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金倉孝子の部屋
シシム川河畔でのお正月
2003年12月30日から2004年1月3日まで

 2004年のお正月は、熊なら住んでいるかも知れないと言う、人里離れたシシム川河畔の小屋で迎えました。シシム川は全長220キロのエニセイ川の右岸の支流です。東サヤン山脈から針葉樹林の中をずっと流れてきて、クラスノヤルスクより南200キロ程のところでエニセイ川に注ぐ、シベリアにしてはあまり長くない川です。
 川は長ければ長い程、下流になって汚れてきます。特に幾つもの都市や工場地帯を通って流れるヴォルガ川の下流は全く泥川になっているそうです。数十年前までは清流だったカン川も東サヤン山脈から流れ出し、イルベイスク村を通る時はまだ飲料水にできるくらいなのに、工業都市カンスクを通り、ウラン精製都市ゼレノゴルスクなどを通るうちにすっかり汚染された川になってしまします。その点、シシム川は、開発されていない針葉樹林帯を通るので、清流のままで、魚も、うじゃうじゃいると言う話です。

 目的のキャンプ小屋は、クラスノヤルスクから直線距離では150キロ程東南の方向にありますが、もちろんそこまで道路は通じていません。クラスノヤルスクから250キロ程は、村から村へと通じる道があるので、その道をたどっていき、最後の村がシシム川の上流にあるので、そこでマイクロバスから降りて、夏ならシシム川をボートで下って目的地までいくか、冬なら凍ったシシム川の上をスノーモビールで行きます。
 今は冬ですから、スノーモビールで凍ったシシム川の上を寒さに震えながら、80キロ程下ると目的地のキャンプ小屋につくはずです。スノーモビールはバイクのようなものですから、冷たい風や雪煙がまともに顔に当るだろうと、私は防寒着の下に着るセーターを数枚や使い捨てカイロの他、額も耳も隠れる帽子、大きなマスクや幅広のマフラーを数枚用意しました。

 しかし、この暖冬です。例年のように零下30度くらいの日が数日続けば完全に凍るのですが、最近の零下10度くらいの冷え込みでは、まだ氷が薄くて弱いのだそうです。出発の日の朝、スノーモビールは危ないから、飛行機で行くのだと添乗員に言われました。そして、マイクロバスで140キロ程行った途中の村、ナルバにある小さな原っぱ飛行場につきました。そこには超小型で私と同じ歳くらいの飛行機が一台、エンジン部分にむしろみたいな毛布がかけられて止まっていました。地元ハンターが針葉樹林に狩りに行く時に使うアマチュア飛行機のようです。
 パイロットのおじさんが、今日は天気が悪くて飛べないが、一応、シシム川方面の天候を見てみると言って、毛布をとってエンジンをかけ、暫くすると、ふわっと空に舞い上がりました。長いコンクリートの滑走路は必要ありません。80メートル程の原っぱがあればいいそうです。ひとまわりして、また、ふわっと降りて来て、気圧の状態が悪く視界も悪いため、今日は飛べないと言って、ペチカのある小屋に入っていってしまいました。
 仕方なく、私達旅行グループ客10人(3組の夫婦と、カンスクから来た家族連れの3人と、ひとりぼっちの私)と、添乗員のおばさんと、レクレーション係のアコーデオンのおじさんと、シシム川の宿泊小屋の管理人夫婦の14人はナルバ村の大きめの空家で雑魚寝をして、飛行日和を待つことになりました。何もすることがなかったので、私達14人は食べたり飲んだり歌を歌ったり、レクレーション係のおじさんの司会でゲームをしたり、冗談を言い合ったりしていたので、キャンプ地到着の前からすっかり親しくなりました。
 村は下水がないので、トイレは家から離れた小さな小屋まで行かなくてはなりません。夜は電燈もないので、トイレの穴に落ちる危険があります。夜だから誰にも見られないだろうと思って外の陰になったところでしようにも、犬に吠えられます。ここが田舎生活の厳しいところでしょうか。

 翌日。その日も曇りで、飛行日和ではないと始めは言っていましたが、天気もあまりよくならないのに、12時に決行と言うことになりました。この日、出発しなければ、私達はナルバ村でお正月を迎えることになってしまいます。とはいえ、無理な飛行で事故が起きるのも恐いです。クラスノヤルスク知事が針葉樹林地帯にある自分の別荘からヘリコプターで帰ろうとして、墜落死したのは1年程前のことでした。大ニュースでしたからみんな覚えています。
 でも、行くのを止めるとは、誰も言いません。私も、ここまで来たことですし、落ちない可能性もありますし、落ち方によっては死なない可能性もあると思いましたから、黙っていました。一年前の事故も、乗客の全員が死亡したわけではありません。太めの知事は死亡しましたが、軽傷ですんだ新聞記者もいました。
 添乗員に聞いたところによると、旅行期間中の事故については一人最高10万ドルの保険金がおりるそうです。1200万円では、日本の遺族も大変です。ロシアならそれなりの金額ですが。

