緒ある仏像立つ。子の名を改め、その名を額にして架け、一見御堂として町内の賽銭集め、彼らしい商魂なり。
彼は宝石貿易に従事するならん。金に欲深き彼のやりそうな事なり。
芸術家を種に金をもうけ、まわりの人々を傷つけ、今度は宝石でひともうけの企みも彼らしい。
僕の理想であったアート・コンシールはついにつぶれたが、僕のドンにもやした情熱は生きて花咲いたと信じている。金がすべてではなかったのだ。AFAの存在理由はあった。僕は僕のペースで働き、その力を出し、それが大衆にしみこんで行ったと信じている。一つの地下水として・・。それでいいのだ。過去十年に亙る彼との関係や痕を清算せよ。有吉なる女性を観察したのは面白かった。彼女は利口であるが、足の裏にも目をもっている女で油断できない。揚げ足取りの名手で色々な手を知っている女。あれが出しゃばると、もの事が絶え間ない。だまって小説でも書いておけば無難であろう。神も大した女を妻君にしたものだ。まさに才女にしして女怪と云うべし。
本航海はAFA、神との清算洗脳によきモチーフなり。神彰―あの不可解な目付、人に対するけもののような無関心、吃水の深い欲望の胴体のふくれ具合・・もう沢山だ。チョルト、ヴォズミー。」

 AFAの解散は、長谷川に少なからずショックを与えた。どんなに神のことを口汚く罵っても、長谷川にとって神は、不可能を可能にする、怪物であった。この男に挫折なんてありえなかったはずだった、その男が敗北したのだ、それも完膚なきまでに。
 神という男、自分を利用するだけ利用し、コケにしてきた男の敗北に、普通の人間だったら、ザマー見ろとでも言いたい時に、長谷川は、どこかで寂しさを感じていたはずである。
 束の間とはいえども夢を実現したアートフレンドが解散し、陸上での拠り所を失うなか、最後に戻れるところ、それは海であり文学であった。生活のためでなく、書きたいことを、書かなければならない、そんな思いにとらわれたとき、青木實から文学同人誌『作文』の同人にならないかというはなしが舞い込む。

 『作文』は一九三二年に大連で安達義信、青木實、小杉茂樹、町原幸二ら七名を中心にして創刊された文芸同人誌で、一九四二年十二月に発刊された五十五号をもって終刊となった。長谷川濬も同人として詩や評論を中心に作品を発表していた。第二号から同人として参加した秋原勝二が青木に働きかけ、一九六四年八月に『作文』は復刊する。現在も『作文』を主宰する秋原は、この『作文』復刊の経緯についてこう語っている。

「一九四六年九月に日本に引き揚げてきて、苦労の連続でした。なかなか仕事が見つからず、生活するのがやっとの状態でした。満洲から引き揚げてきた人はみんなそうだと思います。やっと定職が見つかって、なによりうれしかったのはまた文学に取り組めるということでした。『作文』を復刊して、また小説を書きたいと思ったわけです。それにはやはり創刊のころから中心的存在だった青木さんに一肌脱いでもらわないといけないわけです。青木さんを説得して、やっと復刊にこぎつけました」

 現在(2006)九三才になる秋原は、いまもなお同人誌『作文』を発行し続けている。(2006年現在192号)秋原もまた長谷川と同じように、文学だけを拠り所にしていた。
 長谷川が『作文』の同人となり、最初の作品、詩『虎』を発表するのは一九六五年に発刊された「作文復刊三集」からである。これから一九七三年に亡くなるまでほぼ毎号、長谷川は、詩、小説、エッセイなど作品を発表し続けるのである。晩年の文学生活は、『作文』と共にあったといえる。
 『作文』に彼が発表した作品は、詩が13編、小説が7編、エッセイが11編となっている。『文学街』、『文学四季』の同人のころは、小説を中心としていたが、『作文』では、詩やエッセイが多くなる。無理やり物語をつくるのではなく、ありのまま自分の心象風景を書こうという姿勢がみえる。こうした文章は、肩の力が抜けてきたのだろうか、満洲時代にバイコフを訳したときのような、あの凛々しい文体が蘇えってくる。『作文』で発表された小説も、虚構をつくりあげることにあくせくせず、自分の生きた道をたどりながら、そこで彼が見てきたもの、感じたものをふくらませるという手法に徹している。

