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金倉孝子の部屋
モスクワからペルミへ―ヴォルガ川とカマ川クルーズ(後編)
2003年6月28日から7月13日

3. 未知の街を訪ねる
 チュワシのことなら
 実は有名な小さな町エラーブガ
 たいていの船客が初めての町サラープル
 シベリアへの出入り口ペルミ
 クルーズの楽しみ方
 大作家チャイコフスキー
 チストポーリ
 イスラムのカザニ
 仕事っぷり
 マカリエフ修道院
 芸術の町プリョース
 ねずみまち
 ロシア式
 閘門で飛び降りるか
 到着


前編からの続き

3. 未知の街を訪ねる

チュワシのことなら

 5日目はチュワシ共和国首都のチェボクサリ市です。埠頭には、船客目当ての土産物露店が並んでいました。私たちがぞろぞろ上陸していくと、民族衣装の女性の出迎えがありました。一緒に写真を撮るのは有料(10ルーブリ=40円)です。これくらい商売気があったほうが、にぎやかでいいです。さらにガイドはテレビのトーク番組に出してもいいかと言うくらいの語り部でした。チュワシ共和国は、ロシア連邦構成共和国の中でも、地元民族(ここではチェワシ人)の割合が78%と過半数を占める数少ない共和国の一つだそうです。ちなみに、クラスノヤルスク南部のハカシア共和国のハカシア人の割合はたった11%に対してロシア人は80%もいます。
 ヴォルガ中流には、チュワシ人やタタール人、バシキール人などのチェルク語系民族のほか、ウドムルド人、マリ人、モルドヴァ人などのフィン・ウゴル語系民族などが住んでいて、16世紀頃やっとロシアの一部となり、ソ連時代は一応それぞれの自治共和国を作っていました。それ以上、チュワシ人については知りません。超多民族国家ロシアですから、チュワシ共和国について書いた本は、遠くシベリアの私の住むクラスノヤルスクの本屋には普通売っていません。チュワシ共和国の首都チェボクサリなら売っているはずです。売っていそうなところにきたら、教えてくださいとガイドに頼んでおきました。ちゃんと、郷土博物館で「チュワシ民族の歴史と伝統文化」と言うカラー版の頼もしい本が売っていました。チュワシのことはこれでオーケーです。それまでは、寄港地で、お土産と言えば、荷物を増やさないため、せいぜい薄っぺらな観光パンフレットしか買ってこなかった私ですが、この頃から、その町について書いた本を、買いあさるようになり、あとで、本がぎっしり詰まった重いかばんに苦労するようになるのです。

実は有名な小さな町エラーブガ

 6日目は、起きてみると、もうヴォルガではなくカマ川に入っていました。寄港地はタタルスタン共和国のエラーブガです。私はこの小さな町についてはじめて知りましたが、実は、千年近く前から、カマ川の交通要所として集落があったそうです。エラーブガは古い歴史の町であるだけでなく、日本でもよく知られている20世紀の女流詩人マリア・ツヴェタエワの記念館があることでも有名なのだそうです。ガイドは、私が日本人と知ると、「ツヴェタエワを日本語に訳した日本人が、去年記念館を訪ねて来た」と言っていました。また、ここに戦後強制抑留されていたという年配の日本人が、夫婦で訪ねてきたそうです。「そんなお年の方にはとても見えなかったわ。それにしても、日本人の方は皆さんお若いわね」とお世辞を言われました。私は、そのガイドが出会った3人目の日本人です。
 ツヴェタエワは、エラーブガに到着後数日で自殺するのですが、これも、スターリン時代の悲劇のひとつです。ガイドがその間の事情を説明していました。墓地にも案内されましたが、推定埋葬場所です。
 エラーブガは、意外と観光都市で、19世紀の著名な風景画家シーシキンの記念館、ナポレオン戦争に男装で参加したロシア初の女性将校ヅローワの記念館のほか、三日月の尖塔のあるイスラム寺院も多いです。ロシアに住んで長いですが、初めてイスラム寺院の中に入ってみました。頭はかぶり物で被わなければなりません。ロシア正教の教会と違って、聖人達の肖像画(イコン)もなく、床一面にじゅうたんが敷いてあるだけというのも、礼拝所として悪くありません。
 でも、クルーズ同行のロシア人達はそうとは思わないようです。船客の中に熱心なロシア正教の信者のおばあさんがいて、なぜ、10世紀末にロシアがイスラム教やローマカトリックではなく、ギリシャ正教を取り入れたのか、私に説明したがリました。そのおばあさんによると、ギリシャ正教の寺院は、外装も内装(イコンを含む)もきらびやかで人々を引き付けることができるからというのも、1つの理由だそうです。
 出口に売店があり、「一夫多妻について」と言う本を買いました。「一夫一婦制で妻が夫を独占しても何もよいことはない」と言うような内容のロシア人女性の手記集でした。

