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【連載】粛清されたサーカス芸人ヤマサキ・キヨシ追跡

アレクセイの回想

 一九九六年一二月八日私は、ナロフォミンスクでアレクセイ・ヤマサキと初めて会うことができた。
 ナロフォミンスク郡は、モスクワの南約二〇〇キロのところにある。車で約二時間、白樺林をぬってひたすら直進する道路を走った。車を運転するのは、ピョートル・クズメンコ。アレクセイに手紙を直接届けてくれた私の友人である。彼はサーカスで空中アクロバットをしている芸人である。根っからのサーカスマンで、かつてサーカスで働いていた日本人が粛清されたということを私から聞き、この件では自ら買って出て、私をいろいろ助けてくれている。この愛称ペーチャは、アレクセイに手紙を届けてから、何回かナロフォミンスクを訪れ、すっかりアレクセイとは友だちになっていた。
 日曜日ということもあって渋滞にあうことなく、モスクワ市内を抜けて車は一時間ぐらいでナロフォミンスク郡に入った。ナロフォミンスクはかつてはレコード生産のメッカだったという。いくつかの小さな町を通り過ぎて、アレクセイが現在も住むカメンスカヤ通りに入ってすぐだった。私たちの車が止まると同時に、道路に止めてあった車から一人の初老の小柄な男性が降りてきた。彼がアレクセイ・ヤマサキであった。
 アレクセイはびっこをひきながら、ペーチャと挨拶を交わし、そして私のもとに近づき、握手を求めてきた。ペーチャが言っていたように顔つきは日本人とかわらない。私を抱きかかえるようにしながら、アパートに案内してくれた。
 アパートの部屋では、奥さん、そして息子夫婦と孫娘が、私たちを待ち構えていた。ペーチャから遠方から私がやって来ると聞いて、昨日から料理の仕込みをしていたという。私たちはもう何年も前から知りあった旧知の友人のようであった。テーブルには奥さんと息子さんの奥さんが腕によりをかけた豪華な料理が並んでいた。すぐにウォッカの栓を開け、乾杯が始まった。あたたかいもてなしであった。家族全員が私のことを歓迎してくれた。何時間も煮込んだロールキャベツやペルミニ(ロシア式水餃子)など、久しぶりにロシアの家庭料理をたのしんだ。一時間ほどたったところで、アレクセイは煙草を吸いにいこうと、台所に私を誘った。そしてふたりきりになったところで、堰を切ったように話出した。自分の父親のことを。

「手紙に書いたようにほんとうに父のことはほとんど覚えていないんですよ。母は、父が自分のことを全く話さなかったと言っていました。知っていることといえば、おじいちゃんが父をロシアに連れてきて、モスクワの孤児院に預けたということだけでした。それなのに本当に死ぬ直前に、そう、あれは一九八一年四月のことでした。日本にお前のお父さんの兄弟がいるはずだから、それを捜せって。」

 おそらくこの時から、アレクセイのなかで、父親を探す旅が始まったのだろう。
 しかしアレクセイが父の消息を尋ねる手紙を書いたのは、もっと前のことである。どうしてこの手紙を書いたのか聞いてみた。

「あれはたしか一九六五年のことでした。その時私はモスクワでタクシーの運転手をしていました。ある日乗せた客が聞くんですよ。『お前ロシア人か』って。『そうですよ。ロシア人ですよ』って答えたら、『日本人に似ているな』って。この人は日本によく行くらしい。それで自分のことや父親のことを話したら、裁判所に父がどうなっているか手紙を書いてみたらどうだって言われたのです。それで手紙を書きました。二か月ぐらい経ってからでしょうか。職場の上司が軍管区軍事法からの手紙を持ってきて、お前何を言ったんだ。すぐ出頭しろと言ってるぞって。車ですぐに行きました。そしたら自分が書いた手紙を見せられて、これはお前が書いたものかって聞かれたのです。それで思い出したんです。手紙を書いたことを。正式に照会するから、もう一度手紙を書けっていわれました。それで、その場で手紙を書いて、しばらくして返事をもらいました。」

