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【連載】長谷川 濬―彷徨える青鴉

 
長谷川濬 作品1

「夢遊病者の手記」
 
―― 君の幸福には仕掛がある、不幸が君に仕掛する ジャン・コクトー ――

 血がどんどん流れ出て止まらなかったらどうしよう――まわりが血の洪水で家具もプカプカ浮かび、その中に私が泳いでいたら・・・――生臭い血の匂があたりに立ちこめてどんよりと厚い層となって私の身体にのしかかって、ぶくぶくと泡立ったり、音を立てたり・・・私は白昼の街路を横臥したまま病院に運ばれる車の中で、血の洪水の妄想にとりつかれていた。赤い洪水が街角から津波となっておそいかかってくる・・・高潮――それが血だ。喀血してから、私は血に敏感だった。血を喀きながら、(これが喀血なんだな)と自分に云ってきかしていた。車は停車し、警官の呼子で、動き出す。私は目をつむり、水平体になって街路を横切っている無数の車と自転車が並んでスタートを待っている神経性の停止線――私はあの断面に憎悪を感ずる。都会のけもの達が獲物を狙って待機しているずるそうな目付!あれが人間なものか!畜生。私は絶対安静の病状のまま病院へはこばれているんだ。血の妄想に駆られて、この車が霊柩車ならば、このままの姿勢で火葬場のかまどへ運ばれるんだ。燃えさかるボイラーの火口にちらつく炎!あれこそ火炎地獄だ。そこへぽーんとすべり入れられる私。私はもう人間でなくて単なる物質だ。では魂は、魂は肉体の中にあったんで、肉体の機能が停止したら、魂の動きもストップ。永久の停止さ。それで万事完了。「ワンラマ」私は昔大陸で習ったシナ語を発音してみた。まだ生きてる証あり。寝台事に横臥したまま、私は交通戦争の第一線を突破している。私の周囲に七月の陽を浴びた都会人がうようよと動いている。人間臭い真只中だ。血、血!私は血の妄想につきまとわれているがいやでない。むしろたのしい。血とは何であろう。私は血液学者でない。分析すれば方程式や化学記号の図式で明瞭だ。私の血への妄想はメタフィジカだ。
 あらゆるもの変化する。花に女に詩に海に・・・。喀血して金だらいの洗面器に自分の血を見た時、これは俺の分身だといや、俺自身と見てなつかしく、いとおしく惜別の情が湧いた。俺をあたため、俺の生命を維持してくれた血よ。ありがとう。車は疾走している。私は叫んでいる。
 「どけ、どけ、けだものたち、肺病さまのお通りだ。どかないとうつしてやるぞ!」私は死人のように動かない。死人はこんなかっこうで、冷たくなって物質化した人間のことだ。私は友人の死顔をたくさん見た。不思議だ。つい昨日まで一緒にのんだり、ふざけたりしていた友が、いきなりだまって冷たくなっている。生と死の境はちょっとしたづれなんだ。つまり死は俺の隣りにいつもいるんだ。花や草にかこまれた友の死顔。蝋細工そっくりだ。
 私は寝台に横わりリフトにのせられて七階に上昇する。はじめ地下室に下降してレントゲン写真を横臥のままとられた。リフトがとまり、廊下をすべって病室へ。そして病院のベットに移された。真向かいに窓があって空ばっかり。
 私は隔離された。七階の一室に。巡回の医師と看護婦と付添婦とみんな白衣だ。「ナタナエルよ!」と私は云った。細い声で。架空の人物の名だ。誰でもいい。「死にたくない」と叫んだ。何たる感傷か!私は病人の国を外国として見ていた。処が私自身が病人であったのだ。しかし、チェホフは病身でサハリン旅行を企て、実行した。ジードはアフリカへ、私は病院へ入るとは!
 肺が内部で動いている。機械のように。誰が動かすのだ。私か、いや、私ではあるまい。肺自体が、他の内臓機能との連体作用として歯車が伝動している。生命力で・・・。生命力だって?それは血か、意志か、神か、私には分らない。貝も動く。アミーバーも。何のために?生きるため。そして倫理道徳宗教文学政治経済恋愛革命・・・ぼう大な人間社会が私の病める肺にのしかかっている!アミーバーよりレーニンまで。私はベットに動かない。
 私はかつて海底映画を見た。氷の倉庫である。水漬けになった生物がいる。ふじつぼの群生はすばらしい。無数の触覚が岩上に動いている。風にそぞぐ麦畠そっくりだ。ウクライナの大草原を連想する。細胞組織の活動!それが海底で生命を躍動さす。彼等は考えているだろうか?
 ブラインドがしまった。「安静時間ですよ」私は目をつむる。白昼に病人は夜の仮面下でにせの眠りに入る。
 私の魂は安静しない。病院の窓からとび出して勝手に遍歴する。地球を測る。天路歴程のメリーゴウラウンドだ。ベガスに乗り、ジープに乗る。いかだに乗り、死の舟にも乗る。心は肉体の命令をきかない我がまま者だ。手に負えないあまのじゃくである。
 ドクトルの老巨匠が巡回して来た。多くの権威者と従者を引きつれて。一種の儀式だ。私の肉体を標本の如くいじり廻して、ドイツ語で命令する。堂々たるドイツ的風貌だ。ヒンデンブルグか、マッケンゼン元帥の如くドイツ的だ。すべてドイツ語。みんな平伏して記帳する。お墨つきか、教祖か。標本を検察した巨匠は患者に一べつをも与えず出て行く。看護婦が毛布をかけ、つくろってくれる。
「あのドクトルは?」
「大家ですよ。」
「ぼくの容態は」
「知りません。全部ドイツ語です。」
「成程。するとぼくの病気はドイツ製で・・・」
「そうですわ。あの方はドイツに留学したえらい方です。おだまりなさい。絶対安静ですよ」看護婦は出て行った。
[俺はテーベーの標本なんだ。珍種か、並種か。知らない。新薬・新療法のテストケースとして臨床医学上のモルモットにすぎん]
 この病院は街のまん中だ。アパートと商店と住宅が路と交錯してびっしり建っている。病院のきわまでひたひたと寄る人間の波。渚にそそり立つ崖――これが病院だ。幼稚園のピアノの音。バスの音。子供の声・・・。
 私は夜に少女の声を必ず、十二時頃きく。「行ってらっしゃい、パパ」それだけ。後は沈黙。私の病いの胸に一石が投じられて波紋となって拡がる。
「行ってらっしゃい、パパ」父は家を出て夜の職場に向う。夜警か、夜業か、交通機関の運転手か・・・。闇にのまれる父。見送って扉をしめる少女。このことばが毎夜一定の時間にきこえる。生活の波紋。暗い谷間からもりもりと私の病室へ入りこんで来る。父を送り出した少女は眠るであろう。父は朝まで働くのだ。私はこの声に期待している。おまじないみたいに。どんな少女だろう。まだ女にならない不思議な少女の生理。この崖のまわりには諸々の人間の声やうめきが打ち寄せている。幸福や不幸やその他もろもろの生きてる波の音。私は少女の声だけをきく。「行ってらっしゃい。パパ」私自身は病人。幸福ではない。しかし、病人は休んでいて人々の幸不幸を見ている。目分のことを忘れて。誰でも病人になるのだ。
 入院二週間で、私は廊下までの歩行をゆるされた。ベッドから床に足を下ろした時、私は歩けなかった。たよりない一片の葦の如くおののいた。弱き者人間よ。[国境満洲里の病院でも同じ経験がある。蘇炳文反乱後の溝洲里市立病院の一室だった。国境の空しい丘と青い空・・・。]私はいま、新宿のビル大景観を廊下を通して病室の彼方に見た。アドバルーンと建設クレンの鉄骨とビルディングの窓、窓、窓・・・。
 それ等を背景にしてベッドに横はるテーベー愚者――男、女の群像。突兀たる人工アルプスを背に彼等は横はっている。ストマイにしびれ、病的に青白く生臭く・・・。私は顔をそむけた。都会は病んでいる。
 私は夜の廊下に立って、新宿の夜景のすさまじさに目をみはった。黒い巨大な山塊のようなビルがそそり立ち、窓には灯、屋上にはネオンの明滅の急テンポと光の放出に彩られた新宿の夜空。その巨大なマッスを背景にして患者は黙々と横はっている、黒い横臥体のシルエート、動かない患者の列。ギラギラとビルの山塊は窓にせまっている。彼等は都会の夜の人工装飾と電灯とネオンに病巣をさらしている。療養でない。一種の拷問だ。あけ放された窓には荒涼たる都会砂漠が立体化してる。こんな処に療養して健康回復するのであろか?
 私はベッドに横はって窓硝子の水玉を見ている。雨がしきりなく硝子を打ち、雨水は水玉となり、硝子に密着してすべり落ちる。絶えず点々と急速に緩漫にリズムとなり、並行して落下する水玉。キラリと光ってすべり落ちる水玉は音楽だ。窓一杯に打つ楽器の音。それは金属打楽器のすんだ音だ。澄み切った水玉の光。これが血であったら・・・窓は血しぶきと血のしたたりで赤い。その血の玉は何を生み出すだろう・・・。血の窓から世の中を眺める病人の眼。私はまだ血に拘泥している。とびちるしぶきが眼の窓硝子に映画的な力点を打っては消え、またとびちり、血の音楽となって私の体内をめぐる[さあ俺を血の中へ放り出してくれ、そして再生したいのだ]私は雨に打たれる窓硝子そのものに化身して、灰色の空にとび出したいショックに駆られる。水玉の落下は無益なのだろうか、オナンの精子のように[リルケ]・・・いや、あやつり人形劇かも知れない。天井から無数に落下する水玉人形の列。チャイコフスキイの音楽だ。水玉の精が地上に下って、これから群舞をくり返して、地上に洪水をもたらす。舞台は水の氾濫と化す。ストラビンスキイの音楽が適切だ。舞台は水の精のバレーに変る。光る衣裳をつげたコールドパレエ団が一斉に群立つ・・・。

