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【連載】КИНО (キノ)を聴く

第1回 アルバム「45」(1984)

去年のデラシネ通信で二回(ここここ)とりあげた、ロシアの伝説的ロックバンド『キノ』のアルバムを一枚ずつ聞いていきます。今回とりあげるアルバムは1984年にリリースされた「45」です。


 音楽の専門でもない私のキノを聴くが、いよいよ始まる。できるだけデーターを詳しく紹介したいと思っている。ロックは好きだけど、ほんとうに片手間に聴くというやつで、あまり語ることがないような気がする。とりあえず素人がなにかほざいているなと思って読み流してもらいたい。

КИНО (キノ)「45」

 私が持っているキノのCDアルバムは全部で9枚、みんな復刻版で、何年か前に10枚一組で発売されたものの一枚だけ欠けているものらしい。
 最初に紹介するのは、この9枚のアルバムのなかで、一番初期につくられたもの。タイトルは『45』。なにか意味があるのだろう。実際にキノのURLを見ると、ディスコグラフィーのなかには、『41』と題されたアルバムがある。またこのあとには『46』というアルバムも出されている。
 このオリジナルのアルバムは、1982年に録音されているようだ。最後の一曲は、復刻版用のボーナストラックだ。
 ロシア語のタイトルと、日本語に訳したタイトルを書いておく。

Время есть, а денег нет (「時間はあるけど、金はない」)
Просто хочешь ты энать(「ただお前は知りたいだけ」)
Алюминиевы огурецы(「アルミニュウムのキュウリ」)
Солнечные дни(「太陽の日々」)
Бездельник(「なまけ者」)
Бездельник 2(「なまけ者2」)
Электричка(「電車」)
Восьмиклассица(「八年生」)
Мой друзья(「私の友だち」)
Ситар играл(「シタールを演奏した」)
Дерево(「木」)
Когда-то ты был битником(「お前はかつてビート族だった」)
На кухне(「台所で」)

Я-асфальт(「私はアスファルト」)

 この時代のキノは、ボーカル・ギターのビクトル・ツォイと、ギターのアレクセイ・ルィビンのデュオ・グループだった。このアルバムでは、ギターと、ビブラホーン、バックコーラスで、ボリス・グレベンシコフ、エレクトックドラムとバックコーラスで、ミハイル・ワシリョーフ、チェロのウセヴォルド・ガッケーリ、フルートのアンドレイ・ロマノフ、フルートとバックコーラスのアンドレイ・トロピッオが参加している。
 歌詞はツォイ、曲と編曲はふたりの共作ということになっている(実際はツォイの作曲)。

 ツォイの声は、しゃがれていて、気だるく、どことなく哀愁が漂ってくるのが持ち味といえる。
 この初期のアルバムに収められている曲は、その気だるさが全面にでていると言える。
 要するに、やることがない、日々怠惰にすぎていく時間に身を任せるしかない、それを気張らずに、淡々と歌いあげているだけだ。リズムやメロディーも単純で、ギターの弦を弾きながら、そのリズムに任せて歌っている。グタグタと言葉を並べたてるのではなく、簡潔なフレーズで歌う、その無防備な素朴さがこのアルバムの魅力になっているように思える。つまらない日々を送っている、その気だるさのなかに、埋没している、その状況だけを歌っている。ここから抜け出なくてはならない、このままじゃダメだというような悲鳴のようなものはまったく聞こえてこない。絶望しているわけでもない、ただなんとなく、このままでいいのかなという、不確かなおののきのようなものが、浮かび上がってくるだけなのだ。このあっけらかんとしたナイーブさが、妙に心に沁みてくる。
 ツォイの独特のかすれたような声が、こうした魅力をひきだしているのだろう。
 例えば、一曲目の「時間はあるけど、金はない」は、こんな風に始まる。

「朝から雨が降っている。ポケットは空っぽ。朝の6時、たばこもなければ、暖房もない、窓にはあかりがない。
時間はあるけど、金はない、誰も訪ねてはこない」

 突き放したような、この無気力さは、このアルバム全体をおおうものだ。
 「時間はあるけど、金はない、誰も訪ねてこない」というフレーズが、何度もリフレインさる。
 「なまけ者」では、この無気力感がいっそう鮮明になる。

「ひとりで俺は、ほっつき歩いている。これから先なにをしたらいいのかわからない。家には誰もいない。家もない。俺は、余計者、鉄くずみたいなもの。俺は怠け者」

 そしてここでも「俺はなまけもの」というフレーズがまるで、ダメを押すかのように何どもリフレインされる。
「電車」は短い曲なのだが、無気力さ、倦怠さと共に、なにをしていいかわからないまま、流されていく姿を端的にスケッチしている佳品だ。
 「行きたくないところに電車は俺を連れて行こうとしている」と、ここでもこのフレーズがひきずるように何度も繰り返されるのだ。
 もうひとつこのアルバムの特徴は、都会に生きる青年の孤独感が寒々と歌われていることだ。ツォイの歌は、誰かに語りかけるでもなく、誰かのことを歌うわけでもなく、ひとり自分の心象風景をモノローグで語ることだ。まわりには他人というものが存在しないかのようだ。
 「太陽の日々」では、ひとり部屋で目覚めるところから歌われる。

「窓には、白いいやなもの。僕は帽子をかぶり、ウールの靴下を履く。憂鬱になって、家でビールを飲む。太陽の日々への憧れから逃れるように」

部屋にひとりという情景は、「私の友だち」でも歌われている。

「家に帰った。いつものようにまたひとりだ」

 時代や自分に対して、鋭く抉るというよりは、思ったこと、感じたこと、その日あったことを、フレーズを連ねていたら歌になった、そんな感じの、まだ青臭さが残るアルバムといえるのではないだろうか。
 「シタールを演奏した」は、インドでラビ・シャンカールのシリールに魅せられたジョージ・ハリソンのことを皮肉った歌、金儲けがすきだったハリソンが、ある日啓示を受けて、インドに行き、そこでシャンカールのシタールを聞いて感動し、シタールを買う。そして「私は愛しながら生きていくだろう」と語り、そのあとに「グッドバイ」と言い、また自分の殻に閉じこもったという異色の作品。


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