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文化二年長崎日露会談の裏舞台を見る
−通詞たちから見た日露交渉−

第二回 第二回日露会談

嵐の中の日露会談
幕府の最終回答
密室での交渉
レザーノフの反論

嵐の中の日露会談

 文化二年三月七日、夜半から風雨が激しくなり、朝方には雷鳴が轟きはじめた。ときならぬ春の嵐は、今日行われる会談の行方を暗示しているかのようだった。
 レザーノフは日記に、この嵐のため、今日の会談は延期されるだろうと思った、と書いている。しかし9時すぎに風雨が少し弱まったのを見計らうかのように、ふたりの検使小倉源之進と山田吉左衛門がやって来て、出発の準備が整ったと、レザーノフに出発を促した。レザーノフは、検使たちに、自分だけでなく、随行の者たちにも駕籠を準備するよう願い出た。もし駕籠が用意できないのであれば、今日の会談は延期しましょうと言ってきた。最初は検使たちも、駕籠を用意するには遅すぎると、この申し出を拒んだが、レザーノフが一歩も引き下がらないのを見て、駕籠を用意することに応じる。
 この場に立ち会っていた稽古通詞森山金左衛門が、直ちに奉行所に向かい、待機していた大通詞名村にこれを報告する。名村は早速池田に報告、対応を相談する。池田もレザーノフの申し出を認めるが、問題は手配をどうするかであった。通詞日記によると、名村は、駕籠は自分たちで手配するので、人足を手配してもらいたいと池田に申し出ている。今日の予定では、幕府からロシア側に、綿を二千把贈ることになっており、それを梅ケ崎まで運ぶ人足が40人いるので、それを急遽大波戸に回すことにした。
 レザーノフたち一行は、梅ケ崎をすでに十時には出発したが、駕籠が来るまで海上でとりあえず待機することになった。あいかわらず土砂降りの雨が降り、雷が絶え間なく鳴り響いていた。雷がすこしおさまったところで、レザーノフたちは龍王丸に乗り込む。奉行所からの正式な報せがくるまでの時間を利用して、日本の絵師がやってきて、レザーノフをスケッチしている。絵師は、レザーノフが着ていた服の刺繍をスケッチするのに手こずった。レザーノフは、絵師をそばに呼び、もっと近くにきて見るように言ってやった。
 龍王丸で使節の接待役にあたっていた肥後藩聞役関伝之丞は、レザーノフに記念になにか一言でも書いてもらおうと、たくさんの新しい扇を持ち込んでいた。レザーノフはこの扇に賛辞と友情を意味する格言を書いている。
 やがて立山奉行所からの報せを受け、駕籠が大波戸に用意された。通詞の馬場為八郎が、駕籠と、人足が大波戸にそろったという連絡を受け、レザーノフに報告、龍王丸はただち大波戸に向かう。すでに時間は午後1時をまわっていた。
 大波戸に着いたのち、昨日とまったく同じ手順で一行は奉行所に向かう。奉行所では池田と大通詞たちが、レザーノフたちを出迎えた。ここで池田は、石橋を通じて、今日は挨拶はなく、ただちに用件に入るので、心得るようにレザーノフに伝えた。
 こうして嵐の中で、第二回目の日露会談が始まった。

幕府の最終回答

 副官二人を引き連れ、応接間に入ったレザーノフに対して、雨の中わざわざ足を運んでくれたことに対して礼が述べられた。
 まもなく支配勘定村田林右衛門が現れ、大きな台に載せた、幕府から正式回答書となる「御教諭御書付」を肥田豊後守の前に置いた。これを豊後守が読みおわると、ただちに石橋が通訳した。村田はこのあと書付を台に載せたまま、石橋のところに持っていった。ここで中山が「一同拝見」と、読み上げたことを確認する。
 続いて家老西尾儀左衛門が、「奉行申諭之書」を小さな台に載せ、成瀬因幡守の前に置いた。先程と同じように因幡守が読み、今度は中山がこれを通訳したあと、西尾が書付を中山のところに持っていき、石橋が「一同拝見」と確認した。
 この二つの文書が、今回のレザーノフ来航に対しての幕府側の正式回答であった。
 ここでふたつの文書をそのまま引用しておく。

