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クマのコスモポリタン紀行

第10回 長谷川濬を追って――旭・銚子編 その1

1.旭のイ

 千葉の旭、そして銚子、犬吠埼へ行こうということは、まったく考えていなかった。松戸の療養所、函館の立待岬、紀州の三輪崎と続いた長谷川を追う旅も、あとは青春時代に半年あまり過ごした伊豆、そしてできたらサハリンかと思っていた。昨年暮れ次男の寛さんから、晩年の長谷川の日記ノート10冊ほどお借りしたのだが、そのほとんどは旭市で書かれたものだった。年末からこれを読んでいるうちに、行かなくてはと思ったのだ。晩年の長谷川にとって、旭、そして銚子で過ごした一年間は大きな意味をもっていたはずだから。2006年1月9日、千葉へ向かう電車に乗った。

 時間を調べてみると、千葉県だからそう遠くないだろうと思ったのだが、旭と銚子、さらには犬吠埼までまわるとなると、けっこう時間がかかることがわかった。正月休みですっかり朝寝坊に慣れてしまった身体には少しきつかったのだが、6時に起きて、横浜から総武線に乗った。千葉駅で総武本線の銚子行きの電車に乗り換える。千葉駅から旭駅まではおよそ1時間半、佐倉駅をすぎてから、それまでの近郊住宅地の風景から田園風景へと車窓の景色はかわっていった。ところどころに雪が残っている。横浜ではたいして降らなかったのだが、こちらではけっこう降ったようだ。9時55分旭駅に到着。駅前はほとんど人通りもなく、静かなもんである。
旭駅 日記には次兄りん(サンズイに「隣」の旁)二郎から送られてきたハガキが何通か貼り付けてあった。その住所でだいだいの場所はわかっていた。最初この住所がハノ76となっていたので、ハノというのが、「羽野」とか、あるいは「葉野」とかという地名なのかと勝手に思いこみ、ネットでいろいろ検索したのだが、まったくヒットしてこない。なんのことはない、ハノというのは「イ、ロ、ハ」の「ハ」であったのである。旭、そして銚子にはこうした地名があるようだ。グーグルの地図で見ると、駅からさほど遠くないところ、駅前の大通りをとにかくまっすぐ行けば、この住所にたどりつくことになっている。ただちょっと不安はあった。よく地方都市で番地が4桁ぐらいのものがあるが、何番地何号のようになっていないだけ、探すのがたいへんなことがよくあったし、実際に道を歩いて住所表示をみていると、家の表札に番地が書いてあるところはほとんどない、電信柱の住所表示も「イ」だけだったりしたので、かつて長谷川が住んでいた家を見つけるのはたいへんかもしれないと思いはじめた時だった。駅から大通りを海の方に向かってまっすぐ5分ほど歩き、小学校の前まで来たとき、この「ハノ76」の表札をつけた家に出くわしたのである。ちょっとこれにはびっくりした。立派な門構えの家で、敷地も100坪以上はある。

 長谷川の長女嶺子が勤務していた岩井病院の院長は、旭市で開業医をしていた。旭のこの病院を閉鎖し、東京に進出したのだが、この閉鎖した病院の管理人を探していたことを知った嶺子は、父をここに住まわせることで、いま書きたいものを思う存分書いて欲しいと思った。弟たち夫婦との同居生活に少しストレスを感じていた濬にとっても悪い話ではなかった。とにかくいま集大成となるものを書かなくてはならなかった。長谷川濬が文江と共に、ここに引っ越してくるのは、1971年4月12日のことであった。

 こんな簡単に見つかっていいのか、ほんとうにここなのだろうかという不安もよぎった。ただ真ん前に学校があったので、これはひとつの目印になるはずだと思った。日記によると寛さんは、一度ここを訪ねているので、もしかしたらこの学校のことは覚えているのではないかと思い、寛さんに電話してみる。突然の電話、しかも旭からの電話ということで、驚かれていたのだが、35年前のこと、しかも一回しかいってないところで、はっきりと覚えていないという。当然のことである。誰かに聞くにも人は歩いていないし、しかたがないのでこの家のまわりをぐるぐる歩いてみる。そしてあることに気づいた。槙の木である。
 長谷川は日記に「茶室の雨戸をあけ、障子をあけて庭をみる。槙の木美し」と書き留めている。この家の庭に槙の木があったのである。
 槙の木かとふと感慨にふけてしまった。去年の5月長谷川が8ヶ月入院していた松戸の国立療養所を訪ねた。そのとき、自分はひたすら槙の木を探していた。長谷川が「ツアラストラ」と呼び、心の支えにしていたその木を。しかしそれはもう刈り取られてなかった。あの時は槙の木を見たいと思い、松戸まで出かけたのだ。
 槙の木、長谷川にとっては、それは生きる希望だった。
 日記には「槙の木を見て」という詩の下書きが残されている。

