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金倉孝子の部屋
アルタイ山麓のサナトリウム「ベロクーリハ」
2004年1月15日から30日

 お正月に行ったところはエニセイ川の右岸支流で220キロのシシム河の畔でしたが、この冬休み(1月後半の試験休み)に行ったアルタイ地方の川は、長さが700キロでカトゥーニ川と言い、アルタイ山脈の最高峰ベルーハ山(4506メートル)の北斜面から流れて、ビイスク市付近でビヤ川と合流してからオビ川(3680キロ)となり、西シベリアを北上して北極海に注ぎます。

 と言っても今回は川を見に行ったのではなく、アルタイ山麓にあるベロクーリハというラドン湯サナトリウムで2週間の湯治をするために出かけたのでした。ロシアには、このような、ホテルと温泉と病院とヘルスセンターが合体したような施設で、10日間未満の湯治客は、受け付けないと言う「サナトリウム」が幾つもあります。日数が短くては治療効果が上がらないからです。以前は、「この病気は、これこれの湯治の必要あり」という医師の診断書がないと受け付けてもらえませんでした。そして、治療費を含む滞在費は、勤め先の企業が何割か負担していたそうです。
 でも、今は、自費で、誰でも好きなだけ滞在できます。アルタイ山麓には、スキー場もありますからスキー客も泊まりに来ます。去年は、プーチン大統領も家族連れで4日間泊まったそうです。
 私は一応ロシア式湯治と言うのも体験したかったので、出発前に知り合いの医者に、「五十肩なのでラドン湯で治療の必要あり。軽い慢性胃炎もある」という「サナトリウム用診断書」を書いてもらいました。これがあるとサナトリウムに着いてから、検査したり診断したりする手間が省けてその日から治療が受けられると言う話だったからです。何しろ2週間の滞在費8万円には治療費も含まれているのですが、検査費は別途のようですから。

 アルタイ山脈は南東斜面がモンゴル高原に、南は中国のジュンガル盆地(天山山脈の北)に、西は中央アジアのカザフスタンにつづき、北斜面が西シベリア平原につづきます。その北山麓にラドン湯サナトリウム町ベロクーリハがあります。
 ベロクーリハはクラスノヤルスクからは南西に当り、直線距離では600キロ程ですが、間に未到の山々があって交通路がありません。それで、まず西へ、シベリア幹線鉄道でノボシビルスクまで800キロ程行き、そこから南へ行く支線に乗り移って400キロ程行ったビイスク駅で鉄道が終るので列車を降り、さらに、バスで70キロ程行くと、目的地です。
 以前は、クラスノヤルスクからの湯治客はノボシビリスク駅で、ビイスク行きの列車に乗り換えるか、そこから長距離バスに乗ってベロクーリハまで行っていました。今は、直通列車があります。と言っても、車両が1両か2両しかないので、クラスノヤルスクからノボシビリスクまでは、ずっと西へ行く、例えばチェリャービンスク行きの列車の一番最後に連結されて引っ張って行ってもらいます。ノボシビリスクに着くとビイスク行きの車両は切り離されて、引き込み線に入り、南へ向かう支線に入る準備をします。南に向かう支線に入る車両はクラスノヤルスク(東)から来た私達の車両ばかりだけではなく、トムスク方面(北)やオムスク方面(西)から来た車両も切り離されて待っています。みんなが集まったところで、機関車がやってみて、お待ちかねの車両をみんなつないで南へと引っ張っていってくれます。
 クラスノヤルスクからビイスクまで30時間もかかるのは、ノボシビリスクでの待ち時間が、行きは6時間もあるからです。もちろん4人部屋の寝台車なので、30時間ぐらい寝て過ごせばいいです。でも、駅に停車中は、車内のトイレが使えないのが不便なことです。直接下に落ちる仕掛けになっているからでしょう。それで、ノボシビリスク駅ではたいていの乗客と同じように私も、荷物を自分の寝台に置いて、クペーのカギをかけてもらって町に散歩しに出かけました。一度車両から離れると、戻った時に引き込み線をあちこちさがして、自分の乗ってきた車両を見つけなければなりません。
 ビイスクからの帰りは、26時間でつきます。ノボシビリスクの引き込み線で帰りの待ち時間は3時間ほどだからです。今度は、モスクワからハバロフスクへ向かう急行アムール号が来て、クラスノヤルスク行きの一両だけの車両を東へ引っ張って行ってくれます。やはり、3時間もあるのでノボシビリスク駅のトイレに行って戻って来て、幾つもの線路を跨ぎ、引き込み線内の自分の車両を捜さなければなりません。見つからない時はアムール号が到着するのを待てばいいです。20両もあるアムール号の最後尾に必ず、どこかの引き込み線から私の荷物が置いてある車両が、連結されにやって来るはずですから。