 それが、ヤマサキの名誉回復を証明する通知書であった。母親と一緒に、アレクセイはかつて父が働いていた工場に行く。そこでアレクセイは父親に支払われるべき給料に値するお金を貰った。
 日本人と顔が似ていたことが、父親の名誉回復の道を切り開いたことになったわけだが、ヤマサキという日本人の姓をもち、日本人のような顔をしていたこと、それはアレクセイの少年時代を暗いものにしていたことも事実であった。

「子供の頃は、ひどいもんでした。学校で、私のことを『あいつは日本人だ。それもスパイだ。テロリストだって』というが奴がいたんですよ。辛かったね。こんな小さな村でスパイなんてできるわけないじゃないですか。大人も私が歩いていると、『ほら日本人が歩いているって』と囁くんだよ。小さいころなんて、なにひとついい思い出なんてないですよ。ほんとうにひどかった」

 手紙に書いてあった父と同じ房に留置された男と会った時のこともアレクセイは、詳しく話してくれた。

「この男は父と同じ工場の同じ職場で働いていたと言っていました。恰幅のいい人でした。私が訪ねたとき、『おまえはヤマサキの息子か?』とすぐに聞いてきました。最高裁判所からあなたの住所をもらって来たのです、なんでもいいから父のことを教えて欲しいと頼んだら、すぐに『さあ、中に入りなさい』って言ってくれました。父のことは良く覚えていると、言っていました。『いい男だった。私たちはいい友人でした。逮捕された年に、ナロフォミンスクの工場で火事があって、その時四十人ちかくの人間が逮捕されたが、そのほとんどは外国人だった。中国人、タタール人、朝鮮人、君のお父さんも。ヤマサキは、自分の意見を変えなかった。私たちは一緒に尋問されたのです。その時『日本とソ連とどちらの国で暮らしたいか』って聞かれて、私はソ連がいいと言ったのですが、彼は日本の方がいいと言ったのです。私はその後彼の姿を見ることはなかった』。あなたから尋問調書のコピーを送ってもらって、すぐに彼のところに行ったのですが、もうだいぶ前に死んでしまったということでした。」

 ヤマサキの職場の同僚で、取り調べを受けたのは、ベレーズィンとアベリヤーノフのふたりであるが、アレクセイが会ったのは、このふたりのうちのひとりだったのか、いまとなっては名前をはっきりと覚えていないということだった。ただヤマサキの逮捕の理由が外国人であったことが原因となっていたことがひとつ明らかになった。

 ヤマサキが逮捕された当時、ヤマサキファイルによれば、ヤマサキキヨシと母親の住所が違っているのが、ずっと気になっていたのだが、これについては、父は工場の近くにアパートを借りて住んでおり、別に仲が悪くて別居していたのではなく、休みの時には、カメンスカヤ通りの母の家にも来ていたし、母もヤマサキのアパートにしょっちゅう通っていたという。
 調書では、アレクセイには当時もうひとり弟ウラジーミルがいたはずだが、と聞いてみると、意外な返事が返ってきた。

「父が逮捕される直前に弟は生まれています。しかしウラジーミルは一九四〇年に死んでしまいました。もうひとり姉がいたんですが、私が生まれたときには、もう死んでいました。母から聞いた話だと、この姉は一九三〇年に生まれたのですが、二才の時に死んでしまったということです。私ひとりだけなのです。」

 ウラジーミルが一九四〇年に死んだということは、わずか三才で亡くなったことになる。そしてそれ以前にも姉がいて、二才で亡くなったという。
 一九三〇年の時ヤマサキキヨシが盗みの疑いで、取り調べを受けたときの記録がファイルに入っているが、家族について聞かれたとき、ヤマサキは「妻と赤ん坊がいます」と答えている。てっきりこの赤ん坊は、モスクワ時代に知り合った他の女性との間にできた子どもだとばかり思っていたのだが、アレクセイの実の姉だったことになる。
 アレクセイの母バラゲイヤ・ニキフォロブナは、ナロフォミンスクの出身であったが、ヤマサキとはモスクワで知り合い、一九二九年か三○年に結婚し、初めての子どもを三〇年にもうけ、娘が亡くなったあと、一九三三年にナロフォミンスクに戻ってきた。思えばヤマサキの人生は、一九三〇年に盗みの疑いをかけられたころから、少しずつと歯車が狂いはじめてきたのかもしれない。娘を喪った悲しみが、モスクワを離れ、妻の故郷ナロフォミンスクへの転居を決意させたのかもしれない。
 それにしてもふたりの幼子を亡くし、夫を奪われたアレクセイの母ニキフォロブナの悲しみはいかばかりだったのだろうか。
 アレクセイは母のことをこう語る。

