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巻頭エッセイ
玉井喜作と若宮丸漂流民
イルクーツクでの出会い−吉郎次の墓と玉井喜作

いまからおよそ二百年前にロシアに漂流し、世界一周までして日本に戻って来た若宮丸漂流民。そして百年以上も前に遥かベルリンを目指してシベリアをひとりで横断した男、玉井喜作。彼らを結ぶ点と線にせまる。

玉井喜作と若宮丸漂流民
ムルケと吉郎次の墓
吉郎次の墓の最初の発見者は、玉井だったのか?

玉井喜作と若宮丸漂流民

 1893年(明治26)12月7日、トムスクに向けイルクーツクを出発したこの日、玉井は日本にいる親類や友人に、こんな手紙を書いていた。

「日本建国以来、つまりわが国の歴史家の推測によれば、二五五三年の昔から、このシベリア地方を冬の隊商といっしょに旅行した日本人は一人もいません。私の同国人たち、津太夫、儀兵衛、左兵、太十郎たちは(この人々の旅については、詳しくは付録に出ている)百年前に世界旅行しましたが、その旅程を隊商といっしょにしたのではなく、タランタスに乗って進んだのです。」(『シベリア隊商紀行』)

 ここで玉井は、若宮丸漂流民のことを書いているわけだが、どこで彼らのことを知ったのであろうか。
 イルクーツクには、若宮丸漂流民よりも有名になる大黒屋光太夫、そして民蔵、新蔵といった、伊勢の船員たちが暮らしていたのにもかかわらず、なぜ若宮丸漂流民だったのだろうか。
 若宮丸漂流民の第一陣が、イルクーツクに到着したのは、1796年1月のことである。およそ100年という時間を経て、玉井は若宮丸漂流民のことを紹介したことになる。玉井と若宮丸漂流民とのこうした出会い、これは私にとって、ひとつの啓示だと思っている。
 若宮丸漂流民をめぐる謎はいくつかあるのだが、そのなかでいま一番気になっているのは、イルクーツクで亡くなった漂流民のひとり吉郎次の墓、そしてイルクーツクに残った漂流民たちの子孫たちの行方である。これを解明するひとつの手がかりを、玉井のイルクーツク時代が与えてくれるような気がしてならない。どこで玉井が、若宮丸漂流民のことを知ったのか、それを明らかにすることで、もしかしたら突破口が見つかるかもしれないという・・・
 玉井と若宮丸漂流民たちの出会い、これは私にとっては偶然ではない。
 「百年前、日本人数名によるシベリア経由の世界紀行」の原典は?
 『シベリア隊商紀行』付録の序文のなかで、玉井は次のように書いている。

「一七八九年に津太夫(六十歳)とその同僚たち、儀兵衛、左平、太十郎(三十四歳)という日本人四人が、嵐にあって難破し、東シベリア海岸に打ち上げられた。ロシアの戦艦「ナデジュダ」が彼らを長崎港の手前にある伊王島に上陸させられたのは、一八○四年九月のことだった。
 これらの船員たちは、独特の運命をたどり、この時期に地球をぐるりとめぐっていたのだ。彼らは心ならずも世界一周旅行をしたわけだが、それについて日記をつけていた。」

