月刊デラシネ通信 > サーカス&パフォーマンス > サーカス クラウンを夢見た人たち > 第1回

【連載】クラウンを夢見た人たち−クラウンカレッジ卒業生のその後を追う

第1回 ダメじゃん小出は語る その1

ダメじゃん小出 CCJ(クラウン・カレッジ・ジャパン)卒業生へのインタビューのトップバッターは、ダメじゃん小出になってしまった。卒業生の中では、最も親しく付き合っている芸人さんのひとりといっていいかもしれない。気心が知れているだけに、最後の方で話を聞こうと思っていたのだが、この前に三雲いおりと会った時に、「やはり卒業生で一番気になるのは、小出かなあ」と言っていたのと、CCJ卒業生の中では、誰よりも早く上野公園で大道芸を始めたというのを聞いて、すぐに会って話を聞きたいと思った。
 バブル末期に誕生したCCJは、イベントブームをあてにしていた。しかしバブルが崩壊し、クラウンビジネスが成り立たなくなり、CCJも解散、卒業生たちは自分たちで生きる道を探す必要に追い込まれる。その時山下公園や、上野公園で、大道芸がひそかなブームとなっていたのだ。大道芸が、CCJ卒業生たちに生きる場を与えることになるのである。その先駆けが、小出だったと聞いて、最初に話を聞くべきだと思った。
 あてもなく話を聞くよりは、リレー形式で、話を聞いた卒業生から、気になっている人を指名してもらい、それをつないでいくのも面白いかなと思ったこともある。三雲から指名された小出と会ったのは、5月17日。秋葉原のビアホールで2時間たっぷり話を聞かせてもらった。ここで焼酎のボトルを2本空けただけでなく、いつものようにハシゴ酒、結局は上野の小出の家にやっかいになることになった。
 小出とはさんざん飲んで、いろんなことを話していたのだが、CCJの頃の話、大道芸をやりはじめたことの話は、話題にものぼったことがなかった。だから実に面白い話を聞けた。つくづく負けん気の強い男だと思う。「俺は弱い男なんですよ、そして不器用」と何度も言っていたこの男を支えたもの、それはこの負けん気の強さだった。

入学した動機

「リングリングサーカスですよ。やっぱ。当時付き合っていた彼女のお父さんの会社が招聘したっていうんで、招待券もらったんです。
 それで彼女と一緒に見に行って、ショーの前にクラウンがいっぱい出てきて、「ハロー」とか言って、お客さんと握手したり、小ネタをやって客席を回る、通称ミート&グリートというのを見て、楽しい気持ちと嬉しさが入り交じり、涙がポロリ。
 それまではクラウンなんてまったく知らないですよ、車かななんて思っていたくらいですから。人を楽しませる仕事があるんだ、いいなあと思っていたら、そこでCCJが9月にオープンするっていう話を聞いて、これだと思いましたよ。
 やるんだったら一期生って決めていました。だから俺、自分で道具(ジャグリングのこん棒とか)を作ったり、一輪車まで買って、仕事が終わると平和島の公園に行って、練習しました。夜勤明けとかも、やってました。オーディションに、俺絶対に落ちたくなかったんですよ。
 会社ですか? 2年半ぐらい勤めていましたねえ。俺がCCJに入るって言ったら、おふくろ泣いていましたからね。それ見て、姉は「ピエロになんかなるなんて、この親不孝者」と言われ、家族からすごく反対されたですよ。でもこれしかないっていう思いですよね。
 授業料高かかったですよ。総額50万円くらいかなあ。俺ローンにしてもらいました」

 小出の芸人としての出発点が、リングリングサーカスを見たことというのは、結構意外だった。しかもグリーティングを見て、彼は涙がでるくらい感動したのである。リングリングのクラウンは、すべてマス、個性などない、私からしたらあんな陳腐なものはないと思うのだが、小出はこれに感動したのである。それは、「人を楽しませる職業がある」ということの驚きであったのだろう。それが彼の人生を大きく変えることになる。

在学中のこと

「3カ月半ですかねえ。ここで学んだのは。大きかったですよ。とにかくいろんな人がいたんですよ。芝居やっていた人、マイムやっていた人、元宝塚とかいろんな人がいました。
 でも自分はまったくの素人でしょ。だから負けたくなかったんですよ。21歳ですよ。とがっていましたねえ。とにかく練習しました。一番練習の成果が目に見えてわかるのは、ジャグリングです。一生懸命ジャグリングの練習をやりました。
 ここで学んだことですか、「人を楽しませる情熱」かなあ。これはよくアメリカ人の先生たちに言われました。先生と言えば、俺にとって大きなターニングポイントになるきっかけ、それをつくったのは、ジョン・フォクスです。
 在学中にそういえばずいぶんマスコミにとりあげられましたね。大島さんも来てましたよね。覚えてますよ。あの時、俺は脱サラということで、ポンタとか、元宝塚の人の同じように、よく取材されました。」