「自分の身の不幸をいつも嘆いていました。働き盛りの父が逮捕されたのですから無理もないことですよ。何をしていたかって? 母は教養があるわけではありません。子守や掃除婦のようなことをやっていました。学校や病院でね。母もあまり自分のことをしゃべりたりがりませんでした。
 でも何で、死ぬ直前に父の兄弟が日本にいるはずだから捜せって言ったんだろうね。いまはこうして自由に話せるけど、昔はね、何か秘密めいたことをうっかり喋ると、何が起こるかわからないと思ったんでしょうかね」

 夫が日本人、しかもスパイの疑いをかけられて逮捕されたその肩身の狭さから、ずっとその秘密を隠し通さなければならないと思ったのだろうか。

 アレクセイの少年時代は、ソ連が一番貧しい時代と重なりあっている。

「戦争が終わって、いまでもどんな風に生きていたのか思い出すと、不思議なくらい、ひとい生活をしていたんです。家も焼けて、転々としました。何を食べていたかって、草を食ったときもありました、それは夏です、冬なんか何を食べて生き延びることができたのか。」

 アレクセイは、一五才で学校を卒業して、一年間コルホーズに入り、トラクターやコンバインなどの大型車両の運転をおぼえる。二三歳で徴兵され、兵役から帰ってから彼はナロフォミンスクには戻らず、シベリア各地をトラックの運転手として一人で生活をする。当時シベリアに行くことは、流行だったという。そしてモスクワでタクシードライバーとして働いたのち、ナロフォミンスクに戻ってきた。いまでもアレクセイは大型車両の運転手として仕事をしている。びっこを少しひいているのは、去年作業中に、荷物が落ちて怪我したためだという。
 アレクセイ・ヤマサキはこうして淡々と自分の父や母、そして自分自身について語ってくれた。父や母は自分のことを話すことが嫌いだったというが、息子のアレクセイもあまり自分のことを話すことが好きではないようだった。恵まれたとは決していえない辛い少年時代の思い出も、重い口をやっと開いて語ってくれた。
 その面影さえ覚えていない父のことが、確かにアレクセイの中で、気になる存在として重くのしかかってきていることだけは確かであった。母の遺言、そして取り調べ記録ヤマサキファイルの発見、いままで全く知るすべもなかった父親の像が、少しずつではあるがおぼろげに見えてきた。時間が経てば経つほど困難な父親探しは、年を追うごとにアレクセイの心のなかで、切実なものとなってきている。

「父が何処に葬られているかもわからないです。でも探さなくてはならないと思っています」

 こんなこともアレクセイは会話の中で何度か繰り返していっていった。
 私が送った調書のコピーは何度も読み返したと言っていた。とにかく驚くばかりだったと言う。

「ただ父は、本当のことを話していたと真実を話していたと思います。彼はほんとうのことを言っていたと思うようになりました。『ソ連は働くことは大変で、仕事は多いのに、食べるものがなく、いつだって飢えた人間が行き交っている』と父が言ったと誰かが証言してますけど、ただ現実を言っただけでしょう。これはいまのロシアでも通ずる話です。彼は本当のことを言っただけなのです。」

