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金倉孝子の部屋
キルギス共和国、ビシュケクとイスィク・クリ湖(前編)
2004年5月22日から5月31日

出発まで
キルギスへ
キルギス共和国のあらまし
ビシュケク市
ブラーナ遺跡
カザフスタン国境の遊牧民たち

(後編)
 イスィク・クリ湖へ
 チョルポン・アタの野外博物館
 『七匹の雄牛』峡谷
 ドゥンガン・イスラム寺院
 アルティン・アラシャン峡谷
 イスィク・クリ湖南岸
 『帰国』


出発まで

 5月後半になると、大学では試験休みが始まるので、外国人講師の私は1週間くらいクラスノヤルスクを離れて旅行できます。当初、クラスノヤルスク南部のサヤン山脈を越えたところにあるトゥヴァ共和国(ロシア連邦内の一自治体)一周旅行と考えて、旅行会社に日程を組んでもらっていました。でも、この時期はまだ雪が残っていたり、場所によっては雪解けで道路の状態が悪かったりして、私が行ってみたいような『自然の奥深く』へは行けないと言われました。
 では代案として西シベリア、例えば、ハンシ・マンシースク市方面とか、オビ川下流のサレハルド市へは、旅行できるだろうかと問い合わせていたのですが、どこからも返事らしいものがありません。旅行会社に薦められたのはウラン・ウデ市とバイカル湖東岸でした。かなり面白そうなコースで、ほとんど決めかけていました。

 それと平行して、キルギスの旅行会社とも電子メールで連絡を取り合っていました。中央アジアへは、前から行きたいと思っていたのですが、行き方がわからなかったのです。また、ビザ取得の煩雑さもあって、自分の旅行先はロシア国内に限定していました。ロシアからの出国と再入国用のビザ、さらに、キルギス共和国へのビザを取らなくてはならないのでは、必要書類をそろえて窓口へ持っていって順番に並ぶだけでも、何日もかかります。クラスノヤルスクでは日本人のためのビザ取得代行サービスはやっていないので、全部自分でやらなければなりません。それで、旧ソ連の中央アジア諸国行きは保留にしてありました。

 その後、日本人はキルギスへはノービザだと、その旅行会社から電子メールで知らせてきました。
 ウラン・ウデより、キルギスの方がずっと面白そうです。私のよく知っているシベリアとも、ヨーロッパ・ロシアとも、もちろん日本とも違う風土に違いありません。歴史で学んだ『シルクロード』の一部ですし、中世イスラム文化の中心地サマルカンドやブハラに近いです。ウラン・ウデへ行くより難しそうですが、その分、未知の国なので、行ってみる価値がありそうです。
 さらに、クラスノヤルスク地方庁の出入国管理局(に勤めるある知り合い)から『ロシア居住許可証』を持っている(私のような)外国人は自由にロシアの出入国ができる、と言う情報を得たので、とうとう、キルギスに決めました。全くビザなしで、ロシアから出て、キルギスに入り、またロシアに戻って来られるのです。

 すぐ飛行機のダイヤを調べました。
 クラスノヤルスクからキルギスの首都ビシュケクまで直行便は飛んでいなくて、カザフスタン共和国のアルマトイ経由(ここへはトランジット・ビザが必要かもしれない)から入るか、ノボシビルスクまたはモスクワからの直行便で入るというコースがありました。一番便利なのはクラスノヤルスクの隣の州ノボシビルスクまで800キロほどを寝台車で行って、そこからビシュケク行き飛行機に乗り換えることです。
 その飛行機のチケットの購入が簡単ではないのでした。
 クラスノヤルスクで最も大きく、どこの航空会社のチケットでも売っているのが『中央エアー』です。いつも、私はそこで買っています。ところが、今回買おうとしたところ、ビザがないと売れないと言われました。そんなはずはない、どちらの国境を越えるにもノービザでいけるはずだ、とがんばると、窓口の人は上司を呼んできました。二人は、クラスノヤルスク市の出入国管理局に電話して、
「やっぱりだめです。ロシアからの出入国は自由ですが、キルギスへの入国ができるかどうかわからないので、チケットを売ってもよい、とは言われませんでした」と、どうしても売ってはくれません。「ノボシビルスクの出入国管理局に聞いて、ノボシビルスクの空港で買ってください」などと責任逃れなことを言います。
 ここがだめなら、別へ行ってみようと、『クラスノヤルスク・エアー』という航空会社へ行ってみました。そこでも、窓口の女性が私のパスポートとロシア居住許可証を持って、上司のところへ行きました。今度は、「売れます」ということです。その上司が管理局に問い合わせなくてよかったです。問い合わせていたら、同じ係官が出て同じことを言うところでした。
 ノボシビルスクからビシュケクへの往復チケットを半日もかけて何とか買うと、クラスノヤルスクからノボシビルスクへの寝台車のチケットも、飛行機の出発時間に合わせて買いました。

