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【連載】玉井喜作 イルクーツク艱難(かんなん)日記

第2回

イルクーツクでの貧乏生活は、まだはじまったばかり。玉井の艱難生活はまだまだ続く。

バイカル湖西岸クニナニチュナーヤー駅出発〜イルクーツク滞在中艱難日記
   露歴 1893年8月6日(金曜日) 明治26年8月18日
   露歴 1893年8月7日(土曜日) 明治26年8月19日

露歴 1893年8月6日(金曜日) 明治26年8月18日
 天気快晴。七時半頃喫茶して、ドルゼット氏の家を出て、チューリン商会に寄り、アルセニーノ氏を訪ひ、いよいよ今明日の内、郵便車にて出発の考えなれば、途のパン代の助けあらん事を希望する云々を語りしに、氏曰く「幾多の助けせし、依って今日は直々ちにレスコーフ氏及び当地の金満家なるコレチング・ワシリー・オレグノヴィチを訪ひ、然る後再びチューリンを訪る可し」と。
 直ぐに氏を訪ふ、不在なり。プリクロフスキイー氏を訪ふが亦不在なり、これを待つ。××の支那人の店に入り、暫く談話し、喫茶する。彼は山西省×××(欠落)、当地に到り、商業に従事する×のなり。彼曰く「当地に支那人六十人住居せり」と。
 ドルゼット氏が郵便車に既に運び去りと×××。氏曰く「君は今日行きて直接に願う可し。直に許可されん」と。直ぐに(十二時頃)郵便局に至り、次長××××氏に面す。氏曰く「郵便電信局長許可を得らに非ずんば能わず。依って直ぐに局長を訪ね可し」と。其言に従い局長ポーレン・ベルク氏を訪ふ。傍に独逸人××××氏及び露人セルゲエフ能く独語を話す。局長曰く「×旅券は欧州に入る効力なり。故に君は先に旅券を整備し、然の後将軍の許可を得可し。将軍の許可なくれば、余如何ともする能わず」と。いと懇切に語られし處、若し許可を得るとも、トムスクは管轄異る故に、当地より四百里手前なるオムスク迄なり。而して後アルセニーフ氏を訪ふ。×××を語り、帰る。
 午後五時頃ドルゼット氏の宅を訪ね、焼き肉パン及び茶を喫す。時に婦人鬼の如きつらをなし、余の同寓不可をドルゼット氏に迫る。余も不快に就き、他に可然宿×を求めんと。覚悟居りしに、ドッセット氏曰く「君に対して実に××××なれども、他に宿を求められる可し、其代わり君のクラスナヤールスカ(シベリアの都市)に着せらばの際、僕の実兄獣医を業とし居る故、当地にては、兄夫婦は僕の妻の如き馬鹿ものに非ざれば、君を能く遇す可しと、相談さる可し、兄亦君の為めに必ず悉力せし。
 クレーマン氏に一宿を乞わんとデコーホテルに至る。氏非ず。
 夕刻チューリンに一夜の宿を乞わんと、アルニセーニフ氏を訪ふ。氏非ずば、ボーイに右の如く談ず。彼曰く「当家は宿屋に非ず。一宿を求めんとせば、宿を業にする宿屋あり」と。
 直ぐにチューリンを出て、郵便馬車駅×××旅人に夜着けば之夜無貨宿泊まり許す義務あれば、同所に至り、宿せんと如何程探しても見出し能はず。時に暗黒、地理に不案内故、とても探し出し難きを察し、デコー旅店に至る事を決心す。時に終日東奔西走せしを以て足痛甚だし、一歩も進む能はず。止むを得ず20カペイカを投じて馬車を雇い、デコーに至り。明七日夜九時迄十六号室(二階)を1ルーブルにて借り、室料1ルーブルを払い漸く安心せり。
 本日十二時×明夕出発と決心せし故、これを右の諸氏に明夕出発来九月下旬露都着予定の×を報ず(但しハガキを以て)
1)玉井兄 原田様  2)藤原猪之助 岡林正雄  3)×田唯一
4)防長新聞社 5)中尾助市 宮崎××  6) 湯川寛×、伊藤××、
7)小林、山田、村山、上原、東、佐川   8)××、××
9)中井、白根、青山、川上、小川、高橋

本日入費右の如し
 35カペイカ  洗濯料
 50カペイカ  昼食(デコーニク)
 10カペイカ  煙草
 15カペイカ  酒代
 30カペイカ  ハガキ代
 20カペイカ  車代
  1ルーブル  明夕迄室料
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 2ルーブル60カペイカ

今朝は昨日プリクロフスキー氏より旅費として恵贈されし10ルーブルの金、懐中にしまいしも本日2ルーブル60カペイカを費せし故残すところ 7ルーブル40カペイカなり ドルゼット氏は温厚篤実の君子なり仏なり。この仏の細君に×鬼女×。天のは×を××を×れるい哉。
三行詩(漢詩)
前三××年皇上文三武王国完至
紂王矢る天下××微子×赴東海
我為家××日本国
 右は本日支那店に至りし内支那人が余に書き與へしものなり記しを参考に供す。