 クラスノヤルスクからビイスクまで行きは普通列車なので2800円程でした。ビイスクからベラクーリハまでタクシーの相乗りで500円でした。帰りの車両はアムール号というデラックス急行に引っ張ってもらったので3600円もしました。

 サナトリウムに着いて部屋に落ち着くと、まず、内科医のところへ行きます。そこで五十肩のこと、さらに、(誰にでもあることですが)時々憂鬱で夜も眠れないことがあると言いました。ベロクーリハの広告に精神神経病にも効くと書いてあったからです。それで整形外科医と心療内科のところにもいって診てもらうように言われました。
 結局、マッサージ、アクアマッサージ、つぼシャワー、磁石(で治療)、体操、ラドン湯浴、トレーニング、洞窟心理治療、リラックス心理治療をすることになりました。
アクアマッサージと言うのは深めのバスタブに横になって漬かっていると、水中の肩や腰に3気圧の噴流を当ててマッサージ効果をあげます。噴流を当てるのは、専門家の女性で、毎回「痛くないですか」と聞いてくれます。
 ラドン湯浴は、やはり個室の今度は浅いバスタブで、36度のラドン湯にじっと10分程浸かっています。寒いと言うと少し温かくしてくれます。泡が身体中にくっついてきます。一人が終るとバスタブからお湯を抜き掃除をしてから新しいお湯を入れ、次の人が浸かります。
 マッサージ師は、自分は指圧の勉強をしたのだといっていました。マッサージしながら、いろいろ日本事情を聞くのでした。自分の知っている限りこのサナトリウムに日本人が来たのは初めてだと言っていました。
 リラックス心理治療は、暗くした部屋でゆったりと座り気持ちのいい音楽を聞きながら、専門指導員の言う通りに身体の力を抜いたりしてリラックスの仕方を勉強します。洞窟心理治療は洞窟のようにした暗い部屋で、静かな音楽を聞きながら25分間休みます。皆、鼾をかいたりして寝てしまいます。私も、鼾がうるさいと思いながらたいていは寝てしまうのでした。
 これだけ治療処置項目があると、時間割り調整が大変です。始めは指定時間が重なって、出られないことがあったりしましたが、あちらの窓口こちらの窓口と交渉をして、9時15分に始まり3時に終る時間割りを決めました。
 それで、心理治療棟から整形治療棟、浴場と、時計を見ながら走っていました。アクアマッサージで服を脱ぎ、終ると身体を拭いて服を着て廊下に出て、すぐ、つぼシャワーの順番につきます。それが終るとまた身体を拭いて服を着て、ラドン湯に浸かるため、また脱いだり拭いたり着たりします。タオルをまいて廊下に出られないと言うのが辛いところです。でも、できるだけ簡単な服で脱ぎ着が素早くできるようにしました。素足でスポンジのつっかけです。いつも分厚い靴下をはいているロシア人は、足を拭いて靴下をはくだけで3分は私よりよけいにかかっているでしょう。

