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【連載】粛清されたサーカス芸人ヤマサキ・キヨシ追跡

シマダの悲劇2−シマダ・ブラザーズの悲劇

ガリーナの思い出
シマダ・ブラザーズの究極のバランス
ヤマダとシマダ

ガリーナの思い出

『サーカス小百科辞典』で「一九四七年からはヴェラの子どもたちイシマル・ジュニアとウラジミールの娘ガリーナも参加する」と書いてあったが、このガリーナ・シマダがまだサーカスの世界で働いていたことがわかった。

 シマダ・パントシの孫娘ガリーナ・シマダと会ったのは、いまから七年前1994年、ポプラの白い綿毛がモスクワの街で風に舞う五月のことだった。
 祖父のシマダは、ロシア革命前に日本からロシアにやってきたサーカス一座の一員として、最初の公演地ウラジオストックでロシア人のダンサーと結婚、革命後もロシアに留まったという。

 「お祖父さんは、ロシア語がほとんどできなかったらしいのです。それが命取りになってしまいました。一九三七年スパイ容疑でケージービーに捕まえられ、そのまま二度と家族の前に姿を現すことはありませんでした。祖父は、質問に答えられず、ただハイハイとうなづいただけだったのですが、それがスパイだということを認めたことになったというのです。」

 シマダは東が伝えるように、シベリアを巡回していたサーカス団の団長であった。日本語も知らず、ロシア語も思うようにできず、スパイであることを結果的には認めてしまったシマダは、本当に訳が分からず殺されてしまったといっていいのかもしれない。
 ガリーナが生まれたときには、すでにパントシ・シマダは死んでいたので、祖父について知っていることはこれだけであった。父のウラジミールは寡黙な人で、ほとんど自分のことや祖父のことについて語ることはなかったという。アレクセイ・ヤマサキも同じようなことを言っていたことが思い出される。
 しかし父親を失った家族は、スパイの子供という烙印をおされ、辛い生活を送ったことはシマダも同じだったと、ガリーナは語る。

シマダ・ブラザーズの究極のバランス

 シマダには、二人の息子、アンドレイとウラジミールそしてベラという娘がひとりいた。父亡きあと、アンドレイを中心に、凄い芸をつくれば、いつか自分たちにも日の目があたる、それを信じ、毎日のように猛練習を積んだ。そしてあみだした芸が、『究極のバランス』であったのだ。ソビエトサーカス史上に残る『究極のバランス』は、いわばスパイの子として白い眼で見られたことに対する反発、きっと凄い芸をつくって見返してやるというエネルギーから生まれた芸だった。

 一九四四年モスクワのサーカス場で、ソ連邦サーカスコンテストが開かれた。賞をとれば、スターへの道が約束されるというこの大会に参加した『シマダ』は、ここで初めて『究極のバランス』を披露し、観客や審判の度肝を抜くことになった。
 しかしこのコンテストで何者かが、シマダたちに妨害活動をしたことを先にあげた『シマダ』の論文が明らかにしている。
 アンドレイが高い棒を額の上におき、ベラが棒を登りはじめたとき、アシスタントがワイヤーの緩みをなくすために思い切りロープを巻こうとした。通常は五回巻くところが、二回で巻きおわってしまう。関係者は皆青ざめたが、いまさらアンドレイにこれを言うことも、ロープを巻くこともできない。
 するとその時であった。アンドレイが、ベラをのせた棒を額で支えて、ワイヤーに足をのせた途端、沼に足を突っ込んだのと同じように、彼の体が大きく沈んだ。
 アンドレイは全ての状況を把握した。いつもよりはゆっくりとワイヤーの上を歩き、やっとの思いでハシゴの台に着いた。その時にはワイヤーはかなり弛み、当然のことながら台も波のように大きく揺れていた。それでもアンドレイは演技をやめようとはしなかった。彼はこの台の上にゆっくりとかがみ、ゆっくりと体を旋回させた。ここで弟のウラジミールがワイヤーをわたりアンドレイのところに行く。アンドレイが腰を降ろして立て膝をついている。ウラジミールはその膝の上で倒立しようというのだ。皆はウラジミールにそれをやめさせようとするが、ふたりは結局は全ての芸をやってしまう。一瞬アンドレイが額で支えていた棒が揺れ、ベラが振り落とされそうになるが、辛うじてアンドレイがそれを支えた。そればかりかアンドレイはベラをのせた棒を額で支えたまま、ワイヤーを渡りつくし、元の場所に戻ったのだ。
 公演後ロープを巻き上げる軸を分解すると、ねじ目のところに金属の削り屑が詰まっていたのが発覚した。これは誰かシマダを妨害するためにやったことを意味していた。
 しかしこの芸をやり遂げたシマダは、大変な話題を呼び、一躍トップスターにのしあがる。しかし日本人の子供、スパイの子供たちという汚名があとについてまわり、出演料や待遇の面でもトップスター扱いされることはなかったという。

