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クマのコスモポリタン紀行

第9回 長谷川濬を追って――三輪崎編

1.紀州三輪崎へ汽車の旅

 朝5時半起床。コンビニで朝飯を買って、6時42分富岡発の京急に乗る。新横浜7時32分発のぞみに乗車。土曜日だから空いているかと思ったら満員。指定席をとっておいて良かった。よみかけの「演技の精神史」を開くものの、すぐに眠りの世界へ。結局名古屋までほとんど寝ていた。8時55分名古屋到着。
 9時6分発の南紀81号に乗り換える。のぞみがかなり混みあっていたので、こっちも混むのかと思ったら、ガラガラで拍子抜けしてしまう。喫煙車は一番前の車両。ゆっくり車窓をながめながら汽車の旅を堪能できるかと思ったらとんでもない。真後ろの席に、どうやら社員旅行らしき10人程度の団体さんが陣取って、発車前から盛りあがっている。いやな予感。この車両、自分と団体さん以外に客がいないのだから、もう少し指定席のとりかたがあるように思えるのだが。電車が発車すると同時に、団体さんは「楽しい旅になりますように」と乾杯、予感的中である。独特の名古屋弁のイントネーションで、まあよくしゃべること、しゃべること。新宮に着くまで、この連中はずっとしゃべっていた。しかも大声で・・。よくもまあこんな話すことがあるものだ。どうやら消防署の人らしかった。
 朝早かったせいもあり、新幹線で少し寝たとはいっても、まだ寝たりない。名古屋を出てしばらくして熟睡。紀州長島に着いたところで目が覚める。相変わらず盛りあがっている後ろの席の雑音は気になるものの、車窓にひろがる景色に目を奪われる。こうやってぼんやり車窓から景色をながめながら旅するのも久しぶりのことである。仕事だとどうしても新幹線移動が中心で、外の景色など見る気にもならず、ひたすら寝るか、本を読むかなのだが、こうしたローカル線に乗ると、やはり旅情にひたりたくなる。長島あたりから海際をずっと走るものかと思っていたのだが、電車はひたすら山間を走っていく。そんなに高い山ではないのだが、山の深みを感じる。だんだんとトンネルが多くなる。
 せっかくだから運転手さんが丸見えの一番前の席に移動する。「電車でGO!」の世界である。しばらくは運転手さんの運転ぶりに見とれてしまう。しっかりと操縦桿を握り、線路際に何分かおきに見えてくる速度表示をいちいち声をだし、手で確認しながらの運転である。コンピューター制御ではなく、まったくの手作業である。電車おたくのダメじゃん小出が見たら、きっと喜びのあまり発狂するのではないだろうか?
 普段は側面の景色しか見えない電車の旅なのだが、この正面丸見えのガラス張りの席からだと、まったくちがう風景が目の前にひろがってくる。これが実に楽しい。初めての体験だ。トンネルに入ると、この正面の席からだと、出口の小さな円形の白い明かりが見えてきたりする。驚いたのは線路で羽根を休めていたトンビが電車が来たのに驚き、飛び立ったのはいいのだが、一羽遅くなったのがいて、いきなり電車に掠ったこと。ゴツンという音もしたのだが、運転手さんは、まったく動揺を見せず、運転を続けた。よくあることなのかもしれない。
 海ではなく山の風景しか見えない、それも単調な風景の連続なのだが、回りを囲む山の深さが心に沁みてくる。
 尾鷲を過ぎた頃から、左手に海がちらちらと見えはじめる。これからずっと海が見えるかと思うとそうじゃない、ほんとうに束の間にちらっちらっと見えるだけなのだが、その垣間見える海の色の青さが濃い、そしてこの青さに温かさが感じられる。
 1950年1月末に同じ線を走る汽車に乗っていた長谷川濬は、この海を見て、何を思ったのだろう。子供のころから函館に育ち海に親しんだ長谷川は、久しぶりに目の前にひろがる海に、なつかしさを感じながら、20才のとき、カムチャッカの海に旅立ったときのようにある高揚感にとらわれていたにちがいない。海はあのときと同じように、自分を新しい世界へ誘っている、そんな気持ちで海を見ていたのではないだろうか。
 名古屋を出発して3時間近く、南紀号は熊野市に停車する。窓からみる限り、そんな大きな町ではないようだ。この駅をすぎてから、やっと海が車窓に広がりはじめる。

