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クマのコスモポリタン紀行

第10回 長谷川濬を追って――旭・銚子編 その2

承前

犬吠埼灯台 外川駅から銚子方面に向かう電車に乗り、一駅目の犬吠埼でおりる。ここでぬれ煎餅を一枚もらい、これを食べながら犬吠埼へ向かう。煎餅なのに歯ごたえがなく、ぬるっとした感じなのだが、なかなかいける味の煎餅であった。気温は上らず曇天の空の下、道路に残る雪は、アイスバーンに近い状態で、すべりやすくなっている。緊張しながら坂道をおりて、犬吠埼にたどりつく。180度広がる太平洋の海の広がりに思わず息をのむ。有名な灯台にはのぼらなかったが、思ったほど大きな灯台ではなかった。通訳としてサハリンに向かった船の上から、長谷川はこの灯台を何度見たのだろう。かつて自分が海から見たこの岬、そして灯台を、どんな思いで長谷川は見たのだろう。
 旭に引っ越ししてまもなく、5月13日長谷川は家主の岩井の案内で、銚子観光にでかけている。観光バスでの駆け足の観光だったが、犬吠埼には強い印象をもったようだ。犬吠埼から、かつて訪れた紀州の潮岬のような荒々しい海が見えてきた。
「犬吠埼にて」と題した詩の断片でこの時の思いをこう綴っている。

犬吠埼にて

犬吠はぼうぼうと
海風に鳴り
岩礁黒くして
しぶきをあげ
白き歯を剥けり

3.『涙痕の碑』

 この時長谷川は探すことができなかったのだが、どうしても見たいものがあった。それは犬吠埼に連なる君ヶ浜にある、この海辺で25才の若さ溺死した詩人三富朽葉の碑であった。
続けて彼はこう書いている。

長汀君ヶ浜に
溺死詩人三富朽葉の
「涙痕の碑」あれど
我行かず
ただ展望して
在りし日の詩人をしのぶ
バイロンも溺死せりとか・・・
ああ詩人の波浪にのまれし
その瞬間に
犬吠の風はいかに強かりしか・・・
我、逸見猶吉を満洲に失いし
あの五月の陽光を思いつつ
いま朽葉の涙恨の苦きをしのべり
その苦きを・・・

君ヶ浜 三富朽葉(みとみ・くちは―1889〜1917)は、長崎県壱岐出身で、早稲田大学を卒業後、自由詩社に参加、マラルメやランボー、ヴェルハーレンなどフランス象徴派の詩を紹介する一方、「早稲田文学」等に詩やエッセーを発表、注目されたが、29歳の時三富家の別荘があった君ヶ浜で水泳中に溺死した。一緒に泳いでいた早稲田出身の詩人今井白楊が溺れかけているの見て、助けに行ったものの自分も溺死してしまったという。この碑は、九州から駆けつけた二人の両親が、建てたものだという。若き息子たちの急死に悲嘆にくれた両親は、この碑を「涙痕の碑」と名付けた。
 長谷川は岩井氏からこの夭逝した詩人のことを聞いたようだが、若くして亡くなった詩人のことが気になって気になってしかたなかった。銚子観光した四日後の5月17日の日記に、「犬吠埼、君ヶ浜の「涙恨の碑」のことしきり思わる」と、さらに5月26日に「犬吠の君ヶ浜に心ひかれる。「涙恨の碑」を見たい」と書いている。
 長谷川がこの碑を探しに、君ヶ浜を訪ねるのは、およそ一年に及ぶ旭での生活にピリオドをうち、再び東京に戻ることを決めてからのことであった。やはりどうしても気になったのだろう。
 1972年4月22日この碑だけを探しに彼は銚子から千葉電鉄の路面電車に乗る。

「11時32分着。そのまま千葉電鉄で君ヶ浜に赴く。海辺に出て、茫々たる海面と波をながめて、「涙痕の碑」をさがす。見当たらず。風吹き、人影なき浜辺に波白くおどり、崖の上に灯台白し。約20分砂原を歩き、松林の小径を歩き、駅につく。」

 結局彼は、この碑を見つけることができなかった。インターネットでこの碑のことを検索してみると、まちがいなくこの碑があったことは事実なようだが、どこにあるかについて触れてある記事はなかった。

