月刊デラシネ通信 > ロシア > 『ロシア芸術の現在』講義通信2005 > 第1回講義メモ
2005年5月31日
自分の本業は「呼び屋」、プロモーターとして20年以上、ロシアを中心とした世界各国からサーカスや、クラウンを呼んでいる。
ロシア語はずいぶん役立った。ロシアだけでなく、ベトナム、モンゴル、東欧諸国のアーティストとロシア語を通じてコンタクトをとることができた。
作家活動について。いままで、売れない本を5冊出している。格好よく言うと二足のワラジをはいていることになる。
自分にとってのテーマは、大きく言って「サーカス、ロシア、越境」の三つ。
今回5回の授業では、このテーマにそくしての話が中心になると思うが、おそらくは皆さんにとっては、ほとんど知らないことばかりになると思う。自分としては、この知らない世界への「窓」を提示できたらいいと思っている。ひとつの知らない世界に飛び込むことによって、また別の知らない世界に触れることもできるのではないか。
ビデオで映画「シベリア物語」の「バイカル湖の畔」を歌う場面を紹介。
この歌を、ある日歌った男、そして聞いた男の運命が、ドン・コサック合唱団を呼ぶなかで、まさに光と影のように大きく変わる。まずは、この歌を聞いて、ドン・コサック合唱団を呼ぼうと思った神彰についての話。
神彰の簡単な経歴。
ドン・コサック合唱団をいかにして呼ぶことになったのか。
「赤い呼び屋」と呼ばれることになる、ソ連からのアーティスト招聘(ボリショイバレエ、ボリショイサーカス、レニングラート交響楽団など)。
戦後日本が高度成長時代を歩むのに歩調を合わすかのように、斬新なアイディアと度胸と、バイタリティーで、文化交流に大きな足跡を残すことになる。
「バイカル湖の畔」を神彰の前で歌った男は、神とは正反対にどん底の生活を強いられることになった。
ビデオNHK教育テレビで放映された「長谷川家の人々」の一部を紹介。
長谷川四兄弟について。
そもそも長谷川濬のことを追いかけることになるきっかけは、「青鴉」と名付けられた彼の日記を入手したことにはじまる。
ドン・コサック合唱団日本公演の時に、神の片腕として、活躍していた長谷川は、帰国直前に喀血して病院に運び込まれる。そのままおよそ8ヶ月入院生活を余儀なくされる。神の成功を傍目にみながら、彼はサハリンやアムール川の木材を運ぶ船の通訳として働く。
長男の突然死、度重なる入院と、次々に不幸にまきこまれることになる。
彼が残した「青鴉」と名付けられた日記は、自分が青春時代をすごした満州の思い出が綴られている。過去を捨て、成功し、マスコミの寵児となる神彰とは反対に、長谷川濬は、過去を捨てることができず、満州時代を凍結させることで、戦後を生きることになったといえよう。
最後に4月12日川崎のクラブチッタで公演したスウェーデンのコンテンポラリーサーカス「サーカス・シルクール」のプロモーションビデオを上映。
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