たいていの船客が初めての町サラープル

 7日目の寄港地はウドムルト共和国の第2の都市サラープルです。と言っても人口10万人の、「何もない」町で、ガイド付き観光もなく、3時間の自由時間があっただけでした。乗客はみんな、サラープルなんて初めてで、どこへ行ったらよいかわからず、ただ、行き当たりばったりに、繁華街らしいところを歩いていました。町の目抜き通りのはずなのに、とてもアスファルトで舗装してあるとはいえないような道路です。ウドムルトはきっとペレストロイカ後の恐慌から立ち上がりが遅れている地方の一つなのでしょう。
 一人旅で、エネルギッシュな中間管理職タイプの熟年女性ターニャだけは、郷土博物館を自力で訪ね当てて、見学できたそうです。私も小さな町で迷子になりそうもなかったので、一人で歩き、本屋へ3軒寄ってサラープルとウドムルトの本を買いました。どの本屋の店員も親切で、私の探している本をいろいろ出してきてくれたり、ない場合は、ありそうな他の本屋の場所を教えてくれたりしました。船の運航の都合で寄港しただけのサラープルには、はじめからあまり期待していなかったのですが、「私たちの町、サラープル」と言う子供向きで読みやすい本が見つかりました。
 その本によると、ここは、モスクワから鉄道では1143キロあるそうです。飛行機では1時間、列車では17時間ほどですが、目的地に急がないクルーズ船では、のんびりと7日目にやっと着くわけです。モスクワから、ヴォルガ川経由で来ると、1700キロくらいになるからです。

シベリアへの出入り口ペルミ

 8日目はいよいよ折り返し点ペルミです。ペルミとモスクワの時差は2時間もあるのですが、私たちの時刻表は常に、モスクワ時間でした。到着後、市内観光が終わって、自由時間になったときは、モスクワ時間ではまだ5時でしたが、ペルミ時間では7時で、もう博物館や食料品以外の商店などは閉まっていました。それで、モスクワ時間で生活している船客たちは夕方、時間を持て余してしまいました。
 市内観光では、例によって教会のほかに、野外武器博物館と言うところへも行きました。第2次世界大戦中の戦車の模型でも置いてあるのかと思いましたが、もう少し新しいのがありました。説明プレートに「大陸間弾道ロケット、核装備0,6メガトン、1968年装備、76年廃棄」などと書いてあります。サーシャなどは、私に「ほら、これも撮って、あれも撮って。どうだ、すごいだろう」とあおりたてます。ロシア人はぱちぱち撮っていました。ロシアの各地ではよく、こんな展示物の会場を見かけます。日本ではもちろん見かけません、他の国ではどうでしょうか。
 ヨーロッパとアジアを分けるウラル山脈のヨーロッパ側にあるペルミは、シベリア街道の入り口です。ロシアを東西に横切る時は私のように水路ペルミまで来て、そこから、陸路、何日もかけて、日本海(またはオホーツク海)の方へ行ったものです。ちょうどその中間の地点が私の住むクラスノヤルスクです。江戸時代の漂流民が、皇帝に謁見するためにサンクト・ペテルブルグに連れて行かれた時は、私と逆のコースで、オホーツクからクラスノヤルスク経由、ペルミを通っていきました。
 ペルミ市には「シベリア通り」というのがあって、ここがシベリアへの出発点となっていたのです。ロシア帝政時代のシベリア流刑囚も、ここにいったん集められたそうです。
 ペルミ市では船も一休みで2日間停泊です。2日目、私たちは、バスで、シベリア街道を、奥へ奥へと百キロばかり進み、クングールという町へいきました。途中、なだらかな丘陵地帯が続き、モスクワ出身のクルーズ客は「2000キロも航行してきたのに、我が家のあたりと変わらないではないか」と言っていました。
 クングーン山には有名な洞窟があります。夏でも氷点下の「氷の洞窟」と言って、古くから探検され、20世紀の初めにはもう観光名所となっていました。全長5キロ半のうち、現在、観光客用ルートは1キロ半もあり、途中、「ダイヤモンドの谷」、「大隕石の丘」、「北極の空」、「ダンテの森」、「海底の広場」、「珊瑚の岩窩」などと言う美しい名前がつけられた幾つもの「名所」を通り過ぎます。「点滴岩をも穿つ」ということわざがありますが、それを証明している岩を見たり、よく滑る「貴婦人の涙坂」を通ったり、エメラルド色に照明された洞窟湖に祈願のコインを投げたりしました。何も投げてはいけない洞窟湖もあります。洞窟内の暗さを知って下さいと、ガイドが明かりを消して真っ暗闇にしました。モグラにでもなった気分でした。