 『作文』で最初に発表した小説「船首像」は、函館時代の少年時代、青春時代の思い出と、兄海太郎の思い出を重ねあわせた佳品となっている。
 主人公のみねは兄の金太郎が大好きだった。兄は商船学校航海科の生徒、船と海をこよなく愛している。卒業を間近にひかえ、喧嘩で退校処分を受け、カムチャッカに向かう帆船神徳丸に乗り込むが、最初の航海で遭難し、兄はそのまま帰らぬ人となる。
 出帆の時、「ガンガン寺(ハリスト教会のこと)の裏庭に行け」と言い残した兄のいいつけ思い出したみねは、兄が消息を絶ってからしばらく経ったクリスマスの夜、ガンガン寺を訪ね、そこで兄が乗った船、神徳丸の舳先につけられた白い女の船首像にかたちを変えた「神」と出会う。
 長谷川濬が生まれ、育った函館の街、家の近くにあったロシア正教やカトリック教会が立ち並び、港には外国船が行き交い、船員たちが群がるエキゾチックで、コスモポリタンの匂いがたちこめるこの街の原風景を、彼は書きたかったのだろう。
 函館の少年時代に向き合ったあと、彼にとって忘れられない、満洲時代で一番輝かしい時代となったソ連と満洲の国境の街、ボグラチーナでの思い出をテーマに挑む。それが「風の人」であった。
 「風の人」は、1965年『作文』60号に掲載された。昭和9年新婚生活を送っていた満洲の国境の町、ポグラニーチナを舞台に、長谷川にとって最初の子供となった長女嶺子が生まれたときの思い出が背景になっている。結婚する前の最初の喀血、嶺子誕生のエピソードなど実体験を軸にしているが、風のように現れ、風のように消えていく謎の満人が登場することによって、小説に奥行きが生まれている。国境での生活の緊張感、ここで暮らす若い夫婦の感情の機微、風の人との交流や国境で生きる人々を活写することで、多民族がうごめく満洲の一断面が見事に描かれている。戦後の長谷川文学のある到達点をこの小説のなかに見ることできる。
 戦後、もがきながら何を書くべきか彷徨をつづけてきた濬が、満洲を書くことを自分の定めとしたことで、戦後の呪縛から解き放たれ、ふっきれた感じさえする。
 この作品について長谷川は日記のなかでこう書いている。

「作品「風の人」は古風な物語です。或る奇妙な頭目と私の長女出生のエピソードでベールキン物語のような香気を放てば成功です。
主要な部分は満ソ国境生活の思い出で、恐らく私の若い時、最もたのしい思い出深いポグラニーチナヤで私がはじめて父となったよろこび、子の成長に伴い、一人の頭目との短い交流と彼の処刑で終わる短編。
プーシキン的、或いはメリメ的に書けたらと思いつつ執筆した作品です。
面白い処は処刑される頭目の老人が時々ふと現れて成長する子供(私の長女)をあやし、忽ち去って行くことである。この描写は簡潔で一つの無駄があってはならない。短い会話、動作、そして消えていく男。風のように・・・。」

 満洲時代に書いた彼の代表作「家鴨に乗った王」を思い起こさせるこの満人を描くなかで、自らも「風の人」であった長谷川は、この小説を書くなかで、確実に自分のテーマに近づいていた。「風の人」が彷徨った『満洲』である。
 作家長谷川濬が書きたかったもの、書かなければならなかったもの、それは満州時代の回想、海、そして死の体験だった。「風の人」で満洲の思い出の断面を書いた長谷川は、この三つのテーマを交錯させる作品に挑む。それが、「夢遊病者の手記」である。
 「夢遊病者の手記」は、1966年「作文」復刊9集に掲載されている。「夢遊病者の手記」は、1955年喀血し、救急車で病院に運ばれた時の体験をもとに、敗戦後の引き揚げ時の回想を織りまぜながら、満州時代の自分は一体なんだったのかをつきとめようとしている。病室から海を想うシーンもあり、彼のテーマがひとつの小説に凝縮されたものであると言っていい。
 この「風の人」、「夢遊病者の手記」は、ありのままの自分を見つめなおそうという意志が貫徹し、まだ推敲する余地はあったといえるが、戦後の長谷川文学のある到達点をなした作品といっていいだろう。
 風の人であり、夢遊病者でもあった長谷川は、書かなくてはならないものを、そして書きたいものを書き続ける。まさに無我夢中に。それを『作文』の編集部に送り続けていた。
 『作文』の編集をしていた秋原はこう回想する。

「濬さんは、編集部にすごい勢いで原稿を送ってきました。ただそうした原稿は、できあがったものじゃなくて、草稿に近いようなものもたくさんあったのですよ。ほんとうに読むのだけでもたいへんでした」

 『作文』に毎号のように原稿を送るだけでは、長谷川の書くエネルギーはおさまらなかったのである。何故なら、まだ大きなテーマ、王道楽土に夢を賭け、完膚なきまでに打ちのめされた「満洲」に正面から向かっていなかったからである。


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