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【連載】サーカスのシルクロード

サーカスのシルクロード

プロローグ 2 ―― 久保覚「百戯の道」

 サーカス学にひっぱり込んだ榎一雄氏のシルクロードとサーカスの講演会は、私にとってまたもうひとつの出会いの場となった。
 講演会が終わって帰ろうと思った時、机の上に置いてある資料を片づけている榎さんのもとへ、ひとりの男が、ずかずかと歩み寄り、矢継ぎ早に質問をしているのが目に入った。メガネをかけ、特徴的な髭面をしたこの人こそ、私に初めてサーカスについて原稿を書くことを勧めた(というか命じた)編集者の久保覚氏であった。もちろんその時は面識もなく、名乗りあったわけでもない。ただ榎さんが持ってきた本をとても熱心に見ながら、書名をメモするその姿がとてもエネルギッシュだったのが、印象深かった。

 このあと一年も経たないうちに、久保さんと再会することになったのは、ある意味縁だと思う。メイエルホリドの翻訳を出す準備をしていた久保さんが、訳者を集めて月に一回自宅で研究会を開くのだが、卒論でメイエルホリドをとりあげた自分にもお声がかかる。初めて久保さんの家を訪ね、その顔を見て、あの時の人だったことにびっくりする。それからまもなくして、私は根津から荻窪に引っ越すのだが、久保さんの家から歩いて10分もかからないところだったことから、久保さんとのつき合いが深まる。メイエルホリド研究会は何回かして、立ち消えになったが、何かあるとよく呼ばれた。久保さんの家は、いつ行っても、梁山泊のように朝鮮の民俗芸能をやっている人や、劇団関係者、若いライターとかエディターとかいろんな人が集まり、議論を闘わしていた。私にとっては大きな刺激となっていた。

 ある日集合の声がかかり、行ってみると、いつも以上に久保さんのテンションが高い。新評社が出している「別冊新評」で、大々的なサーカス特集号をつくることになったという。その編集を久保さんがすることになったのだ。「いいですねえ」なんて気楽なことを言っていた私に「大島君にも書いてもらいたい、クラウンがいいよね」と言い出すではないか。大学卒業後、呼び屋稼業にすっかりはまり、大学院に進むのもあきらめていた自分、しかも一度も活字になるような原稿を書いたことのない、まったく実績のない自分に、なんという無茶な話しをするのだろうと思ったのだが、久保さんは、もう決定という前提で話しをしていた。正直言ってうれしかった。その時自分は、ラザレンコというソ連革命時代に活躍した道化師の伝記を読んでいた。これについてなにか書けるかもしれないと咄嗟に思ったのだ。
 さっそく読みながらとっていたノートをまとめ原稿を書いてみた。久保さんから途中でもいいから見せてくれと言われたので、出来上がった原稿を持っていくと、さっと目を通して、ラザレンコだけじゃなくてクラウンの歴史を一般の人がわかるように書かないとだめだといわれ、書棚からクラウンに関する英語の本を4−5冊取り出してきた。ダメだしはあるとは思ったものの、まさかいまさらこんな外国語の本を渡されてもなあという心境だったのだが、久保さんの目は真剣であったし、私には渡された本を押し戻す勇気もなかった。この日から徹夜しながら、辞書を片手に、断片的に本を読むことになった。いまから考えてみると実にいい勉強になったと思う。ここで自分なりのクラウンへの見方というか、パースペクティブができたように思える。この読書をもとに原稿を書き直した。何日かして夜中に、久保さんの家に原稿をもっていくと、久保さんは締め切り間際ということで、かなりフラフラの状態のようだったが、原稿に目を通し、「タイトルどうしようか?道化師群像でいいかな」と言ってきた。OKが出たわけである。正直ホッとした。もちろんこのタイトルに異存はなかったというか、素晴らしいタイトルだと思った。これが私の最初の原稿となった。いまから20年ほど前になるのではないだろうか。忘れられない出来事である。(デラシネでもこの原稿は読めます

 この『別冊新評−サーカス特集』は、久保さんの編集らしく絵画、演劇、文学、歴史、民俗学、音楽にいたるまで、この特集の中で尾崎宏次氏と岩井善一氏と座談会をしている久保さんが、「サーカス学」を起こそうと提言していたように、サーカスを見る切り口をまんべんなく提示し、サーカスの可能性を大々的にうちだしたすばらしい本に仕上がった。いまでもいろんな雑誌がサーカス特集をしているが、これがベストだと思う。
 榎さんの話からずいぶん脱線してしまったが、実は久保さんはこの特集の中で、編集ばかりか、「百戯の道」というサーカスとシルクロードについての、大論文を書いていたのだ。この編集に全力をあげて取り組んでいただけでなく、これだけの論考を書くそのエネルギーがどこにあるのか、驚嘆してしまったのだが、あの時榎さんの講演会が終わったあと、榎さんが持ってきた本を駆使し、壮大なサーカスとシルクロードの交流がここには書かれていた。さまざまな文献を駆使しながら、独自の視点と切り口でサーカスがローマから、中国、朝鮮、そして日本へと渡る様子をダイナミックに描いて見せるのである。まさにこの論文こそが、私にとっての「サーカス学」チュチュローネとなったのである。

参考文献

【別冊新評 サーカスの世界】

別冊新評第14巻第1号/新評社/\980/250p./雑誌コード04911-4/1981(S56).4.10初版/

[目次]
見えないサーカス(別役実)/サーカスの美学(ヴラスタ・チハーコヴァー)/モンテカルロも五夜(横井滋治)/ビューティフル・サーカス(森繁久彌)/座談会・サーカス礼讃(尾崎宏次,岩井善一,久保覚)/サーカスのフォークロア(坪内徳明)/都市とサーカス(海野弘)/百戯の道(久保覚)/サーカス事始め(杉山二郎)/道化師群像(大島幹雄)/アクロバットのシンボリズム(前田耕作)/文学にあらわれたサーカス(浦雅春)/ある動物使いの肖像(北村久)/コンメディア・デラルテとサーカス(佐藤正紀)/サーカスとアバンギャルド演劇(桑野隆)/現代芸術とサーカス空間(山口勝弘)/映画とサーカス(岩本憲児)/天使たちの歌(高坂潤)/対談・ガネ芸一代と日常(久保田洋子,小沢昭一)/日本のサーカスの現代(中谷ひろし)/日本のサーカス芸について(西田敬一)/サーカスとサーカス芸人の魅力(本橋成一)/サーカス小屋の歴史(丸山奈巳)/「サーカス館」建設の夢(岩井善一)/日本のサーカス用語(岩井善一)サーカス研究邦語文献目録(久保覚)

久保覚氏について

「久保覚遺稿集刊行される」(デラシネ通信内)

榎一雄氏について

東洋文庫 榎文庫の解説文

 


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