入り口の売店で買い求めた「洞窟学」と言う本によると、ロシアには7000以上の洞窟があるそうです。「その中には世界有数の巨大洞窟もあり、特に、クラスノヤルスク市の東南200キロのオレーシナヤ村付近にある洞窟は、長さ58キロ、高低の幅240メートルで、超迷路である」と書いてあります。私の住んでいるところの近くのあのオレーシナヤ洞窟が世界第一級とは初めて知りました。シベリアにあるものは、洞窟に限らず地下資源も、まだ未開発のものが多いです。オレーシナヤ洞窟は専門家用で、観光名所にはなっていませんが、地元の専門家(学校の先生)が希望者の生徒を連れて入っているようです。かなり以前のことですが、私も生徒と一緒に誘われたことがありますが、その頃はよく分からなくて断りました。

 マルクとアンナは、いくら、整備されているとはいえ、1キロ半も氷の洞窟内を歩けないと思って、パスしました。それで、私の安全保障をサーシャに委任し、無事連れて帰るよう言い渡しました。そのせいか、サーシャは、バスの座席を確保したり、私が興味を持ちそうな本を見つけたり、洞窟内での写真係を勤めたりと、かいがいしく私の面倒を見てくれました。一緒に行ったクルーズ客は、船に帰ってからアンナたちに「サーシャは言いつけをよく守りましたよ」と、冗談交じりにほめたくらいです。

クルーズの楽しみ方

 9日目、ペルミを出発して、また船の甲板からカマ川を眺める生活に戻りました。クルーズも後半になると少し退屈してきます。船のスピードは平均時速20キロです。景色の移り変わりは余り変化に富んでいるとは言えません。ジェーニャに、「クルーズって単調ね」と言うと、「いやいや、景色は微妙に違ってくる。また、村が見えてくれば地図で調べるのも面白いし、はてしなく森や草原ばかり見えてくるところでも、よく見ると、電柱が見える。つまり、どこかへ電気を引いてゆくのだ。カマ川の景色は、ヴォルガとは全く違う」のだそうです。また、16日のクルーズで「ゆったりとした川岸風景を見ながら、モスクワでの気ぜわしい日常生活を忘れることが大切なのだ」そうです。さすがロシア人です。日本で現職の人が、仕事と俗世間をつかの間でも忘れ、気分転換をするために16日のクルーズに出かける、というわけにはなかなかいきません。