 私の部屋は9階にあったので、丁度いい運動と思って、食堂に降りて行ったり治療棟に行くために、1日何回も階段の昇り降りをしました。きっと上の階の方が景色がいいだろうと思って、一番高い階の部屋を依頼したのです。始めに案内された10階の部屋は、窓の向きが悪かったので、断ったところ、9階のアルタイ山脈が見渡せるいい部屋になりました。冬なので日の出が遅く、朝食から帰ってきた頃、アルタイ山脈の山の端から金色の太陽が登るのが毎日見渡せました。アルタイというのは、アルタイ語(チュルク語)で黄金という意味だそうです。

 ベロクーリハの一番いいところは、アルタイの新鮮な空気だと聞いていました。私の受け持ち医に「マッサージをもっと増やして下さい」と頼んだところ、「マッサージはこれで十分。遊歩道を山の方に散歩したらいいですよ」と言われたくらいです。確かに、ここは病気を直すと言うより都会のスモッグから逃れてゆっくり疲れを癒すところのようです。
 3時にその日の治療が終ると、毎日外へ散歩に出ました。アルタイ地方は晴れの日の日数が多いことでも有名です。毎日雲一つない快晴の寒い日が続きました。クラスノヤルスクは、今年は1月は零下15度程度でしたが、アルタイは30度近く、外を歩くと頬が真っ赤になるのでした。でも、風がないので辛くありません。ベロクーリハには、大きなサナトリウムが10軒程もあります。ですから湯治客のためにお土産屋が列んでいます。山と高原があるだけで工場のないアルタイの特産と言えば、パンタクリン(アカシカの角袋から採る強壮剤)や、ハーブ、蜂蜜です。
 湯治客はみんな暇なのですぐ友だちができます。食堂で同じテーブルのケーメロバから来たおじいさんは、炭坑で何年も働き、職業病の診断がされたので、毎年企業の費用で湯治に来ているそうです。北極圏のノリリスクから来たおじさんは、身体の調子を直しているそうです。費用は企業持ちです。オムスクから来ている女性建築士のオーリャは、1年間休暇なしで働いたので、会社が費用を出してくれたそうです。ウスチイリムスクから来ている企業内女性弁護士のレーナは、その企業とサナトリウムが契約しているので従業員は無料です。みんな、ベロクーリハへ来て身体の調子がよくなったと言っていました。私はと言えば、余り変わりないような気がします。

 たいていの湯治客は2、3週間の期間滞在し、去って行きますから、私が着いたばかりのころの顔ぶれと、帰る頃の顔ぶれは、違っていました。「サナトリウムでの恋」と言うのが、有名です。全国各地からやってきた湯治客は暇ですから、つかの間のロマンスが生まれるのだそうです。チェホフの「子犬を連れた婦人」を思い出します。
 でも、現代の「サナトリウム族」はそれほど優雅ではなく、笑い話の種になっています。オプショナルツアーに参加すると、ガイドがそれらの話をおもしろおかしく話してくれます。サナトリウムに来る男性のタイプは、虎型、狼型、熊型、鷲型、サモワール型などとあって女性からハントの「され方」が違うそうです。女性は、りす型、ねずみ型、しか型、ひつじ型、きつね型、ねこ型、めんどり型、お馬鹿さん型などたくさんタイプがあって、男性ハントの「仕方」が違うそうです。ロシアの場合、数の多い女性の方が積極的にでなければなりません。
でも、私のように、せっせと治療とオプショナルツアーに励み、お洒落をしてディスコやダンスにでると言うことは全くしないで、散歩をすると本屋を見つけて地元の地理歴史の本を買い、夜はそれに読みふけっていたと言う「まじめ勉強」型もいるはずです。

