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レザーノフの『滞日日記』を追う

雑誌『窓』(ナウカ書店)に掲載

長崎港沖
梅が崎
長崎奉行所
レザーノフ来航の資料について
長崎通詞たちの足跡

長崎港沖

 文化元年九月六日レザーノフを乗せたナジェジダ号が最初に碇をおろしたのは、長崎港外伊王島沖である。レザーノフは再三日本側に対して、長崎入港を要求するが、幕府からの許可なしでは認められないと拒否され、このあと神崎沖、太田尾と二度にわたり碇泊地を変え、やっと十一月十七日上陸を許されている。
 伊王島までは、長崎港から高速フェリーで20分で行ける。これに乗って伊王島から、神崎沖、太田尾の位置を確認してみた。長崎港の入江は、両端から半島にはさまれているので、入江まで来ないと町は全く見えない、高鉾島あたりを長崎港に向かって少し進んだあたりで、やっと町が見えてくる。伊王島沖からは見えるのは、海と島、そして半島だけである。神崎沖は入江の手前、太田尾は入江を入ってすぐのところにある。九月十五日神崎沖に繋ぎ替えされ時、レザーノフは初めて長崎の街を一望する。彼は日記の中でこう書いていた。

「私たちが連れてこれたのは美しい場所だった。大きな湾は、八マイル(十二・八キロ)にも及び山々や美しい村落に囲まれていた。要塞には、青い横縞の幟が立てられ、旗も飾られていた。山々はすべて麓から山頂までテラスのようなものがつくられており、その上に畑があるのが見えた。テラスは崩れ落ちないように石の壁に囲まれており、ところどころに小さな林が残されていた。山腹に石で造られた大きな寺院があった。町はここから四マイル(六・四キロ)のところにある。海上もすべて見渡すことができた。海上を旗を飾ったたくさんの小舟がおおい尽くしていた。それは壮大でとても美しい眺めで、文章に表すことができないほどだった」

 やっと長崎の街を目にし、ほっとした彼の心境がこの一文から読み取れる。長崎の街の様子がまったくわからず、ほとんど海と小島しか見れなかったレザーノフの安堵感のようなものが、実感できた。長い海上生活から解放されるそんな期待もあったと思う。しかし彼はこのあともしばらく海上生活を余儀なくされるのである。彼が梅が島に上陸できるのは、まだ二か月先のことだった。

梅が崎

 強く上陸をせまるレザーノフに対して、幕府から許可がないとこの申し出を退けてきた長崎奉行所だったが、使節の病気の悪化と、ナジェジダ号修理のために、さすがにこれ以上拒否はできないと判断、幕府からの許可を待たず、事後報告ということにして、レザーノフとその随員の上陸を許可する。このために唐船倉庫があった梅が崎に、急遽宿舎をこしらえ、レザーノフら一行十九名(このなかにはロシアから連れ帰った来た仙台漂流民四名も含まれていた)は、十一月十七日梅が崎の宿舎に入っている。待ち望んでいたこの上陸の日レザーノフは、梅が崎の印象をこう書き留めている。

「新しい自分の住まいをじっくりと見てみた。町につながる門は、細長い横町に面していた。横町にはふたつの門と三つの番所があった。山の方を見上げると、他の要塞と比べても負けないくらい高いところに要塞があり、五百人近く の兵士がいた。このため彼らは庭で私の一挙一動を見ることができる」