 夜、月がかかっていたことがありました。月光が水面に写り、長い「月からの小道」ができました。月が低く上がって、水面に波のない夜ですと、特にくっきり見えます。「月の小道」を見ていると、今から、何か昔物語でも始まりそうな感じになります。

 毎日、私たちは甲板をよく歩きました。手すりに寄りかかって、船の縁が水面を掻き分けた後にできた緩やかな波を飽きずに眺めていました。そんな時など、ふと、隣にいる人に話しかけたり、話しかけられたりします。たいていは景色や天候のことが多いのですが、たまに、難しい話題のこともあります。船客に、シロコラット氏という戦争史について本を書いているという人がいました。私が日本人だと知ると「千島列島は歴史的に日本領ではなかった。北千島だけでなく南千島も、ロシア人探検家によって調査されたのである」と切り出してきました。長くロシアにいると、小さな地方紙の記者から、列車の中で知り合ったおじさん(職業は国防関係だったのかもしれない)まで、この話題を持ち出します。いちばん無難な答えは、モスクワの大使館から出ている北方領土に関するパンフレットに書いてあったことを引用して、「日本政府の見解では一応これこれしかじかです」と言うことです。でも、クルーズのような、のんびりした旅では、その歴史著述家のシロコラットさんと、カマ川やヴォルガ川を見ながらオホーツク海のことを議論するのもおもしろいものでした。私たちが議論していると他の船客も寄ってきます。「シロコラットさん、あまり孝子をいじめてはだめですよ」などと言っていきます。

大作家チャイコフスキー

 10日目の寄港地はチャイコフスキー市でした。大作曲家のチャイコフスキーはこの町には関係がなく、対岸の隣町で生まれただけです。でも、一応、町には、チャイコフスキーの銅像が建っています。昔、ここにはサイガットカ村と言う200軒ばかりの村がありましたが、1954年にカマ川をせき止めてできた巨大なヴォットキン・ダム発電所町として名前を変えて大発展しました。でも、今は、ロシアの多くの町と同様に寂れています。
 この寄港地では特別な観光なしで、自由時間があっただけでした。私は中央郵便局を探し当て、そこから、日本の家族に国際電話をかけました。長い間、音信不通でしたから、ちょうどよいころあいでした。電話のかけ方は簡単ではありません。まず、窓口で余計目にお金を払い、指定の電話ボックスに入り、重くて黒い受話器をとってダイヤルを回します。相手方が返事をしたらすぐ指定の番号を回し、通話モードにしてから、やっと話せます。終わると、また窓口へ行って、お釣りを受け取ります。日本にあるような電話ボックスは、壊されるのか、ここ何年もロシアでは見かけません。
 家庭用電話回線が余り普及していないロシアでは、最近、携帯電話がかなり普及しました。モスクワ地方を本拠とする安い携帯電話会社の地方進出で、一般のロシア人でも手が届く値段になったからです。クラスノヤルスクでも、去年ぐらいから急速に普及し始めました。医師や教員の給料は、平均以下ですが、ぼちぼち同僚の間でも携帯を使う人が増えてきました。
 郵便局の後、例によって、本屋を探しました。町で1軒しかないらしく、「本屋」と言うだけで、すぐ見つかりました。チャイコフスキー市の本屋の店員は、サラープル市同様とても親切で、「せっかくだからチャイコフスキーの像が見たい、どこにあるか教えてほしい」と言うと、ちょうど、自分はその方面へ行くからと、わざわざ案内してくれました。途中、町の説明もしてくれました。その人の年齢はこの町と同じだそうです。つまり、1954年生まれです。以前、ソ連経済の景気のよかった頃は、3方がダム湖で囲まれたこの町に観光客が多く訪れたそうですが、今は、チャイコフスキー記念中等音楽学校の剥がれた外壁の修理もできないくらい市の予算が乏しいそうです。
 私はそれなりに、この町を自力で観光をしてきましたが、他のクルーズ客は埠頭横の砂浜(つまりダム湖)で海水浴(川水浴)を楽しんでいました。ロシア人は水と見れば、すぐ水着に着替えて浸かったり、焼いたりします。モスクワ出航以来寒かった天気も、少し夏らしくなりました。