 しかし当時一流スターにだけ認められた海外公演(ユーゴスラビア、英国、東独)のメンバーに加えられるなど、道が開けたかと思った矢先に一九六七年二月突然グループは解散し、皆を驚かせる。ガリーナの父ウラジミールが急死したのが原因であった。ガリーナがまだ二三才の時だった。弟を失ったアンドレイにサーカスを続ける気力は残っていなかった。ただちにアンドレイはグループを解散、引退を惜しむ周囲の声を無視、自分もサーカスから身を引く。その後アンドレイは、忽然と皆の前から姿を消す。ひっそりと暮らしていたアンドレイは、弟の死後十年たった一九七七年八月静かに息をひきとった。六十歳であった。弟が死んだ後のこの十年間は、抜け殻のような生活をおくったという。あれだけ観客を熱狂させたサーカスのスター、そしてロシア共和国功労芸術家の称号まで受けたアンドレイ・シマダは、サーカスから姿を消し、晩年は食料品店の倉庫番のような仕事をしていたという。
ガリーナのお父さんのウラジミールも、叔父のアンドレイも、とにかく寡黙で真面目な人だったという。自分たちの妻には決して働かそうとはせず、女は家庭を守るのが、仕事だと言い聞かせていたというから、日本風の考えを受け継いでいたのかもしれない。 モスクワ郊外にあるウラジミール・シマダの墓には、アンドレイが書いた次のような銘文が彫られてある。

「おまえは私たちのもとから去っていった
 なにも語らずに
 おまえが胸にどれだけ大きな痛みをもっていたか、私は知っている
 静かに眠れ
 私のいとおしい弟よ
 サーカスは、以前と同じように輝き、笑い声に満ちている
 おまえがいないことだけを惜しんでいる」

 長兄アンドレイにとっては、父パントシの悲劇を乗り越えるために、弟と必死の思いで芸をつくってきた。それがいまでもサーカス芸人たちに語り継がれるバランス技となった。しかし血を分けた弟が急に亡くなったことで、それを守る理由がなくなったということなのかもしれない。
 最愛の父を亡くし、叔父や叔母とも別れることになったガリーナは、その後猛獣サーカスショーで有名なザパーシヌィや、日本でも名が知られているキオのグループに加わり、ダンサーやアシスタントとして働くことになる。いまガーリャさんは、『ソユーズツィルクコンツェルト』という、サーカスやヴァラエティーショーの番組をつくる会社で演出家助手として働いている。

 「私にはアパートがないのよ。ここがオフィス兼ベットルーム。ショービジネスの世界で生きることには誇りをもっているけれど、決して恵まれた生活とはいえないわよね」

 こう言ったあと、寂しそうにガリーナは微笑んだ。スパイ容疑で捕らわれた祖父を持ったことは、彼女の生活にマイナスになった。シマダという芸人がいたことをいまでも伝えるサーカスで、生きている、それが彼女の最後の誇りなのかもしれない。

ヤマダとシマダ

最後にガリーナは、思いがけないことを口にした。キオが日本に『ボリショイサーカス』の一員として行ったときに、シマダの親戚がふたり楽屋を訪ねてきたというのだ。

 「これはキオで働いていた時に彼から聞いた話です。ふたりとも東京の人で、ひとりは大金もちで、もうひとりは貧乏そうな人だったといいます。自分の家族の一人が、戦前サーカス芸人としてロシアに渡ったまま、帰ってこないままになっている。ヤマダという芸人を知らないだろうかというのです。祖父は以前は、ヤマダと名乗っていたこともあったので、この人たちが、祖父の兄弟か、親戚の方だったのでしょう」

 なぜシマダがヤマダと名乗ったのか、聞いてみたが、それについては知らないという。シマダがヤマダと名乗っていたということは、かつてシマダがヤマダサーカスの団長だったのだろうか。シマダとヤマダと一字違いからくる単なる間違いで、シマダもヤマダもいたのではないかという気がするのだが、いずれにしてもヤマダと名乗る縁者がその消息を尋ねてきたということは、ヤマダもまた革命後もロシアに残ったということにならないだろうか。


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