 鏡に向い白分の姿に見とれるナルシスよ、お前は鏡に投身するか、鏡が割れてお前を水銀の底に封じこむかも知れない。

 軽度の患者共は望遠鏡でアパートの窓々をのぞく。テーべー的病癖だ。アパートの一室でストリップをやる女。屋上テラスは立見席だ。ピノクルの砲列。彼等は栄養不良で欲求に満ち、都会のすき見にうす身をやつす。目白おしの病人とストリップ嬢。空の下、白昼の都会のまん中で・・・。競馬場のようにさわがしい。

六月十八日(月) 体温三十六度

夜明前の足音

 とぎれた都会の騒音
 幹線の沈黙
 午前四時五分前
 六階病棟の真下
 一つの足音がきこえる
 冴えた私の頭に
 ひびき渡る足音
 それだけが遠ざかるのを
 私は一心にきく
 何人だろう
 夜明前にただ一人で歩く人は・・・

六月二十日

 窓から街路を見る。バスが走る。あのバスにかつて私は乗って都心へ急ぎ、また乗って帰って来た。その時、病院の存在には無関心であったのに。いまはバスも街も家もみんな記憶の柵の向うにある。またいつかあのバスに乗って、病院の窓を新たに仰ぎ見ることもあるだろう。
 距離――点より点へ。一センチの距離、数万キロの距離。宇宙。星と星。男と女。画中の距離。我々は距離に馴れて驚ろかないのだ。
 午前、半身を看護婦に清拭して貰う。彼女は石けんを軽く塗ったタオルで私の胸・手・腹を拭って微温湯で清める。私は赤ん坊のようにじーとしている。くすぐったい。心も・・・。
 人体は一種の機械だ。故障なくフル運転がのぞましい。この機械が思想を生み出すのであろうか。生きてる思想生産器よ。