 さて、パイロットの息子の少年が飛行機の上にのってほうきで雪を掻き落とし、荷物も積み込んで、準備が整いました。さあ、出発です。私達はふわっと空中に舞い上がり、雪の積もった針葉樹林の上をふわふわ飛び始めました。私はどの辺に落ちたら軽傷ですむかと、窓から眺めていました。
 気圧の関係なのか、飛行機がぼろなのか、ひどく揺れます。私に冗談を言っていた夫婦連れも黙っています。ふと見ると前に座っている女の子が嘔吐物の入ったナイロン袋を手に持っています。私は、ナイロン袋が手許にありません。後ろの男性が、自分の毛糸の帽子の中に嘔吐しています。隣のおじさんは手袋にです。私は、目的地までは100キロもないので30分くらいの飛行時間だ、と言われていましたから、時計を見ながら我慢していました。頭を機体に付けて飛行機の動きに身を任せれば、あまり酔わないかと、必死で嘔吐を堪えました。30分を過ぎても、まだまだ、低い山々や、先の尖った樅の木の森がどこまでも続き、飛行機は上下左右に気持ちの悪いゆれ方をしています。こんな状態が続くくらいなら、落ちた方がましだとさえ思ったほどでした。
シシム飛行場に到着 やがて、40分も飛んだ頃、小屋の管理人が、もうそろそろだと言いました。飛行機は上がる時と降りる時が危険なはずです。特に、キャンプ小屋近くはシシム川の谷間になっていて、そこの気候は着陸用飛行機にとってはさらに不利になるようです。でも、飛行機がやっと高度を下げてくれた時は、どうなってもいいから早く地上に降りたいと思いました。
 シシム川の川辺の小さな原っぱに無事着陸すると、私達は飛行機から転がり出て来て、雪の上に座り込んで吐きました。毛糸の帽子の中に吐いた男性は、雪の上にそれを空けています。
 暫くすると、飛行機の音を聞き付けたのか、そりをつないだスノーモビールがキャンプ小屋からやってきて私達の荷物を運んでいってくれました。スノーモビールのガソリンのにおいをかいで、私は気持ちが悪くなってまた吐きました。

 キャンプ小屋村は、一階が食堂と蒸しぶろと台所で2階に3つ部屋のある大きめの家と、バンガローのような小屋が、8軒程建っています。ちょっと離れたところにトイレ小屋、物置き、従業員の小屋などがあります。電気は自家発電で、節約のためか、昼間と深夜は、発電機は運転を止めています。
 水道はありませんが、雪と白樺の薪はたっぷりありますから、雪をとかしてお風呂に入ったりするのかと思っていました。でも、そうではありませんでした。キャンプ小屋があるのは、シシム川が岩のそばを流れるところにあるのですが、小屋の管理人によると、普通、こうしたところには、地中や岩のあちこちから年中プラス4度くらいの地下水や岩水がわき出しているのだそうです。その岩清水が合流してせせらぎとなりシシム川に注ぎます。そのせせらぎからコップで水を汲んで飲みます。バケツですくって、沸かしてお茶を飲んだり、蒸し風呂用の桶に入れたりします。
 台所の後ろを流れて生活用水として利用されているこの小川の上流をたどってみたのですが、10メートルも行ったところで雪にかぶさった岩山で終っていました。雪の下にもっと細い小川が流れているかもしれません。下流をたどってみると、これはどこまでも流れていました。凍っているシシム川に合流しても、その小川のせせらぎはシシム川の隅を流れていました。なぜ、凍ったシシム川の端っこを凍らない小川の水が数キロも流れていくのか不思議です。せせらぎの水でシシム川の氷がとけるか、寒いシシム川のためせせらぎの水に氷が張るはずです。これは、プラス4度のせせらぎの流れがかなり早いので、先の方まで凍らないそうです。でも、零下30度40度になると、さすが、湧き出たばかりの小屋の近く以外は凍ってしまうそうです。

 暖房は、すべて白樺の薪のペチカです。バンガロー小屋には、一軒づつ夫婦や家族連れが泊まりました。自分達で薪をくべなくてはなりません。眠りこけていると夜中に燃え尽きてしまって寒さに震えて目を覚まし、もう一度ペチカを焚き付けなくてはならないと言うことになります。薪の調達以外はセルフサービスです。
 私は食堂の2階の小さな一人部屋を当てられました。食堂の暖炉の熱はなぜか2階まで登ってきません。部屋には小さな電気ストーブがおいてあるだけでした。自家発電の電力は弱いのでストーブの火力も弱く、さらに、昼間と深夜は自家発電が止まるのでストーブも冷たくなります。「寒くてたまらない」と言うと、大きなガスボンベを一本くれました。でも、室内ではさすが凍え死にはしないでしょうが、ガス漏れや酸欠になってはそれこそ危険だと思って睡眠中は消しましたから、夜中は寒かったです。結局、ふとんを何枚ももらことになりました。隣の夫婦は寝袋をもらったようです。

