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【連載】シゲルのモスクワ便り

第2回 2002年10月29日

モスクワ劇場占拠事件
ミュージカル「ノルド−オスト」


モスクワ劇場占拠事件

 今回は、モスクワの劇場占拠事件に触れないわけにはいきません。

 モスクワに住み、観劇好きの私にとっては、とても他人事ではありませんでした。ミュージカル「ノルド-オスト」は、近いうちに見てみようと思っていたところでしたし、事件発生から解決まで、ハラハラしながら推移を見守っていました。情報源はテレビとインターネット。ずっとテレビとコンピュータモニターの前に釘付けでした。
 26日(土)朝の特殊部隊による強行突入後の様子がローカルのテレビで放映されました。日本や欧米のテレビでは放送コードに抵触するので決して見せないであろう残忍なシーンが映し出されました。こちらで、カミカゼテロリストと呼ばれた、腰に爆弾をウエストポーチ風に巻いた女性たちが、頭に銃弾を受けて観客席のシートに倒れこんでいる様子、主犯格のマブサル・バラーエフが、これも銃撃を受け、どういうわけかブランディーの瓶を右手に持ったまま、仰向けに倒れているところ。さらに回りには麻薬を打つためか、注射針が落ちていました。 血だまりがそこかしこに見えます。 これらのシーンを何回も見せられたら、鬱屈した気分に陥ったのも無理もありません。

 現在のところ、120名近くの人が特殊ガスのために命を落とした発表されています。重体の人が40名いるそうですから、犠牲者の数はさらに増えるであろうことは容易に予想されます。
 現地では、今回の救出作戦について、犠牲者を追悼するも、作戦自体について批判的な論調は極めて少ないです。報道管制が敷かれているのでは、との印象がもたれるほどです。いずれにしても、糾弾されるべきはテロリスト。もし、強行突入しなければ、劇場ごと木っ端微塵となり、ほとんど全員(治安部隊含め1000人以上)が犠牲になったかもしれません。

 もともとの原因はロシアのチェチェンへの介入といわれています。これは、アレクサンドル1世(19世紀初め)の時代に遡るといわれています。 それほど根が深い問題で、だれかが交渉に行って解決するようなものではないしょう。むしろ復讐の連鎖はとどまることはないと思われます。
 本当に物騒です。

ミュージカル「ノルド−オスト」

 さて、本来ハッピーエンドのミュージカル「ノルド-オスト」が、戦慄の悲劇になったものの、このミュージカルそのもののについて見てみましょう。

 演劇が盛んなロシアですが、ミュージカルというと、例のロックオペラ「ユノナとアヴォーシ」以外、これといってありませんでした。しかも、ブロードウエーでロングランを続けているような形、つまり同じ演目を来る日も来る日も上演し続けるスタイルはありませんでした。 ロシアでは、いわゆるレパートリー制が敷かれ、一つの劇場が1つのシーズンにいくつもの出し物を持ち、それを日替わりで上演するというものです。

 ついに2001年10月、ブロードウエー形式で、毎日同じ演目を上演する企画がスタートしました。しかもブロードウエーの借り物ではない、純粋にロシアの題材をミュージカルにしたものを。それが、この「ノルド-オスト」でした。
 当初ロシアではミュージカルというジャンルは根付かないと陰口をたたかれたのでしたが、毎日大入りの人気でした。占拠された日も含めて。その日は、2002年10月19日に開演1周年を祝ってから4日後のことでした。

 現在、モスクワでは、この他に、Notre-Dame de Paris、Chicago (ともにロシア語版)、42nd Street (ブロードウエーからの直輸入、英語で公演)が同時に上演中でしたし、今も上演中です。

 そもそもノルド-オスト (Norde-Ost) とは、北海-バルト海 という意味です。「北海・バルト海運河 (Nord-Ostsee-Kanal)」というのがありますが、これはユトランド半島(デンマークのある)の付け根にあるブルンスビュッテルとキール・ホルテナウを結ぶ全長約100キロ運河で、北極海とバルト海をつないでいます。しかし、このミュージカルは、この運河とは関係なく、物語の発端となる北の海を象徴しています。 原作は、ソビエト時代の作家、ベニアミン・カベリン(1902−1989)の「2人の大尉」です。