 オプショナルツアーは治療が休みの土曜の午後や日曜日に行われます。「ベロクーリハ市内見物」、「聖ツェルコフカ山登山」、「『常春』の村チェマール」、「洞窟の秘密」の4つに参加できました。
 聖ツェルコフカ山は、ベロクーリハのすぐ後ろにあり、スキー場になっていて、山頂に登るリフトもあります。日本のように、リフトの椅子から万一落ちた場合の(板やネットでできた)受け皿もなく、積もった雪の間から切り立った岩々のごつごつした斜面が、そのまま足の下に見えるのはスリルがありましたが、頂上までの30分無事リフトは動いてくれました。このリフトも、零下25度以下だと運転しないそうです。寒くて30分も座っていられないからです。オプショナルツアーは寒さの少し弛んだ頃を見計らって行われました。往復のリフト代を含む参加費は800円ですが、さらに40円出すと、毛布を貸してもらえます。寒いので、その毛布を敷いたりかぶったりして終点までいきます。万一落ちた時のクッションになるかもしれません。ベロクーリハは広い広い西シベリア平原の一番南の端にあって、その後ろにある聖ツェルコフカ山から先は険しいアルタイの山々と高原しかありません。それで、その山の頂上から登ってきた方を向くと、はるか遠くまで西シベリア平原が見渡せます。ロシアは何と広いのだろうといつも思います。反対側は、山また山です。

