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【連載】クラウンを夢見た人たち−クラウンカレッジ卒業生のその後を追う

私とクラウンカレッジ

 前回紹介したプロローグがわりのエッセイをあらためて読み直しながら、なかなか感慨深いものがあった。
 「ここで学ぶ人たちが、マスの一部として演技することに満足するのではなく、自分の個性を磨き、自分なりのクラウン像をつくってもらいたいと思う。いままで日本のショー・ビジネスの世界でクラウンを名乗るパフォーマーは生まれていない。ここで学ぷ生徒のなかから本当の意味で、ヨーロッパと同じようにソロのショーができるクラウンが誕生することを楽しみに待ちたい」と書いているが、まさかほんとうにこの中からクラウンとして舞台に立つパフォーマーが現れるとは、この時正直思っていなかったと思う。アメリカ仕込みのインスタントなマニュアルだけ身につけてクラウンになれるわけがないとタカをくっていた。しかし彼らのクラウンになりたいという思いは強かったのである。だからこそこの取材を通じて、その思いの源泉のようなものを知りたいと思っているわけなのだが・・・。
 卒業生への取材はまだはじまったばかりだが、その前にこの「道化師の変容」を書いてからあとの、私とクラウンカレッジの関わりについて補足するかたちで、簡単に書いておこうと思う。


 これが掲載された『悲劇喜劇』が出てからすぐに、クラウンカレッジから社長と会って欲しいという電話が入った。確か高輪のパシフックホテルだったと思うが、下郡山社長とスタッフの方と食事をすることになる。ここで正式にクラウンカレッジに協力するように依頼されたと思う。下郡山さんからすれば、クラウンのことを多少でも知っている人間が、日本にいたことに驚かれたのかもしれない。ACCに入社したばかりで、自分の追い求めているクラウンとは、対極にあるクラウンカレッジの仕事を一緒にするつもりはまったくなかったのだが、ずいぶんと熱心な誘いに圧倒され、その場で断ることができなかった。
 断らなかったのには、もうひとつ理由があった。ACCとして初めて、海外から招聘して、手打ちで興行するクラウン・ディミトリーの公演をまじかに控えていたからだ。ここで協力関係を結んでおけば、動員につながるかもという気持ちがあった。

 この会食のあと数カ月後に今度は私から電話して、社長に会いに行くことになる。この年の秋旧ソ連のウクライナからミミクリーチというクラウングループを呼ぶことになった。これを興行として成り立たせるためには、どうしもスポンサーが必要であり、これはクラウンカレッジしかないと思ってのことだった。ある意味でこの申し出は、クラウンカレッジにとっても好都合だったように思える。開校当時はたいへんな話題を呼び、マスコミに露出し続けていたわけだが、さすがに一年経つと、マスコミがとりあげることも少なくなっていた。クラウンカレッジの生徒とミミクリーチのジョイント公演をすることを条件に協賛を引き受けてもらうことになった。急に決まった話で、会場探しに苦労したが、当時ACCの経理をしていた女性が、娘さんがピアノの発表会につかったという護国寺の「天風会館」という500人収容できる小屋のことを思い出してくれた。そしてここで日米ソ合同による「第一回東京国際クラウンフェスティバル」が開催されることになった。1990年11月のことである。クラウンカレッジからは、確か一期生と二期生が合同で出演したと思う。メインは、ミミクリーチではなく、クラウンカレッジにかわってしまったことはあまり気持ちよくなかったが、この協賛がなければ、おそらくミミクリーチは呼べなかったと思う。この年の公演のあと、ミミクリーチはたいへんな評判を呼び、何度も来日公演をすることを思うと、この時のクラウンカレッジの協賛は大きかったと言えよう。
 これは直接卒業生たちに確かめたいことのひとつなのだが、彼らにとってもミミクリーチとの仕事は大きな意義をもっていたと思う。このあと何人かのパフォーマーたちは、アメリカ式の派手なメイクやコスチュームを捨て、黒いジャケットを着て、メイクもずいぶんとシンプルになったような気がする。ミミクリーチスタイルのクラウニングが、彼らの心を奪ったのではないかと思う。

 この公演のあと、しばらくクラウンカレッジとの接点はなくなったが、一度フィアディアフィアにシアタークラウンフェスティバルを見に行ったとき、クラウンカレッジに新しく重役として迎えられた人と会ったことがあった。この時はほとんど口を聞かなかったと思う。花博が終わり、バブル景気も終わり、次第に不況の波が押し寄せてくる中、卒業生をイベントに送り込むという事業プラン自体が、行き詰まりをみせていた時だった。創設当時に携わっていたスタッフもどんどん去っていった。通信社で事業関係の仕事をしていたこの重役が中心になり、イベントに派遣するのではなく、舞台作品をつくり、これを地方新聞社に売り込み、商売にしようという目論見があったようだ。この時の作品は、古事記をテーマにしたものだったが、とてもクラウンの芝居と呼べるものではなかった。出演した生徒たちも、きっとなにをやりたいのかわからずとまどっていたと思う。演出もしていたこの人は、まもなくクラウンカレッジを去って行った。
 アメリカのリングリングとの契約が重荷になるなか、経費削減ということもあったのだろう、当時市川にあったサーカスレストランにACCが入れていたロシア人のクラウン、サーシャに、臨時で教えてもらえないかという依頼を受けた。サーシャ自身も教えたいということもあり、私は通訳を兼ねて、大井のクラウンカレッジに、二三回行った記憶がある。三期生の時代だった。市川のあとも、日本で仕事をしたいというサーシャの希望もあって、彼は、クラウンカレッジと契約、何カ月かここで教えることになった。しかしまもなくクラウンカレッジは解散してしまう。


 これが、私とクラウンカレッジとの関わり合いのすべてである。解散と共に、クラウンカレッジのことは、忘れられていくのだが、何年後かに、取材の時会った一期生や、サーシャの授業の時に付き合った三期生と、現場で、出会うことになる。正直言って、現場で声をかけられても、誰だかわからなかったのだが・・・。そしてこうした交流から、オープンセサミのふたりにキエフへ行く機会をつくったり、ポン太をモスクワのサーカス学校に送り出す手伝いをすることになった。そして一期生だった三雲いおりや、ななちゃん、そしてハンガーマンと一緒にプラコメを立ち上げることになるのである。
 あの取材の時、こんなことを予想できただろうか。あの時の出会いは、いま思うと、ほんとうのはじまりの序章だったのかもしれない。

いよいよ次回からは、卒業生だった人たちの話を聞いていくことにする。


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