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【連載】Back in the USSR

第5回 ツォイ哀歌

 Back in the USSR でも一度とりあげた、ロシアの伝説的ロックバンド『キノ』のリーダー、ビクトル・ツォイに関する記事をまた紹介します。この記事にも紹介されているように、もの憂げで暗い調子で歌われる彼の歌は、非常にシンプルです。しかし人の声をつかんで離さないなにかがあるのです。最近彼らの十枚組のCDを購入したので、いつか『デラシネ通信』のなかでも、ツォイとキノについて書きたいと思ってます。残念なのは、彼の歌を実際に聞いてもらえないことです。これはいま連載しているベルチンスキイにもいえるのですが、彼らの肉声を聞かないと、イメージがわいてこないと思います。いつかデスクの大野とも相談して、音が聞けるような工夫を考えてみましょう。今回の記事は、死後11年いまだに衰えることのないツォイの人気ぶり、その秘密に迫っています。


 一年に2回(6月28日−彼の誕生日、8月15日−彼が交通事故で死んだ日)、モスクワのアルバート街にある「ツォイ通り」には、世界中からツォイ・ファンが集まることになっている。その時ここの壁は、アイドルに捧げられた言葉が、上から下までぎっしりと書かれ、花で埋めつくされる。
 ツォイをしのびためにやって来る人々のあいだにはあるしきたりがある。煙草を折り曲げ、それをアイドルのポートレートの前に置き、こう言うのだ。「ビーチャ、私たちと一緒に煙草を吸おう」
 このあと1時半(ツォイの悲劇が起きた時間)から、夜までアルバート街には、キノの歌が鳴り響くのだ。
 ペテルブルグのボガスロフスキイ墓地のビクトルの墓のところでも同じよう人々が集まってくる。警察が、他の人の墓もあるのだからと制止しても、ファンたちはここに群がってくるのだ。
 こうしたファンの人々は、ツォイが11年前に私たちのもとを去ったということを決して認めようとはしない。
 「ツォイは、私たちひとりひとりのなかにツォイは生きている」
 どうしてツォイなのか、青白い韓国の青年が、80年代のシンボルとしてだけでなく、時代を越えたヒーローとなっているのは何故なのか? ツォイを知る身近な人たちは、彼のことをとても月並みな男で、コンプレックスをもっていたと語っている。『キノ』の創設メンバーのひとりアレクセイ・ルィビンは、ツォイがいつも自分の書いた歌詞のことに疑問をもち、癇癪をしばしば起こす、暴君だったとも言っている。ツォイの古くからの友人で、当時のパンクロックのリーダー的存在であった『スヴィン』のアンドレイは、ツォイのことを、精神分裂症だったと呼び、こう語っている。
 「考えてみてくれよ、一月100ルーブルもらっている男が、97ルーブルでギターを買って、残った金で、16カペイカのピロシキを集めて、腹が減って一気に食べてしまうんだよ」
 しかし大衆の意識のなかでのツォイは全く違っている。彼の主演映画『僕の無事を祈ってくれ』がそうであったように、世界になにかを呼びかける孤独なヒーローなのだ。彼のイメージは、映画化されている、西部劇のヒーローたちと似ているかもしれない。
 彼の音楽は、幼稚だといえるほど単純だ。躁病のような低周波のリズム。『キノ』の月並みなギタリストのカスパリャン、下手といってもいいドラムのグリャノフは、ただある音のバックだけを担当している。基本は世界的クラスのベーシスト、チイホミロフとチートフだ。ふたりのベースギターによってつくられるリズムの鼓動が、暗い、ほとんど原始的な本能を呼び起こす。力強く、ヒロイックなツォイの詞、例えば「星の戦争」とか「揺らめきながら、草原で剣を磨く兵士たち」とか「全世界は、私を戦争に駆り立てる」を紙の上で再現すると、あまりにも月並みとしかいいようがない。彼は叙事詩的な平凡さを歌う吟遊詩人なのだ。単純だけども、しがみつくような音楽と、ヒロイックで哀愁を帯びた歌詞がむすびあった独特のイメージは、聞き手に意識のなかに壮大な神話的な人物像をつくりあげることになったのだ。それは現代でもアクチュアリティを失っていないのだ。


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