 彼はここが常に日本側から監視されていることに大きな不満を感じる。案内した役人にレザーノフは、「これは要塞なのですか、使節の屋敷なのですか。そして私は捕虜なのですか、賓客なのですか」と尋ねる。これに対して役人は「どうぞもう少しのご辛抱を、あと十日もすれば、あなたは私たちの誰もが味わえない自由を手にすることができるのです。私たちはとにかく急使を待つしかないのです」と答えたという。しかしレザーノフはこの屋敷でおよそ四ヵ月間の「幽閉生活」を強いられることになった。
 梅が崎付近を歩いてみる。レザーノフの宿舎があったあたりは、いまでも梅香崎という地名で呼ばれていた。梅香崎1−1にある梅香崎郵便局の前には、レザーノフ来航を長崎市民にいまに伝える記念碑『気球飛揚の地』が建っている。ここは我が国で初めて気球が飛揚した記念すべき場所でもあったのだ。この実験を行ったのはコペンハーゲンから学術調査のためナジェジダ号に乗船したラングスドルフである。『日本滞在記』によれば彼は、三回気球を揚げているが、日本人たちは我を忘れて喜んだという。しかし文化二年一月八日には、気球の紐が切れて遠くまで飛んでいき、ボヤ騒ぎも起こり、街中が大騒ぎになったことは、日本側の資料にも出てくる。
 レザーノフたちが生活した宿舎は、この郵便局があるところから東に百メートルぐらいの一角に建てられていたと思われる。レザーノフによれば、宿舎の前はすぐに海だとあるが、いまは埋め立てられ、海まではかなり距離がある。また宿舎の裏が、山になっていたとあるが、いまは石階段で上まで登れるが、かなりの急斜面で、ちょっと登っただけで汗が吹き出てきた。当時この坂道はあったのだろうか。坂の両脇には、結構古い民家が立ち並んでいた。梅香崎の一角を歩いてみると、ロシア人宿舎が、海と山に挟まれた、かなり狭いところで、しかもあちこちに柵がはりめぐらされたことを考えると、幽閉に近い状態にあったことがわかる。レザーノフがぼやいていたように、賓客をもてなすための宿舎ではなかったように思える。
 またオランダ人たちが住んでいた出島が、ずいぶんと近いところにあったこともわかった。梅が崎から出島までは、歩いて7〜8分ぐらい。ロシア人宿舎から肉眼で、出島のオランダ商館がはっきりと見えたはずだ。レザーノフは、この時の商館長ドゥーフとは、二回しか会っていないのだが、日記にはかなり頻繁にオランダ人の動向についての記述がでてくる。これは出島の様子がはっきりと見えたことと、同じように自分たちがオランダ側からも監視されているような気がしたからではないだろうか。

長崎奉行所

 梅が崎で、彼がロシアから連れ帰ってきた漂流民のひとり太十郎が自殺未遂事件をおこし、さらに自分もリューマチの発作に苦しめられるなど、レザーノフにとっては不愉快な事件が相次ぎ、一刻も早くここを出たい、さもなければ船に戻ると再三再四役人に申し入れているが、結局彼がここから出られるのは、江戸からやって来た目付遠山景晋はじめ長崎奉行と会談に臨んだ時だけであった。
 この日露会談は、文化二年三月六日・七日・九日と三日にわたって立山にある長崎奉行所で行われている。この時レザーノフは、梅が崎から大波止まで船で行き、そのあと駕籠に乗り、奉行所へ向かった。レザーノフはここで初めて長崎の街を通ることになったのだが、厳戒体制がとられ、彼が市中で目撃したのは、警備の者だけだった。この時のことをレザーノフは日記にこう記している。

「船は広い広場(大波戸のこと)に着いた。広場には青い縞がついた織物が垂れ下がっていた。岸の下は、たくさんの兵士たちや下士官たちが群がっていた。私に乗物が与えられた。それに乗りこみ、町の中を進んでいった。町中のすべての窓は藁の日除け(簾)で閉ざされ、通りには人ひとりいなかった。十字路は板で塞がれたり、幟が垂れ下げられていた。私が来るということで、すべての通りがふさがれていたのだ。深い沈黙。通訳たちは、みな二人一組になり、二列になり、前を歩いていった。たくさんの役人たちが彼らに付き添っていた。彼らの着ている黒装束はまるで葬列を思い起こさせる。通りのあちこちには、たくさんの兵士たちが立つ哨所があった。ここで兵士たちは列をつくり、彼らの背後には上司たちが立っていた」