「御教諭御書付」
「 我國昔ヨリ海外ニ通問スル諸國少ナカラズトイヘドモ、事便宜ニアラザルガ故ニ、嚴禁ヲ設ケテ我國ノ商買外國ニ往事ヲトゞメ、諸外國ノ買舶モ又タヤスク我國ニ來ル事ラ許サズ、強テ來ル海舶アリトイトヘドモ、固ク退ケテイレズ、唯唐山、朝鮮、琉球、紅毛ノ往來スル事ハ、互市(交易)ノ利ヲ必トスルニアラズ、來ル事ノ久シキ、素ヨリ其謂レ有ルヲ以テ也、
 其國ノ如キハ昔ヨリ未ダ曽テ信ヲ通ゼシ事ナシ、計ラザルニ前年我國漂泊ノ人ヲイザナイテ松前ニ來リテ通商ヲ乞、今又長崎ニ至リ好ミヲ通ジ、交易ヲ開カン由ヲ計、既ニ其事再ビニ及ンデ、深ク我國ニ望ム所アルモ又切ナルヲシリ、
 然リトイヘドモ望ミ乞所ノ通信、通商ノ事アリ、重テ爰ニ議スベカラザルモノ也、我國海外ノ諸國ト通問セザルコト既ニ久シ、隣誼ヲ外國ニ修ムル事ヲシラザルニアラズ、其風土異ニシテ事情ニオケルモ又懼心ヲ結ブニ足ラズ、徒ニ行李(使者)ヲ煩ラハシム、故ヲ以テ絶テ通ゼズ、是我國歴世封彊 ヲ守ルノ常法ナリ、争力其國一价ノ故ヲ以テ、朝廷歴世ノ法ヲ変ズベケンヤ、
 禮ハ往來ヲ尚ブ、今其國ノ禮物ヲ請テ答ヘズンバ、禮ヲ知ラザルノ國トナラム、答ヘントスレバ、海外萬里何レノ國カ然ルベカラザラン、容ザルノ勝レルニシカズ、互市ノ如キハ其國ノ有 所ヲ以テ我ナキ所ニ交ウ、各其理有ルニ似タリトイヘドモ、通ジテ是ヲ諭ズレバ、海外無價ノ物ヲ得テ、我國有用ノ貨ヲ失ナハム、要スルニ國計ノ善ナルモノニアラズ、況ヤ又輕 漂ノ民、奸猾ノ商物ヲ競ヒ、價ヲ争ヒ、唯利コレ謀ツテ、ヤヽモスレバ風ヲ壊リ俗ヲミダル、我民ヲ養フニ害アリテ、深クトラザル所ナリ、
 互市交易ノ事ナクテ唯信ヲ通ジ、新 ニ好ミヲ結ブ、素ヨリ又我國ノ禁ユルガセニナシガタシ、爰ヲ以テ通ズル事ヲセズ、朝廷ノ意カクノ如シ、再ビ來ル事ヲ費ス事ナカレ」

「長崎奉行申渡」

「 先年松前エ來リシ節、スベテ通信通商ハナリ難キ事ヲモ一通リ申諭シ、國書ト唱フルモノ、我國ノ假名ニ似タル書モ解シガタキ間持來ル事ヲ許サズ、第一松前ノ地ハ異國ノ事ヲ官府エ申シ次ぐ所にアラズ、若此上其國ニ残リシ漂流人ラ連レ來ルカ、或ハ又願ヒ申旨ナドアリトモ、松前ニテハ決シテ事通ゼザル間、右ノ旨アラバ長崎ニ参ルベシ、長崎ハ異國ノ事に預ル地ナル故ニ、其議スル事モアルベシトテ、長崎ニ至ルタメノ信牌ヲ與へシ也、然ルヲ今國王ノ書ヲ持來ル事ハ、松前ニ於テ申諭シタル旨辧ヘガタキヤアラン、是偏ニ域ヲ異ニシ、風土ノ等シカラヌ故ニ通ジガタキ事シカリ、此度改テ政府ノ旨ヲ請テ申諭ス事件ノ如シ、特ニ船中薪水ノ料ヲ與、然ル上ハ我國ニ近キ島々杯ニモ決テ船繋スベカラズニ、早ク地方ヲハナレ帰帆スベシ」