2. 三輪崎の海

 12時16分新宮着。乗り換えの時間がほとんどなく、22分発紀の国線の鈍行に乗る。土曜で、学校は休みのはずなのに、制服姿の高校生が多く乗っていた。
 12時28分三輪崎駅に到着する。高校生が何人か下りた。ちっぽけな無人駅だった。

1950年1月30日
夕刻三輪崎に着く
松林の向うに強風と怒濤を見る
12時突風あり。天地転倒の感あり。
海―我が心のふるさと、ここへ私は漂着したのである。

三輪崎駅 55年前この駅に降り立ったときのことを長谷川は、日記「青鴉」の中でこう書いている。
 長い汽車の旅を終えて、駅に降り立ったとき、目の前にひろがる海を見て、長谷川は昂る気持ちを抑えられなかったにちがいない。なんの変哲もない小さな駅なのだが、降り立ってびっくりするのは、すぐ海が目に飛び込んでくることだ。予定ではまず腹ごしらえをするはずだったのだが、突然目の前にひろがる海を見て、まるで磁石に引き寄せられるように、海に向かって歩いていた。おそらく長谷川濬もそうしたのではないだろうか。それだけ引きつける海の力がある。
 松林はもうない、海際には、熊野古道にもなっている県道が通っている。防波堤のしたには、砂浜が続く。夏にはいい海水浴場になっているのだろう。ただいまは季節外れ、しかも海岸工事中ということで、惹きつけられてここまで自然に足がのびたものの、すさんだ海辺の風景にちょっとがっかりしてしまう。
駅から見える海 腹がへってきた。これからしばらく歩かなければならない。まず飯を食べないと。県道まで戻り、食堂を探す。甘かった。海水浴のシーズンであればともかく、この小さな集落に、食堂など必要なわけがない。だいたい駅前になかったのだから、集落のなかにあるわけがない。ただなにかを探しながら知らない町を歩くというのは、結構楽しいものである。とりあえずこのまったく人通りのない、小さな集落を歩いてみる。目につく店といえば酒屋と床屋だけ。酒屋はともかく、なぜこんな小さな集落に床屋が何軒もあるのだろう。自分が目にしただけで6軒の床屋があった。
 軒先の低い家が立ち並ぶ道を歩き続ける。駅のある海の反対側、国道にでてしまう。腹ごなしをするのだったら、最初からここにくるべきであった。コンビニやペンション、そして「どさん娘」があるではないか。ここでみそラーメンの大盛りを食べる。このラーメン、麺がのびて、まずいのなんのって。サービスということで、コーヒーが出てきたのにはびっくり。ただまずいラーメンの代償として、このコーヒーは充分に見合うものだった。

