月刊デラシネ通信 > ロシア > 粛清されたサーカス芸人 > ヤマサキ・ファイル5
ファイルナンバー | 26 | 該当頁 | 58〜59 | 日付 | 1937年9月2日 |
タイトル | 被告ヤマサキと証人KOMISSAROVA との対決尋問 (手書き) |
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内容 | 織物工場の火災について、ヤマサキが妨害活動と証言したことについて | ||||
1937年9月2日付けの被告人ヤマサキキヨシと証人コミッサーロワ・ウリヤーノワ・ステパーノビチャの間で行われた対決尋問 織物工場の火災について: 質問: 被告人ヤマサキキヨシに対して 「工場の火災について、何を知っているか そして妨害活動についてあなたはコミッサーロワに何を言ったのか」 答え「1937年7月3日こんなことがあったのをおぼえている。私は第二幼稚園でスイッチの修理をした。この時、二人の女教師がいたが名前は知らない。修理している時にすでに話ははじまっていた。女教師の中のひとりが、私に改良されていない電線から何が起こるかと質問してきた。これに対して私は、発火することもある。火災は工場に対する復讐だろうと答えた。これ以外にも工場を燃やそうというような妨害は、ナロ全体に多くあると言った。これに際して私は女教師の一人に、この話について誰に喋らないように、もし喋れば私が殺されると警告した。誰が私を殺せるのか、私自身知らない。」 ヤマサキのサイン
質問: 証人コミッサーロワ・ウリヤーノワ・ステパーノビチャに対して 「ヤマサキキヨシはあなたに工場の火災や妨害活動について何を言ったか」 答え「1937年7月3日第二幼稚園で、電気技師ヤマサキキヨシは、スイッチの修理をした。どうして工場が火災になったのかという話のなかで、これに対して電気技師ヤマサキは、これは妨害を目的としたものだと言明した。妨害者は誰なのかという私の問いに対して、ヤマサキは、妨害者のひとりは発電所の所長ヴォスシケンで、ボイラー室を爆破するために人を派遣したが、これには成功しなかった。同様の妨害活動家はまだたくさんいるし、彼等はいろいろなところにいる。織物工場に8人、紡績工場に4人、機械工場に2人、兵器工場に3人いる、またこうした人々はコルホーズにもいる。私がこれらの人々の名前を聞こうとすると、ヤマサキは言えない、もしばらせば、私は殺されてしまうと言った。加えて彼が退出するとき、この会話について決して誰にも言わないように、彼は私に頼んだ」 コミッサーロワ
対決尋問は責任者(サインあり−ラザレフか)が行った *ヤマサキの答えはファイルナンバー11のヤマサキの尋問調書に赤でカッコしてあった部分からほとんど引用したもの、またコミッサーロワの答えもファイルナンバー14の尋問調書に赤でカッコしてあった部分から前の部分が少し手を加えた他はまるまる引用 *この対決尋問の手書きは、ヤマサキとコミッサーロワの尋問調書の筆致と同じ |
ファイルナンバー | 27 | 該当頁 | 60〜61 | 日付 | 1937年10月22日 |
タイトル | 被告ヤマサキと証人GODUNOV との対決尋問 | ||||
内容 | ゴドゥーノフの証言とそれを否定するヤマサキ | ||||
対決尋問の議事録
1937年10月22日、私こと、UNKVD ナルフォミンスク責任者国家安全局××××は、被告人ヤマサキキヨシと証人ゴドゥーノフの間で、対決尋問を行った。 質問: 証人ゴドゥノーフ・ワシリー・クズミッチに対して 「あなたは、1937年7月28日の予審でヤマサキキヨシの反ソ的活動についてのあなたの証言が間違いないことを確認しますか」 答え「私は7月28日の証言が間違いないことを確認します。 1936年ヤマサキ・キヨシが私の家に来たとき、こんなことを言っていた。『ソ連ではコミュニストたちや要職にある人々だけの生活はいいが、労働者やコルホーズで働く人々の生活は悪く、仕事は多いのに、何も食えない』。また彼は『コルホーズの事務員たちはコルホーズの人々に仕事を多くさせることができないでいる。何ももらえなで、二束三文しかもらっていないのだ』とも言っていた。」 質問: 被告人ヤマサキキヨシに対して 「あなたは、ゴドゥノーフ・ワシリー・クズミッチの証言により摘発された。それは反ソ活動を行い、またソビエト政権の施策に対して悪辣な中傷をしたということ、同様に労働者やコルホーズで働く人々の生活は悪く、仕事は多いのに、何も食えないという内容であるが、あなたはこれを認めますか」 答え「証人ゴドゥノーフ・ワシリー・クズミッチの証言を私は否定しますし、反ソ的活動も行っておりません」 |
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