 玉井が引用したこの日記は果たして存在するのか、そしてこの基になった原典はなんだったのだろう。
 玉井は漂流民たちが日記をつけていたと書いているが、これがもしも事実であれば、たいへんな発見になるのだが、その可能性は少ない。
 ただ帰国した漂流民たちは、長崎と江戸で取調べを受け、その記録は残っている。特に蘭学者大槻玄沢がまとめた取調べ記録『環海異聞』は有名である。
 『環海異聞』が編纂されたのは文化四年(一八○七)であるが、活字になり一般に広く知れ渡るようになるのは、明治二十七年『寛政年間仙台漂客世界周航実記』が博文館から刊行されてからである。
 この本が刊行された時は、玉井はすでに日本を旅立ったあとである。
 玉井が、ベルリンでこの本を入手していた記録が残っている。
 光市文化センターに残る玉井の発信簿を見ていくと、ベルリンに到着した明治二十七年(一八九四)十月三十一日に「土屋注文」とあり、その中に『寛政年間仙台漂客世界周航実記』というメモが残っている。おそらくこれは、東京の友人土屋遼三郎にこの本を買って送るよう頼んだ時のメモだろう。
 玉井はこの『寛政年間仙台漂客世界周航実記』を基に、「百年前、日本人数名によるシベリア経由の世界紀行」をまとめたのだろう。
 実際に、「百年前、日本人数名によるシベリア経由の世界紀行」と『寛政年間仙台漂客世界周航実記』を読みくらべると、玉井が書いたものは『世界周航実記』をダイジェスト的にまとめたものであることがわかる。
 ただ玉井は、もう一冊の本を参考にしていた。それはナジェジダ号の艦長クルーゼンシュテルンが書いた『ナジェジダ号とネバ号による世界周航の旅』である。この本は一八〇九年にペテルブルグで出版されたのち、世界中で翻訳された名著で、日本でも鎖国時代の一八四〇年に『奉使日本紀行』と題され翻訳されている。これをオランダ語から訳したのは、シーボルト事件の日本側の主犯として捕らわれ、獄死した高橋景保である。
 玉井は、クルーゼンシュテルンのこの本をロシア語か、もしくはドイツ語の本を入手して、「百年前、日本人数名によるシベリア経由の世界紀行」を書くときの参考にしていた。特にナジェジダ号が長崎に着いてからの記述では、クルーゼンシュテルンの本からの引用が目立つ。
 だがしかしである、玉井が『寛政年間仙台漂客世界周航実記』を取り寄せるように土屋に手紙で依頼したのは何故なのだろう。クルーゼンシュテルンの本を読もうと思ったのは何故なのだろう。

ムルケと吉郎次の墓

 ムルケは、イルクーツクに長く住むドイツ人であった。玉井がイルクーツクに着いたばかりのこと、ドイツ語が達者な玉井はムルケに会うように言われている。
 玉井が、ムルケと初めて会ったのは、初雪がイルクーツクの町に降って間もない1893年9月中旬のことであった。この日玉井の日記にこうある。

「九月二十五日 独逸人ムルケ氏、既に三十三年間居住す」

 何故ムルケが若宮丸漂流民と玉井との接点の鍵を握っているかというと、彼こそが、若宮丸漂流民のひとり吉郎次の墓の場所の発見者だからだ。

 明治三十四年(一九○一)二月十九日報知新聞に「バイカル湖畔に邦人の石碑」という見出しで、次のような記事が掲載されている。

「先頃小宮大審院検事が露国漫遊の際、バイカル湖畔にて日本人の石碑の蒼然として苔蒸したるを発見し、苔を払いて改め見るに、その表面に卍南無阿弥陀仏と刻み、その裏面には寛政十一年二月二十八日、日本奥州仙台町牡鹿郡小竹浜阿部吉郎次七十三歳と刻みありし」

 司法制度を学ぶためヨーロッパに派遣された大審院判事小宮三保松が発見したこの墓こそは、イルクーツクに流れ着いた若宮丸漂流民吉郎次のものであった。
 十六人の漂流民のうち、イルクーツクにたどり着くまでに死んだ者二名、帰国した四名以外はイルクーツクで亡くなっていた。牡鹿郡の阿部吉郎次は、イルクーツクで死んだひとりであった。
 小宮三保松は、『北海道毎日新聞』のインタビューに答えて、どうしてこの墓を見つけたかをさらに詳しく語っている。

 「墓石があった場所は、墓地の内のギリシア正教以外の者を葬る中にあった。発見の次第は二十年来ここで時計商を業とするドイツ人ムルカ〔ケ〕と申す者より、食卓上の茶話に、日本人の墓と思えるものを先日見つけたと聞いて、早速同人の案内を請い、この墓所に至り捜索の末、枯れ草の下よりこの墓石を発見した」

 玉井とムルケが親しい関係にあったことは、先に引用した日記だけでなく、『シベリア隊商紀行』の次のような記述を見れば、よくわかる。

 「ドイツ人の時計師フーゴー・ムルケという私の知人が、一八九七年四月十二日にイルクーツクからエニセイ河岸にやって来た。ところがまだ新しい鉄橋ができていなかった。そこで彼は、川のあちこちで足がつかるくらい水が氷上にあったのにもかかわらず、タランタスでこの川を渡らねばならなかった。ムルケ氏は幸い無事渡れ、この後数週間して私は彼とドイツの主都ベルリンで再会を祝すことができた」