ミュージカル「ノルド-オスト」
あらすじ
プロローグ
 1913年、タターリノフ大尉率いる探検隊が乗船する「セント・マリヤ号」が北極海で氷の海に閉じ込められ、もはや助かる見込みがなくなった時、タターリノフ大尉は、最期の手紙を書く。その中で、遭難の原因をつくった実の弟・ニコライをのろうのだった。
第1幕 (1916年、アルハンゲリスク)
 吃音の少年サーニャ・グリゴーリエフは郵便配達人の殺人事件の目撃者となる。不運なことに、彼の父親に濡れ衣がかかる。しかし、サーニャは真実を「言えない」。父が連行されていった時、それが最後に父の姿を見ることになろうとは知らなかった。
 サーニャの元には郵便配達人が配りきれなかった手紙の入った集配袋が残っていた。夫から何の沙汰ももらえない、タターリノフ大尉の妻、マリヤ・ワシーリエブナ・タターリノワは、実の母、ニーナ・カピトーノワとまだ小さな娘のカーチャとともに、アルハンゲリスクを後にすることになる。彼らをモスクワに連れて行こうとしたのは、大尉の弟のニコライ・アントーノビッチであった。マリヤ・ワシーリエブナは、タターリノフ一家の律儀な友人であるイワン・パブロビッチ・コラブリョフに別れを告げる。人気の無くなった波止場で、コラブリョフは泣きっ面をしたサーニャに出会う。心から同情の念を抱き、コラブリョフは強い意志と忍耐で吃音を克服するんだとサーニャに諭すのだった。
モスクワ、1920-1921年
 革命直後の内戦で、国は荒廃していた。町から町へと放浪する孤児となったサーニャだが、アルハンゲリスクの郵便配達人が残し、「形見」となった集配袋を肌身離さず持っていた。コラブリョフの助言どおり、持ち前の根気と頑張りで彼は言葉を獲得しつつあった。
 幸運にもサーニャはコラブリョフとモスクワで再会する。その頃コラブリョフは教職についていていたので、学校の校長ニコライ・アントーノビッチ・タターリノフを口説き落とし、サーニャを学校に入学させることができた。そこでサーニャには新しい友達ができた。ワーリカ・ジューコフとロマショフ。
 ある時、サーニャは校長の姪っ子であるカーチャ・タターリノワと知り合いになる。カーチャは、おてんばで快活な女の子である。検乳器をサーニャが割ってしまった時には、カーチャがサーニャの味方をしたことがあった。
 コラブリョフはマリヤ・ワシーリエブナに求婚していたが、断られていた。というのも、まだ未亡人は愛する夫の死と折り合いをつけられないでいた。密かにマリヤ・ワシーリエブナに思いを寄せていたニコライ・アントーノビッチは、わざとコラブリョフと口論を始め、コラブリョフと一緒に居合わせたサーニャも家から追っ払ってしまう。サーニャとニコライ・アントーノビッチはこの時から敵同士となる。
モスクワ、1928年
 成長したカーチャとサーニャの間には恋心が芽生えていた。年末、カーチャは友達を家に呼んだ。カーチャが亡くなった父親の話をした時、サーニャは例の集配袋にカーチャの父親の最期の手紙があるのだと悟った。ニコライ・アントーノビッチの頼みで、ロマショフは手紙の一部をまんまと盗んでしまう。
 しかし、サーニャは手紙の文面を全部暗記していた。彼は、記憶を頼りに、「紛失した」部分をそらで言ってきかせた。遭難の原因をつくったのは実の弟のニコライ・アントーノビッチであると大尉が書いていたその部分を。
 マリヤ・ワシーリエブナにとって、これは大変な打撃であった。というのも、ニコライ・アントーノビッチからの長年の求愛についに折れ、彼の妻となったばかりであったから。深い自責の念にかられ、マリヤ・ワシーリエブナは自殺する。ニコライ・アントーノビッチは、妻の自殺の原因をつくったとして、サーニャを責めたてた。
 サーニャは、カーチャは分かってくれるはずだと思ったが、当のカーチャも彼を遠ざけた。サーニャは絶望に陥る。父をなくした原因は、彼がしゃべれなかったからだが、今度は本当のことをしゃべったばかりにカーチャの母を死に至らしめてしまった。
