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【連載】玉井喜作 イルクーツク艱難(かんなん)日記

第3回

イルクーツクでの貧乏生活を続ける玉井の目の前に、東京時代の友人椎名が現れる。
勇気をえた玉井の前に待っていたものは?

バイカル湖西岸クニナニチュナーヤー駅出発〜イルクーツク滞在中艱難日記
   露歴 1893年8月8日(日曜日) 明治26年8月20日
   露歴 1893年8月9日(月曜日) 明治26年8月21日

   露歴 1893年8月10日(火曜日) 明治26年8月22日
   露歴 1893年8月11日(水曜日) 明治26年8月23日

   露歴 1893年8月12日(木曜日) 明治26年8月24日

露歴 8月8日(日曜日) 明治26年8月20日
 午前九時半離床。懐中改むれば1ルーブル40カペイカあり。昨日の残のパン及びウルストを食し、××××氏を訪ふ。
 夫婦共不在にして、令嬢あり。即ち、昨夜約せし状袋を與ふ。此状袋は実兄が本年四月浦潮へ送りし書状の袋にして、其旨を語りしに、令嬢の喜び一方ならざりし。令嬢は日本品を愛され、数多くの日本品あれど、日本郵便切手は取扱されざるを常々に遺憾とされし、今日は不図小生より贈られば、其喜び傍々を見るは実に愉快なりし。殊に某婦人も亦、日本郵便切手を所望されし故、××(人名ー日本人)××氏が余が嘗て札幌に×りし時、送られし状袋を與えたれば××××(欠落)
 次でシブコノフ氏を訪ふ、非ず。以て十一時頃ドルゼット氏を訪ふ。時に××の来客ありて、ドブニアを遊び居処、余共々遊び、暫くして酒を飲み、肉及び味甘きパンを食す。此時余は××の茶×(欠落)飲み、鬼女房が如何なし感を起すか、少しを××にと、好まぬ茶を今一杯とコップを出せしに、彼れ大に厚ける顔色をなし、一杯を與へたり。
 次で一時頃××××氏を写真場に訪ふ。氏は余の至るを見て、喜色を含み出て迎えり。氏は廉価なる住室の斡旋の労を取られにしを依頼せしに、氏は直々下男に命ぜり。余は下男に伴××、その家に至りしも、高価なるが故、終にアハセルナールスカヤ町ブラギナなる家の二階の借りの一室を一日二回サワワールを出し、40カペイカにて借り、本夕より引移る事を約せり。
 夫れより、デコーホテルに帰る途中雨甚だしく、馬車に乗るには金少く笠なく、大に困難せり。デコー帰り見れば××中十六号室より四号室に移せり。こ×号室は便所に傍にて薄暗く×不愉快に×××。余の借り切りし室を面会中に開き、他の客を入れし故。一本喰いさしが思いひしも、今二三時間の内と思ひて耐忍せり。暫く寝むて、六時頃小雨となりしを幸ひ、直々馬車を雇い、ブラギーナに移転す。
 この夜隣室の客より招かれ、山ほどの珍味を以て優待を受け、来客中ユダヤ人ニコライ氏あり。氏は余を氏の宅に×へり、酒を飲み談話し居る内、ブラギーノより使来り、令嬢に楽器を奏させ、速やかに来る可しと。直ぐに主人同道して宿に帰り見れば、隣室の所に又御馳走の用意あり、或いは飲み、或いは歌ひ、楽を奏するあり、踊りあり。小生もかの令嬢と踊舞を試しは、今回を以て初めとす。十二時過ぎ宴終わり、サマワルを××喫茶。一時頃室に帰る。
 本日は馬車賃20カペイカのみ。穴痛み慰(?)さざりし。
露歴 8月9日(月曜日) 明治26年8月21日