 旅行会社や小屋の管理人側としては、旅行客をこの大自然の中に案内し、食事付き宿泊所を提供すること、さらに31日夜の新年用御馳走や余興を用意することなどがサービスの内容で、それ以上のことはしないようです。自分でしたいことを見つけてしなくてはなりません。ここでできることは、スノーモビールに乗ること、凍ったシシム川の上をスキーを履いて走ること、凍ったシシム川に穴を空けて魚をつること、蒸しぶろに入ること、ヴォッカを飲むこと、食堂の隣でビリヤードをすることの他は、周りを散歩するか、寝ること以外はありません。
 私は3日間の滞在中それらを一通り試みました。何と言っても凍った川の上をスキーをはいて走ったり歩いたりと言うことは日本(金沢)では体験できないことです。そればかりか、凍っているかどうか分からない川の上を歩くと言うことも日本ではしません。
 小屋の近くのシシム川は凍っているようですが、上に雪が積もっているため、厚い氷なのか全く薄い氷なのか分かりません。雪の上をスノーモビールが通って跡をつけてくれましたから、そこは安全そうです。スノーモビールが沈みかけて川面が見えるところは、除けた方がよさそうです。少し沈んだ跡があって水がかぶさっていても、素早く通り過ぎるなら大丈夫です。
 しかし、これは体重にもよるようで、私達の通った跡をたどってかなり太めの女の人が通った時、その人の足下が沈んでいって水に浸かってしまいました。「ぎゃっ」と叫んだのに、当人の夫が「こっちへ来なくてもいいぞ」と言って知らん顔をして魚釣りをしていたので、後で大変な夫婦喧嘩になりました。実は私も知らん顔をして魚釣りを見ていました。夕食の時、みんなでその人に謝って機嫌をなおしてもらいました。
 実際、キャンプ小屋から下流へ2キロ程スキーを履いていったところでシシム川の氷がだんだん水っぽくなっていきます。これ以上いくと足下の氷が沈んでいきそうです。流れが早くて、この程度の低温では十分な氷は張らないのだそうです。

 ちなみに、魚は釣れませんでした。シシム川に美味しい魚がいっぱいいると言っても、場所を選ばなくてはなりません。上流へ2キロ程言ったところがよいと言うので、私も道具を持って、スノーモビールの運転手の後ろの席にまたがり出発しましたが、途中で氷がなくなって水面が現れたため、通行不能で引き返してきました。小屋の近くは凍っているので、穴を空けてつりましたが、誰も一匹も釣れませんでした。小屋の近くの川の氷の厚さは10cm程です。私も「穴空け機」で穴を空けて調べてみました。10cmもあればその上を通行するのに十分なのだそうです。

 人里離れた針葉樹林の中では熊になら出会うかも知れないと、出発前、冗談を言っていたのですが、熊には出会いませんでした。小屋の管理人夫婦の話では、狼が増えてきたため、スポーツ・ハンティング用獲物のシベリア・アカシカが減ってきているそうです。以前は、狼を討ち取ると一頭につきいくらと賞金が出たので、狼の頭数も減っていったのですが、今は賞金がなく狼を撃つ人もいないので、頭数はどんどん増えて凶暴になっているそうです。アカシカなどが減っては、スポーツ・ハンティング客を相手にしている小屋の管理人としては大損害です。
 管理人夫人がある時スキーでシシム川の上を走っていると、狼に襲われたばかりでまだ息をしているアカシカが倒れているのを見つけたそうです。急いで小屋に帰って夫とスノーモビールで駆け付けてみると、狼が内臓を少し食い破っていました。夫婦はスノーモビールにアカシカを積んで小屋に持ち帰り食糧にしたそうです。ですから、その冬は肉を買わなくてもよかったくらいでしたが、狼にとってはせっかくしとめた獲物を人間に横取りされて悔しかったのか、長い間その小屋の周りを吼え回っていたということです。
 その話を聞いたあと、この辺を一人で遠くへ行くのが恐くなりました。特に夕方ちょっと離れたところに行って、雪の上に獣のまだ新しい足跡を見つけた時は、びっくりして後ろも見ずに走って帰ってきてしまいました。小屋で飼っている犬の足跡にしては大きいと思ったからです。後で聞いてみると、それはやはり犬の足跡でした。でも、狼のではないかと思ったのは私だけではなかったようです。もう一人の女の人も走って帰ってきて足跡があったと言っていましたから。