 「洞窟の秘密」ツアーは、日曜日の朝まだ暗い7時に出発して夜12時過ぎてからやっと戻ってきました。参加費用は、交通費、食事、蒸し風呂、洞窟探検インストラクター費、ヘルメット付き探検服レンタル込みで5000円と高かったので、最低参加人数の4人に満たず、一度はお流れになりました。
広いロシアにはたくさんの未探検の洞窟があります。調査済みの洞窟もありますが、シベリアの方では、人手の入らない洞窟がまだまだ多いです。人手と言うのは現代人のことで、石器時代人は、アルタイの洞窟に住んでいました。アルタイのすぐ東で、私の住むクラスノヤルスク地方南部のサヤン山脈やハカシア共和国にも、何十万年も前の旧石器時代の遺跡がたくさん見つかり、一説によると、この辺が人類発祥の地だそうです。紀元前3000年の青銅器のアファナシア文化(始めにクラスノヤルスク地方のアファナシア村で見つかった)の遺跡も、アルタイにはたくさん残っています。紀元前数百年のスキタイ文化の遺跡は、黄金の副葬品があるので18世紀から発掘されていました。
 「洞窟の秘密」ツアーはロシア製改良ジープで、アルタイの一部アヌイ山脈の奥へ奥へと行きます。ジープに乗っていたのは、ツアー客6人(男性4人、女性2人)に、インストラクター(男性)、ガイド(男性)、コック(女性)の9人で、空き席がまだ2つありました。100キロも行ったところの、最後の村タポリノエを過ぎると、道はますます険しくなり、景色はますます美しくなるのでした。山道と言っても日本のように絶壁に作られているのではなく、アヌイ川に沿って、低いところに通じているので、春の雪解け水が溢れ出す頃には、どこまでが川でどこから道か分からないようなところを行くことになります。今は冬ですから、川と道の区別がつきます。
 150キロも行ったところが、私達の旅行基地のデニソヴァ洞窟探検者用国際総合施設です。その施設は夏場だけ営業していて、世界各地から考古学者や学術団体を受け入れています。山奥にしては設備の整った(つまりトイレ付き)宿泊所です。日本からも多くの考古学研究者が訪れているそうです。と言うのも、デニソヴァ洞窟は、一番古い層は30万年前の遺跡から、新しいのは鉄器時代まで20層以上の遺跡が古いものから順番に層になって見つかったと言う、珍しい洞窟だからです。フランス製パイ菓子のミル・フィーユのようです。
 冬場は、世界各地からの研究者は来ませんから、「快適」な方の宿泊所は閉まったままですが、ロシア人の研究者(一人)が常駐する質素な小屋だけは開いています。私達は、まずそこでひと休みして、それから、そのロシア人研究者がデニソヴァ洞窟に案内してくれました。そこは、旧石器の遺跡から順番に積み重なっている「目で見る」人類史博物館洞窟かと期待していたわけではありませんが、入ってみると、土の他は何もありませんでした。発掘物は研究所に持ち去られたでしょうし、未発掘物は、まだ土に埋まったままでしょうから。周りの景色はきれいですし、そばにアヌイ川も流れているので、古代人は安全な洞窟の中で幸せに暮らしていたでしょう。
 小屋に戻って、簡単に昼食をとると、私達は、迷彩服を着て(私に合う小さなサイズがなかなか見つからなかった)、ライト付きのヘルメットをかぶり、登山用靴をはき、軍手をはめ、胸ポケットにろうそくを入れて、またジープに乗り込みました。今度は、ガイドの土地カンを頼りに道もないところを、アヌイ川の支流カラコル川が流れ出るカラコル山にあるムゼイナヤ洞窟へ行きます。
 車から降りて、カラコル山の急斜面を1キロ程登らなくてはなりません。長い足のロシア人に遅れず、雪で滑る急斜面を30分も登るのは、キャベツのように着膨れして日頃から運動不足の私のような怠け者には大変なことでした。汗をかいて息を切らし、自分の歳を打ち明け、もう少しゆっくり行ってくれるよう頼みました。みんな笑って私を引っ張ってくれました。
 やっと登ったところの斜面に80cm程の穴が開いています。これがムゼイナヤ洞窟の入り口で、深さが33メートル、通行できる距離が850メートルあるそうです。
 インストラクターが、まず、私に命綱をつけてくれました。そして私をそろそろと穴に落として行きます。私はと言えば、「どこにも足をかけるところがない」「暗くて見えない」とか、おびえた声を出していましたが、数メートルも降りたところで、足が平面に着きました。
 中は鍾乳洞の洞窟で、天井からは鍾乳石が珊瑚礁のように生えていました。ヘルメットのライトやろうそくに照らされて、むくむくと成長している薄茶色の鍾乳石の間に、光沢のある石や、透明な石、キラキラと輝いている石も見えました。みんな記念に石を拾っていました。私は、どうせ、日本まで持って帰られるわけでもないので、余分な荷物は拾いませんでした。
 誰も迷子にならないよう、みんな一緒に先へ進んで行きました。私は、やはり不安なので、インストラクターに、そっと「帰り道は分かっているわね」と囁きました。「もちろんだ」と言う頼もしい返事でした。
 立って歩けないような狭いところも多かったです。四つん這いで進んだり、這って進みました。ところどころ深い亀裂も開いているので、落ちないように、手と足とお尻で歩きました。その洞窟のいいところは足場がぐらぐらしないところです。切り立った岩の上にそろそろと足を降ろしても、私の重みで岩がぐらっと傾いたりはしません。
 天井にはコウモリが冬眠していました。群れになってぶら下がっているのや、ぽつんと一匹だけ天井にしがみついているのがいました。ヘルメットのランプでよく見ると、時々ぶるぶるっとうごめいています。せっかく冬眠しているのに、ヘルメットで擦って起こさないよう、私達は頭を低くして通りました。
 時々、ひと休みしました。ガイドに言われて、ライトも消して瞑想に耽りました。この時、伝説によれば「洞窟の主」があらわれるはずです。同行の女性は、遠くで何か物音が聞こえたと言っていました。それは空気の音でしょう。
 さて、洞窟から出る時も難しそうです。ガイドとインストラクターは、以前、65歳で100キロのおばあさんを引っ張りあげたことがある、と言っていました。「タカコなんてそれに比べたら軽いものだ、まだそれ程おばあさんでもないし」と言ってくれました。確かにその通りですが。
 入り口の下まで戻ると、また命綱をつけて引き上げてくれました。できるだけ自分の力で這い上がろうとしたのですが、足ががくがくして言うことを聞いてくれません。洞窟の外へ出てみるともう薄暗くなっていました。
 全員が無事この世に戻れたことを祝って、私達はヴォッカで乾杯をし、サンドイッチを食べて元気をつけました。斜面の下には、乗ってきたジープと運転手が待っています。
 私達が小屋に戻ると、もう蒸し風呂がわかしてありました。女性3人(コックの女性も含めて)が蒸し風呂に入り、ロシアの伝統通り、白樺の小枝で背中をたたいたり雪で身体を洗ったりしている間に、男性達はバーベキューを焼いてくれました。
 その、当直考古学者の小屋を出発したのはもう9時を過ぎていました。ですから帰り道では、景色を楽しむことはできませんでした。

