月刊デラシネ通信 > ロシア > 過去と現在の交差点−霧のキエフで思ったこと−2

巻頭エッセイ
『過去と現在の交差点−霧のキエフで思ったこと』

第二回 ブルガーコフ博物館とベルチンスキイ

 私たちが泊まったホテルは、アンドレエフスキイ通りからちょっと路地を入ったところにあった。このアンドレエフスキイ通りは、石畳の坂道になっていて、なかなか風情があるところだ。ここはまたお土産屋の屋台がたくさん並ぶ、表参道のような通りでもある。工芸品やおなじみのマトリョーシカ人形、バッジ、Tシャツ、本、楽器などありとあらゆるお土産を売る屋台が連なり、道ゆく人に声をかける。土曜日や日曜日には観光客で、通りは人であふれかえっていた。雪が降ったときは、すべって歩くのに苦労することになったのだが・・・
 この通りに面したアンドレエフスキイ通り13番地に、ブルガーコフ博物館がある。ブルガーコフは、「巨匠とマルガリータ」、「白衛軍」、「犬の心臓」などの小説で知られる20世紀を代表する作家である。日本でも翻訳本が何冊が出ているので、ご存じの方もいるかもしれない。
 この博物館は、ブルガーコフが1906年から19年住んでいた家を改造し、1991年にオープンしたものだ。
 2年前同じホテルに泊まったときに、近くにブルガーコフ博物館があることを教えてもらったのだが、時間がなく訪ねることができなかったが、今回やっと見学することができた。
 ふつう作家たちが住んでいた家を博物館にしたものは、そのまま当時の様子を再現しようとするのだが、ここはちょっと変わっていて、いろいろな仕掛け、演出が施されていたのに、ちょっと驚かされた。例えばある部屋は、天井も壁も机もタンスも白一色に統一されていたし、奥に隠し扉のようなものがあった部屋もあったし、さらにある部屋では鏡の前に立って、電気を消すと、鏡の向こうに寝室が浮かび上がるようになっていたりと、なかなか凝っている。
 こうした仕掛けがいろいろある部屋の一室、ブルガーコフの所有していた本を集めた部屋のテーブルに、なにげなく広げられた2冊の雑誌が置かれていた。2冊の雑誌には、ピエロのメイクをし、ダフダブの黒い上着を着た男の写真が載っていた。
 ベルチンスキイだった。
 ベルチンスキイのことは、ずっと気になっていた。
 『ピエロの手記』と題された彼の回想記は、ずいぶん前に購入していたし、彼に関する雑誌や新聞の記事を切り抜いておいたりもしていた。3年ぐらい前には、彼の詩やエッセイをまとめた一巻本も入手していたし、5年前にモスクワで彼の唄を集めたカセットテープの海賊版を買ってもいた。
 1920年代から30年代にかけて、ヨーロッパ各地のキャバレーで、ものかなしげな唄を歌う吟遊詩人というイメージがあり、そこにひかれたのだろう。
 1889年キエフで生まれたベルチンスキイは、いまでいうシンガーソングライターである。ブルガーコフ博物館にあった彼の写真が物語るように、ベルチンスキイは「ピエロの悲しい唄」というジャンルをつくり、一世を風靡していた。
 彼は、革命後まもなく祖国を飛び出し、欧米を彷徨い歩いていた亡命者でもあった。1943年ソ連に帰るまで、彼は、トルコを皮きりに、ポーランド、ドイツ、フランス、アメリカと渡り歩き、最後は上海まで流れていった。ギターを抱え、古いロシアのロマンスや、ジプシーの唄、そして自分がつくった歌を歌いながら、エトランゼとして彷徨い歩いたベルチンスキイは、やっと願いが叶いロシアに戻り、各地でコンサート活動をするが、公式筋からは一切無視され、レコードや詩集などを出してもらえず、不遇のうちに1957年亡くなっている。モスクワ芸術座の主演女優として来日したこともある、ロシアを代表する名優ベルチンスカヤは彼の娘である。
 ピエロの衣装に身をつつみ、悲しげなロマンスを歌い、街から街へと彷徨っていたベルチンスキイに、こうしてキエフで、それもブルガーコフ博物館で会うとは思ってもいなかった。
 さらに驚いたのは、今回の旅のコーディネイター、クリューコフが住んでいる家のすぐ近くに、ベルチンスキイの生家があったのだ。この建物には、彼のレリーフが飾られていた。
 霧に包まれたキエフの街角で、思わぬかたちでベルチンスキイと会ったことに、なにか因縁のようなものを感じた。
 キエフを旅立つ日、クリューコフ夫妻は私に一枚のCDをプレゼントしてくれた。ベルチンスキイのアルバムだった。ミュージックショップを八軒回ってやっと手に入れたものだという。
 もしかしたら今回のキエフの旅は、ベルチンスキイと会うための旅だったのかもしれない。
 家に戻り、バーボンを飲みながら彼のCDを聞いた。何曲かは、キャバレーらしきところで歌っているのを録音したものだった。人のざわめきや、ものうげな拍手の音が聞こえてくる。甘い声で歌う悲しげな唄を聞いているうちに、キエフが霧におおわれていたある一夜のことを思い出した。
 クリューコフの友人で出版社を経営するペーチャの家で、親しい仲間たちが集まり、私たちを歓迎する宴会があった。この日はカラオケで英語の歌を歌いまくったのだが、酔いがほどほどに回ってきた頃、あるじのペーチャがギターをもち、ロマンスを歌い始めると、集まった人々が、われもわれもとバラードを歌いだした。
 かなわぬ愛について、故郷について、母について、別れについて歌う唄を、どうしてこれほどまでに、彼らは好んで歌うのであろう。
 そしてベルチンスキイは、どんな思いでこうしたロマンスを、異国の街で歌っていたのであろう。
 祖国に戻り、不遇時代を過ごしていたベルチンスキイは、親しい人たちに、自分の歌は、30年後か40年後にきっと評価されると語ったという。

 ベルチンスキイのことを調べてみたくなった。
 彼もまたまぎれもなく、デラシネ(根なし草)のひとりなのだから。


-----> 【連載】ロシアエトランゼの系譜−ベルチンスキイの生涯


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