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【連載】クラウンを夢見た人たち−クラウンカレッジ卒業生のその後を追う

第1回 ダメじゃん小出は語る その2

 ダメじゃん小出のインタビューの続きである。
 CCJのクラウンから大道芸へと進んでいった小出が、次にめざしたもの、それは海外で大道芸をすることだった。

海外での武者修行

小出 「上野で一時お山の大将、そんな時いろんなパフォーマーたちがどんどんやってくるようになったんです。なんかイヤになっちゃって。それで次は海外に行こうって決めました。俺、最初にやらないと気がすまないんです。その頃同世代パフォーマーはまだ海外へあまり行ってなかったと思います。俺は先遣隊。なんか向こうでやってきたという証、それが欲しかったんでしょうね」
大島 「それでどこに行ったの?」
小出 「スペインなんですけど、これが傑作で、生まれて初めての海外、最初に乗った飛行機が、アエロフロートのイリューシン、これほんとうにモスクワまで飛べるのっていう感じ。そして着いたのが、モスクワのシェルメチボ空港。暗くて、本当に国際空港? という雰囲気。スペインに行くのに、トランジットホテルに泊まるんですけど、あのバスも独特の臭いがするし、ホテルもすごい森の中、飯も粗末、量も少なく、これで終わりって聞いたら、『ダー』ですって。」
大島 「俺も、外国に行くのに、最初に乗った飛行機がイリューシンで、最初に着いた空港がシェルメチボだったなあ。いつぐらいに行ったの?」
小出 「あとでちゃんと調べておきますけど、まだソ連時代でしたよ。初めての海外が、モスクワですからね、もしかしたら一番忘れられない思い出かもしれないですよ。なつかしいなあ」
大島 「それで、スペインのどこに行ったわけ?」
小出 「最初に着いたのが、マドリッドです。右も左もなんもわかんないわけですよ。宿をとるのも一苦労、すぐに帰りたくなっちゃいました。3週間いたのかなあ、いやなことばっかりでした。言葉通じないって大変なんだなあって。そういえば、その時、ベンポスタって、大島さん知ってますよねえ、あそこに行ってきたんです」
大島 「知っているよ、こども共和国だよなあ。最初の日本公演のパンフレットに、俺原稿書いているよ。あそこに行ったんだ」
小出 「そうなんですよ。当時日本人が4人ぐらいいましたね。練習にも参加させてもらったんですけど、すぐにネをあげちゃいました。情けなくなって、マドリッドにまた戻りました」
大島 「どのくらい金もっていたの?」
小出 「10万ぐらいですね。ユースホステルを転々としていたんですが、所持金が底をつき、ストリートをやったんです。そしたら意外とできちゃったんです。嬉しかったですよ。「できる」って手応えを感じたこと、それが大きな自信になりました。それでそれから、毎年ヨーロッパへ行くようになりました」
大島 「で、それからどんな国を回ったの?」
小出 「スペイン、ポルトガル、ハンガリー、フランスあたりですねえ。一番長くて2カ月ぐらい行ってました」
大島 「ハンガリー? なんでまた?」
小出 「ハンガリーって子供の頃からの憧れの国だったんですよ。なんでかわからないんですけど。大道芸のほかに、電車に乗るっていうのもテーマなわけです。鉄ちゃんですから。この時はハンガリーからパリまでオリエント急行に乗ったり、時刻表が旅の友」
大島 「投げ銭でやっていけたの?」
小出 「投げ銭で、一週間定食食べて、それなりの宿に泊まれるぐらいは、集まりました。そういえばパリの大道芸のメッカ、ポンピドーではへべれけにやられたなあ」

 小出が、海外で武者修行をしていたというのは、意外だったというか、初めて聞いた話であった。いち早く大道芸に取り組み、さらには海外で大道芸をした小出は、芸名を「青空曲芸シアター」とし、さわやかさを売りにした芸人へと生まれ変わる。ここでまたひとつ大きなターニングポイントが待っていたのだ。あれだけ練習し、恩師であるジョン・フォックスにも認められていたストリート・ジャグリングを見切るようになったのだ。

路線変更

大島 「ジャグリングのTVチャンピオンに出演したのは、その頃なのかな」
小出 「うーん、もう少し経っていると思います。Kajaがヨーロッパから帰って来て、彼のジャグリングを見て、自分の進むべき道は、もっとちがう道、コメディー路線じゃないか、そんな気持ちになっている時でした。TVチャンピオンの話が来たのは。
 最初『なんで俺なんですか?』って聞いたら、『色物が欲しい』っていうんで『ああ、それだったら喜んで出ます』って引き受けたんですよ」
大島 「あの時は、確かKaja、アパッチ、石川健三郎、サリバンの5人出て、アパッチが優勝したんだよなあ。あなたは確か一回戦で敗退したんだよなあ」
小出 「色物だから、いいんですけどね。やっぱりプレッシャーに弱いんですかねえ。四強に残れませんでした。」