アルタイ山麓ベロクリーハ郊外での夜明け。バスの窓から 「『常春』の村チェマール」は、ベロクーリハの南東、カトゥーニ川の畔にあります。そのオプショナルツアーは2千円と値段がそれほど高くなく、アカシカ飼育場、コーサカス野牛養殖場、パトマス島寺院、有名なミネラルヴォーター水源地を訪れたりするので、参加者も多くバスでいきました。 
 9時に出発したので、途中バスの窓から、アルタイの太陽が草原のはるか彼方に見える山の端から登り始めるのが見えました。この冬の日の出と言うのは何度見ても魅せられます。しばらく行くと、真っ青な空と白く雪をかぶった岩だらけのごつごつした山々が見えてきます。バスは、山を登り、峠を越え、高原を通り過ぎて、毛のふかふかしたフタコブラクダのいるところで止まりました。なぜ、ここにラクダが住んでいるのか分かりません。アカシカ飼育場で、交通機関として使っているのでしょうか。ラクダの毛を掴んでこちらに向かせ、一緒に写真を撮りました。

 アルタイの山々とカトゥーニ川の自然は、日本と高山の景色とは当然のことながら異なります。クラスノヤルスク南部のサヤン山脈とも山並の組み合わせ方が違うような気がします。
 団体バスで通り過ぎるだけではなく、もっとゆっくりアルタイを見たいと思いました。アルタイに多く残っている古代人が残した洞窟画も、一度見てみたいものです。アルタイ山脈を越えてモンゴルへ抜けるチュイスキー街道、小さいけれど深く透明なことではバイカルにつぐテレツコエ湖、アルタイで一番美しい川カトゥーニの上流、さらに、アルタイ共和国の首都のゴルノアルタイスク市(旧ウララ村)、150万年前というウララ遺跡などを訪れてみたいものです。

 サナトリウム滞在は2週間で、1月30日の朝食前にチェックアウトすることになっていますが、帰りのビイスク発の列車は30日の夜8時出発です。追加料金を払えば列車の出発の時刻まで滞在できますが、もう退院手続きをとったサナトリウムでただのんびりしているのは面白くありません。せっかくここまで来たのですから、できる限りアルタイを見ることにしました。それで、ベロクーリハのいろいろな旅行会社に電話しましたが、「冬は観光シーズンではない。どこへ行っても雪と氷ばかりで、花も咲いてないし、たいていの湖は凍っていて泳げないし、クルーズもできない。今の季節、あまり面白いところはない」と言うことでした。
 結局、朝6時半から夕方7時半まで運転手とガイド付きの車をチャーターして約500キロ程回り、料金は15000円と言うところで、ある旅行会社の女性社長と話をつけました。社長は喜んで一番いいガイドをつけると言ってくれました。
 チュイスキー街道をモンゴルの国境までいくと片道でも500キロですから、せめて、途中のセミンスキイ峠まで行ってみたいと思いましたが、女性ガイドのターニャに前もって相談してみると、チュイスキー街道の自然がすばらしく、遺跡や、古墳、洞窟画が多く残っているのは、セミンスキイ峠を越えて、まだずっと先へ行ったチュヤ高原のあたりだ、セメンスキー峠までは、ただ道が上り坂になっているだけで、山の他は何もないと言うことでした。つまり、ガイドするところは何もないと言うことです。1日中アルタイの山道をドライブするのも悪くないと思いましたが、ガイドのターニャ推薦の「ベラクーリハから西へ出発、アヤ湖を見て、カトゥーニ川の吊り橋を歩いてわたり、チュイスキー街道に出て、南下、ウスチセマ村で、チェマールスキイ街道に入り、クユース村まで行って、ユーターン。帰り、ガルボエ湖と、アルタイ共和国首都のゴルノアルタイスク市の郷土史博物館を見学、さらに100メートル北上してビイスク市の鉄道駅へ」と言うコースに決めました。これですと、テレーツコエ湖の他は、私の希望が全部かなえられそうです。テレーツコエ湖は、今度いつかアルタイへ来る時のためにとっておきます。