 午前十時半離床。懐中5ルーブル20カペイカあり。直々将軍を訪ふ。本日天気快晴なれど、昨日降雨ありし為め、道路泥眤甚だし、大いに困難せり。立番巡査曰く「名刺ありな」余は名刺なき為め宿に帰る。途中時間の遅れる事を思い、腹を切る思ひを以て20カペイカを払い、馬車を雇い、宿に帰って名刺を取り、再び20カペイカを投じ、馬車に乗り、将軍を訪ふ。時に士官出て来て、来意を問い、将軍の室に至り、将軍××(欠落)に、余はトムスク迄郵便馬車無賃乗車を乞う。
 将軍××××(欠落)曰く、「郵便電信局長ノーレンベルグ氏を訪ね、其処×を語る可しと。時に小生は×××って天に登るの感あり。
 次でノーレンベルグ氏を訪ふ。時に、氏は将軍を訪ねんとて、御出の際なりし。門口に於いて簡単に将軍許可を云々を語りしに可なり。暫く橋上で待つたあとに、夫れより郵便局に至り。
 玉井兄にいよいよ明二十二日夕当地出発、十月中旬ペーテル着云々を報ず。(但しハガキを以て)
 又警察署に至り。デコーの家本を持ち三回の××往復にて、漸くペーテル行出立を券面に記載せしめ、大にあんどし郵便局に至り、×××(ロシア表記)及び××××氏(ロシア語表記)と談話を行う中、子×ざりき。二時頃。
 ノーレンベルク氏は郵便馬車許可難何の命を下せり。××氏(ロシア語表記)に其理由を問いしに、氏曰く局長は今将軍を訪ひ帰り来れり。将軍より何か局長に談話ありしものならん。多分君の旅券効力なき為めならん。今君再び局長に面会するも、其効なかる可し。再び将軍を訪ひ、将軍の許可書持す可しと。
 節角得たる郵便馬車も無効となり、不愉快なる故、湯屋に至り、身体を清潔にし、何とか工夫せば×からんと、湯屋に至る。湯銭60カペイカなるを以て入浴はしたし、金はなし、入浴せば穴及び金玉の病気に非常の功験ありと思ふしも、今日窮迫の60カペイカの金は中々小生の身に取って、非常に重き故、入浴せずして、帰途ドルゼット氏を訪し。嘗洗濯を依頼し置き処でシャツ二枚を受取り喫茶す。パンと一個の黄瓜なり。
 暫く休息して午後四時頃市場の近くの某茶商を訪ね、トムスク行茶車の事を聞き合いするに、ろくろく返答もせず、其冷遇×れり。夫れより帰宿せしに×××の室の露人、余を呼び酒を饗す。
 午後七時野田叔母の遺物なる裃を着て宿に戻り、十一時頃水を飲みに下に行きしに囚人茶を出し、パンを2切れを食す。此パン上等なるパンにして其味至って美なりし故、今一つと思ひしも遠慮したり。
 九時室に帰り、就寝す。
 本日入費は
 40カペイカ 車代
  5カペイカ 郵便ハガキ及び切手
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 45カペイカ
露歴 8月10日(火曜日) 明治26年8月22日
 午前二時目覚め、六時頃寝に就き、九時頃離床す。
 十時頃プリクロフスキー氏を訪ふ。氏曰く「鉱山×にオジビッチを訪ふ可し。氏は独語を能くし、且つ局長カルピルスキー氏不在中の代理者なれば、黄金車の事何とかきまり×かん」と。氏を訪ふ。不在なり、次いで銀行にレフコーフ氏を訪ふ。氏は余の露語を能く解せざるを以て、独逸語に通ずる銀行員を呼び、通弁の労を取られ乍も其先生独逸書きはすれど話は通ぜる故、君の××××(欠落)件を書けとて、筆紙を出せり。余は即ち次の如く書けり。