六月二十一日

 廊下のはしを一匹の小亀が這っているのを見た。七階の廊下までどう歩いて来たか、全く不思議だ。いや、はじめから七階にいたのであろう。病院の廊下を不器用にのろのろと歩いている亀。思いもよらない生物に会ったものだ。亀とは・・・。亀は威厳あるものの如く廊下をゆっくり歩む。看護婦を無視して・・・。
 安静あけの一時。
「俺はほんとうに病気であろうか?」と云う疑念が湧き、この観念にとりつかれた。「俺は病気でないかも知れない。レントゲン写真なんてあてにならないさ。喀血――あれだって一時的生理現象だ。俺は病人じゃない。催眠術にかかって病気だと思いこんでいるんだ。」いま街を歩いてる病人だってざらにいるんだ。

 夜のうす暗い階段――じめじめして光の薄い、ざらざらした階段を鉄の手すりにつかまってゆっくり昇るとき、私はいつもラスコリニコフを思い出して、私が彼に変身してるような気がする。[あいつはこうしてあの階段を昇ったんだ。外套の裏に斧をかくして・・・]
 私はハルビンでロシヤアパートに友人を訪れた時、いつもラスコリニコフの恐怖にとりつかれ、それが却って私をたのしませた。つまり形而上的ラスコリニコフになり切るレアリティが私を超人的英雄にしていた――この錯覚の遊戯にふけるほどアパートの階段はドストエフスキイを再現させていた。
 隣りの病室(個室)の扉が少しあいて、そのすき間から病人の片手だけが見えた。指の長い、青白い、筋張った男の手の指が毛布の上に一つおかれていた。何か運命的な指・・・工ル・グレコの描く殉教者の手の甲と指。音もなく白い風が流れていた・・・。

 私には少女の存在が不思議である。男ではないが女でもない。勿論中間的でもない。一種の妖精かも知れない。激発する青春の核を心身の奥に内蔵させて漠たる憧れのような瞳を濡らし、豊かな髪、伸びた四肢、生臭い青さと風のようなさわやかな体臭。生ぶ毛の生えた頬や白粉気のない肌。足りないことばをつづって人生の無知に怯びえている妖精の無器用さ・・・。陶器のようなビナスの阜をまろやかに白々と露出させて青い海に向って歩む少女。混沌たる不安を裸出させ、物怯じしない無邪気。少女よ、発芽以前の沈黙の淵に身をかがめた妖精よ。君が「女」になる前の渦のような激動の静寂。非女性的存在のエレガントの偶像として私の前に現はれる少女。未完の妖精よ、拙なきことばで花を賛えよ!
 たとえば、白い皿に露に濡れた葡萄の葉を敷き、その上に未生熟の葡萄の実の一房のみずみずしさ。その青い半透明の一粒一粒にみなぎる成熟への願望の充実。

 ああ海へ!海へ出たい。とびちるしぶきと風のうなりと、ゆれ動いてやまない広大な水の世界へ、私の魂を拡大させて自由にする海へ。私はベッドを舟として大海原へ出たい。空高くとぶ信天翁のつばさ。雁行するとび魚の群のあたりに小さい虹が現はれ、消える。潮の香に満ちた帆。張り切るステイのトレモロ。ああ闊達なる航海よ!目にしむインヂゴーの魅力。

六月二十六日

 K主治医療養所移転を許可す。多分来月中に移動すべし。体温三六度五分。

忘れ得ざる風景

 大きな硝子戸。燃えつづけるストーブ。その前に長い浴衣をきている小柄なS・ジャーロフ。
 妖婆のような微笑を湛えてポートワインの盃をはなさない。外は砂浜。波が泡立ち、打ち寄せている。人影もない砂浜。くだける波海を背景に不思議な笑をもらすジャーロフ・・・。
(函館湯の川若松旅館にて)

注・ジャーロフはドン・カザック合唱団の指揮者

 ドン・カザック合唱団が舞台でロシヤの古い民謡“ステンカ・ラージン”をうたい出すと、その時まで静かであった聴衆の中に深いため息のようなうなり声が湧き、それが小波のように全員にひろがりつたわる――しずかな海面に石を投げて波紋がひろがるような感じ――私は舞台の片隅でこのため息の小波の動揺を犇と感じて深く動かされた。大衆の共鳴をこれほどじかにきいたことがない私は、その時芸術家と大衆の直接的感動の交換の純粋の素朴な相を持ちつづけたいと願った。

六月二十七日(水) 体温三六度一分、異状なし

 君は叙情的に
 髪を乱し
 細身のズボンをはいて
 手をふらずに 街を行く
 唇に皮肉な微笑 目は不敵にも冷たく
 風のように歩む
 ああ六月の歩道
 プラタナスの青葉 そよとの風
 濃い眉毛に
 虚無と反抗の影をゆがめ
 ななめに君は歩む
 君は叙情的に
 髪を指先にからみつけている・・・
     (ランボーを思って)