 レザーノフは日記の中で、この幕府からの正式回答を次のような内容であったと書き留めている。

「一、もしロシア皇帝が献上品を携えた使節を派遣したということであれば、日本の法では直ちに、これに返答しなくてはならないのだが、ロシアに使節を派遣することはできない。何故ならば、日本人は誰ひとりとして、出国することを認められていない。それゆえ国書、並びに献上品は一切受け取れない。これについては将軍が招集したすべての官職にあるものの衆議によって決定されたことである。
二、将軍は、昔から朝鮮、琉球、中国、オランダとだけ貿易をしていたし、現在は中国、オランダの二ヵ国とだけしか貿易していない。新たに他の国と貿易する必要がない。
三、日本国内を異国のものが通行することは禁じられている。したがってロシア人に対しても祖法にしたがい、そのように扱わざるをえない。しかしながらロシア皇帝の善良な取り計らいに敬意を払い、帰りに必要な食糧を提供し、艦を帰すことに同意する。しかし二度とロシア人が日本に来ないことを条件とする。他の国であればこのように六ヵ月も日本に船を留めておくことは許されないことだったが、これは慈悲だと受け取ってもらいたい」

 概ね日本側の回答を正しく理解していたと言っていいだろう。
 問題はここからであった。
 「通航一覧」、「長崎志続編」、さらにはこの会見の場にいあわせた大田南畝は、この幕府側の正式回答のあと、豊後守から綿二千把、因幡守から、帰りの薪水料として米、塩を贈りたいという申し出があり、これについてレザーノフが受取を拒否したと簡単に記しているのだが、実際はここで激しいやりとりがあったのだ。

密室での交渉

 レザーノフは日記のなかで、次のように書き留めている。

 「これを聞いて、私は次のように答えた。
 ロシアとの貿易は必要がないというが、ロシア皇帝はたくさん必要なものを入手できないでいる日本人に対して、慈悲の心から申し出たことであり、それを断るのは、日本にとってはいいことではないだろう。
 通訳たちが『たとえ日本と貿易できたとしても、ロシアのために漆器を入手できない』と言ってきた。
 『そんなことは私にとってたいして必要なことではない。それよりも皇帝の献上品について、将軍は我が皇帝が、それに対して献上品をもって使節を派遣してもらうことを意図していると誤ってお考えなのではないか。日本が誰にも入国を許さず、使節も派遣せず、他にない独自の風習を持っているということは、世界中が知っていることです。しかしながら友情を約束した偉大なる皇帝から贈られた献上品であることを踏まえて、これらを受け取るべきではないか。』
 『よろしいでしょうか?』
 通訳たちが口をはさんだ。
 『友好の結び目があるとするなら、一方が端から全力で引っ張ろうとしているのに、もう一方は、何の可能性もないまま、屈するほかないというのでは、結び目をうまく結びつけることはできないのではないでしょうか』
 そうしている時、通訳たちは重臣たちに呼びつけられ、また私は質問された」

 このやりとりが、遠山や奉行たちを前にして行われていたものと思っていたので、「通訳たちは重臣たちに呼びつけられ、また私は質問された」という箇所を訳すとき、なにかひそひそ話でもするように、通詞たちとレザーノフがやりやっていたのかと思っていたのだが、通詞日記を読んで、実際はこのやりとりが、遠山やふたりの奉行の前でおこなわれたのではなく、別室でレザーノフたちと通詞たちだけの間で行われたものであったことを知った。
 通詞日記によると、申し渡しの儀式が終わったあと、石橋と中山は、レザーノフに、日本の礼法になじみがなく、会見が長時間にわたるのは苦痛だと思われるし、しかもこの幕府からの回答は、長文でもあり、文章に込められている意味には複雑なところもあり、読み上げただけでは不明なこともあるはずだ。だからいったんここでこの場から出て、別室で通詞たちと意見を交換しようと提案し、これをレザーノフも了承した。
 つまり前日の会談後の打合せで遠山や両奉行から話があったように、幕府の見解について反論があった時は、通詞たちがそれに対応しようというのだ。
 先に引用したレザーノフの日記にでてくるやりとりは、別室で通詞たちを相手にして行われたことになる。
 通詞たちが、また奉行や目付に呼ばれたのは、打合せ通りであった。ここであらたまって豊後守が綿二千把をロシアへ贈呈することを、そして因幡守からは、帰りの薪水料として米百俵、塩二千俵を贈りたいと申し出があった。レザーノフの反論の矛先を変えるために、ひとつの妥協案とでもいうべき提案をしてきたのだ。幕府側としては、カムチャットカに戻るナジェジダ号のために食料を提供し、しかも船体修理のために用意した材料についても無償扱いすることで、レザーノフの面子も保てると考えてのことであった。
 幕府側は、とにかくレザーノフたちに一刻も早く長崎から出ていってもらいたいかったのだ。そのために、鎖国を楯にとり、通商の申し出を拒むことが、大原則であった。しかし漂流民を送り返してもらった恩義に報いるために、薪水料として、米と塩などの食料と綿を無償で与えようというのだ。