槙の木を見て

虎のひげのように剛い
槙の木の葉よ
こんもりとベレー帽型に
鋭い葉を上向きに揃えた
槙の木に
私は心ひかれる
幹はものさびて頑丈だ
かつて私が松戸療養所にいた時
入り口にそびえる高野槙を信仰し
ツアラストラと名づけて
日夜仰ぎ見たあの古木
高々とそびえ立ち
頂きは抜群の高さで
空を刺していた・・・
いま旭で
槙を見て
心強さを覚える
私の原始の信仰かもしれない

 この木がこの庭に残っていた。間違いなくここは長谷川がおよそ一年すごしたところであった。

 ハの76番地を起点に、日記に残された場所を追いながら、旭の街を歩いてみる。そのほとんどは駅前通りだったのだが。
 引っ越して二日後の1971年4月26日の日記に、この街の第一印象が書き留められている。

「旭市は貧弱なる地方都市の三等地、工業地区なし、農民を相手。街は例の銀座通り、その他の地方的小規模。中産都市。病院界隈は田舎なり」

 いまから35年前に書かれたものだが、長谷川が抱いた印象はそのままいまでも通用する。銀座通りは、日曜日にもかかわらず閑散としており、街角に流れる歌謡曲がもの寂しい。日記にでてくる嶋田病院は、この家から歩いて5分ぐらいのところにあった。もうひとつよくでてくるのが、三川屋という本屋なのだが、これは駅のすぐ近くにあった。
 こうして旭駅付近をぐるぐるまわって歩いてみて、長谷川の行動範囲がそれほどひろくなかったことがわかる。彼の健康状態は、あまりよくなかったのではないだろうか。彼は旭滞在中になんどか東京に行ったり、銚子に出たりしているのだが、これだけ駅から近いのにもかかわらず、帰りはバスに乗ったり、タクシーで家に帰っている。歩いて帰るのがしんどかったのだろう。
 晩年の長谷川の身体の状態が少しわかったような気がする。

 長谷川は海に対して、なによりも思い込みがあった。ここでの生活を長女の嶺子から勧められたとき、海が近くにあることが、決め手になった。地図でみると旭は、九十九里浜に面している。しかし海辺にでるには、地元の人の話しだと小一時間はかかるという。そしてここからは海は見えない。
 彼は日記にこんなことを書いている。

「旭よりも銚子の漁港に心ひかれる」

「俺は銚子に住みたい。太平洋と海の男を書きたい。これは本音だ。余生を海のほとりに住み、海を、男を。」

 日記によると彼は、3度銚子を訪ねている。この銚子行きは、彼にまた海の匂いを運び、海を身近に感じる機会であった。これは大きな支えになっていたはずだ。体力的にはきっと、電車に乗り銚子まで行き、そこから海の見える犬吠埼や君浜にいくのにはとてもきつかったと思う。でも彼は海を求めていたのである。
 私も、この海を見に行かなければならない。
 11時16分旭発の電車に乗り、銚子に向かった。

2.銚子電鉄に乗って

 銚子駅についたのはお昼を少しまわったころだった。犬吠埼へは、銚子駅から銚子電鉄へ乗り換えることになる。終点の外川(とかわ)まで、9駅、およそ15分あまりの短い路線なのだが、昔なつかい路面電車の面影が残るこの電車、なかなか味わいがある。この日は日曜日ということもあって、鉄道マニアや観光客でほぼ満員である。乗り降り自由の一日乗車券「狐廻手形」を610円で購入する。この手形はなかなかすぐれもので、各種割引券がついているほかに、地元の名産「ぬれ煎餅」が一枚試食できる券もついている。
外川港 とりあえず終点の外川まで行く。半島の中央を走るので、車窓からは海はほとんど見えず、キャベツ畑や民家が立ち並ぶなかをのんびり走っていく。畑は雪で覆われている。外川駅はなかなか渋い駅舎である。鈴木清順の傑作映画「けんかえれじい」で主人公が北一輝と会う駅のシーンを思い出す。ここから坂をおりると外川港にでる。かもめが群がり、漁船や釣り舟がつながれる小さな港には、潮の匂いがただよい、海のざわめきが聞こえてくる。なにかほっとしてくる。この小さな港にでるまでの坂道を歩く。海辺の小さな街の路地、道ばたに網や釣り具、たらいなどが雑然と置かれ、路地のすき間から海が見えてくるこの風景がなぜかなつかしい。
 外川について長谷川は日記でこう書いている。

「銚子駅より千葉電鉄で外川に行く。外川で坂石道を下りて海岸にでる。太平洋目前に在り。船付場に釣り船ひしめく。突堤あり。湾内波なし。外洋の岩礁にしぶきあり。砂浜に子供遊ぶ。水平線ひらけ、右手に断崖の岬見ゆ。春の光美しくきらめき、我が幼時を思う。」

 たしかに立待岬の近くの港町とも似ているし、どこかで見た風景だと思ったら、長谷川が1951年に再生を賭けて訪れた、和歌山の三輪崎に似ていることに気づいた。ここを歩いたとき長谷川は、きっと故郷の函館を、そして三輪崎のことを思い出したにちがいない。

つづく


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長谷川 濬―彷徨える青鴉