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【連載】玉井喜作 イルクーツク艱難(かんなん)日記

第4回

やっとめぐりあえた椎名との共同生活、やっと落ち着いたかにみえたときに、玉井の身体に異変が!

バイカル湖西岸クニナニチュナーヤー駅出発〜イルクーツク滞在中艱難日記
   露歴 1893年8月13日(金曜日) 明治26年8月25日
   露歴 1893年8月14日(土曜日) 明治26年8月26日

   露歴 1893年8月15日(日曜日) 明治26年8月27日
   露歴 1893年8月16日(月曜日) 明治26年8月28日

   露歴 1893年8月20日(金曜日) 明治26年9月1日
   露歴 1893年8月21日(土曜日) 明治26年9月2日

露歴 8月13日(金曜日) 明治26年8月25日
 早朝懐中を改むれば2ルーブル65カペイカあり。
 午前八時椎名君来り。本日は警察署長を訪はざる可らざるに付き、一日仕事を休み80カペイカ棒に振りけりと、共に警察署に至る。署長尚出勤せず。5カペイカを投じて二個黄瓜及びパンを求め、アンガラ川岸に寄って、之れを食し朝食をなす。夫れ快談しつつ、川岸を散歩し、10カペイカを投じてクワスを飲み、十時再び警察署に至る。署長曰く。 「明日十二時に来る可し」と
 夫れより帰途椎名君通訳の労を取り、鉱山局に至る。
 局員モジヤルク氏曰く「プリクロンスキー氏より君の為めに書状も来り居れば、来十五日局長帰宅する都合なれば、君局長に乞ははれば、多分許可せし、既に来二十五日発便車は満員になり居れど、強く乞う可し」
 帰途廉価なる室を借らんと探せ共程能き、適当の住室なし。20カペイカ酒、6カペイカパンを求め、共に飲み、共に食し、大に快を取る。椎名君再び酒店に走り、20カペイカ酒、10カペイカパン、15カペイカ砂糖を求め来り、又飲む。
 五時頃椎名君帰り、余は湯に至り、浴後2カペイカクワスを飲む。余は本日椎名君に浦潮出発の際、中井嘉造君より贈られし夏ズボン及びシャツ古い靴を興えたり。
 本日終日快晴の天気なりし。
 又本日午後宿の妻君に本日迄の宿料及五日分とし2ルーブルを払ひたれば妻君大に充色あり。
露歴 8月14日(土曜日) 明治26年8月26日
 早朝懐中を改むれば、僅かに6カペイカ、机上を見れば三個のパンあり。
 本日午前小雨、終日曇天なりし。
 十一時半宿を出て警察署に至る。椎名君と十二時に会するの約なりしも、氏は本日半日仕事せし為めか未だ来らず。署長曰く
 「君は此旅券を以て西に進む能わず。亦当地に住居する能はず。××将軍より何とか沙汰あらん、夫れまで待居可しと」
 警察署を出つる際、椎名君来る。余は暫く待つ。氏にも余と同様の答えなりし。氏と同道して余の宿に帰る。途中6カペイカを投じて、四個の黄瓜を求む。ここに至り、去る五日プリクロフスキイーより恵與せられし10ルーブル余り、悉く帰無。××(地名)に一室を一ヶ月、6ルーブルの約定にて明日より移転する事に決す。宿に帰り椎名君は、酒屋屋に走り、20カペイカ酒、其他黄瓜、パンを買い来る。宿主よりソップを取り、共々飲み共々食す、五時頃余一人にて湯屋に至り、帰り来れば、椎名君は又酒屋に走りビール(13カペイカ)を一本買い来る。共に飲み大に快を取る。夕刻椎名君帰る。
 大坂朝日新聞社西村天囚氏(玉井がウラジオストックを出発する前に、ベルリンからシベリアを馬で横断した福島安正中尉のウラジオ到着の第一報を伝えた記者として知られている)にハガキを以て来九月六日出発を報ず。
 この夜穴痛の強きと床虫の攻撃甚だしき為め、安眠する能はざりし。
 ブラギーンの宿中六夜共床虫の攻撃強きと寒気強き為、毎夜困難かなわず。一夜として快く寝たる事はなかりし。
 又本日サマソノーバ宿にて主人ラシキモノ曰く、君は英語を話すや、余笑って曰く、嘗て三ヵ年学びしも、暫くこれを用らざる故、殆ど忘れけり。乍然今日はのアイサツ位になら差控なし、彼は曰く、「余は英人なりながらも露国に生まれし故、英語を能くする能はず。英国女皇陛下の臣下なるを以て、数位は知り居りし」。後にて其人物の如何を聞き合し見れば、主婦の色男即ち間男なり。如何となれば宿の主人は他に夫あればあり、其夫暫くは他にある故、あの英人と通じ、既に一男を×けたり。男女の関係、不品行なるものに至り、日本の其×同じきなり。
露歴 8月15日(日曜日) 明治26年8月27日