七月四日

 私の誕生日、ジュライ・フォース(July forth)米国独立祭だ。私はこの日北の港町に生れた。五十回の誕生日を病院で迎える。何をなしたか、ナンセンス。
 無蓋車の列とやけつく太陽。ぎっしりつまった引揚日本人のとげとげしい顔、水に喘えぎ、尿意瀕発で蒼白い汗を額ににじませている。ぐったりしてる嬰児。出エジプト記にまさる大陸脱出記だ。胡蘆島へ。海へ。光るレールはのびる。地平線より空へ・・・この日を待ち設けて苦しい越冬の忍従。けいれんしつづける嬰児、どうにもならない無蓋貨車の中だ。これが敗戦民の現実。
 南新京を出る時、丘の上に立って私を見送っていた今村栄治の肩巾広いごついシルエート。あれは忘れられない。
 家畜に劣る密集輸送だ。日中は太陽にやかれ、夜の冷気で忽ち萎えて行く人人の姿。日本人と日本人が物的優劣を競い、自分だけの安全と保護を露骨化する脱出の実相。人間とはこんなものさ。「ふるさとのうた」をうたおうと音頭とってもみんなの心根をむすぶふるさとのうたを実際に日本人は持っていたろうか? 額と額の睨み合い、みんな栄養失調とホームシックで狂気状態の貨車内だ。渡満のときは客船のデッキでサロンで一等船客。帰りは貨車に積まれ、家蓄の如く貨物船のタンプルへほうりこまれる。これが敗戦の現実。七月の太陽も夜風も何と残酷であったか・・・光るレールの長いこと。大陸地平線の悠久さよ。私はただ海へ出たかった。海へ。荒海でもいいそこから祖国へのがれるのだ。あれほど大陸の風土を愛した私がのがれるとは――やはり政治の重圧に堆え切れないのだ。彼等の革命に加担する資格がないのだ。私は挫折した。満州文学に生活に民族にドン・キホーテが古めかしい甲胃を脱いだ時、すでにドン.キホーテではなかったのだ。敗北の祖国日本へ。そこしか帰る場所はないのだ。GHQが管理する日本へ。
 私は昭和七年五月十五日、犬養首相が日本軍人に殺されたその日に門司をたった。私は桟橋で父に最後の便りを書いた。「日本はどうなるのでしょうか?」と。返事なし。そして、昭和二十年八月十五日に天皇が返事してくれた。ポツダム宣言無条件受理だ。七・五月十五日より二〇・八月十五日――この期間に私は大陸への夢を描き生活した期間だ。十五日――十五日これが頭にこびりつく。
 旅に病んで夢は廣野をかけめぐる。
 私はいまベッドで五十回の誕生日を迎え、五・一五事件のショックと八・一五日のラジオ放送をはっきり憶えている。日本はいま急変しつつある。私はこの激流の中に生きてる。日本はどうなる?と改めて私は訊ねる。日本は何処へ?
 私の次女道代は錦州駅の広場で私の腕の中でけいれんしつつ火の如く熱し、やがて息絶えた。早朝の広場は早出の苦力達の朝餉でにぎわっていた。屋台店で彼等は栗がゆをすすり、油揚げをかじり、地面にしゃがみ、例の如く健啖ぶりを発揮して明るかった。私は町医者を訊ねて駅前をうろつき、その在所さえ分からず、いや私の中国語さえも通ぜず、空しく引揚列車に引き返す途中で、次女はたった一年ニケ月で命を絶った。まだ体温の冷めない幼女を抱いて広場を横切った。簡単な中国語さえもただ「不明白」の三語で無視された私は、もう息しない女児を抱えてレールをまたいでいた。引揚日本人の嬰児は殆んど死んだ。どれほどの嬰児が死んだことか・・・宿舎へ収容される前はじめてDDTの撒布、死児に至るまで。そして箱につめて、私が錦州の山に土葬した。私があの地で骨を埋めるつもりでいたのに、幼い次女が身代りに錦州で土葬されるとは、意外なる埋葬のめぐり合わせだ。これが歴史か・・・。
 収容所へ向う途中、重病人達は道の両側に殆んど捨てられ、気息奄々として横はっていた。新京進化街の私の宅に見えたかつての客人も道に横はり、激しい息使いをして臨終の呼吸で引揚者の列を見送っていた。私にとって稀有な風景だった。瀕死の人人がるいるいと横はり、最後の息を吐きつづけてる道を、死児を抱いて歩くとはとても予想だにしない大陸脱出記だ。[あらゆる事態は存在する。]DDT臭気にむせびながら、私達は鉄条網の中ヘぞろぞろ入って行った。そして直ちに使役。
 私は箒をかついで道路掃除に出かけた。
 馬車の行き交う錦州街道を、日本人はかつての苦力の監督下に奴隷の如く働いた。古風な髪をゆった満洲婦人が馬車に乗って驚きの声を発した。
「おやまあ、日本人が働いてますよ。大勢出て」と。子供達が西瓜の皮をぶちまける。
「日本人、掃除しろよ。きれいにやれ」
 私はだまって街路を掃く。文句なく働く。これが最後のおきみやげだ。王道楽土への。
 女子供は宿舎に、男は外のテントに寝た。下は地面だ。アンペラを敷いているだけ。身体が冷える。コレラ流行の兆あり。この収容所へ入る途中、鉄条綱の内側からヌーと顔を出していた先着の関合から逸見猶吉未亡人の死を、また女児マユ子の死をもしらされた。関合はうす茶色の瞳を光らせ、東京下町調のことばで云った。
 「コレラで死んだので誰も寄りつかねえんだ。死体にね・・・。俺とクリスチャンの奥さんと二人だけで世話したよ。」
 「君も妙な囚縁だな、新京では逸見の死を見とどけ、ここでは奥さんのか、残った三人の子供はどうする」と私は訊ねた。
 「ついでに俺が見るだろう。とにかく一足先に日本へ帰るぜ。頑張れよ」私は関合と別れた。逸見未亡人の甘い、泣いてるような笑顔がまだ残っている。まわりは死の匂だ。私の子も死んだ。私は生きて帰らねばなるまい。ここまで来て死ぬことはない。私は食事と飲物に注意した。はりめぐらされた鉄条網は厳重だ。
 錦州収容所にいる間、私は毎日街の使役に従事し、墓掘人夫もやった。暇をぬすんで山地に赴き道代の仮の墓に花をいけて、めい福を祈った。ついに胡蘆島行がきまって一団は貨車に乗り、埠頭につくと、灰色の貨物船がけい留され、タラップはもう人群でびっしりつまっている。一分のすきもない人間の群がタラップをよじ登っている。雨雲が海面から低く這い寄って来ると忽ち大粒の雨が降り出した。雨具の用意ない引揚者はむしろや布を冠って立ち並んでいた。私は赤いロシヤ毛布を頭から冠って立っていた。何時私の乗る順番が来るやら的もなく、延々とつづく人群の動きをいらだたしく眺め、豪雨のまん中に立ちつくしていた。指はふやけ、シャツも濡れ、雨滴は肌にしみこんだ。骨箱を胸にぶら下げた母親達やむしろをかぶった子供等はずぶ濡れになってリバーテー型に近ずくのを目的にして一寸一寸と歩を刻んでいた。潮を含んだ風が海から吹きつけ、灰色の空は低くたれ、時々かもめがとび交わした。タラップは人群でびっしりと蟻のうごめくように頭がゆれ、少しづつ動いている。もはや一切のものを洗い去る豪雨にさらされた一団はわずかの所有品を水漬けにして舷側に近づいて行った。三時間後に船は私の前に近づいて来た。舷門に立つ船員の姿が見えはじめた。そして四時間たったその時、私ははじめてタラップの第一階段に足をかけ、タラップの綱につかまることが出来た。見上げる高い舷側と丸いホールド、甲板に群がる人人、あわただしい足音、整理する船員の声、引揚者のうなり声・・・。
 私は一歩一歩力をこめてタラップを踏み、ついに船員の腕に握られて甲板へ引き上げられた。
 「第二ハッチヘ行って下さい。左の方です」船員に下知された私は甲板を踏んだ。そこにはもうぐったリとうずくまっている人もいたし、狂気の如く走る人もいた。ずぶ濡れのまま人々は自分の場を見付けるべくホールドに殺到した。