涙痕の碑 灯台から北側に君ヶ浜の海岸が広がって見える。坂をくだりこの海岸を歩くことにする。なだらかな海岸線が延々とひろがるこの海辺を歩きながら、長谷川があれだけ見たいと言っていた碑を探したかった。たぶん見つからないだろうが、長谷川と同じようにこの碑を探しながら浜辺を歩きたかった。犬吠埼から君ヶ浜へ下りたとき、朽ちかけた家屋のそばに、なにか碑らしきものが建っていた。よもやと思い近づいてみると、まさしくそれは「涙痕の碑」であった。砂浜の小高いところに建つ碑は高さ三メートルあまり、溺死した二人の写真がはめ込まれてている。銘文も彫られているのだが、ほとんど読み取ることはできなかった。探すもなにも、いとも簡単に碑は現れてきたのである。思わず「濬さん、どこ探していたの」ということばがでてきてしまった。
 何故長谷川はこの碑のことがこれだけ気になったのだろう。若くして死んだ三富朽葉という詩人の書いた詩のことはほとんど知らなかったのではないだろうか。ただ溺死し、夭逝したことによって永遠の存在となったこの詩人と、彼にとって永遠の詩人である逸見猶吉とが重なっていたはずだ。永遠に人々の心に残る詩を書きたい、永遠に人々の記憶に残る詩人になりたい、そんな思いではなかったか。決して身体の調子がよくないのにもかかわらず、三富の碑を探すなかで、無名の詩人である自分を探していたのではないだろうか。「涙痕の碑」を、濬さんに見せたかった。この地を去ることがわかって、あえて君ヶ浜にこの碑を探しにきた濬さんが、これを見つけられなかったのは、それだけ探すだけの体力が残っていなかったということなのかもしれない。20分ほど探したと書いているが、実際はもっと短い時間だったのかもしれない。

灯台と涙痕の碑 君ヶ浜を歩く、遠く海の彼方に航海中の船が見える。浜辺を歩きながら、この船をみていると、同じような歩みをしていることに気づく。いつのまにか自分はこの船と競争していた。何十キロ先なのかわからないのだが、この船をみながら、自分は浜辺を歩いていた。これがなかなか楽しい。
 遠くに走る船をみていると、あの船がその端に浮かぶ水平線の向うには、何があるのだろうと気になってくる。そういえば三輪崎の海岸を歩いていたときもそうだったし、長谷川が少年時代をすごした立待岬を歩いているときもそうだった、長谷川が大好きだった海を追いかけると、いつもあの海の向うには何があるのだろうという思いにとらわれてしまったことが思い起こされる。
君ヶ浜から見た犬吠埼灯台 長谷川が最後に見た海は、この君ヶ浜から見た太平洋である。浜辺を歩きながら、きっと息をぜいぜいさせながら、遠くに見える水平線の彼方に、長谷川が見たもの、それは未来だったのではないだろうか。未来とは、まだ見ぬ世界、まさしく海の彼方にあるものである。空から雪が舞い落ちてくる。遠くの海で、私と歩調を共にしていた船は汽笛をあげながら、南へ向かう船と交差していった。これを見ているうちに胸が熱くなってきた。戦後の長谷川は、すべてを失いながら、海を見て、心に海を抱きながら、未来を見ていたのではなかったか。満洲という過去を背負いながら、でも海を心の友とすることで、長谷川は未来を見ようとしていた。それしかなかった、だから長谷川は、どんな辛いことがあっても、生きることを受けとめることができたのだと思う。現在の生活、病魔に犯され、そして65才という決して老齢ではないのに、確実に近づいてくる死の存在を認めなくてはならないいま、満洲に夢を賭けながら、圧倒的な敗北に打ちのめされた過去、子供たちの死、そんな過去の悲劇、それを全部受けとめた彼が、何故海を求めていたのか、そして何故海に癒されていたのか、それはそこに未来しかなかったからではないだろうか。君ヶ浜の海辺を歩きながら、長谷川が心に抱いていた未来の重さがひしひしと押し寄せてくる。

4.銚子港にて

 寒くなってきた。しかもこのあたりは雪がまだ残っている。君ヶ浜の海岸を横断して、西海鹿島(にしあしかじま)の駅まで歩く。この途中で、国木田独歩や竹久夢二の碑を見た。このふたつの碑はいずれも通りからはずれた奥まったところにひっそりと建っていた。
 無人駅の西海鹿島駅から電車に乗り、ここから今回の旅の最終目的地銚子港に近い、観音駅に向かう。どうしても銚子港が見たかった。長谷川は銚子を最初に訪れたとき「あの突堤、漁船、荒くれの男達、魚類、海草、貝類、すべて我がふるさとに相似たれば愛着の念しきりなり」と日記に書いている。さらに「銚子漁港にて」という詩も綴っていた。