露歴 1893年8月7日(土曜日) 明治26年8月19日
 今朝七時離床。懐中を改れば、7ルーブル30カペイカあり。
 喫茶して午前十一時秘書官プリクロフスキー氏を訪ふ。氏は余の来るを見て、驚て曰く。「余は君既に昨夜出立せしと思ひしが、今朝再会は実に意外なる。余はドルゼット氏が既に取計し×れしと思ふ。前夜の一体を語りして、氏はドルセットこそ実に馬鹿野郎なり、人を謀り、人をアザムク、其尻軽からず云々。大いに不満の色あり。語り終て曰く「然らば今日十一時×××カルピンスキイー氏を訪ふ、黄金車隊即ち黄金カラワンを乞う可し、各黄金車は毎月一回宛当地より露都に黄金を送×する車なり。一回に×車××(欠落)20布度り積み、一か年480布度以上を送×するものなり。僅かの金を以て券××乞う可し。××許可されよ」と。
 十一時頃プリコロフスキイ(カルピンスキーと訂正あり)氏を訪ふ。バイカル地方出張中にて来てないと非ざれば、帰宅せられずと帰途6カペイカパン10カペイカ腸詰を求め、デコー橋上に於いて昼食をなし、休息す。
 夫れより警察署長の其宅を訪はんと署長の宅を探せしも見出さす能はず。途中ユダヤ人ノルマンチ氏と会す。警察署に至る。署長非ず。独逸語を能くする署員出て来て曰く、「この旅券ペーテルブルク行の効力あれど、君現今住家の家本を持来り、夫れを×として××××なされる可かずと。
 夫時はデコーに帰り、食堂に至り水を飲みし際、バラホビッチ氏と会す。氏曰く。「時々僕の宅に食事し来る可し」と。夫れより暫く休息して、署長を其邸に訪ふ。
 氏は余を冷遇×××。見つ曰く「日本人一名当地に居り、君知るや否や」。余答えて曰く「其方×を探せしも見出す叶わず」。氏曰く「困難あれば、明朝九時通弁人を連れ、来る可し。君の言ふこと余解する能はず」云々。
 彼れ×独の語に通ず。余の独語を解する能わず。余之を解する能わず。彼れ面倒なりと見えて斯く答えんものならん。
 宿に帰り暫く休息しつつ、百思千考えはに、独逸寺ありと聞けば、其僧正を訪ふ謀らば多分の便宜を與へ呉んと七時半独逸寺に至る。
 其前三時半頃郵便局に寄り次長マツセーウイッチ氏の寓舎を聞き、氏を其官に訪ふ、時に氏寝床にあり、細君が出て来て余を応接所に導けり。二三十分の後、氏は起き出て来れり。余に対するの挙動至って冷淡なり。余曰く「余は昨日局長に面せしも将軍の許可を得れば、取計ひ難はない事、故明後日×も将軍を訪ふの考えなるが、余は地理不案内の為、今日デコー旅館に有りて、一日室料として1ルーブルを払い居れり、若し此許可を得るに数日を要せば、懐中僅々数留(ルーブル)の金は忽ち底を払いざる可からず。依って貴君は当地の事情にも通じ居られば可然廉価の旅店若しくは貸室を指示せられんことを希望云々」。
 氏答えて曰く「余は官辺の事情には××通じなれど、市中の事情に暗し。当地本町時計師ムルケ氏数年間当地に居住し、当地の事情に十分事通じ居れば、氏に謀る可し。君にして幸いに郵便馬車の許可を得るも、アーチンスク迄そして(?)トムスク迄は困難なる可し。郵便車は、トムスク迄八日を要す。黄金車は十四日を要す云々」
 六時デコーホテルに帰り、ソップ茶を喫し、26カペイカを払ひ、独逸寺に至る。独
逸寺に至り、其構内なれ、某紳士を訪ふ、余は僧正ならんと思いしに、不図写真師×××氏なり。氏は十数年前当地に数年間×住されしも、去る十二年前(一八八二年)大火の際、類焼を罹り以来不景気にて思わしき×利もなきを以て、独逸伯林府に帰り、当地友人から招きに依り、再び四五年前当地に来るし。深く日本の事情に通じ、夫婦共余を遇する優待×れり。令嬢二八才、一寸棒なり。令嬢は余を示すに。
 日本漆器類、其内日本勤工場に於いて求むれば、僅か残る佳はかせざる弁当箱を大切にし、其内金の指輪等高価の品物を入れし、大切にされしは弁当箱これ其人を得れば、斯りある可き×と見れば、心中自ら奇異の感あり。又其内には極めて巧みに出来し箱あり。机上用具なり。婦人は日本の衣服、婦人の下駄等に就いて、談じ大に飲慕の色あり。九時まで二時間この氏の宅に有り。喫茶(パンあまり実味などなくし)且つ一杯の酒を飲む。九時過ぎデコーホテルに帰る。
 明八日夜九時この室料として1ルーブルを払い、午前二時迄種々考えを以て×××宿に能はざりしも×××非常の勇気を起こし勇気勃々窮して爽快抱けり。
 本日入費
  28カペイカ  ×電紙
  12カペイカ  里程表
  26カペイカ  自宅食
   5カペイカ  たばこ紙
   3カペイカ  マッチ
   4カペイカ  酒代
  10カペイカ  パン代
   6カペイカ  ウルスト
  12カペイカ  昼食代
   1ルーブル  明日迄室料
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  2ルーブル2カペイカ

独逸寺の注釈
 此の独逸寺は二階建て、石造りにして、小なれど極めて美麗なり正面に、四字あり。目下僧正あらず、如何なる故か独逸より来るものなしと聞く。

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