 さて、キルギスへは、本当にビザなしで入国できるでしょうか。旅行会社の人はできるといっています。家に帰って、インターネットで調べると、日本外務省のサイトの査証相互免除諸国一覧表にはキルギスは載っていません。キルギスの日本大使館に直接電話して聞いてみると、「できます」ということです。
「クラスノヤルスク市の管理局の係官はできないと言っているので、また、問題が起きるかもしれません。何か納得させられるものはないでしょうか」と言うと、その大使館員は
「自分が元赴任していたサハリンは、物分りのいい公務員が多かった、クラスノヤルスクは大変だね」と同情してくれて、ロシア語のサイトを教えてくれました。

キルギスへ

 ビシュケクの空港まで、交通機関を乗り継ぎながら自力で行き着かなくてはならない個人手配旅行は、出発地点から添乗員が付くのんびりしたパック旅行とは違って緊張感があります。
 5月22日の午後10時、といってもまだ明るい頃、クラスノヤルスク駅を寝台列車エニセイ号で出発しました。ロシアで、一人ぼっちの寝台車の旅は初めてではありませんが、いつも、どきどきします。時刻表はモスクワ時間なので、出発時間を勘違いしていないだろうかと、何度も確かめます。列車が到着するプラットホームも、到着の直前にアナウンスされるので、聞き漏らさないようにしなくてはなりません。列車の到着がかなり遅れることもあります。(最高8時間遅れて、駅で待っていた経験がある)
 列車が到着しても、車両の数が多いので、自分の乗る車両を捜さなくてはなりません。時々、その車両だけがあとで連結されに来ることがあります。でも、今回のは『豪華』寝台車エニセイ号なので、遅れはありません。『豪華』だけあってシーツ代が49ルーブル(200円)と高いです(普通は35ルーブル)。それから、普通の急行より少し速度も速く、運賃も3500円と高いので、満席ではなく、そのためトイレにあまり長い順番はできません。ちなみに、帰りは普通の急行で、運賃は2700円でした。

 さて、エニセイ号は、きっかり時刻表通りにクラスノヤルスクを出発し、12時間半後の23日午前9時半(時差が1時間)にノボシビルスク駅に到着しました。
 ノボシビルスク駅から空港までは、バスで行きます。80円です。荷物を持っていると160円になるのですが、私のかばんは小さいので、荷物ではないことにしました。ノボシビルスクの国際空港に着くと、万一のため、私はロシアからノービザで出国してさらに再入国できるのかどうか、空港の出入国管理課へいって確かめました。どうせ、4時間もあって暇だったのです。そこの係官から、キルギスのことは知らないが、ロシア側国境は問題ないと言われました。
 搭乗手続きも出国手続きのときも、
「ちょっと待って下さい、上司に聞いてきます」と、また、言われるのではないかと、はらはらしていましたが、無事通過できて、ほっとしました。
 キルギス航空機なので機内でのアナウンスは、初めにキルギス語、次はロシア語、そして英語の順で放送されました。乗客はアジア顔のキルギス人が半数くらいです。
 キルギス入国はとても簡単で、キルギス人より早く入国審査を通過したくらいでした。税関審査も簡単なものです。空港には手配した車の運転手が、ちゃんとバラの花を持って出迎えてくれました。
 8日間の全行程が、車と運転手付き、個人観光付き、食事付き、宿泊費付きで500ドルとは安いものです。