チストポーリ

 11日目の帰港地はチストポーリ市というなじみのない名前の町でした。行きに通ったエラーブガ同様、タタルスタン共和国にあります。ノーベル文学賞のパステルナークが1941年から43年まで疎開してきたところで、パステルナーク記念館がありました。記念館にはソ連時代抑圧された作家のドキュメント集(国家安全保障委員会付属文書保管庫にあった生のもので、今まで未公開だった)が売っていました。難しそうですが一応買っておきました。

イスラムのカザニ

 12日目はタタルスタン共和国首都のカザニです。レーニンがこのカザニ大学で学んだことは有名で、大学前には学生レーニンの銅像もまだありましたが、私たちの観光バスは通り過ぎただけでした。観光はカザニハン国のクレムリンからはじまりました。
 カザニハン国は、ジンギスカンの孫バトゥの建てたキプチャクハン国(金帳汗国)が衰えた15世紀頃そこから独立して、ヴォルガ中流域にカザニを首都としてできました。同じ頃、キプチャクハン国から独立して、ヴォルガ下流にアストラハニカン国、クリミヤ半島にクリムハン国などができています。新興国の首都カザニは交通の要所にあったので、ロシア、ヴォルガ周辺、中央アジア、シベリア、ペルシャなどからの商品が集まり、大商業都市として繁栄したと、「中学生のロシア史」に書いてあります。カザニハン国の収入源は、それだけではなくロシア諸侯からの税金や貢物もあったのだそうです。しかし、以前はモスクワ周辺だけが領土だった小さなモスクワ侯国がしだいに強大化し、まわりの封建諸侯国を征服統一し、ロシア帝国として拡大し、貢ぎ物をしなくなっただけではなく、16世紀中ごろにはイワン4世が、カザニハン国を征服併合し、ロシア帝国の一部にしてしまいました。同時に、カザニハン国の住民だったチュルク語系のチュワシ人やフィン・ウゴル語系のウドムルド人などもロシア帝国の支配下に入りました。
 かっては代表的なイスラム文化の都市だったカザニ市には立派なイスラム寺院が幾つもあります。でも、その後はロシア帝国の一地方になったので、華麗なモザイク模様のイスラム寺院の隣にもっと立派なロシア正教寺院が建っていて、三日月型のある尖塔と十字架を同時に一枚の写真に撮ることができます。私達ロシア人観光客は、十字架の方をお参りしました。
 最後に、町一番の繁華街で解散になり、みんなぞろぞろと散っていきました。チュワシ共和国の首都チェボクサリはコンパクトで静かな町でしたが、タタルスタン共和国の首都カザニは百万都市で賑やかで、目抜き通りを歩くと、小さなモスクワにタタール文化を加えたという感じでした。
 その目抜き通りにある大きい本屋の前には、イスラム教の広報本がたくさん並んでいました。興味を持って立ち読みしていると、イスラム教徒系女性が新聞をくれます。私をイスラムに勧誘しているのかもしれません。この本屋で、中学校で使う「別冊イラスト年表付きタタルスタン史」を見つけました。最近、各共和国の中学生の教科でロシア史の他に地元共和国史が必修科目になったそうです。でも、クラスノヤルスク地方は共和国ではないのでロシア史だけでいいのです。それで、他の共和国史は売っていません。ここにしか売っていない本を買って、私もほくほくしていました。後でマルクに見せると、2,3日貸してほしいと言われたくらいです。