 「君の知る如く、余は露語に通ぜず、とても当地に於いて、大商館に入り、僕の欲する勤めをなす事難かる可し。故にピーテルベルクに向って出発を決心せり。当地には日本公使館あり、数多くの本人(邦人)あり、且つゲルマン商会あり、殊に独逸人も多ければ、何とか工夫も付く可し、乍も今出発に臨み勘心要の旅費なし。君20ルーブル若しくは幾分にても暫時貸与さんことを××する云々」
 通弁先生訳して頼むも氏の答えてを書く
 「余は貧にして金なく、チューリンの金満家なればチューリンに依頼す可し。且つプリクロフスキー氏は知己も多く、有名なる交際家なれば、氏にも謀り可し云々」
 有名の如く、氏はとても応ずるの見込みなき故、氏に別れを告げ、昼食せんとデコーホテルに至る。ソップ其他料理なし帰途。帰途3カペイカにて酒を飲み、21カペイカ2ケ牛肉を買い帰る。時に十二時なりし。
 偶々ニコライ氏有り。主人と共に喫茶す。夫れよりニコライ氏と共々氏の宅に至り、昼食の饗応を受け、酒を飲み十二時半宿に帰り五時迄寝ねたり。
 五時頃宿を出て市場を散歩し、センベルク商店の前に至る。主人、小生の異人種なるを以て呼び込めり。談益々快に入り、氏曰く今夕是にて夜宴に来る可しと。一旦氏と別れ、諸方を散歩し、市場の果て位を視察し。再び氏を訪ふ。七時共々氏の宅に至る。喫茶後夕食の饗応を受け、応接所に至る。時に二三の紳士及び婦人の来客あり。諸氏と共に九時迄日本の状況を談じ、九時頃氏を辞し、ドゥブニコーフ氏及び氏の妹と共々帰途に就く。氏の宅前にて氏と別れ、帰宿す。
 センベルゾ氏は下男をして余を余の宿に送らしめたり。途中金玉の痛強く、大いに困難せり、又宿に帰り、ランプ及びロウソクなき為め×火する能はず、仕方なく、火なきまま就寝せしに、金玉及び穴の痛は、益々強い為め安眠する能はず。深更に×金玉を水を以て冷し、少し痛みを減じ処が、穴の痛は益々強く、其困難ここに記し難し。
露歴 8月11日(水曜日) 明治26年8月23日
 昨夜金玉及び穴の痛み強かりし為め今朝やっと朝寝しなり。11時半頃余を起こすものあり。目覚まし見れば、一等警部ブリストーワー氏なり。
 氏曰く「君署長に願事あらば今余出勤×りければ、君を署長の宅に導かれり」其厚意を謝し服を付け出て見れば、氏の馬車あり。馬車にて署長の宅に至る。署長曰く「君の用向は、余答えて曰く」
 「A)今閣下に向て願う処は××(欠落)くず、ペテルブルク行き途中旅費を無く当地にて知己もなく如何ともなし能はざる故、閣下の御尽力に依りて、トムスク迄郵便車の許可あたる可し。
  B)又、今一名日本人の宿舎を指示されたくを」
氏答えて曰く
 「A)今日将軍を訪ね、君の為め願いて願の許可は余之れを請合いざれど、明朝9時来らん可しと
  B)日本人の宿舎も×××し居らざれば明朝答えしと」
 直にプリストワー氏警部と共に氏を辞し、プリストワー氏と共々警察署の××××、氏は警察署にのこりしを以て、別れを告げ、帰途。デコーの前にて、クレーマン氏に会って、十時帰宿。パンを下に×××きて、喫茶朝食をなす。
 十一時市場にサムベルグを訪ふ。暫く談話し、帰途余を呼ぶ者あり(子僧をして追かけさして)、引き返し、子僧に従い行き、某宿に入り、其名を聞けば、ユダヤ人ハイノフスキイー氏なり。余の異人種なるを知って、氏は呼返せんなり。氏と快談。パン及び茶を喫す。別しに×み。氏は余に道中貨を贈って、十二時半帰宿す。
 二時四十分サムベルグを訪ふ。湯屋を聞き合わせ、湯に至り、散髪(15カペイカ)後、入浴、帰途8カペイカにて酒を飲み、ドブルニコフ氏の宅前に於いて、氏の実弟に会す。明朝九時訪問を約し帰宅する。