 午前九時半椎名君と共に起き、荷物を片付けサムソノーバに移らんとせしに二人共懐中無一物。時に降雨あり。余はこれ降雨を好機とし、宿の主人に謂いて曰く
 「余は今日より他に移転の積もりなりしも、只今降雨ある故、荷物を持行くに不便なれば暫く預かり置き×くれ、快晴次第受け取りに来らん、又室代も今小銭持ち合なき故、其時に払わんと」
 十時頃宿を出て、ルコワーヤ町なりサムソノーバに至りて、諸方探せども、地理不案内の為め、町を取り違して、時々降雨益々甚だしく二人共笠はなく、ぬれ鼠の如くなりて、西に東に、或いは北に南に走り、聞き合いなさんとするも、生憎降雨甚だしき為め、通行人なく、二人とも非常の困難をなす。漸く探し出し一安心せり。
 時に一露人、余等の室に来たり曰く、「君等如何なる国人なりや」、我々曰く「、日本人なり」と、其人の職等々を聞けば、市役所官吏チェシトロフ氏なり。暫くして氏は余を氏の部屋に招き、茶及びパンを出し、優待致れり。氏曰く余は嘗て独逸ザックセンに遊学せり、其際写せり写真を出されしに、或いは英、或いは英、独逸シュエーデン、エステルライヒ等十二三名共学せし学友中に同国人なく、誠にも異国人にして、実に奇異の感あり。時に当地消防署々長クルチスキイー氏の二三人の来客ありて、二時間ばかり×談す。
 七時頃椎名君は仕事場に帰り、親方より仕事貨1ルーブル余り受け取り来れり、氏は其内1ルーブルを氏より借用せり、氏は直に店に行き、20カペイカーパン、20カペイカー酒を求め来れり、共々飲み、共々食して晩食をなす。
 八時頃氏は帰り。余は寝に就きしに、九時半頃宿の下女老婆余を起こして曰く、只今君はクルチスキー氏より招待されたり、支度して直に行く可しと。余はフロックコートを着し、氏の宅に至る。十数人の来客あり談。露皇太子遭難一件より、日本政党論に及び、十二時頃迄快談快飲実に壮快を極めたり、余は宿に帰り、おー吐す。浦潮港出来以来随分酒も飲みしが、未だおー吐せしことなり、今回を以て初回となす。
 余は去る十一日ブラキナ宿に移る哉、隣室の某露人来たり、招かれ非常の優待を受け舞踊等意外の壮快を極めしが、本日当宿に転し、クルチスキーより招待を受け、へどを吐く程飲み、愉快を極めし、実に奇と謂ふ可し。
露歴 8月16日(月曜日) 明治26年8月28日
 十時頃宿を出て市場ハイノフスキイ商店に至る、主人は茶パンを出し、余を優待す、暫く談話してブラギーナに至り、昨夜椎名君より借用せし1ルーブルの金を以て室料払い、残り十四日一日分として40カペイカを払い荷物を受け取り、20カペイカを投じて馬車を雇い、帰宿す。途中10カペイカ煙草を求む。二時頃椎名君は市場に行き玉葱、牛肉、大根等を買い来れり。之れを以てソップを×て共に食す。
 本日椎名君は雨天の故を以て休業50カペイカまた棒に振れり。凡て同建築場の職人共は降雨、若しくは雨天の際は業を休めり。其日には給料を得る能らず。故に一日80カペイカの給料なるを以て、一ヵ月18ルーブルある×なれば、日曜日大晦日、殊に露国には祭日多い、又自ら業を休む一日は給料を得能はざるが故、真に毎月得る所は拾二三円、即ち我は九円之を以て自ら食事を弁ぜざる可らず。我日本に比し生活の度、高き当地に於いて我は九円の生活は至って困難の×なれど当地は諸物価廉にして下等民の生活に金を要せざる。実に意外なり、凡ろ下等民の生活の衣食に要する費は実に僅少なるものなれど酒の為めに費す分多かる可し。我東京下等民中の常々言う如く夜越の金を用する江戸子の本色に非ずと。我国下等社会の状態も当地下等民の状態も異なってなけれども幾分か万事に於いて比較せり、日本の方優れりと謂ふを可ならん。
 此夜八時頃椎名君と互いに胸を開き将来の目的を談じ意気相投ふし、暗に甚大望を×ふせし、実に奇と謂ふ可し。共に水の如き日本刃を抜き血を×て兄弟の約を結ぶ。余は年長の故を以て兄となり、氏は弟となり、共々一酌を催し其締結を祝せんと椎名君は不時月意気はして今日迄幾多の艱難辛苦に遭遇するも其身を離さざりし五百札を出し酒を求め、快談。爽快を極め、夜のふけるを知らざりし。椎名君は此夜深更帰宅せり、小生の宿に宿するの積もりなりしも明日の仕事に差し控えてればとて帰り。