3.南海の三輪崎

三輪崎の海辺.JPG 腹も満たされ、いよいよ本格的に三輪崎探訪の旅をやりなおすことにする。もう一度駅にでる。どうもこれから先トイレはないような気がしたので、駅のトイレで用をすます。このトイレ、いまどき珍しいくみ取り式トイレだった。
 長谷川濬の55年前を掘りかえす旅につく。出発点は、やはり長谷川が三輪崎に着いて、すぐに向かった、そして自分もすぐに降り立った海辺からだ。
 それにしてもおだやかな海である。遠くに白いものが見える。船なのだろうか?波が砂浜に押し寄せる音、そして空をとぶかもめやとんびの鳴き声しか耳に届かない、静かな海辺である。南のほうに大きな岸壁、その向うに小さな島らしきものが見えたので、そこをめざして歩く。岸壁にたどりつくと、そこからまったくちがう風景がひろがる。漁港だった。その手前には釣り舟らしき小型船が碇泊するマリーナもある。このあたりはいい釣り場なのであろう。高い防波堤に沿ってさらに歩くと、何人もの釣り人たちが糸をたらしていた。小島のなかの神社孔島と呼ばれている小さな島にでる。ここに小さな祠が祀られていた。岩でゴツゴツしたところを歩き、大きなテトラポットが立ち並ぶところをさらに南に進むと、孔島より少し大きな島が見えてくる。ここにも小さな祠があった。これがなかなか神秘的な雰囲気を漂わしている。そんなに鬱蒼としているわけではないのだが、南海のジャングルを思わせるような南洋植物が生息するこんもりとした林のなかにある鳥居は、なかなか不思議な光景を描き出す。晩年熊野に住み着いた南方熊楠が、菌類研究に夢中になっていたことを思い出す。長谷川濬も、この島にはよく通ったのではないだろうか。彼がここで暮らしたときは真冬であったが、このあたりは冬でも温暖だという。日中やることもないときに、散歩するとしたら、このあたりしかないだろう。
 島巡りを終えて、漁港にでる。ここには漁港のたたずまいがある。小さなテントで年老いた漁師たちが網の修繕をしていた。ここからまた三輪崎の集落を歩くことにする。何軒ぐらいの家があるのだろう。路地がはりめぐらされ、まるで迷路のようだ。この路地からちらっと見える海の景色が素敵だった。格子がある古い家も何軒か残っている。ゴーストタウンとまではいわないが、ほとんど人と会うことがない。たまに出くわすと、年輩な人だけでなく、若い人も「こんにちは」と声をかけてくれる。

4.宝蔵寺の観音堂

宝蔵寺本堂 路地めぐりをしているうちに、宝蔵寺にたどりついた。ここは長谷川が約一ヶ月逗留したところである。

2月28日
宝蔵寺内観音堂へ移る。一軒家にして南向きの家なり。庭に夏みかんの木一本あり。日向ぼっこする。

 長谷川は、にっちもさっちもいかない東京での生活に見切りをつけ、再生をかけて、ここ三輪崎にやってきた。しかし何故三輪崎だったのか。このころ長谷川の家によく出入りしていた尾崎好男という青年が三輪崎の出身だった。長谷川は尾崎に誘われ、ここまでやってきた。しばらくは尾崎の実家に世話になっていたのだろうが、いつまでもやっかいになるわけにはいかず、宝蔵寺に住まいをかえたのだろう。
 路地の一角にあるこの宝蔵寺の門をくぐってすぐ右手に、離れのような建物があった。これが観音堂なのだろうか。ただみかんの木は見あたらない。
宝蔵寺観音堂 お寺の人に聞いてみるしかない。応対してくれた婦人に聞いてみると、たしかにここは観音堂だという。55年前にここでしばらく逗留していた人がいるのですがと聞いてみるのだが、知らないという。婦人は住職さんを呼んでくれた。15時から法事だということであわただしいときに訪ねてしまったのだが、いろいろ親切に教えてくれる。この寺の檀家の総代表は、たしか80すぎで、彼だったら当時のことを知っているかもしれないと、電話をしてくれたのだが、外出中だった。
 住職さんは、今年の4月からこの宝蔵寺にやってきたばかりということで昔のことはわからないのですよという。ただこの寺でそんな人がおられたのですかととても興味深く長谷川の話しを聞いてくれた。持参した長谷川が書いた三輪崎について書いた詩を見せたら、「三輪崎のことを詩にしていた人が、ここに逗留していたのですか」と感慨深げにつぶやいた。この詩をコピーしたいというのでお渡しする。コピーをとったあと、法事に参列する人がそろい、お経をしなくてはならないということで、住職は「また来て下さい、今度はゆっくりしていってください」と言い残し、その場を去った。
 最初に応対してくれた婦人が、寺の由来についていろいろ話してくれる。
「大正時代に一度この寺は焼けたのですよ。ただ門と観音堂はそのままだったと聞いてます。みかんの木は記憶にないですね。あの観音堂のなかは結構広いですよ。」
 私が、「いいところですね」と言うと、「ここはほんとうに温暖なところで、冬でも寒くないのですよ。台風が来たときはたいへんですけど」