花博の仕事

「自分にとって2つ目のターニングポイントとなったのは、花博の仕事でした。在学中からここで仕事があるって聞いて、俺は絶対にやりたいと思ったし、6カ月の期間全部やり通したいって必死でした。実際に俺は、数少ない半年間通しで出演したメンバーのひとりになりました。なにが大きかったかって、やっぱ、人前で出てやれたことですよね。
 それと田口さん(田口三津江)と一緒のチームになって、いろいろ教えてもらったことも大きかったです。人前に立った時の表情とか、いろいろ教えもらったですよ。会いたいスよね。田口さん。みんなから好かれていましたよね。姐御肌っていう感じなのかな。三雲さんとも3カ月間同じ部屋になって、あれから仲良くなりました。
 それと夜の練習ですよ。仕事が終わるとみんなはカラオケとか飲みに行ってたんですけど、俺のなかでは、この花博の仕事のあと、なにをするんだみたいなことがあって、とにかくジャグリングしかなかったんですよね。毎晩宿舎の近くで、ジャグリングの練習です。ジョンが、どのくらいできたのか見せてご覧って言ってくれて、次までこれをやってみてなんて言われて、必死で練習しました。ボールで4個、クラブで3本できるようになりました。自分は手先が不器用なので、同じ技覚えるのに器用にこなす人見ると、なんであれができないんだって、悔しくてしようがないんです。だから練習するしかないじゃないですか。花博が終わる頃には、だいたいジャグリング全般ができるようになりました」

 家族に反対され、脱サラまでして選んだ道、小出は後戻りできないところに自分を追い込んでいた。花博での仕事が大きなターニングポイントだったというのは、そこで仕事をして学んだというよりは、この期間に次のターゲットを定めて、練習し続けていた、その充実感、というか後戻りできないという危機感だったように思える。

大道芸への道

「花博のあとですか。たしか9月末に終わって、10月からですかねえ、上野で大道芸はじめたのは。俺実は、CCJ在学中に山下公園で大道芸やってるンですよ。なんか試したいというのがあったと思うんですけど。ホワイトクラウンのメイクして、ただバルーンとかつくっただけなんですけどね。お客さんの反応ですか? そんなものなんもないですよ。メイクしているだけで変なわけで、人は集まってきますよねえ。それでただバルーンつくっただけ。あの時たしかダン・マッケイブがやってましたねえ。
 上野では、ジャグラーとしてやりかった。花博が終わって、自分のなかにジャグラーとしてやりたいという気持ちが強くなっていたんですねえ。ノーメイクで、やりたかったんですけど、なかなかその勇気がなかった。
 その頃の上野ですか?手塚(サンキュー手塚)とかハッピー吉沢、ボンボンプラザーズとかやってましたねえ。石川の健ちゃんもいました。手塚とか、石川の健ちゃんとか、同い年で、仲良し申年グループってよく飲むンですよ。あのころが一番楽しかったなあ。ただ俺、相当とんがっていて、いまでも手塚に言われますけど「声もかけられないような雰囲気」だったらしいス。
 ただ嬉しかったのは、ジョンがよく見に来てくれて、いくら稼いだのって、一緒にお金数えてくれたんですよ。結構集まりましたよねえ。ジョンは「日本人、できる!」って言ってくれました。俺あの時、初めて認められたって思ったスよ。
 もうとにかくやりたくってやりたくってしかたがないから、どこでもでかけて行きましたよ。大宮とか、葛西臨海公園とか、そうそう浅草の花屋敷にも飛び込みでお願いにいったなあ。それで花屋敷で毎週土曜日にステージショーをやらしてもらったりしたですね。だからこの頃は土曜日は花屋敷、日曜はCCJの営業の仕事、なければ大道芸。食っていけました。俺、この仕事選んで、これで生きるって決めたから、バイトすることは考えてもいませんでした。CCJ在学中にレンタルビデオ屋でバイトしたことはあったけど、このあとはやってません。」

鬼畜英米−反骨精神

「上野と山下公園が、大道芸のメッカだったんですけど、山下公園は敷居が高かったですねえ。外人パフォーマーたちが牛耳っていたんです。俺関内の駅をおりて、山下公園に行くまで、なんども胃がキリキリ痛んで、行きたくねえなあって。なんでだろ?いい場所へ行くと外人のパフォーマーが、ここは私が最初に来た場所って言うわけですよ、それで順番でってお願いすると、「あなた何やっているの」。ジャグラーって答えると、「ユーアージャグラー」って鼻で笑っているんですよ。悔しくて。あの時からですよ、俺の中で鬼畜米英が芽生えたのは(笑)。
 考えてみたら、外人パフォーマーたちには、いろいろ勉強させてもらったというか、負けン気を養ってもらったということでは、感謝してますよ。山下だけでなく、大阪の天保山でも同じようなことに遇ったですよ。あいつら俺とたいして変わんない芸の中身で、ただ片言の日本語でしょ、あれでウケている。絶対に俺負けたくないっていうか、外人を粉砕してやろうって、そんなコメディーをつくってやる、そんな意気込みが生まれてきたんですよねえ。ここから生まれたのが、牛飼い君ですよ。CCJの杉本と一緒にこのネタ作ったんですよ。日本人のこの手のパフォーマンスでは、キャラものとしては、かなりいい線いっていたと思いますよ。これで天保山で、大道芸コンペがあった時、絶対に優勝できると思っていたんスよ。そしたら三雲さんが出てきて、グランプリでしょ。悔しかったですよねえ。俺いつもそうなんですよ。静岡でも神山、手塚、三雲、みんな賞をとってるのを見て、羨ましかった。俺は何もとってないでしょ。悔しくてねえ。今はもうタイトルとかには興味はありませんけどね。」

 なんでも一番じゃないと気が済まない、でも一番をとれなかった男、ダメじゃん小出。すでにCCJ時代に大道芸にチャレンジしていたという話にはちょっと驚いた。彼のなかでは、芸人として食っていかないといけないという強い思い、それが彼なりの自己責任であったのだろう。
 さらに彼には、大きなターニングポイントが待っている。
 それは海外での武者修行、そして舞台への転身である。これはまた次回に紹介したい。


連載目次へ デラシネ通信 Top 前へ | 次へ
ダメじゃん小出HP