 私はホールドの片隅に自分の場をとり、リュックをおいて足をのばした。この船の船艙のどん底に塵の如くふきためられた引揚者はこれから海を渡るのだ。二〇年八月十五日より一途に憧れた海ヘ。いまその海にたどりつき、タラップにおしこめられて大陸をはなれるのだ。私は急な階段を昇って甲板へ出た。タラップには蟻の這う如くずぶ濡れの引揚者が歯を食いしばってすき間なく昇って来る。その顔の真剣なこと、まさに必死の眼である。女も予供も。雨は容赦なく降っている。私は反対側のデッキに廻って海を見た。雨にけむる海はひろびろと大きくひろがり、空までつづき、浪はうねり、静かであった。雨雲に覆はれた水平線はさえぎるものなく南へつづいている。この海、この海に出るべく、あらゆる苦しみに堪え、次.女まで失っていまたどりついた。あたりに人気なく引揚者のうなり声や船員の叫び声もキャビンにさえぎられて届かない。私はひとりらんかんにもたれて海をながめた。
 腹の底から不思議な慟哭がこみ上げて来た。いま、私は大陸生活の終止符を打つのだ。昭和七年五月十五日ウラル丸で大連向け出帆した時の私――まだ独身で二十六才で、建国精神に燃えて渡満した私が、いまや四十一才、妻や子を連れ、シャツ一枚の乞食姿でずぶ濡鼠となって胡蘆島から逃げ出す私――これが日本の現実だ。大連入港した時のあの壮大な埠頭をながめた私が、いま、雨に濡れる寂しい胡蘆島岸壁にふるえているかもめをながめている。これが歴史の現実だ。岸壁に航海学校の練習船らしい三本マストのバーク型帆船が一隻接岸していた。こんな船を見るのも珍らしい。
 私は雨にかすむ大陸を見て、自分のタンブルに降りて行った。これが見納めだ。すべては終ったのだ。溝洲国も私の生活も。私の身代りに次女道代の幼い遺骸を錦州の山に埋めて・・・左様なら満洲国よ 左様なら王道楽土よ 左様なら民族協和よ 左様なら道代よ(昭二十一年八月十九日、胡蘆島にて)

 私の内部に明治大正昭和の歴史が生きている。富国強兵と教育勅語と御真影と忠君愛国で育てられた明治末期より大正時代・そして昭和の今日。日露戦争終了の翌年に生れ、幼少の時から満州と云う地名には一種のノスタルジャーを感じた。それは満洲で我々の父や祖父が戦ったと云う血の声が国民大衆の間にゆき渡り、その声がうたとなり、物語となり、大陸の憧れ、冒険、逃避の場として満州は日本青年の心をとらえた。それはアメリカの西部、ロシアのコーカサス、シベリア、フランスのアルジェリアの如く、日本の青年はあの大陸に何かを求めた。明治の軍国主義は甲羅を経たファシズムとなり、ヨーロッパのイデオロギーに疲れた日本青年を新しいアジアの政治運動に駆り立てた。それはアジア民族のテーゼであり、石原将軍の提唱した「満洲国独立」に日本青年は共鳴して海を渡った。若きドン・キホーテの航海。
 私の戦争体験は兵隊の戦争体験でなくして、満洲事変より日本敗戦に伴う満洲追放の歴史的現実の中で生きて来たこと――これが私の戦争体験であろう。私の人生で最も大きくして拭い難き経験とは、敗戦と云う事実のもたらした傷痕である。彼等に招かれざる民として満洲に住み、ソヴェト軍の進駐下で私が受けた幾多の侮辱である。日本人同志の裏切りと相互利用である。人間への不信感である。自分の都合よきように生きて人間を利用した後蹴とばす人間の生き方である。貯蓄した金銭無価値の実感である。そして人間の中に真の人間を見つける素朴な眼を自ら体得したことである。満洲文学への夢破れて何が残ったか、やはり自然はそのままにして美しくアムールは流れている。満洲文学創造の神話に憂身をやつしたのは私が私一人で私だけの満洲国を作って満人作家と分ち、その完成を願ったのである。いまは一切消滅した。四十才にしてまた新しい人生を敗戦日本の風土の中で創らねばならないのだ。