レザーノフの反論

 レザーノフも、したたかであった。彼は、渾身の力をこめて、反論を試みる。彼の反論と通詞たちのやりとりについて、レザーノフの日記は次のように書き留めている。

 「私たちはここでこれからも生活していくわけではない、重臣の皆さんへ、私がお持ちした献上品をさしあげましょうと言った。
 『それはできないのです。私たちは受け取ることを禁じられているのです』
 『私たちが受け取るものの値段はいかほどなのですか。それを支払います。自分のお金を払ったうえで、食糧を受け取りたい』
 『日本ではそれは出来ないのです。あなたは無償でそれを受け取らなくてはならないのです』
 『私たちに六ヵ月も苦しみを与え、皇帝の好意に対して、不遜な態度をとりつづけるような人たちから食べ物を恵んでもらうなど御免被る』
 大通詞たちはすっかり動揺していた、多吉郎はフリードリッヒのところに近寄り『私たちの条件を受け入れるよう使節にお願いしてください。使節は知らないのです。日本では、たったひとつの火花がもとで、おそろしい、あとで消すことのできない炎になることだってあるのです』と言っていた。
 彼の話を聞いて、私は少し言い方を変えて自分の主張を繰り返した。つまり善意でしたすべてのことが、全く反対に受け取られるほどやり切れないことはないだろうか、だから奉行らは、私たちに友好の証をしめすために、少なくてもほんとうに取るに足らないような品物を受け取ることだけは拒絶しないでいただきたいのだと語った」

 かりにもロシア全権代表として、皇帝からの献上品を持参したうえで、正式に通商を申し出たにもかかわらず、これを全面的に拒否されただけでなく、献上品も受け取れない、これではこの遠征がまったく無意味なものになってしまう。
 レザーノフは必死だった。
 レザーノフと通詞たちとのやりとりについては、通詞日記の方が、レザーノフの日記以上よりさらに詳しく、そして緊張感が漂ってくる内容になっている。
 通詞日記にしたがって、両者のやりとりをもう一度ふりかえってみよう。

 使節は、数カ月長崎に滞在しながら、願いの筋はひとつも叶えられず、その上国王から預かった献上品も受け取れないのであれば、いままで世話になった食料品や船の修理のため用意してもらったさまざまな備品の代金を支払いたいと申し出た。
 これに対して三人の通詞は、言っていることはよくわかるが、日本側が滞在中に必要なものを無償で提供したいというのは、あくまでも「相互」、つまり貸し借りなしという意味からである。ロシアで、日本の漂流民に対して十分すぎるほど、面倒をみてもらっただけでなく、こうして遠路遙々連れ帰ってきてくれたことへのお礼だとかんがえてもらいたいのだ。しかもここで代金を受け取ってしまえば、これは立派な交易となり、幕府の禁制に反することになる。
 レザーノフはこれに対して、目付、両奉行が少しでもいいから、国王の献上品を受け取ってもらえるならば、日本からの贈り物をいただきましょうと、答えた。
 石橋たちは、それは出来ないことであり、その許可を得るために、また江戸に伺いをたてなければならない、そうすればまた六十日か七十日ここで待つことになりますと、食い下がる。