 大波止から長崎奉行所があった立山まで、歩くと30分ぐらいかかる。籠に乗り、ひっそりと静まりかえった道のりを進んだ時、彼の胸に去来したものは何だったのだろう。やっと幕府の幹部と会い、交渉できることへの不安と期待が入り交じり、昂ってくるものがあったと思うが、通りを支配していた深く重い沈黙が、不気味に彼にのしかかってきたのではないだろうか。
 長崎奉行所での三度にわたる会談の模様についてもレザーノフはこの日記に克明に書き記している。通商を拒否され、さらにもう二度と来航しないように言い渡され、またロシアから持参した皇帝からの献上品もほとんど受け取らないという、レザーノフにとっては屈辱的な結果となるのだが、それに対してあらわに怒りの感情をぶつけ、これをなだめようとする通詞たちの慌てた様子など会談の緊迫したやりとりが描かれ、従来の日本側の資料では見られない迫力が伝わってくる。

レザーノフ来航の資料について

 長崎奉行所があった立山に、長崎県立図書館がある。郷土課の本馬貞夫氏にお目に掛かり、レザーノフ来航に関連する所蔵資料を見せていただいた。この事件の長崎奉行所の公式記録『文化元子年魯西亜船入津ヨリ出帆迄記録』をはじめ、珍しいレザーノフのカラー版肖像画など貴重な資料がここに収められている。また本馬氏から、当時長崎の警備にあたった佐賀藩の『魯西亜渡来録』が諫早郷土史料叢書として出版されていることも教えていただいた。これは長崎に常駐していた佐賀藩の連絡係(聞役)と、佐賀藩との間で交わされていた往復書簡集なのだが、幕府の記録とは違った視点、つまり長崎港の警備責任藩の立場から、この事件を追ったもので、貴重な史料といえよう。これを読むと佐賀藩が、通詞の本木庄左衛門と、中山作三郎を通じ、レザーノフたちが来航する二ヵ月前に、ロシア船来航の情報をすでに入手していたことをはじめ、ロシアと通商が認められた場合、あるいは認められない場合、どちらにも対処できるよう、ありとあらゆる情報網をつかい、両国のやりとりを緊張しながら見守っていたこともわかる。長崎から佐賀藩に情報を送った人物は、聞役関伝之丞なのだが、彼はレザーノフが日露会談に出席する際に乗った関船の接待係も担当していた。レザーノフは、梅が崎の警備にあたっていた役人たちとはかなりうちとけて話をしていたことが『日本滞在記』にも出てくるが、長崎警備にあたった諸藩の史料が、レザーノフ来航事件の別な一面を伝えることになるかもしれない。