 それでも、サーニャは敢然と立ち直った。彼は遭難現場を突き止める決意を固める。
第2幕
モスクワ、1938年
(ここでテロリスト達が乱入)
 サーニャ・グリゴーリエフはパイロットになった。彼は、タターリノフ大尉が遭難した航路を辿る北極海飛行を夢見ていた。有名な飛行士であるワレーリー・チカーロフの支援を受け、サーニャは北方海域管理局の許可をもらうべくモスクワにやってくる。
 旧友のワーリカ・ジューコフは、サーニャが9年も会っていないカーチャに会ってみるよう説得する。サーニャは、いまでも彼女を愛していた。
 サーニャがカーチャに電話した時、ちょうどロマショフが彼女にしつこく言い寄っているところだった。彼女は自分のアパートから逃げ出した。ロマショフは、ニコライ・アントーノビッチを例の手紙のことで脅し、彼が突然現れた恋敵を「無力化」するようけしかけた。
 サーニャとカーチャは夕方の街を肩を並べて歩いていた。しかし、苦い過去が彼らを気まずくさせていた。しかも、ロマショフとニコライ・アントーノビッチの陰謀で、北方海域管理局は、北極海飛行申請を却下した。
 気落ちしたサーニャは、モスクワを去らざるを得ない。出発間際にカーチャが駅に現れる。やっとお互いの気持ちを確かめ合うことができた。彼女は叔父のもとを離れ、レニングラードに行くと伝えた。
レニングラード、1942年
 戦争で二人は離れ離れになる。カーチャはおばあさんと一緒にレニングラードにいたが、レニングラードはドイツ軍に包囲されていた。ロマショフは憔悴した彼女を見つけ、サーニャのことを語り始める。曰く、負傷したサーニャが治療を受けていた車輌がドイツ軍の戦車からの砲撃を受けた。ロマショフは助けようとしたが、すでに遅かった、と。
 しかしカーチャはロマショフを「裏切り者」と罵って追っぱらう。実際、ロマショフはウソをついていた。彼は、どうせ生き延びられないと、サーニャを森で見捨ててきたのだった。ロマショフは観念し、自分の敗北を認める。
 カーチャに希望が戻ってきた。サーニャが生きていて、彼女の愛が彼を救うと信じて疑わなかった。しかし、おばあさんはドイツ軍の包囲のなかで持ちこたえられずに死の床に伏している。カーチャ自身も力が尽きそうであった。
モスクワ、1942年
 多くの苦難に耐え、サーニャは生き延びた。カーチャを探し出そうと、荒れ果てたタターリノフ一家のアパートを訪ねる。ドアを開けたのはロマショフだった。かつての主人、ニコライ・アントーノビッチは、中風となり口がきけなくなっていた。
 ここで、サーニャはロマショフから恐ろしい知らせを聞く。カーチャがレニングラードで死んだ、と。
北限の地、1943年
 グリゴーリエフ大尉は、壮絶な北極海の飛行に挑んでいた。しかし機体に異常が発生し、土着民の集落地に不時着する。運ばれてきた修理に使われるものの中に、セント・マリヤ号の鉤竿を見つけた。聞いてみると、土地の古老がタターリノフ大尉の最期を看取り、航海日誌を預かっていたことがわかった。サーニャの長年の夢がついに叶った。しかし、カーチャがいない今、喜んではいられなかった。
 ある時、彼は道に迷った。それは幸運を呼んだ。カーチャが生きていた! 地の果てで愛する人に再会した。カーチャとサーニャは、心臓の鼓動を聞きながら、航海日誌を開いた。 カーチャの父の航海の苦難と過去の軌跡に二人は思いを馳せるのであった。 (終)

テロリストたちは、このミュージカルの下見に来ていたそうです。 どんな気持ちで見ていたのでしょうか?

ノルド・オスト劇場 爆弾を巻いたカミカゼ・テロリスト 主犯のマブサル・バラーエフ 特殊部隊の突入

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