 ここでは、どんな美味しい御馳走がでるのか、野生獣の肉でもでるのかと思っていましたが、食事は31日の夜食以外は質素なものでした。大学の学生食堂の方が種類が多いくらいです。ここまで食料品を運ばなくてはならないので、なかなか毎日御馳走と言うわけには行かないのでしょう。ここで、夏の間にとれた蜂蜜が、唯一のデザートでした。食事は時間通りに出ないこともあったので、自分で台所に行って、そこにある食べられそうなものをコックさんによそってもらってペチカのそばに座って食べていました。

 1月3日は、ここのキャンプ上から帰る日ですが、シシム川の氷が薄く弱いため、空路しか帰る方法がありません。ところが、その日は雪が降って近くの山も見えないほどで、あの飛行機ではどうしても無理です。みんな、もし、今日帰れなかったらどうなるかという話をしていました。仕事の都合などあって、どうしても帰らなければならない人や、もう数日ぐらいはいてもいいが家族が心配するから何とか連絡しなくてはと言う人たちです。携帯電話はもちろん通じません。
 私はあと1日ぐらいならここにいてもいいわと、自分の部屋で本を読んでいました。するとヘリコプターの音がするではありませんか。窓から見ていると、あの超旧式飛行機とは比較にならない銀色のスマートなヘリコプターが、雪煙を建てて小屋(母屋)の後ろの空き地に降りて来ます。これはお金持ちのハンティング・グループがチャーターしたヘリコプターで、この辺のどこにどんな獣がいるかよく知っているこのキャンプ小屋の管理人を呼びに来たものでした。
 管理人を乗せると、ヘリコプターはシシム川の対岸にあるまだ未完成のバンガローへ飛び立ちました。そのバンガローも、同じ管理人のものです。そこまでは歩いても15分ぐらいで行けるのに、ヘリコプターを飛ばすのはちょっと燃料の無駄遣いです。でも、ハンティングだけでなく、針葉樹林の空気を味わって、食事をしたりヴォッカを飲んだりするのも、彼等の目的のようです。
 ヘリコプターの定員は24名ですが、ハンティング客は10人しかいないので、帰りに私達が便乗する余裕がありそうです。それで、私達はいつでも出発できるように荷物をまとめ、待機しているようにと言われました。
 でも、便乗が断られるかもしれませんし、私達全員が乗れないかも知れませんし、もし、何頭も獲物をしとめれば、ヘリコプターに空席がなくなるかもしれません。そんなことをみんなで話していると、遠くで大きな銃声が聞こえました。可哀想なアカシカが射止められたのです。厳寒に耐え、狼にも食べられずに生き延びてきたのに。
 暫くして、獲物とハンターを乗せたヘリコプターはシシム川の対岸のバンガローに降り、また暫くすると、私達全員を乗せるために、こちらへ向かってきました。私達の荷物は、あらかじめスノーモビールで対岸のヘリコプターまで運んで積み込まれていました。ヘリコプターがまた雪煙をあげて目の前に着陸すると、私達13人は急いで乗り込み、すぐ離陸しました。そして、こんなに天候が悪いのに少しも揺れることなく、一路クラスノヤルスクにむかいます。
 先に乗っていたハンティング客たちは若い女性連れで、瀟洒な服装や持ち物で、私達後から乗った乗客と差をつけていました。彼等は丸くなって座ってお互いにデシカメを取り合ったり、飲んだりして騒いでいましたが、私達は機内の奥の方で、可哀想なアカシカ入りのビニール袋の横に黙って立っていました。どうせ、ヘリコプター内はエンジンの音が大きくて話などできないのです。私は、クラスノヤルスクのどの飛行場につくのだろうと、小さな窓から下をのぞいていました。
 町の中心にある旧飛行場跡ヘリポートにつくと、外車(日本製中古ではない)が寄ってきてハンティング客の方を乗せていきました。生死を共にした私達12人はお互いの住所や電話番号を手帳に書き留め、再会を約束して、それぞれの方向のバスに乗って家路につきました。一番近くのバス停までは、ヘリコプター所属のマイクロバスが運んでくれました。ヘリコプターが、町の中心に着陸してくれて助かったです。でも、こんなところに乗り付けられるのは、緊急用病人を輸送する時などの特別な場合だけのはずです。普通は市からかなり離れた小型機用飛行場につきます。ハンティング客が大物なのでしょうか。おかげで、着陸して1時間も経たないうちに、タクシーも使わず帰宅できました。
 友だちに電話して、「今、ヘリコプターで帰ってきたところなの」と言うと「よほど険阻なところへ行ってきたのね」感心してくれました。険阻だっただけではありません。トドマツの松葉の匂いのよかったこと、雪の積もった針葉樹林や、シシム川の自然が美しかったことは言うまでもありません。

おわり


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