 小宮が欧米の司法制度を学ぶために欧州視察に向かったのは、明治三十二年(一八九九)。すでにこの時玉井はベルリンに居を構え、ドイツに住む日本人の中心的存在になっていた。玉井の家は梁山泊として、ドイツに留学していた学生や官僚、商社員たちの溜まり場になっていた。小宮はベルリンに行った時に、玉井の家に立ち寄っている。
 明治三十二年六月に、日本に書き送った手紙に次のような一節がある。

 「去る十二月、酒匂(俺を札幌に世話した人)農商務参事官、小宮大審院検事、斉藤判事、田島法学士、瀬尾医学士、広田理学士を招き、大に飲んだ。」

 さらに玉井のベルリンの自宅を訪れた人々がその時の思いを綴った寄せ書きが残っているのだが、そこにも小宮の名前を見ることができる。
 小宮は、先のインタビューのなかでこんなことも語っている。

「この内四人が日本に送られることになったが、この人たちの日記が、日本文にて世に伝わるということだが、小生は未だ読んでいない。ただドイツ文に抄訳したものを読んだことがあるだけだ」

 玉井喜作の『シベリア隊商紀行』がドイツ語で出版されたのは、小宮がドイツに着く一年前、一八九八年のことである。そしてこれには、若宮丸漂流記がドイツ語に訳され付録としてついていたのだ。小宮が読んだのは、この付録であることは間違いない。

吉郎次の墓の最初の発見者は、玉井だったのか?

 小宮とムルケの出会いはおそらく玉井がお膳立てしたものであろう。ベルリン時代玉井が、シベリアを経由して帰国する小宮に、イルクーツクの親しい友人として、ムルケのことを紹介したことは十分に考えられる。
 もしかしたら小宮は玉井から、バイカル湖畔に建つ日本人の墓のことを聞かされ、イルクーツクに立ち寄ることを決意したのかもしれない。
 小宮は1856年生まれ、司法省法律学校の第一期生として原敬らともに卒業したあと、伊藤博文の知遇を得て、大審院検事、李王職次官などを歴任したエリート官吏であったが、一方で古文学研究家としても知られていた。古事記、日本書記、万葉集などを網羅する大辞典の編纂に着手したが、その刊行をみずに、昭和十年(1935)に亡くなっている。古文学に関心をもつ小宮が、異国の地に残る墓碑に刻まれた日本語を自分の目で確かめたいと思いたち、イルクーツク経由で帰国することにしたのかもしれない。
 ムルケと玉井の関係、玉井と小宮の関係、そして小宮を案内したのがムルケだという事実を踏まえると、玉井が日本人として初めて吉郎次の墓を見た男だった可能性も浮かび上がってくる。
 しかし現在連載中の玉井の『イルクーツク艱難日記』やイルクーツク時代に彼が残したメモや日記に、こうした事実を裏付ける記述は見られない。もしも日本人の墓を自分の目で見ていたら、彼のことだ。何らかのかたちで書き残していたはずである。
 『寛政年間仙台漂客世界周航実記』を読む中で、日本人の墓がイルクーツクにあることを知った玉井が、小宮にそれを話し、小宮がこれに興味を持ったので、自分の知り合いのムルケがいる、彼に聞けばなにかわかるかもしれないと言って、紹介したのだろう。
 それにしてもである、吉郎次の墓の第一発見者が玉井の親しいムルケであったこと、そしてベルリンに着いてまもなく『寛政年間仙台漂客世界周航実記』を日本から取り寄せていること、これはすべて偶然のことだったのだろうか。
 若宮丸漂流民と玉井を結びつける赤い糸がどこかにあるはずだ。その鍵を握っているのは、ムルケと小宮だと思う。
 吉郎次の墓を一緒に見たこのふたりのその後を調べることから、この赤い糸の在りか探しが始まるのかもしれない。
 小宮は、なにかこの墓のことについて書き残していないだろうか、もしかしたらムルケはイルークツクに残る若宮丸漂流民の子孫と会っていたのでないだろうか?
 いつ、どこで、何故玉井は若宮丸漂流民を知ることになったのだろう。
 若宮丸漂流民の会での私の調査テーマは、まずこれらの謎を解明することだと思っている。


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