 ちょうどこの頃、私はplanBで『プランBコメディーナイト(プラコメ)』と題して、三雲いおり、ななな、ハンガーマン、岩井たかおといったCCJ出身のパフォーマーたちもまじえて、バラエティーショーをはじめた時だった。1998年5月に行われたプラコメの3回目から、小出が出演するようになった。といっても毎回出演する常連メンバーというわけでもなく、楽屋でも控えめ目にしていたという印象が残っている。本人の言葉にもあったように、ジャグリングではない路線を模索していた彼は、ここでは「青空曲芸シアター」ではなく「小出直樹」という本名で出演していた。イラン人や見世物師、右翼など、うさんくさい人物に扮しながら、ダメじゃん小出への変身をひそかに準備していたといえるかもしれない。そして事件は起きた。

「狂の笑い」、そしてブレイク

 1999年1月小出は「トライ、トライ、トライ、小出君」というちょっと知恵遅れの電車オタクのネタを披露する。これを見た時の衝撃こそ、私にとって事件であった。いまもこのネタをやることはあるが、あの時の小出は、完全に狂気の世界にいた。それは出演していた他のメンバーも本番を見て、びっくりしていたくらいだった。どちらかというと、それまでプラコメで演じられていたネタは、面白いんだけど、なぞるような笑いが多かったのに対して、小出のこのネタは、えぐる笑いだった。ここまで突っ込んで「狂の笑い」を演じる、小出に正直びっくりしてしまった。こいつ面白いかもしれない、と・・・。
 小出自身は、いつもこの話がでると、「俺、わかんないんですよ、あの時何やったのか、不安定な時期でしたからね」と言っているのだが、私には、この時から小出は化けはじめたように見えた。2000年3月に「ふりにげ」と題した初めての、ダメじゃん小出ソロライブの公演が行われる。時事ネタが増えてくるようになった。小出とも、かなりいろんなことを話すようになっていた。そして小出にとってまたしても、ターニングポイントとなる一夜がやってくる。

小出 「大島さんと、重森と竹内と4人で、ACCの近くの飲み屋で飲んだことありますよね。あの時大島さんから、毎月ソロライブをやれって言われ、今にして思うと自分にとって、あれが大きなターニングポイント」
大島 「そうだ、そんなことあったな。得意の飲んだ勢いだったんだけどね。あの時は飲んだよなあ」
小出 「それで俺も調子に乗って、いいですよ、毎月やりますって言ったんですよね。でも翌日酔いから覚めて、毎月はいくらなんでもしんどいって、あわてて大島さんの携帯の留守電に、2カ月に一回ということにしてください、って入れたんですよ」

 結果的にこのソロライブが、話題になり、ダメじゃん小出は、ブレイクしていくことになる。
 最後に小出に、芸人としていまどんなことを考えているのかを聞いてみた。

大島 「いまの自分の職業は?って聞かれたら、どう答える?」
小出 「コメディアンかな、エンターテイナーかも。自分にとっては人を楽しませる喜び、それが原点ですから。ただなにか型にはめるのは、いやなんですよ。昔はいろんなことを結構気にしていたんですが、他の芸人さんと自分を比べることも、最近はなくなりました」
大島 「尊敬する芸人さんっている?」
小出 「コメディアン(ヴォードビリアン)の、松元ヒロさん。それと立川志の輔師匠です」
大島 「これからどんな方向でやっていくのだろう?」
小出 「舞台中心にやっていきたいですね。舞台のうえに立つコメディアン。いま言ったヒロさんにしても、志の輔師匠にしても、舞台に出るだけで、客をぐっとつかむ自分の空気をもっている。すごいですよねえ。舞台に立っただけで存在感がある、そんな芸人になりたいです。」

 本人が言ういくつかのターニングポイントを経験しながら、どんどん脱皮していくダメじゃん小出。いま輝いている芸人のひとりだと思う。本人も言っていたが、何かに追いかけられるように、急いでいたのと違って、ずいぶん落ち着いてきたように思える。お笑いの世界で、新しい芸人が次々生まれ、またにぎわっているようだが、小出が目指すのは、こうしたお笑いとはちがう地点である。舞台という決してメジャーではないところを目指すという、本人の目的が確かに定まったこと、これは大きいと思う。問題は、そこにたどりつくまでの精進。その意味ではこれからが、時間がかかり、たいへんだと思う。ただ小出にはその覚悟ができているのだと思う。それゆえの落ち着きなのかもしれない。

 CCJ出身の芸人さんのなかでも、特異の道を歩んでいる小出、これからどう脱皮していくのか、見届けていきたいと思っている。


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