七月十二日

 本日都心の病院より東京近県Mのサナトリュームに移る。サナトリュームの第一印象――長い廊下の曲折。担送車。

 涼風や妻去る廊下長かりし

 青葉照る廊下に素足冷々と

 また新しい療養生活がはじまった。
 病の道に入ってから、音楽が何よりも私をなぐさめてくれる芸術となった。聴覚より入り来る人間の創作。音楽は自然の中にある。人間は楽器を作って自然音を模倣した。人間は生活しつつうたいつづけ。悲しみをよろこびをなげきを、海の人は波浪のうねりに合わして、山の人は山のざわめきに和して・・・。
 病気になると身近かにきくのは音だ。そして音の中にある人間の心をきく。病人は弱いからなのか、一人ぼっちだからか、雑用から解放されて己自身をとり戻したからか、私は音楽の世界に踏み入ってそこに身を托した。それは抵抗を感じないからである。このサナトリュームに来てから、私は急に満洲孟家屯のサナトリュームをはっきり思い出す。木崎竜が個室に入院して、私は時々見舞いに行った。大部屋に男女別の患考がズラリと並び、胸や肩に小さい砂袋を当ててじーと横たはっている姿を見た時、私は闘病生活のきびしさに胸が重くなった。ああして三年・五年・七年・・・。私は暗然たる思いをしたのに・・・。今は化学療法と新薬でテーベー患者の様相は変った。いまは明るくて寄宿舎のようだ。しかし、彼等はみな薬臭くて隠花植物のように日陰をこっそり歩き、明るい真夏の陽を生理的に避けているようだ。私は一人でいたかった。誰にも話しかけられず、見舞や訪問を受けず、一人ぼっちの療養生活に没入したかった。大陸から持ち帰った一切のものを捨てたかった。そして生と死の二つだけにしぼりたかった。私は多くの友と肉親と別れたから・・・。心のしだに入りこんだ死のかけらを弾き出したかった。

七月十三日

 ソ軍が新京に進駐した時、私は色々なソヴェト人に会った。彼等のうちにはベルリン・ルーマニヤ・ポーランドをめぐり、極東にやって来た士官もいた。私にとって外国の地に在り、外国の軍に占領されて彼等の銃火の下に息を殺し、或は侵入され、使役されたのははじめての体験であったが、彼等は馴れていた。私はソヴェト人だけでなく、満人、鮮人、白系露人にも白い眼で扱われた。この時からこの大地は自分の住む処でないと思いこんでしまうとは、何たるオポチュニストであったろう。王道を叫び、民族相和すの志向は根無し草の漂流であったのだろうか、勝てば王道、負ければ流氓が真実なのであろうか。ソヴェト人は私の宅へ上りこんでレーニン、スターリン、トロッキーのはなしをした。また戦争の空しさと憎悪の習得を・・・。また勲章と金ピカを飾り立てて威張る軍人もいた。帽子は日本将校の、サーベルは日本刀、日本将校の長靴の兵士が自製の肩章をつけ街を潤歩していた。
 新京南湖畔を私と一処に歩いていたザバイカル兵士は、路ばたの野花をつみ、それをかついでる銃の孔にさし、ちょっと肩でゆさぶって私に云った。
 「バイナニエナーダボーリシエ、バイナーニエナーダ」(戦争は、もう沢山、やめよう。やめよう)と・・・。若い兵士は素朴な目で空の遠い方をながめていた。
 十字路ではたくましい女兵が交通整理をしていた。銃を負い、スカートに半長靴。百姓鼻。亜麻色の髪、咋日まで野良で薯ほりしていたコルホーズのマトリョーナだ。
 国境を越えて侵入する軍隊の物語――私はまのあたりにソ軍侵入を見た。満洲の農民は彼等をどう見たであろう。「大鼻子来了。」は帝政時代からの事実だ。日本人が現われ、開拓民が侵入した時、古老は云った。「あれはみんな地の虫よ、百年もたてば絶えてしまうさ」と。きせるを銜え駄馬の背中で語り合った。大鼻子、日本、そして現在の東北地区の新制度――これが革命であろう。とにかく私は満州で一敗地にまみれた。やり直しで病気で倒れた。生くることは死よりも苦しい。生き方でも千差万別だ。

 サナトリュームの園には退出者の植えたままの草花や木が残ってその季節毎に花を咲かす。また死者の残したものもあるだろう。真赤なカンナの花が窓から細い首を立てて私をのぞきこんでいる。火食鳥の頸のように鋭い。大輪のひまわりが傾いている。
 私は何気なく立寄った処が霊安所。祭壇は崩れて埃をかぶり、造花環は色あせて放り出され、荒廃の色濃く森閑としていた。立入禁止区域に私は迷いこんだのだ。窓の外にばらの花が咲き乱れていた。追われる如く道にとび出した私は地上に落ちてるばらの花をつまんで掌にのせた瞬間、花はハラリと崩れて乱れた。無残な姿。空しい午下りの一時だった・・・。
 それから私は長い廊下をあてもなくめぐる。廊下の曲折に沿うて運河の水の如く歩む。立止る。目の下にある人なき小径と叢のしずけさ。黒い森の背後に湧く雲の峯。私はすばらしいシンホニーの楽章にきき入るような感動に打たれる。静寂の裡に無人の圧縮された風景の一小片に盛られた息づまる充実感――これは何であろうか?私にはわからない。

七月十五日

 牧師がやって来て患者一同に説教をする。一人で賛美歌をうたいバイブルをひもどき神の福音を説く。病む者の幸を、病める者への恵みを教えんと力む。ありがたいが、私には迷惑だ。病む者は目ら病むことで自らを克服している者だ。健康なる職業説教者が自説もなくバイブルにたよって病人への祝福を説いても私には逆効果である。迷える病める羊を救うならば、自らを犠牲にする覚悟あれ。罪人、囚人、病人に神のありがたさを、宗教と信仰美談の列挙で事足れりとするプロフェショナルなマンネリズムに私は反撥を感ずる。「病める者は幸いなり」として病むことをすすめるは誤解も甚だしい。病む者は不幸である。この不幸の座にいてこそ自らを克服する力を自ら体得するのである。牧師さんよ、病人の前で説教するなら、自分のことばで自分の心でやり給え。神の名におけるあわれみや祝福は却って神にそむくのだ。私は傲慢であろうか、憂えなく得々として壇上より信仰美談の金ピカを見せつける満ち足りた説教者に私の病の虫がへそを曲げたのである。