銚子漁港にて

河口に
大いなる感傷が流れて
太平洋に会している
海と河
河と海
そこに住む人間たちと魚
世界は
この出会いにはじまる
船と船が
並んでいる
男と女が突堤を歩いている
愛とは
合流することだ

銚子港 銚子港は、観音駅から5分近く歩いたところにあった。さすが日本を代表する漁港である、大きな漁港だった。しかし今日は日曜日、すでに午後、港は静まり返っている。ただやはり漁港の雰囲気は残っている。多くの漁船が係留し、漁船からおろされる魚を積むトラックも立ち並んでいる。休み明けの明日の朝は、きっと活気に満ちあふれるのだろう。からだになにか熱い血が流れはじめ、わくわくしてくる。宮城県の石巻という港町に生まれ、鯨取りの親をもつ血が騒いできたのかもしれない。港町函館で生まれ、20才のときから海にでて、戦後も北洋を船員として港町を歩きまわっていた長谷川も、海の男として血がたぎってきたのだろう。
 人がほとんどいない市場の売店をのぞいてみる。さばが一本150円、はまぐり一袋400円という安さ、思わず買おうと思ったくらいだった。旭を去ることが決まり、どうしても三富の碑を見たくて銚子を訪れた長谷川は、君ヶ浜をまわり、同じように観音でおりて、銚子漁港を訪れている。市場に寄った長谷川は、はまぐりを400円、いかの塩辛を100円で買っている。

 時計をみると、もう3時をまわっている。さすがにぬれ煎餅一枚を食べただけで、腹も減ってきた。外川、犬吠埼、君ヶ浜、そして銚子漁港と歩かなければならないところは、ほぼ回り、あとは帰るだけである。港の一角にある「海ぼうず」という飯屋に入る。ここでづけ丼と酒を頼む。寒いなか歩き続けたので、身体が冷えきっている。いつもならまずはビールなのだが、今日は酒でいくことにした。店の人の勧めもあり友七という辛口の酒をのむ。これがうまい。そしてづけ丼の具の多いこと。これで1280円というのは、はっきり言って安すぎ。一合の酒では足りず、もう一合注文する。いやうまかった。ほろ酔い気分で漁港を通り抜け、駅に向かって歩く。

 雑然と海辺に並ぶ海具や小舟、そして港に係留する魚旗を掲げた漁船を見ながら、駅前の通りにでる。この通りから大きな橋が見える。利根川の河口に架かるこの橋の向うは、茨城県である。長谷川が詩で謳ったように、港というのは河と海が出会う境界、そして出会いの場なのである。そしてここでは人が、そして船が、トラックが、モノを運ぶためにうごめいている。
河口と海の出会いの場 長谷川が旭を去るとき、もう一度この漁港を見たいと思ったその思いの底にあるもの、孤独をいやしてくれた海、そして交わりの場としての漁港、それを目に焼き付けたいというその思い、それはかつて少年時代を送った函館という過去、そして海の彼方にある未来、それを結びつけることであったのではないだろうか。旭を去ること、それは長谷川にとってあまりにも大きい存在であった海との別れでもあったのだ。「愛とは合流だ」ということばの重さがのしかかってくる。
 人が交じり合い、水平線の彼方に未来を見せてくれる海、そして港。
 長谷川がここですごした一年間の意義は大きかった。駅前に向かう大通りと河口が接する河辺に立ち、そんな思いにふけっていた。来て良かった。そして長谷川濬が、亡くなる2年前という晩年、わずか1年あまりではあったが、ここで過ごせてほんとうに良かったとつくづく思う。

 最後に銚子を訪れた長谷川は、銚子漁港からバスに乗り、駅にでて、駅前食堂でカツライスを食べ、旭に戻っている。私は、駅前のお土産屋で、いわしの丸干し20尾(400円)と殻つき落花生1キロを買い、17時銚子発東京行きの特急に乗りこんだ。よせばいいのにまた缶ビールのロング缶を買っていた。車窓から見える闇を相手にビールを飲み干した。長谷川を追う旅の終わりも近づいてきたようだ。


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長谷川 濬―彷徨える青鴉