 30日朝6時半、荷物を全部車に積んで、まだ真っ暗の中、出発しました。ターニャは私に見せて説明するためのアルバムの他、熱いお茶とサンドイッチも持ってきていました。日の出は、アヤ湖へ行く途中の山中で見えました。もちろん車を止めてもらって外へ出て写真を撮りました。この日はまた寒気が戻り零下30度でしたが、私のこの日の服装は零下20度対応程度の防寒装備でしたから、写真を撮るとすぐ車に戻りました。
 アヤ湖はカトゥーニ川のすぐ左岸にある小さな淡水湖ですが、水面の高さは、すぐそばを流れるカトゥーニ川より50メートルも高いと言うのが不思議です。この辺のカトゥーニ川は蛇行していて、アヤ湖は、昔のカトゥーニ河の一部が川道から断たれてできたもの。その後、流れの激しい川の方は、河床を削り、50メートルも深いところを流れるようになったが、アヤ湖は河岸段丘に残ったままなので、水面差がこんなに大きいのです、と言うターニャの説明でした。「河跡湖(または三日月湖)」のでき方について地理の勉強ができます。アヤ湖へ流れ込む川はありません。湖底からわき水が出ていて、それで、夏は水温が20度くらいになるので泳げるそうです。今は、もちろん厚い氷におおわれています。ターニャがさかんに「冬は面白くないわ、みんな凍っていて」と、残念がってくれましたが、「日本の私の住んでいるところでは、湖も川も海も凍ることがないから、ここのように一面に氷に被われている、という方が面白いんですよ」と説明すると「ふうん、私は今まで日本人のガイドをしたことがないから、どんなことに興味があるのか知らなかったわ」と感心していました。
 アヤ湖を過ぎると、しばらくチュイスキー街道をいき、チュイスキー街道がカトゥーニ川を離れると、チェマールスキー街道に入り、ずっと道の続く限り、カトゥーニ川の川辺を進みました。カトゥーニ川は、こちらの民話ではアルタイ王の娘です。若者ビヤのところへいくために、父親のところから走り出ました。追い付かれないよう走ったので、流れがそれほど急なのです。ビヤ川と結ばれて、生まれた子供がオビ川です。
 この辺のカトゥーニ川はアルタイ山脈の広めの峡谷を流れています。川岸に立って川上を見ると遠近の幾つもの山が波頭に見えるのでした。川は凍っていますが、ところどころ水面が見えます。流れが早くて凍れないのでしょう。冬のアルタイ山脈とカトゥーニ川の調和があまりにも美しいので、ほとんど十分ごとに車を止めてもらって、寒かったのですが、外に出て見愡れていました。
 エディガン村を過ぎて暫くすると、ところどころ洞窟のある絶壁が見えてきます。ターニャが「何か感じませんか」と聞きます。ここでは、何か霊的なものを感じるはずなのだそうです。と言うのも、その絶壁の洞窟は紀元前後頃の古代人の神殿だったそうで、周りの岩肌には洞窟画(岩石画)も残っています。画はもう薄れていますが、ガイドが唾をつけて擦ると、かすかに角のある鹿の形がうかんできました。この寒さの中、唾をつけて岩を擦るなんて気の毒で見ておられません。指先がしもやけになりそうです。でも、この時初めて、洞窟画は絵の具で描いたものではなく、岩を浅く掘って輪郭を作ったものだと知りました。絵の具で書いたものが今まで残っているはずがないとは、以前は思いつきませんでした。
 この辺は雪がほとんどありません。アルタイは、寒さが厳しいのですが、ところどころ、穏やかな気候の谷間があります。チェマール村より40キロ程奥にある、この古代人の神殿跡地も、この場所だけは寒波がやってこないと思われるような暖かさです。聖なる岩肌の前の広い河岸段丘に、遠くに見えるカトゥーニ川に向けて幾つも小さな丘がありました。その丘の陰で、トイレをしようかなと言うと、ターニャが、それは古墳だから、罰が当ると言います。あっ、本当に、丘の周りに石も立っています。隣の丘も駄目です。でも、彼女が安全なところを見つけてくれました。
 クユース村で、カトゥーニ川に沿ったチェマールスキー街道は終っています。あとは道らしい道のないところを行くほかありません。クユース村の先に、高さ40メートル程もある滝があるそうです。もちろん凍っています。ターニャに、「流れている滝なんて、珍しくもない、凍り付いた滝を見てみたい」と言って、ここまで来たのでした。でも、地面が凍結していて車ごとカトゥーニ川に落ちそうな狭い箇所があったので、それ以上進むのは止めました。時計を見ると、もう午後2時過ぎで、そろそろ引き返さないと、ゴルノアルタイスク市の博物館の閉館時間までに間に合いません。
 でも、途中で、ガルボエ湖(蒼い湖)に寄ったので、結局5時の閉館時間には間に合いませんでした。ガルボエ湖というのは、本当は湖ではなく、カトゥーニ川の広くなったところの一部で、地下からのわき水があるためその辺だけ川の水が凍らないのです。ですから、凍って自由に歩ける陸地のようなカトゥーニ河の横にある湖のように見えます。夏場は、その「湖」はありません。外気は零度以下の寒さでも、水温はプラスなので、湯気が立ち、樹氷がびっしり付いています。そして、湖がその名の通り透明な青色なのには驚きました。周りに人気がなく、しんしんとしています。冬の低い太陽が、アルタイの高い山々の陰にもう沈んで、薄暮れ時がせまっていました。アルタイの自然はどこも美しく、切り取って家に持って帰りたいくらいでした。憂鬱な時にそれを眺めると元気が出るかもしれません。