仕事っぷり

 私以外でデジカメラを持っていたのは添乗員のアレクセイでしたが、寄港地で観光中、彼のカメラ用電池がなくなったというので私の予備の電池を貸してあげ、大感謝されました。アレクセイ君に関しては、クルーズの後半には、仕事っぷりがとても悪いと言うので、船客の間で評判が悪くなりました。と言うのも、はじめのうちは、今見えている村や町の由来や観光案内を、船内放送でそれなりにしていたのですが、そのうち、寄港地への到着と出発の案内、食事の案内だけになり、「そんな添乗員なら、私にでもできるわ」と言っていたものでした。今回のカザン市から、美人の若い女性が乗船したのですが、いつも、アレクセイ君と一緒にいます。それで、彼女が、彼の「同伴者」であることが、乗客中に知れました。仕事に個人的な同伴者があってもなくても、あまりこだわらないのがロシア風です。でも、アレクセイ君はその女性とクルーズをたっぷり楽しんでいる様子で、それ以後、乗客の世話をあまりしなくなりました。そればかりか、15日目の最後の寄港地で、彼女と一緒に上陸し、そのまま戻ってこなくなったこと(モスクワに緊急の用事があったとか云々)で、さすがロシアと思いました。
 仕事に家族が付いてくるのは、よくあります。たとえば、バシコルトスタン号の乗組員で船内の大工さんのような仕事をしていた男性は2歳くらいの坊やと一緒でした。お父さんの仕事中、三輪車に乗ってぐるぐる回っていたり、他の船員や乗客にかわいがってもらっていました。途中すれ違う貨物船では、船員たちは妻子同伴らしく、奥さんたちは洗濯をして甲板に干していました。

 カザン市はカマ川がヴォルガに合流する地点の近くにあります。ですから、そこを過ぎるとヴォルガをさかのぼることになります。閘門でも、下流から上流へ行くので水位をあげます。井戸の底から上の方へ船ごと、ぐぐっぐぐっと上っていくのは、下がるより気持ちいいです。

マカリエフ修道院

 13日目はマカリエフ村へ寄港です。マカリエフ村は、ヴォルガの見晴らしのよいところにあり、まだ遠くの方からでも、巨大な修道院の建物が見えてきます。15世紀、聖マカリエフが世の雑踏から遠く離れたこの地に小さな修行用の小屋を建てたのが始まりだそうです。19世紀から革命前までは女子修道院になっていました。
 船が寄港すると、物売りがたくさん寄ってきました.干物の魚、干しきのこ、蜂蜜、花の花粉などです。蜜房から集めたこの花粉はビタミン豊富で体にいいからと他の乗客も買っていました。私も買いました。もっとも、特にここで買わなくても、どこにでも売っているのですが。
 修道院は、ロシアでいくつも見ました。高い長い壁に囲まれ、内部には教会や塔、膳部(食堂)を始めいくつもの建物があります。たいていは、ソ連時代の荒廃から修復されつつあります。この修道院も、革命後、孤児院や事務所、監獄として使われ、戦時中は病院、その後は、獣医中等学校、穀物倉庫、家畜小屋でした。倉庫や家畜小屋にまでされてすっかり荒廃し、とうとう1957年にはこの有名な文化遺産も、「使用」不能になりました。でも、その後「本来の」管轄機関であるニージニ・ノブゴロド府教管区に委譲され、女子修道院として復興されてからは、国指定文化財の部分は国の予算で、宗教的な部分は、信徒のお布施で修復されているのだそうです。観光客もお金を落としていくでしょうし。
 ガイドの修道女は低い声で話すので、私でなくても、理解できません。「もっと、大きな声でお願いします」と客が言ったのに、「耳をすませて聞けば、聞こえるはずです」と、答えていました。修道女らしいです。女子修道院は女性しかいないのかと思っていましたが、トップは男性です。二人いるそうです。