 「マルテの手記」を病床でよむ。勿論日本語訳で。この小説には全く不幸で孤独な男の魂がにじみ出ている。リルケは都会の病気を一人で背負って生きたのだろう。この本は病める者にはよき福音書である。この本にはたしかにネガとポジの原理があるようだ。リルケで思うのはルウ・サロメの案内でロシヤ旅行を実行し、ヤースナヤ・ポリヤーナでトルストイに会った時、トルストイはリルケの仕事のことをきいた。「詩を書いています」とリルケが答える。「詩だって?愚劣なことをやってる。もっと実益ある仕事をやれ」トルストイは百姓的な鼻と高貴なる貴人の相のミックスされたスラブ的ムードを発散し、荒々しく不機嫌に去る。リルケは完全に無視された。サロメの紹介も水の泡。トルストイは詩がきらいであった。特にフランスデカタン調の詩が・・・。しかし、リルケはロシヤの復活祭のすばらしさとボルガと人民の声に感動し、スラブの広大なる魂の素朴とアジア的な神秘に心打たれた。こんな素朴な大地の黒土地帯の中からトルストイが生れた。敏感で大膽で百姓的で傲然たるはロシヤの神の如きトルストイ。彼亦スラブ大地の産。他の土地には生育しない根から出て来た男よ。
 さあ、私は病の森の中に入って行こう。そして病の核をさがそう。隔離されていることは事物と直接的接触のチャンスがあることだ。

 病理学や解剖学や臨床医学がいかに発達しても病根は絶えない。病気と病人は別個な存在だ。「病気を治すのでなく、病人を治す」のがドクトルのつとめだ。人間は干差万別に病む。同じ病気でも。病とは何であろう。ドクトルのカルテが無上命法であるとすれば病める人間の魂も亦権威ある人間性を備えている。
 キルギス草原で放牧民と寝食を共にし、馬乳療法をつづけて健康を回復したトルストイの野生。肺患を病みながら馬車でシベリヤを横断し、アムールを下り、サハリンに旅したチェホフの勇気。そこには高貴なる人間性の高揚がある。病気なるが故に病患の哲学を堅持した人々。ゲーテも亦然り・・・。
 ああ廊下に満ち溢れる若き看護婦の群!清潔なる健康と若さ!それは太陽だ。病人である私にとってこの若き女の群はまさにホロンバイルの野馬の如くまぶしくてもりもりしている。
 「親切な馬鹿者は敵よりも危険である」こんなロシヤのことばを壁にはってギブスベッドに独り白眼で人を見ている永住患者。ベッドの下に顔中爪疵だらけの無愛想な老猫一匹うす汚れた毛並のまま寝そべっている。
 深夜に同室の患者を一人づつのぞいて歩く一風変った患者。毛布を冠り舌を出して廊下に立っている。チェホフの六号室的人物。

七月十八日

 ああ吹きすさぶ草原の風よ
 大洋の風よ
 私は病床で
 曠野や海にあこがれている
 忍耐強く
 新しい生命を求め
 静寂の奥に在るものを掘り出そう
 豊かな樹液よ
 深い地中の根より汲みあげる
 力強いポンプ
 私は
 自由の回春を待っている・・・

 もし私の描いた肖像画がうまく描けているならば私は絶望するだろう・・・私はそれがアカデミックな意味で正確に描けていることを望まない・・・もし畑を鋤いている人間を写真にとれば、必ずその人間は畑を鋤いてはいないだろう。ゴッホ(アンリ・ベリシヨー“ゴッホの生涯”より。)その通りだ。描く人の主観が確立していること、絵は写真でない。生きものだ。

 私は病人の癖に病人の伍列に入って行けないのはどうしてであろうか、おそろしいのだ。波にのまれるのが。

 また迎える夕と朝、死の予感が彷徨う。人なき廊下に並ぶ空の担送車。生者や死者も横たわる車がズラリとならんで何かを待っている。
 自殺統計と自殺心理と精神病の本ばかりよんでいる男――「俺は精神異状者ではない、ただの変人だ」と言い訳している。

 ソ連進駐の日、新京都心から立ちのぼる黒煙一条。それが一日中空たかく昇り、ひろがっていた。あの煙に戦争が象徴されていた。けむりーノモンハン事変のときもアムクロから地平線に湧くすさまじい煙の柱を見た。ボルガを覆う煙。

七月二十日

 気管支拡張病患者の放つ咳が笛の音のようにひびいた。外に合歓の花が満開。

 女患者が窓辺で互に髪を結い合っている。いやらしい風景だ。

 木の香りぷんぷんたる紅松の大いかだが流れている。六人の男が大櫂を一斉にあやつる。河風にはためく白いシャツ。リズム。夏のアムール。

 私は衝動的昂奮でメルビルの「白鯨」をよむ。隻脚船長エイハブのプロンズ的プロフィールの魅カ。海への一切の希望と呪いの書。海水のこぼれ満つる頁をめくりながら一人ぼっちでキャビンにいる航海の一日。私はこの書を養老院に持ちこむであろう。

 テレビドキュメンタリーに現われる在りし日のヒトラーの姿。あの目付・口髭。機械のようなナチス的挙手。ドイツ語の雄弁。あの男だ。独逸を引き廻して暴れたのは。あの男に政権をゆるしたのはドイツ民衆か、専門的政治家か、ヨーロッパの化物的遺物は彼が最後であろう。ヨーロッパの再生と新生はヒトラー的幻想と狂信を絶滅せしめて、生の人間が生の人間のままそれを肌に感じ合うようになることだ。お互いに・・・。イデオロギーはもうたくさん。原水爆や核兵器をヒトラー化せぬようつとめて下され。