 いままで十分すぎるくらい待たされたレザーノフは、このためにさらに待つことは、精神的にも肉体的にもできないことであった。しかも彼は、日本との通商交渉以外に、露米会社の支配人として、やらなくてはならないことがあった。レザーノフに、時間の猶予はもうなかった。通詞たちは、レザーノフの一番痛いところを突いてきたといえる。
 レザーノフが答えに窮するのを見透かしたように、通詞たちはここで、最後の妥協案を提示する。贈り物の一部を自分たち、つまり通詞たちが受け取ることで、この場をおさめようとした。
 鎖国下の日本で唯一の貿易の窓口は、いうまでもなく長崎である。長崎で、オランダと中国という貿易を許されたふたつの国から物品を受け取ることができるのは、法律上は長崎通詞だけだった。石橋たちは、これを利用しようとしたのだ。最後の切り札といってもいいだろう。
 しかしこの提案にも、レザーノフは耳をかそうとはしなかった。通詞日記には、レザーノフは「御聞届無之」と答えたとある。
 通詞たちは、このレザーノフの予想以上の抵抗に対して、必死の説得を試みる。
 「もしも日本側が提供しようとしている食料などの受取を拒否すれば、船中の大勢の乗組員の生死にかかわることになってしまう。今一度よく考えてもらいたい」と迫った。
 しかしレザーノフはここでも簡単には引き下がらなかった。
 「もとよりそれは覚悟のこと。もし食料が足らなくて乗組員が死ぬようなことがあっても、国王への申し訳がたつというもの。だから日本側への贈り物をいま受け取ることはできない」
 このレザーノフの抵抗に、通詞たちは動揺したはずだ。
 すでにあたりは暗くなってきた。ここで通詞たちは「今日は時間も遅くなり、空腹であろうし、いったんここで話を終えましょう」と提案した。

 通詞日記は、レザーノフが書いているような漆器についての発言や友好の結び目については、何も触れていない。ただレザーノフの必死の抵抗ぶりだけはわかるのではないだろうか。
 レザーノフにすれば、日本がロシアとの交易を受け入れない背景に、揺るぎない鎖国体制があったことは、理解できたはずである。しかし国王の命を受け、来日し、国王が用意した献上品をそのままそっくり持ちかえることは、交渉の失敗を物語るわけことになり、これだけはなんとしても避けたかったにちがいない。
 さらに、根室に来航したラックスマンは、信牌という長崎通行証は持ちかえった。通商を拒否され、それを覆すことが不可能だとわかった以上、少なくても自分の来航以前の状態まで、つまりロシアが日本に来るなにか手形のようなものをお土産としてもって帰らなければならなかった。
 レザーノフがここで欲しかったのは、次の来航を保証する手形だった。
 彼はここで会談をいったんやめようという通詞たちに対して、逆に三つの提案をした。
 レザーノフの三つの提案について、通詞日記は次のように記している。

 ひとつは、今後ロシア船が日本のどこかに漂着したとき、そこで修理して、そこから出帆できるか、ふたつめは今後日本からの漂流民をどうしたらいいのか、三つめは、これまでの会談の記録を国王に報告するために書面として提出してもらいたい、ということであった。
 通詞たちは、いったんこの場を引き上げ、待機していた家老の西尾に報告しに行く。
 そして今日はすでに時間も遅くなったので、明日通詞たちが梅ケ崎に行き、もう一度説得にあたるので、今日のところは「御教諭」を確かに聞き届けたということで、使節たちの退出を認めてもらいたいと提案する。
 ここで三人の通詞たちは、奉行と遠山たちか呼び出しを受け、彼らの前で、ロシア側の提案について説明した。
 奉行たちからは、今日のところはもう遅いので退出してもらおう、ロシア船が日本のどこかに漂着したときには、そこで修理することもできるし、そこから出帆することもできる、これはロシアに限らずいかなる国の船であっても、このように処すべきことである。ここであらためて書付にして、渡す必要はない。このようにロシア側に伝えるよう言われた。
 再びレザーノフが待つ別室に戻った通詞たちは、すでに夕刻となり、お疲れのことでしょうから、この件については明日返事することにして、今日の協議は終わりにしましょうと伝えた。
 すでに五時半を過ぎていた。
 レザーノフは、これを承知し、再び奉行と遠山のいる部屋に行く。ここでレザーノフは、遠山たちを前にして「御教諭については、承知したが、献上品の件はどうしても受け入れられない」と再度自分の主張を述べた。これに対して遠山が「去年の秋入津以来長々の滞留で御苦労もあったことであろう。真剣なる願い出と察しているので、この件についてはもう一度我々の方で検討したい」と答えた。
 三日前の打合せでは、この席で15日に出帆するよう申し渡しすることになっていたが、そう簡単に事は運ばなかった。レザーノフの頑強な抵抗が功を奏したといっていいかもしれない。
 レザーノフも、この対応にとりあえずは手応えを感じていた。
 彼はこのあと、控え室でお茶を出され、そのあと奉行所を去るのだが、この時の様子を日記に次のように書いている。