三輪崎の海辺に横たわりて

防波堤の外側に立上る波
俺に 挑みかかる白い牙だ
冷えきった俺の心臓を
ガリガリ咬む・・・
あの荒っぽい波に
俺はずたずたに切られ
浜辺に横たわっている
血脈の背後に
螺旋形の貝がうづくまり
砂を噛んでいる
俺は波の挑戦に堪え
啖を吐きつづけ
乾いた咳で
躍り上る波に対抗している
俺は
荒っぽい海が好きだ
海に挑みかかる波が好きだ

 この詩を読んだとき、三輪崎が荒れ果てた集落で、ここから見える海がどれだけ荒々しいものかと思っていたのだが、実際はその反対で、おだやかで、温厚な人たちが住む、そして南海のおもむきを漂わせた静かな海辺の町だった。
 もしかしたら人生の岐路に立ち、ここを再生の出発点にしようとした長谷川は、このあまりにもおだやかな町のたたずまい、そして海のやさしさにいらだっていたのではないだろうか。
 長谷川は三輪崎に、寺子屋のようなものを開こうとしていた。

2月24日
俺は飢えている。倒れんばかりに気力がない。この新宮三輪崎で、何をしようとするのか。外語学院設立、文化運動に参加、よろしい、結構だ!

3月1日
コッペパンと水。(略)「潮岬」を書く。粗雑で荒い。筆進まず。三枚で中止。寺子屋のビラをはって歩く。三枚はってくれる。未だいかん。勇気に欠けている。南窓で日向ぼっこする。

 こんな小さな集落に寺子屋をつくるというのは、あまりにも無謀な話である。理想と現実の間にギャップがあるのはあたりまえのことだが、ただこの長谷川の目論見と現実の落差は、一目瞭然、あまりにも無理があったとしか思えない。
 三輪崎の迷路のような路地を歩き、ビラ貼りをお願いしながら、長谷川は砂を噛むような空しさを感じていたにちがいない。ただなんとかしなければならなかったのである。「三輪崎の海辺に横たわりて」と題された詩は、2月26日に書かれたものだが、この日の日記に彼はこう書いている。

振り出しに戻れないのだ。さいころは投げられた。ここで頑張る。何があるのか。ただ自分をたよりにするだけだ。自滅かもしれない。更正の道があるかもしれない。一切の危惧、不安をおしつのけ、一路前進あるのみだ。(略)これが私の最後の活路だ
惑わず、躊躇せず
前進あるのみ、これが私の未来だ

 しかし実際は、どうにもならなかったのである。3月5日の日記には、彼の深い絶望感がただよっている。

生徒一人も来ない寺子屋、空虚なる机の前に先生一人、自炊の飯といわしの乾物食い
熱き豆腐汁を吸う。
観音仏に向いて、独り飯食う四十男なり。
ああ、落武者よ
引揚者よ
敗残者よ
長春より南海熊野路に漂って
独りいわしを食らう
夕陽力なく庭に照り
みかん茂りて
実は重くたれ下がる
(中略)
死について考える。死が近づいて来るようだ。海辺で死ぬならば本望である