 父ヤマサキキヨシが日本人であったこと、そしてそれが彼自身の生活に決して少なからず影響を与えたこと、それでも父がソ連より日本で暮らしたいと言っていたことを知ってアレクセイの中に、日本人であったヤマサキキヨシのことを、そして日本のことについて知りたいという欲求が生まれてきたはずだ。彼は、調書を読んだあと、モスクワの日本大使館に行っている。父のことを照会してもらうおうとしたのだが、もうひとつは日本人をこの目で見たことがなかったので、見てみたい、話してみたいということも大きな理由だったと言っている。アレクセイにとって父ヤマサキキヨシのことを知ることは、自分のルーツ探しにもなっているのだ。

 父の遺品はなにひとつ手元に残っていないという。ただ写真が一枚別荘においてあるというので、私たちはアパートから五分ほど歩いたところにある、別荘に行くことにした。
 別荘の寝室に、父と母の写真をパネルにしたものが置かれてあった。残された写真はこれ一枚だけだという。何才ぐらいのときに撮ったものだろうか。逮捕されたときの写真よりは少し太った感じであるが、目つきが鋭く、意志の強そうな印象を与える。

「父のことを母に聞いても、いつも『お前のお父さんはとにかく自分のことを話してはくれなかったんだよ。私が、父の過去のことをなにか聞こうとするとすぐに話を逸らすんだ。決して私の聞いたことには答えてくれなかった』と言っていました。」

 彼にはなにか隠さなくてはならない秘密があったのだろうか。

「母が言っていたことで覚えているのは、父が大変な気性の激しい人で、おこりっぽい性格だということです。」

 意思を曲げることができずに、なにか気に入らないことがあれば怒りだしてしまう、そんな男だったのかもしれない。もしかしたらそんな気性の激しいところ、自分の意志を貫くことが取り調べの時に出てしまい、結果的に銃殺という処分を受けることにもなったのかもしれない。
 ほとんど父のことは知らないと言うアレクセイの母から聞いた父のわずかな思い出を繋げていくと、ほんとうにぼんやりとであるが、ヤマサキキヨシの人間像が浮かんでくるようだ。「白いものは白い、黒いもの黒い」、自分の意志まで曲げて「白いものを黒い」とは言えない一面を持った男だったのではないだろうか。

「母が言っていたことと、あなたが送ってきた取り調べ記録に書いてあることとは、違っています。おじいちゃんに連れられモスクワの孤児院に入れられていたのではなく、実際はサーカス団と一緒にロシアに来ていたわけですよ。しかもおじいちゃんは、海軍将校で戦死していた。真実はどこにあるんでしょうね。そしておじさんは本当に日本にいたんでしょうか。調べることは難しいでしょうね。もう何十年も前のことですものね。」

 私はいままで調べたことをもとに、ヤマサキキヨシは『ヤマダサーカス』の一員としてロシアに来たのではないか、そして日本を出国したときに旅券をもらっていれば、その記録が外務省に残っているはずであり、それを見つければ彼の本籍や生年月日などもう少し詳しいことがわかるかもしれないと言った。アレクセイは父の日本での記録が残っているかもしれないという話に興奮した。そしてなんとかそれを探してみてはくれないかと頼んできた。

「実は、あなたからファイルのコピーをもらってからあとに、モスクワの日本大使館に行ってみたんですよ。なにか父の手がかりがつかめるかもしれないと思ってね。ところが、何を知りたいんだ。そんな昔のことはわからないってなことで、けんもほろろのような状態で帰ってきて、すっかり諦めていたんです。日本には何の手がかりもないってね。」

 冬のロシアは日が暮れるのが早い。あたりはすでに夜の帳がおりていた。そろそろアレクセイたちと別れる時間がやってきた。別れ際、アレクセイは何度も私の手を握り、またモスクワに来ることがあれば、またナロフォミンスクに来てくれと言った。

「今度は春か夏に来るといい。川で魚が釣れるし、シャシリークも御馳走したい。なんだったら子どもたちも連れてくるといい」

 アレクセイはいつまでも手を振って私たちを見送ってくれた。
 夜の闇に浮かぶ小さなアレクセイの姿が遠ざかるのを見ながら、今度来るときは、なんとかして父ヤマサキキヨシの兄弟を探す手がかりをもって来よう、ひとりそんな呟きをもらしていた。


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