月刊デラシネ通信 > サーカス&パフォーマンス > サーカス > サーカスの動物たちは虐待されているのか?1

論争
「サーカスの動物たちは虐待されているのか?」

その1 「サーカス−舞台は楽園、舞台裏は地獄」

モスクワの週刊誌で、サーカスの動物をめぐって大論争

 モスクワの人気週刊誌『論拠と事実』で、いまサーカスの動物をめぐって論争が繰り広げられています。昨年11月に熊の調教師だったデリャブキン(Deryabkin)が、二回にわたっていかにサーカスの動物が虐待されているかを実例をだして、あからさまに暴露したことが契機になり、これに対してサーカス界が一斉に反発、大論争となりました。まだ現在もサーカスの動物に関する記事が誌面をにぎわせています。ヨーロッパでは動物愛護団体を中心に、動物調教に対して激しい反対運動が繰り広げられていましたが、いよいよサーカス大国ロシアにもその波が押し寄せきたといえるかもしれません。ここではこの論争を紹介していきます。まずはこの論争のきっかけとなった、一回目のデリャブキンの告発記事「サーカス−舞台は楽園、舞台裏は地獄」を翻訳します。

「モスクワスクラップ帳」では、『論拠と事実』を抄訳しています。


「サーカス−舞台は楽園、舞台裏は地獄」

「苦しまないで、おまえが死ねればいいのに、そんな風に願っている
 サーカスのリンクで、調教師に虐待された熊と闘うのに疲れてしまった
 どうしたら彼らと別れられるのだろうか、そんなことを思いながら、生きている」

 この詩は調教師のウラジーミル・デリャブキンが、1982年にウススリスキイで書いたものである。現在彼は、ロシアで最初の民営レコード博物館のオーナー、詩人、朗読家で歌手でもある。かつて彼のもとには、10頭の熊がいた。これはサーカスでもあり、劇団でもあった。この一座は、「熊の小劇場」と呼ばれていた。デリャブキンの熊は、公演の時は、まるで人間のようだった。ここに彼のサーカス物語の秘密が隠されているのだが・・・。いま彼の熊は一頭も生き残っていない。彼自身10年も舞台には立っていない。どうしてなのか聞くと、「何故ならばこれが野蛮なジャンルだからです、調教師はいつも自分の仕事の裏側を観客に見えないように隠しているのです。これから私は、だれも言わなかったことを、お話しましょう」と彼は答え、サーカスの舞台裏の話を暴露することになる。

1.生きた道具

 「調教の真実は、観客を実際の動物を使った番組から引き離すようにできるです。だからみんな黙っているのです。もしもアーティストの誰かが、暴露しようとしたら、彼はすぐに同僚たちから疎外され、復讐されるのです。
 私は自分の職業を愛していましたし、無駄になったとはいえ、この仕事に感謝しています。ただ残念なのは、クラウンのように功労芸術家の称号をもらえなかったことです。でも『残酷賞』という称号が、調教師に与えられるわけはないことは、いまになってわかります」

質問−でもあなたの『熊劇場』に観客はどこか優しい、明るいイメージをもっていたのではないですか? 人々はとても好きだったと思います

 「リングには残酷さはありません、それは舞台裏にあるのです。私には、どんな客席でも拍手喝采させる芸がありました。熊が私のパートナーのリューダの前で、張り子でできた玉を手で握りしめながら、膝をつくというものです。どこから見ても、効果的で可愛らしい芸です。でもリハーサル中、動物とは別な「会話」が交わされているのです。私は熊たちがこの芸をするのを拒否しただけで、殴られたのを見ています。調教師はがまんできなくなり、爆発し、なぐるのです。決して忘れることが出来ないのは、熊の血にまみれた調教師の靴です。動物たちはこんな風に容赦なく扱われているのです。リハーサルだけでなく、たまに観客の目の前でおこることもあります。ある有名な調教師が、豹をリングの柵のところに落とし、豹が痙攣するほどなぐったのを見たことがあります。この私も熊を不具にしたことがあります、このウラジーミル・デリャブキンが! 胸を強く殴ったら、この可哀相な熊は、目に混濁ができてしまったのです。いまでもこの情景は忘れられません。」

質問−調教師たちは、彼らと動物たちのあいだには、特殊なほとんど家族に近い関係があると言っているのではないですか? ペテルブルグのある熊の調教師は、「熊は私の子供である」と言っていました。そんな風に育てているのではないのですか?

 「確かに、子供ですよ。私たちはこの子供たちのおかげで、金を稼いでいるのです。美味しいものを食べ、きれいに着飾って、清潔なベッドで寝てられるのです。でも動物たちは檻のなかにいるのです。ロシアでは、クマは政治犯と同じです。狭くて汚い檻のなかに閉じ込まれているのです。調教師たちにとって動物たちは、生きた道具なのです。
 「交差する手」という芸があるのをご存じですか。これは象が脚を伸ばし、トラがその脚のうえに手を置き、調教師がそのうえから手を置くのです。あたかも動物と調教師の友情を象徴するようです。実際はこれは大ウソです。この叙情的な情景の影には暴力が潜んでいるのです。呪われた敵同士を握手で結びつけようしてみなさい。彼らは殺人兵器に囲まれているから、従っているだけなのです。もしこの武器を取り除いたら、動物たちはすぐに互いの喉元に噛みつくことでしょう。
 調教師と猛獣のキスも信じてはいけません。リングで調教師がライオンに近づき、たてがみを梳かしてあげ、チュッと音をたてキスまでしてみせます。でも舞台裏では棒を手に持って人が立っているのです。
 もしかしたらあなたは、象の調教師たちがいつも公演のときに手に革のムチをもっているのを見たことがあるかもしれません。ムチの端には花が飾られています。調教師が象に近づき、優雅に手を振ると、象は花束にしたがって命じられたところに歩きはじめます。しかし観客の誰一人として、この美しいバラのしたに、とがった釘が隠されているのを知らないでしょう。象が言うことをきかないときは、これで象の耳を突き刺すのです。こんなことが世界中のサーカスで行われていることなのです。」

2.恐怖が戻ってきた

「有名な調教師がいつかテレビで、自分の飼い主を寂しがるあまり死んでしまった雌トラについての美しいお話をしていました。それはこんな話です。
 この人が南の町での公演を終えて、出張にでかけることになった。突然彼のもとにサーカスから電話がかかってくる。「トラが身動きもせず、食べようともしない、光にもあまり反応しない」という。彼はすぐに仕事を放り出し、戻る。彼の足音を聞いて、トラはちんちんするように立ち上がり、檻のところに這ってくる、そしてまるでお別れをするように、最後の力を振り絞って、調教師の手をなめ、そして死んだというのです。
 私にはまったく別な情景が浮かんできます。トラは幸せに檻のなかで横になっていた。トラはご主人さまがいないことを知っていた、他に望むことがないくらい、食べなくてもいいくらい、幸せだった。ほんとうの太陽の光でない、電気の明かりに目を細めていた。トラは考えていた。「なにもすることはないんだ。主人はしばらく帰って来ない、朝早く脇腹を突つかれることもない」と。しかし突然獣舎の扉が開いた。トラは調教師を目にする。信じられなかった。「ほんとうに彼なのか、どうして彼は戻ってきたのか?」そしてこのトラは、寂しさからではなく、心臓発作で死んでしまったのです。」

『論拠と事実』2002年48号より)

つづく


ひとつ上のカテゴリーへ デラシネ通信 Top 次へ