 アルタイ共和国の面積は日本の約4分の1ですが、人口はたった20万人、首都のゴルノアルタイスク市(人口5万人)の他は小さな村が山間にあるだけです。アルタイ人の村もロシア人の村もあります。その中で古いロシア人の村は、18世紀からのロシア正教分派の旧教徒が、西ロシアからわたって来てできたものです。シベリアの辺鄙なところにあるロシア人村は、こうした隠れ教徒の集落だったところが多いです。

 さて、ゴルノアルタイスク市に着いた頃はすっかり暗くなっていました。博物館は、もうとっくに閉まっていましたが、通行人に聞いて一番大きな本屋を教えてもらい、歴史や「アルタイの民話と伝説」といった本をまた買い込みました。
 ゴルノアルタイスク市からさらにカトゥーニ川岸を川下に100キロ程行ったところでビヤ川との合流点ビイスク市があります。この100キロの間は、カトゥーニ河も平地をゆったりと流れて行きますが、途中1箇所だけバビルガン山と言うむっくりとそびえ立つ山があります。これはアルタイ王が青年ビヤへ向かって走る娘カトゥーニを引き止めるため、勇者バビルガンを遣わしたのですが、ぎりぎりのところで追いつけなかったバビルガンがそのまま岩になって残ったと言う伝説の山です。
 クラスノヤルスクの自然も美しいですが、アルタイには魅せられます。私の祖先はアルタイからモンゴル経由で日本へ来たのかもしれません。

おわり


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