 人聞は肉体と精神で成り立っている。この二元論だけで割り切れないものがある。神だって?そうだ。宇宙生命至上のカオス――私はこれを神と称する。

七月三十日

 ベッドに寝ていると、思い出すのは胡慮島より博多に上陸し、東京行列車に乗りくむ間、博多海岸の防波堤に寝ころんで夜の海をながめたことだ。突堤のベトンは夏の陽にあたためられて温くもり、私の疲労しきった肉体をあたため、足下には紫色にふくれ上った夜の潮がずっしりとたかまり、夜光虫でギラギラ光っていた。私は五体を投げ出して潮の愛撫をむさぼり、突堤のひび割れにつぶやく波の音をなつかしんでいた。真夏の海の濃いため息が私を包み、私は不図ゴーリキイのチェルカッシュや南海放浪物語を思い出して、まだ見ぬオデッサや黒海沿岸の風景を放浪者然と空想していた。桟橋に小型客船が着岸していて、キャビンの灯が煌々とちらつき、若い娘達が甲坂で合唱していた。そのうた声は戦争より解放された明るさとたのしさに溢れていて、私の胸に強くひびいた。防空幕も防空壕もあの頭巾もすてて明るい灯の下で自由にうたえるんだと思うと私の博多上陸に至るまでの忍苦と窮亡に生活した敗戦後の大陸生活が一切この海にのまれて、いまはこのベトンに臥し陽の温みと夜の潮に身を投げ出してる。娘達のうた声はつづき、人影がちらつき、サンダルの音がひびき、空も海も紫色にふくらんで私を包んでいる。
 駅では東京行きの引揚列車が準備されつつある。リバーテー型から塵の如くはき出された引揚者は全国に夫々のつてを求めて散りはじめた。もはや我利も憎悪も優先欲も意地悪もすててめいめいの家族一かたまりで、新しい生活の道を求めて四散しはじめた。私は東京へ――あそこでどんな事態が生活が待ち設けているのか――私は突堤に無責任に五体投け出し、夜の潮に甘えていた・・・。――八月二十三日の夜の品川駅の暗さ。板張りの国電の車窓。車の隅に巨きな黒人兵士が小さい日本の女を抱きしめている。じーとして動かない女。私の妻のシャツは破れ、リュックのひもが肩にくいこんでいた・・・。暗い車内は何人がいるのか不明。みんなぼそぼそ話し合っていた。
 O駅下車。雨上りの暗い路。蛙が鳴いていた。方々で・・・。灯火のない路。ジープが通る。GIの口笛。瓦礫の街を行く一家族。仕事を求めてほほつき歩く私。ついに発病。悪夢になやまされた幾夜――生臭いひまし油の雨にたたかれてぼうぼうたる廃屋に坐してる私のまわりに色々な妖怪が犇めいていた――絶対安静の三ケ月。回復後の苦しい生活――屈辱と空腹と同居生活の神経病的波長。そしてまた発病・喀血。
 もう夜だ。就寝のブザーが鳴った。
 さあ、目をつむり、ベッドを小舟として夜の海にさまよい出よう。この小舟が棺になるかも知れない。

 ボン・ボヤージュ!
 秋が近ずく。シベリュースをきく。
 霧深い湖の奥に
 白鳥の巣ごもり
 林と林をつなぐ
 ゆるい谷間に荒れ果てた墓地

 野獣の足跡が
 未知の森の中へ・・・
 雲が低くたれて粉雪が・・・

 何故私はかつて満州で満洲文学を創ると意気ごんだのであろうか?これは建国運動の幻滅に由来する反動であった。昭和七年五月南嶺自治指導部訓練所に入ったとたん、私は関東軍の巨大な壁にぶつかって目がさめた。建国も独立もすべて謀略であった。私はその時から私一人の満洲国を文学上で創りたかった。あの国土へ移り住んだ日本人の新しい生活眼で直視したその生のものを文学作品として提示し、満人作家やロシヤ人とその文学を分かちつつ進みたかった。私の第一短篇集「鳥爾順河」のあとがきに私は左の如く述べた。「私は満洲文学を理論的に把握出来ない。この土地に移り住んで、風土と環境において日本人が如何に生くるか?この現実を作家が自分の目で正しく凝視し、感じた必然から生じた作品を提示する以外に私の行動はないと信ずる。それでいいと思う」と・・・。
 私は今でも右の述懐を正しいと信じている。満州国で私はどんな生活をなし、異民族と如何に交わり、満洲国を如何に彼等と担当したか、これが問題だ。日本人だけの間の日本文学のエピゴーネンになりはしなかったのか。建国文学私論は理論でなくイメージの空言の披瀝にすぎなかった。尾崎秀樹は満洲国にカッコをつけて特殊扱いした。私はこのカッコをとりのぞいて、満人作家と握手したかった。彼等は手をさしのべたであろうか?日本人は日本語で、満人は満語で夫々の生国のことばで創作活動をした。そして崩壊した。すべては崩れ、新しい革命の波が全満を覆った。巨視的に見れば、「満洲国」も歴史上の一泡沫として過去の大洋に姿を没した。私は挫折した。建国の変形として文学創造の夢は、異国の土壌には根を下ろさなかった。黄土は万丈の竜巻と化して荒れ狂い、ダライノールは時間をのみつくして横はっている。古丁、爵青、小松の諸作家は私の前から姿をくらました。一切は完了。私は大陸を追われた。「在満州日本青年行動史」を執筆すべく、私はあらゆる資料をあさり書かんとして挫折した。敗残とドン・キホーテの記録を私は書けなかった。建国を正当化すべく現実の民族の条件は苛烈であったから筆を.折ってしまった。
 夢を失った私は乞食同様な身で胡蘆島から送り出された。すべては水平線の彼方に没した。そして敗残と廃墟の東京で第二の生活がはじまった。満州国がアルジェリアになるまで頑張り、新しいアジアを創りたかった。これを第二の建国運動にしたかった。やっぱり私は縁なき男だ。彼等からは・・・・。アラビアのロレンスは彼の個性の中に在る彼だけの新しいアラビア独立の夢があったにちがいない。かつての満州国にもいた――ロレンス的日本人が。しかし、彼は巨大な日本軍部と資本企業家の組織の前に、あまり小さい存在としておしつぶされ、葬り去られた。歴史上の人物とは一体何者であろう?私はもう沈黙して、これから生くる道を見つけねばなるまい。
 私の病は定着してすでに病でなくなった。
 一つの状態として体内に固定した感じだ。大陸よりこのベッドヘ――この行程において私の試練はまた次の行程をたどるであろう。

 私は大陸で多くの友を失った。私の肺活量は日日減少して行く。白い鳥が私の胸からとび立つようだ。はたはたはた・・・快い羽ばたそ(ママ)の音よ。一羽の白さぎが河を横切ってとぶ。あれはアムール上流の河岸であった。白と黒のモノトーン。私は今夜もベッドに横たわり、海へ出よう。荒れる海へ・・・。


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