芸術の町プリョース

 14日目の寄港地はヴォルガの高台にあり、川の流れと対岸の森と青い空が見渡せる美しい町プリョース市です。ヴォルガ沿岸にある町や村は、戦後の新興工業都市を除くと、どれも17世紀以前の昔に開かれたことになっています。プリョース市もそうです。16世紀にカザン・ハン国を攻め滅ぼすため、ロシア側はここに軍隊を集合させました。19世紀になると、プリョースはヴォルガ河川運行の要所にある商人の町として栄えました。ヴォルガの船曳人夫や船荷運び人夫も多く住んでいたそうです。その後、河川港としてはあまり地形のよくなかったプリョースは、商業都市としては寂れましたが、有名な画家レビタンがこの地に住んで芸術活動をすることになって以来、芸術都市として名をあげるようになりました。風景画家たちのメッカになったのです。今、レビタン記念博物館の他、画廊や、青空絵画市場もあります。
 この町の背後にある小高い丘に登りますと、青いヴォルガが対岸の白樺林の下をゆったり流れていくのが見えます。何と言う美しさでしょう、ヴォルガは船上から見ても山岸から見ても美しいと驚嘆していると、足元にごみが落ちています。ロシアの自然は雄大で、見る人の心を広く、すがすがしくしてくれますが、このガラス瓶のかけら、空き缶、ペットボトルには参ってしまいます。それを、ガイドに言うと「ごもっともです」と言う答えです。横からターニャが「彼女(私のこと)は日本からの旅行者よ」とガイドに言い訳していました。日本はごみ処理に努力しているという評価がロシアではあるようです。確かに、ロシア人よりごみの行く末のことを考えます。

ねずみまち

 15日目は最後の寄港地ムィシュキン市でした。これは「ねずみ」と言う意味で、昔、モスクワ大公が毒蛇に噛まれそうになったのを、ねずみに助けられたそうです。埠頭近くの青空市場には、ねずみ関係のお土産品がぎっしりと並んでいました。小さな男の子も、せっせと粘土のねずみに目やひげを描いて売っています。埠頭にクルーズ船が着くと、男女の着ぐるみねずみがダンスをして、歓迎です。一緒に写真をとるのはもちろん有料です。
 世界で唯一と言うねずみ博物館を見ました。小さな展示場にぎっしりと世界中から集めたねずみのおもちゃが飾ってあります。日本からは「ねずみの相撲」が出展されていました。この日、ムィシュキン市はちょうど祭日で大市場が開かれていました。食用の生きた子豚が600ルーブル(2400円)で売っていました。コーカサス人らしい商人が大きなソファを直接路上に並べて売っていたり、雑貨、衣料品、食料品の露天が連なり、音楽もドンチャラなっていたり、にぎやかでした。教会の高い鐘楼に上がると、青いヴォルガ、にぎわう町、そして、その向こうにずっと続く森が見えます。きっと、典型的な中部ロシアの風景に違いありません。

ロシア式

 15日目の夕食はクルーズ最後でしたので、期待通り、少しだけ豪華でした。普通でも、船客はこの船の料理には満足のようでした。モスクワの外国人用ホテルのレストランより慎ましいメニューと食材ですが、大学の学生食堂よりかなりましだと思います。
 サーシャはチキンが食べられないので、私のところに回します。マイクはジュースもヨーグルトも苦手なので、私に「よかったらどうぞ」と言います。これでは、いくら毎日船の甲板を歩き回っても体重は増えそうです。でも、(失礼ながら)かなり太目のロシア人に囲まれていますから、気にしないで食べました。
 最後の夕食のとき、一人の船客が立ち上がり、レストラン従事者に感謝の言葉を述べました。私たちはお金を払って乗った客なのに、こんなふうに正式な感謝すべきかどうか、日本だったら反対ではないか、いや、ロシア式の方が正しいのではないかと、迷っているうち拍手も終わって、その「船客代表」は着席しました。