 氏は萩本県北相馬郡大野村字野木崎維名紋兵衛(父は養子にして父母共尚壮健なり)氏の長男儀三郎(既に結婚して二三子あり)の実弟にしてかつて東京駿河台ニコライ氏神学校で×り修学六年卒業期に至り、校内二派に別れ、義を取って動かざりし為め、退校を命ぜられしも日本宗教独立の熱心は入校の当時自ら盟ひし如く、益々盛んして其熱心あふるして終いに昨年九月長崎より浦塩斯徳港に××せしも、当地には神学校の設はあらざるを以て滞在一ヵ月にしてハバロフカを経て、当十月下旬ブラゴエシンスク府に着されなり。日本神学校よりの証明書なき為め氏は当地に於いて入学修業し能ざるも、神学校教師或いは僧正等の家に×を幾分の家事を助け勉学せしも、心中潔しとせざりし×ありして、以て本年六月迄当地米豪商アメール商会に入り、庶務に従事、大いに節倹して多少の旅費を蓄財し六月六日ブラゴエシンスク出発七月二十日幾多の艱難を嘗め当地に着され神学校入校の為以来奔走し居りし。
露歴 8月20日(金曜日) 明治26年9月1日
 午前九時離床、昨夜覚悟せし如くセンブルグ氏を市場店に訪ねし、喫茶朝食して、昨日午後三時よりの空腹を満たさんと門口まで至り、見れば泥眤甚だしも、此泥眤を犯し、朝食をなすより、寧ろ内に居り、空腹を耐えるの優れるに如く力ざるなりと決心し、再び折り返せり。十時頃前空腹に難堪を以て、椎名君を仕事場に訪ふ。喫茶迄は尚一時間ある故待つ可しと、余、アンガラ河岸を散歩し十一時の至るを待ちて、益空腹を感じ、平時の二三時を待つが如く、とにかく待ち時間の長きものなるが、本日は空腹の為一層甚だしく漸く十一時を報ず、仕事場に帰りて椎名君の親分より15カペイカのオーモザ魚を取り、之を焼きて黒パンとりだして共に昼食をなす。其味の美なるはたとえるものなし。餓て益々其味を知る。
 午後三時頃泥眤を犯し、市場にセンベルグ氏を訪ね喫茶す。四時プリクロフスキー氏を訪ふ、本十一月まで滞在を決心、且つプリ氏に我が友日本人新築大寺院の仕事場に永く働き毎日得る×の50カペイカの内を以て余に贈るの都合なり云々を語る、且つそれ迄三ヶ月間余は露語を学ぶの覚悟ナり云々。氏は余に贈るに
 大判洋紙四十八葉、上等鉛筆四本、定木(?)壱本、読本二冊、を以てせり
 氏の余を遇するの厚き余をして、氏を訪問する毎に感泣の×なからしたるなり。
 帰途椎名君を仕事場に訪ふ、プリクロフスキー氏訪問其他に××要談したる。帰宿し、電報を待っても返信至らず。
 午後五時過ぎ畠山氏より細君の名を以て電報来る。其文に曰く、
 夫伊三郎旅行中にて如何とも取り計ふ能りざり
 しに君に対して実に気の毒な事なり
 但し椎名君宛にて
 余考えるに椎名君は本日全身汗を以て滴たれ労働なし、返信を楽しみに余を訪ふに上記の如き電報を見るは実に面白からず、何か氏を慰むるの方法講ぜんと宿の主婦に談じ明日までの約束を以て1ルーブル借用す。此金を以て30カペイカ酒、6カペイカパン、12カペイカロウソク、10カペイカ煙草、10カペイカ腸詰、8カペイカ茶椀を店に行き、求めて椎名君の至りを待つ。
 七時頃氏来る。共々飲み、大いに快を取る、氏酔って倒る。八時半頃余一人にて湯屋に至り、帰途8カペイカにて酒を飲み、九時半頃宿に帰り椎名君を起こして帰らした。明日の仕事時間を×るの×しあるを以てなり、之夜四時迄安眠し能りざりし
今夕宿より借用せん×の金ならんもの、買い物をなせん故残す所僅か9カペイカなりし。
露歴 8月21日(土曜日) 明治26年9月2日
 午前九時離床。懐中9カペイカあり。
 午前九時半宿を出て、ユダヤ寺に至り次いでニコライ氏を訪ふ。転居せり。
 ブラギナに至り、帰途身代限をなし9カペイカ牛肉を買い、帰りて宿にてソップをつくって昼食をなす。午後一時チューリン商会の支配人アルセニフ氏を訪ふ。非ず。一時半椎名君来訪せり。
 余はチューリンより帰りて五時まで安眠せり。
 七時頃椎名君は親分より魚肉代等親方より買いし品物代を差引かれ仕事貨1ルーブル39カペイカを受け、持って来れり。1ルーブルを此の夜宿の主人より借用せしを以て之れを返×す。残金39カペイカは金にて置けば酒と化し去る故、パンを買わんと協議し、椎名君は市場に走り、20斤余り大黒パンを堤げ帰りて共々笑て、曰くは、四五日の食は充分なり、以て餓する憂いなし先ず安心と。又椎名君は少しの白パンを求め来れり、其至って美なりし、又氏は懐中別に1カペイカの持ち合わせありし故、腸詰を求めんとポケットより出せり、是立食しつ其味のよきを感ず。八時頃余は湯屋に至る、湯銭を払い、余に残る僅かに壱カペイカなり。

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