長崎通詞たちの足跡

 この日本滞在記のなかで、最も注目すべき点は、前述したように長崎奉行所とレザーノフのあいだに立っていた長崎通詞たちの素顔が生き生きと描き出されていることである。シーボルトやケンペルが残した日本滞在記にも通詞たちのことは出てくるが、官吏としての一面を捉えているにすぎない。ここに実名で登場する通詞たちは、人間的な魅力をぷんぷんとただよわせている。のちにシーボルト事件で連座し、秋田に永牢を言い渡される馬場為八郎、忠実な官吏としてレザーノフの信頼を受ける石橋助左衛門などの素顔が、この日記で初めて明らかにされる。この中で最も光彩をはなっているのが、小通詞本木庄左衛門である。彼は後に日本で最初の英和辞典を編纂したことでも知られている。レザーノフは、本木のことを幕府の秘密を暴露し、密貿易の話を持ちかけるなど、胡散臭い人間として描いているが、同時に鎖国に対する不満を述べ、見知らぬ世界の知識を貪欲に吸収しようとする学問に情熱を燃やす一面も浮き彫りにしている。特に日露会談で通商を拒否された後、通詞たちを代表して、再度日本へ来るよう、そのためにオランダを通じロシア人を日本に派遣して欲しいと秘密工作を持ちかけてくるころから、レザーノフは本木の言うことを信じはじめる。レザーノフは本木とは生理的に合わないと感じていたようだが、どこか共感できる何かを感じたからこそ、彼について多くを語るようになったのだろう。本木庄左衛門には、それだけの魅力があったのだと思う。印刷術を日本に最初に紹介した本木昌造は、庄左衛門の養子であった。通詞として活躍したあと、維新後素早く転身した昌造にも義父の野心が受け継がれたのかもしれない。レザーノフは日記で、本木に扇を贈ったと書いている。これには枝にとまっている一羽の鳥と、飛んでいる一羽の鳥が、真ん中で結び目がついた紐を口にくわた絵と、それに添えて「遠ければ遠いほど、ますます緊密になる」という言葉が書かれていたという。本木はこれをとても喜び、家宝として大事にしますと、レザーノフに礼を述べた。もしかしたら長崎のどこかに本木の子孫が生きて、日露交流の知らざれるエピソードを物語るこの扇子も残っているかもしれないという期待もあったのだが、本馬氏の話では本木家は明治二十年代に途絶えてしまったという。
 風頭山の麓に古い寺が立ち並ぶ寺町がある。寺町のはずれ大光寺に本木家の墓があった。本馬氏は、この一族の墓は他の通詞たちの墓に比べて、格段に大きく、何故こんなにも大きいのか謎なんですと言っておられたが、確かに本木家の墓はかなり大きく、そして立派なものだった。一番大きいのは、昌造のものだが、庄左衛門の墓もかなり大きい。
 今回長崎を訪ねるきっかけとなったのはシーボルト記念館に、本木や石橋と共に、レザーノフと交渉にあたったひとり、大通詞中山作三郎が残した『魯西亜滞船中日記』があることを知ったからだ。本木や石橋と共にレザーノフと交渉した彼の日記の存在は、いままであまり知られることがなかった。レザーノフの日記とこの中山が残した日記を照らし合わせることで、レザーノフ長崎来航という、日本とロシアが初めて公式の交渉の場についた歴史の一場面が明らかにされるはずだ。
 この現物を見に有名な鳴滝塾のあった公園に隣接して建つシーボルト記念館を訪ねた。『魯西亜滞船中日記』は、厚さ10センチほど、立派な装丁で、しかも保存状態もなかなかよい。長崎に本木の資料は残っていなかったが、こうして長崎通詞の残した資料の現物を見ることができたのが、なによりの収穫であった。歴史の現場に足を運ぶことの大事を知った時でもあった。
 コピーの手続きのため待たされた控室で、最近発見された古文書の裏打ち作業をしているひとりの婦人と出会った。こうした古文書はまず水で洗うと汚れと糊がとれ、きれいに見えるのですという話に耳を傾けながら、古文書がこうした人たちの努力によってはじめて私たちの目に届くようになるのだと歴史の重みをいまさらながら知ることができた。このあとシーボルト記念館の学芸員永松実氏から、これが本木家に残っていた古文書のひとつであることを教えられた。この資料はシーボルト記念館が来年1月から3月まで開催する企画展『新発見の阿蘭陀通詞資料展』で公開される予定になっている。レザーノフ来航に直接関係する資料ではないと思うが、歴史の町長崎に、まだまだ生きた歴史史料が残っていたことに、それを蘇らすため地道な作業をしている人がいたことに、感動を覚えた、そしてこれを知っただけでも長崎に来た甲斐があったと思った。思えばレザーノフの日本滞在記を収めた『コマンドール』も、クラスノヤールスクの学者たちが中心となり、歴史に埋もれていた史料の山から、探し集めたものを編纂したものだった。このクラスノヤールスクでレザーノフ記念館をつくろうというプロジェクトが進んでいるということを最近知った。
 もしかしたらレザーノフも、長崎通詞たちも、いま歴史の新たな判断を受けようとしているのかもしれない、そして彼らの残したものを通じて、正当な評価のもと、見直されるのもそんな遠い先のことではないような気がする。そのためにも『レザーノフの日本滞在記』を多くの人に読んでもらいたいと思っている。


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