 午後五時頃下女は昨日買ひし、牛肉にカルトツッコルを入れ美味なるソップを作り、来り、之れを食し大に美味を感ず。
 夕刻バザールに至り、9カペイカにてマッチ九包を求め帰宿して、七時より九時迄ねる。十時下に行きしに、令嬢等二人はトランプを遊び居り処。暫く談話する中、某氏は欧羅巴旅店に音楽を聞きにくる事を発起し、五人にて至り、音楽を聞き、三本の×××(ドイツ語)を傾け、宿に帰りし十二時過ぎなりし。
露歴 8月12日(木曜日) 明治26年8月24日
 終日快晴。早朝懐中を改めれば4ルーブル60カペイカあり。
 七時半僅少のパンを食し、セルベルリ氏の店を訪ね、喫茶。且つ極めて味よきパンを食す。
 八時半警察署長の其邸を訪ふ。氏曰く「日本人と×通せし哉」。余曰く「否余は今日閣下より日本人の寓居を聞き、彼を訪はんと覚悟し居りし」、氏曰く「只今彼来れり、多分臺所に待ち居るならん」と。
 臺所に至り見れば、椎名君仕事師の如き衣服を着て立ち居れり。互いに奇遇を喜び、共々手を携えて、署長の前に至る。曰く「今十二時、警察署に来る可し、其際将軍多分決答えん」と
 椎名君と共に手を携えて、余の宿に帰る。
 「余は当地に着、数日間は地理不案内なる町を非常の苦心を以て椎名君を探せ共、其居所を見出す能はず。一日汽船待合所に至り、聞き見れば、日本人ウエフネウージンスクに向かい出発したりと言うものあり。余考えるに、椎名君は非常の決心を以て当地に来り処が、面白き事なきとて、其×東に向かう人物に非らずと、××が如何程探せとも見当たらぬ××を見て落胆して帰りし哉と半信半疑。夫れより氏を探す事止めたり。氏にして当地に来れば、時来れば、会えん事もあらんと、今日偶然会せんは、其時機の至りしもの乎」 椎名君はこの奇遇を祝するに酒なかる可らずとて、40カペイカにて一本の酒を買い来れり、余は(8カペイカ 黄瓜 四個、10カペイカ腸詰、15カペイカ砂糖、14カペイカパン)等を求め、共に快飲す、日本人四千名余分の多きにも明治二十六年十一月二十四日はウラル以西バイカル以東唯君と我二人かと思えば相愛の情自ら加わり、酒の味を滋に難記、氏曰く「余は当地着く当初衆道院××しも、着し当地にて修業出来難きの為トムスクに向かうと決心せり。欠乏旅費なき故、修道(衆堂)院を辞し、当地大寺院建築場の仕事場の雇となり、一日80カペイカ得、これ80カペイカを節倹して、旅費を得る決心なりし、余今日持ち合わせ2留(ルーブル)60カペイカあり、尚仕事場より受たる金が1ルーブル60カペイカ余り有り。君パン代に就き憂ふなかれ。僕の労働を以て君のパンを買ひ来らん。其内には君の方法をもつき、互いに謀るところある可しと。
 十二時ころ宿を出て、警察署に至る。途中大酔為め互いに一紳士を気取り20カペイカを投じて、馬車に乗り至り、時に署長尚来らず。余は大酔の為め頭痛は堪え難き、椎名君に×して帰途に就く。途中70カペイカにて日記帳を求む、二時頃椎名君余の宿に来たり曰く、署長は明日来ると言へり、椎名君酒屋に行き、17カペイカにてビールを買ひ来たり、亦飲みパンを食し、快談数刻氏は七時帰宅せり。
この夜金玉及び穴痛は少し快を覚えども、安眠し能はざりし。

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