閘門で飛び降りるか

 16日目の15時30分に北モスクワ河川駅に到着の予定です。でも、その最後の日、朝起きてみると船の運航の様子がいつもとは違い、進んでは止まり、止まっては進んでいます。悪い予感があたって、朝食の時、夜中濃霧のため航行ができなかったので、8時間の遅れでモスクワ到着ですと、言われました。モスクワからクラスノヤルスクへの飛行機は22時30分発ですから、8時間も遅れたのでは、全く間に合いません。キャンセルして、次の日の便(1日に1便か2便出ている)のチケットを買い直すにしても、ロシアではなんだかとても手続きが難しそうです。飛行機に遅れてしまった証明を船長にもらえば(個人的理由で遅れたわけではありませんから)、無料でチケットの交換ができるはずと言われました。でも、飛行機と船の会社は違いますが。
 難しいことになって、ちょっとうろたえてしまった私を見て、アンナが「船長に相談したらいい」といいます。その通りです。その日、船長は非番で船長室で寝ていましたが、起きてもらって事情を説明しました。モスクワまで半日の航行といっても、電車や車なら2,3時間で着いてしまいます。でも、クルーズ船は決まった寄港地の他は停泊しません。そこで、船長は「第6閘門のところで、降りたらいい、そこから10分も歩いたところに、モスクワへ直通の郊外電車の出発駅がある。そこから1時間でモスクワ環状線まで行ける。」と言います。確かに閘門のところで、船を杭に舫いますから、水位が上がりきって船が堤防の高さと同じになった時、準備しておいた自分の荷物を持って、特別に降ろしてもらった板(階段でしょうか、はしごでしょうか)をすばやく通って、下船することはできそうです。「第5閘門が過ぎたところで、どうするか決めよう」と言われました。
 私が帰りの飛行機に間に合わないかもしれないと言う情報は、船内に流れ、乗客も船員も、郊外電車の乗り方や降り方、第6関門までまだどれだけあるかなど、みんなが私に必要なことを教えてくれようとしました。ぎりぎりに着いた場合のため、モスクワでのタクシーの乗り方(ふっかけられない料金や、外国人と見られないような行き先の告げ方)についても教えてくれました。モスクワから直接日本に帰るのかと思って、帰国便に乗れないかも知れないと、心配してくれた人もいました。一人でこんなに遠くまで来るなんて大胆すぎると言った人もいました。確かにそうですが。
 雨は降っていましたが、霧は晴れ、船はぐんぐん進んでくれます。船員を捕まえて、「今どの辺なの?第5関門までまだどのくらいかかるの?」と聞いていました。閘門をいくつか通り過ぎたので、それが第何閘門か、船員に聞いて確認していました。荷物はもうとっくにまとめて、「飛び降りる」準備も完了です。
 13時半ごろ、第5閘門を過ぎるとすぐ、操縦室の船長のところへ行きました。「大丈夫、モスクワ到着は18時より遅くならない、17時半だ」と言われてほっとしました。ハプニング付き冒険旅行にはならない方がいいです。いち早く入手した到着時間の情報は、心配してくれた人みんなに言って回りました。みんなが知った頃、やっと船内放送で、「到着時間は今のところ17時半の予定です」と流れました。
 5時間も余裕がありますから、モスクワの北の端の河川駅から、南の端のドモヂェドヴォ空港まで、地下鉄を乗り継いで行っても十分間にあいます。

到着

 17時半に、16日前出発した第2埠頭に着きました。みんなは、私が一番先に降りたらいいと、出口を譲ってくれました。モスクワはまた雨です。道中たくさん本を買ったのでかばんは重いし、河川駅の岸壁は長いし、タクシーに乗らない主義の私も、こんな場合はやむをえません。ドモヂェドヴォ空港へ直通の特急電車が出ているパベレツキー駅まで500ルーブル(2000円)でタクシーに乗りました。モスクワの中心を横切ったので、クレムリンも、一目見ることができました。モスクワへは、何度も来ましたが、クレムリンを見なかったことはありません。
 空港では、アンナに「無事ついた、ありがとう」と電話しました。アンナたちもちょうど家に着いたばかりでした。

 モスクワからペルミへ、ヴォルガからカマ川に入り往復約4000キロ、16日間航行し、16ヶ所を回りましたから、ウラル西側のヨーロッパ・ロシアの広大さと自然の美の一部は満喫できたと思います。
 モスクワから、ヴォルガに沿って、カスピ海の河口のアストラハンまで行くコースもありますが、川は、都市を流れれば流れるほど、都市のごみで汚れ、カスピ海に注ぐ頃はすっかり泥川になっているとも言われます。

 地理と歴史をたっぷり勉強した船旅でした。今度は陸路、中央アジアの地理と歴史を勉強したいものです。


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