月刊デラシネ通信 > ロシア > 過去と現在の交差点−霧のキエフで思ったこと−1

巻頭エッセイ
『過去と現在の交差点−霧のキエフで思ったこと』

 二年ぶりで訪れたキエフ。真冬のキエフは初めて。着いた日は、雪もなく、東京よりも暖かい感じさえした。しかし驚いたのは、キエフ市民にとっても経験がないという霧が二日間街をおおいつくしたこと。そして霧が晴れたと思ったら、今度は3日間ボタ雪が降りしきるという、なんとも奇妙な気象体験をすることになる。
 激しく気候が変化したキエフで過ごした7日間、いま思うと二日間キエフの街をおおった霧のせいかもしれないが、過去と現在が交差しながら幻のように立ち現れてきたような気がする。もちろん大好きな酒のせいがあるかもしれないのだが・・

 キエフの街で私が見たこと、感じたこと、断片的になるが、二回にわたって紹介することにする。ちなみに『クマのお仕事日誌』の1月25日から2月2日までがキエフ編になっておりますので、こちらもご参照下さい。

第一回 ロシアは遠くになりにけり

 キエフの旅から戻ってきて、溜まっていた朝日新聞を見ていたら、日曜版のコラムで、「舌はキエフまで連れていってくれる」ということわざを紹介しているコラムに出くわした。
 10世紀末にロシアで最初にキリスト教を受け入れたキエフには、ロシア各地から信者が巡礼に訪れるようになる。このことわざは、こうした信者たちが、舌をつかって人に尋ねさえすれば、遠いキエフまでたどり着けることができることから生れたらしい。このコラムには、ウクライナ語とロシア語は、同じスラブ系の言葉で、関西弁と関東弁程度のちがいと書いてあったのだが、これにちょっと引っかかってしまった。
 2年ぶりに訪ねたキエフで、まず気になったのが、街の看板がほとんどウクライナ語に替わっていたことだ。少なくても街の中心でロシア語の看板を見かけることはほとんどなかった。新聞やテレビもウクライナ語に統一されつつある。
 今回の旅で私たちの世話をしてくれたクリューコフ夫妻は、旦那がカザフ人、奥さんがシベリア生まれで、ウクライナ人ではない。言葉もロシア語しかできない。日常生活での会話はロシア語でこと足りるのだが、ウクライナ語包囲網がじわじわと押し寄せているのに、少しずつ脅威を感じているようだ。
 実際こんなことがあった。空港まであとから到着する日本人を迎えに行ったときのことだった。霧のため飛行機が遅れているようなのだが、発着の案内は、英語とウクライナ語でしか書かれていない。一緒に迎えに行ったクリューコフは、私になんて書いてあるか聞いてきた。ウクライナ語が、読めないのだ。
 関東弁と関西弁程度の違いではない、つまり発音やイントネーションだけの問題ではない、歴然とした違いがこのふたつの言語にはあるのだ。
 翌日ロシア語の週刊誌を読んでいた奥さんに、ウクライナ語が読めなくて不自由を感じないかとあらためて聞いてみると、とても不満に思うし、なによりも教育の現場で、ロシア語もロシア文学もすっかり排除されてしまっていることに不安を感じていると語ってくれた。プーシキンやレールモントフ、ツルゲーネフ、チェーホフ、これはロシア人だけであく、ウクライナ人にとっても貴重な文化遺産なのに、いまウクライナの学校ではこれさえも教えようともしない、この先どうなるのだろうという。
 この会話を聞いていたふたりの子どもで13歳のヴォーバが、ロシア語がわかればウクライナ語は全然難しくないと口を挟む。たしかに子どもたちにとっては、ウクライナ語を学ぶことは、たやすいことかもしれない。
 しかしある程度年をとった人間にとって、また一からアルファベットを学ぶことは、苦痛なはずだ。
 帰ってきて、モスクワの週刊誌『論拠と事実』4号を読んでいたら、ソルジェニツィンが、ウクライナでは、学校でのロシア語教育をやめ、ロシア文学をあえて教えようとしないことに強い不満を表明していた。
 ウクライナという国は、土壌としてナショナリズムの志向が強い。
 ウクライナにとってロシアはますます遠い国になっているのかもしれない。


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