 「彼らはお茶と、タバコ、お菓子をご馳走してくれた。私が不満を抱いていることを知ったのか、実に礼儀正しかった。彼らも厳しい結果を恐れていたのだ。何故ならば長崎の町に来る途中で、庄左衛門が部下たちに「もし通商が拒否されたら、ロシアの法律では、戦争になるのですか」と質問していたのだ。このときフリードリヒが彼に対して「ロシアに必要なこと、それは誰も拒絶することができないのだ。皇帝にとって日本との通商は必要なことではない、ただ日本人に対して慈悲を示しただけなのだ」と答えていた」

 レザーノフたち一行が奉行所を退出してから、書院において両奉行と遠山、大通詞三名と通詞目付の三島五郎助が残り、今後の対策について話し合っている。
 肥田豊後守が、「献上品のことは使節にとって格別のことなのであろうが、船中食料品は、どんなに主張しようとも、どうしても渡さなければならない。もし受け取らないといって渡さなければ、我が国が仁徳が薄い国だと思われてしまう。押し込むような手段をとっても、是が非でも渡したうえ、出帆してもらわねばならない。我々への贈り物の件については、江戸に伺いをたてても、決して許されないことである。ただ通詞たちは入津以来いろいろ世話をしているので、その謝礼としてわずかな物品であれば、受け取ることは、問題ないだろう。通詞たちが少しの献上品を受け取ることで、ロシア側も船中必要品を受け取ってくれるのではないだろうか。これでなんとか和議をはかりたい」と、妥協案を提示した。
 さらに通詞日記には、「このことを相含め、明日梅ケ崎へ罷り出て、尚また利害を申し諭し、和議相整候致べく旨を仰せつかり、退出する」とある。
 通詞たちは、長崎を出帆する時に、自分たちだけであったら一部の品を受け取れると、すでに打診して、レザーノフに断られていた。レザーノフを説得することが、そう簡単なことでないことは、通詞たちが一番良く知っていた。
 とにもかくにも再び通詞たちに、交渉の下駄が預けられたことになった。
 一方梅ケ崎の屋敷に戻ったレザーノフは、湾内の動きが急になったことに不安を覚えていた。

 「夕方になると番船の動きが活発になった。町では、戦争は避けられないだろうと囁きはじめられた。こうした恐怖が、これから最終結論が出される前に、何か悪いことを引き起こすことにならないかと、だんだん心配になってきた。特に湾を出ないうちには火薬を返してもらえないことを知ってからはなおさらだった。何故なら嵐の時を見計らって私たちを殺害することもできるし、船を沈めることだってそう難しいことではない。食糧を積んで私たちがここから出発したと、オランダ人に言うことだってできる。こうしたことから私たちには慎重さが要求されたし、話しをする時もさらに用心深くしなければならなかった」

 日露交渉の行方は、再び通詞たちの手に委ねられることになった。献上品の受取をめぐって、翌日再びレザーノフと通詞たちの間で、激しいやりとりが繰り広げられることになる。

 この場に立ち会っていた大田南畝は、「羅父風説」で、通商を求めたロシア側の要求を拒絶した会談の結果と雷雨の中で行われたことを重ねあわせ、次のように書いている。

 「雷は号令を発すといへることあれば、かかるゑみしの貢をしりぞけて、ふたたびいれざるさとしを天のつげ給ふにもやと思はるるかし」

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