 長谷川が家族を三輪崎に呼び寄せる計画をとりやめるのはこの二日後のことであった。そして数日後に三輪崎を去っている。
 私も三輪崎を去るときがやってきた。駅まで戻り、15時36分発の紀の国線に乗り、新宮へ向かった。
 新宮から名古屋への特急は2時間後にでる。それまで新宮をぶらぶら歩く。電車から見たときは、比較的大きい町ではないかという気がしたのだが、駅前を少し歩いただけで、あっというまに町らしきものは消え、住宅地になっていた。名物らしいさんま寿司と、ここの地酒「太平洋」のワンカップを買って、駅に戻る。
 夕暮れとともに町はすっかり静まりかえっていた。まだ夕方の5時すぎだというのに駅前の店はシャッターを下ろしはじめていた。駅のホームで電車の来るのを待つ。ここの駅のたたずまいがなかなかいい。いま時あまりお目にかからない、背もたれがついた木のベンチがある。闇にゆっくりつつまれていくなか、黒々とした熊野の山々が静かにせまってくる。すっかりひろがった暗闇のなか、ゆっくりと電車がホームに入ってきた。
 電車に乗りこむと、来たときと同じように車内はガラガラであった。車窓からはただ漆喰の闇が見えるだけだ。三輪崎をあとにし、東京に向かう汽車のなかで長谷川はなにを思ったのだろう。いま自分が見ている外の闇よりももっと深い闇にとらわれていたはずだ。
 長谷川は三輪崎を訪ねてから15年後にこの近くを航海している。この時の日記に長谷川はこんなことを書き留めている。

11月3日 熊野灘航行中に
潮岬は忘れべからず印象あり。あの故尾崎好男と二人で御崎神社の突端に座し、打ち寄せる怒濤に魅せられし一日。
波打ち際を歩き、漂流物のなめらかなりして、流木は貝の如く、木目歴然として漂着せしを忘れず。
職を得ず、なやみ、ついに三輪崎を去りし失意の日、帰京して、シベリア帰りの四郎に罵倒されしを忘れず。

 帰京して弟の四郎に罵倒されたことは、濬にとって大きなトラウマとなった。
 長谷川濬は、三輪崎で人生をやり直そうとして、それに失敗した。帰京してまさか弟に罵られるとは思っていなかったかもしれないが、やり直そうしていた家族たちの落胆を思うと、彼の心にどうしようもない後悔が押し寄せてきたはずだ。
 車窓の闇を見ているうちに、濬の暗い旅がのしかかってくる。
 さんま寿司をつまみ、「太平洋」をひとくち飲む。さんま寿司は思ったより酢でしめていない、あっさりした味だった。「太平洋」は濃厚な甘口で、べたべたとした甘さがしばらく口に残った。
 ワンカップ「太平洋」を飲みほしたあと、私はひとりつぶやいていた。
「潮岬だ」
 三輪崎に逗留した2ヶ月の間に、長谷川は尾崎とともに本州最南端、潮岬を訪れている。断崖の下に押し寄せ、岩に砕ける波のしぶき、それを目にした長谷川は「そうだ、これこそ、自分が求めるものだ」と思ったはずだ。彼はこのあと、いくどとなく潮岬の海の激しさについての作品を書いている。三輪崎のおだやかな海辺を歩いたときのことより、この潮岬の激しい海の印象が、彼の心のなかにしっかりと焼きつかれたはずだ。
 それだけ強烈な印象を受けたからこそ、寺子屋計画がにっちもさっちもいかなくなった時、宝蔵寺の観音堂にこもりながら、執筆していた小説に「潮岬」というタイトルをつけたのだろう。
 だとすれば、一目潮岬を見なくてはならない。
 潮岬へ行くことを心の中で決めたとき、ゆっくりと南紀ビュー号の列車は、名古屋駅にすべりこんだ。このあと仕事のため犬山へ向かう自分にとって、それはひとつの旅の終わりだった。
 しかし55年前の長谷川にとって、ここはあくまでも乗り換え地点で、ここからまた長い、長い旅が待ち構えていたのである。
 長谷川濬を追い求める旅は、まだまだ続く。三輪崎への旅は、そのための小さなプロローグだったのかもしれない。


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長谷川 濬―彷徨える青鴉