キルギス共和国のあらまし

キルギス共和国の地図

 中央アジアには、天山山脈西とパミール高原の西に旧ソ連邦だった5つの共和国(西トルキスタン)と、東に中国の新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)があります。パミール高原の大部分はタジキスタン共和国にあり、7495メートルの最高峰はソ連時代はコミュニズム(共産主義)峰と言われましたが、その後、イスモイル・ソモニというイラン系民族回教徒タジクらしい名前に改名されました。その北東に続く天山山脈はキルギス共和国と中国の新疆ウイグル自治区にまたがっていて、最高峰7439メートルのパベーダ(勝利)峰は、中国との国境にあります。日本の半分くらいの面積のキルギスの大部分が天山山脈かその支脈の3千メートル以上の高度にあります。人口は450万人ほどです。海抜3776メートルの富士山のある日本より、4506メートルのベルーハ山のあるのアルタイ(今年1月に訪れた)山脈はもっと高いですが、それより、キルギスは高いことになります。

 キルギスに着いて第一日目、ビシュケクの町を車で走ると、町のどこからでも3千メートル級の天山の支脈が見えました。頂上が雪に覆われて何と雄大ではありませんか。日本のように各山に名前はなく、大きな支脈ごとまとめて呼ばれているようです。しかし、一つ一つがこんなに神々しい山々を昔のキルギス人は崇拝しなかったのでしょうか。日本のように頂上に社でも建てなかったのかと、ガイド兼運転手のヴァロージャに何度も聞きました。
 しかし、今のキルギスの地に、どんな遊牧王国や、定住民の国があったかは、わかっていますが、キルギス人は昔どこに住んでいたのか、はっきりとはわかっていません。今のキルギス人は、チュルク系や、サモィエード族(今はクラスノヤルスク北部に住む北方少数民族)などとの混血で、エニセイの中上流から、今のキルギス共和国の地に来たのは、16世紀以後だというのが定説らしいです。エニセイに残ったのが、今のハカシア人の祖先だそうです。そんなに歴史が浅いのなら、バイカル地方やアルタイ地方ほどの伝説もないのはうなずけます。そのかわり『マナス』という英雄口承文学があり、いかにマナスがキルギス民族を栄光に導いたか、多くの語り部によって語り継がれました。
 ビシュケクの本屋で購入した大学生用『キルギス人とキルギスタンの歴史』という教科書によると、キルギスの名が中国の文献に現れたのは紀元前2世紀だと書いてあり、これは、隣国の古いイスラム文化の国ウズベックや、他のチュルク系民族の国、カザフ、タタールなどよりずっと古いのだと強調しています。その教科書によると、この天山の地域にいた古い民族の、(白いとんがり帽子をかぶっている)スキタイ人や烏孫人(ウスーニ人)も現在のキルギス人の祖先だとしています。

 キルギスの滞在はたった1週間ですから、今の季節に車で見て回れたのは、首都ビシュケクとその周辺(40キロ南のアラ・アルチャ峡谷も含めて)、ビシュケクから東方面のイスィク・クリ湖への道(ブラナ遺跡)と、イスィク・クリ湖の周辺(北岸のチョルポン・アタとグリゴリエフ峡谷から、東岸のカラコル市、『七匹の牛』峡谷、アルシャン峡谷、そして南岸)だけでした。シルクロードの主要道が通っていたフェルガーナ盆地のオシ市や、中部のナルィン川にあるナルィン市は見られません。ナルィン川は、天山山脈から流れてきて、フェルガナ盆地のあたりで、カラダリア川と合流してシルダリア川(ナルィン川を含めて2790メートル)となりキジルクム砂漠のそばを通ってアラル海に注ぎます
 イスィク・クリ湖の他にソング・クリ湖という海抜3千メートル(イスィク・クリ湖は1600メートル)にある湖も、当初の計画に入っていたのですが、そこへ車で行けるような道は雪でまだ不通だったので中止になりました。馬で行くという方法もありますが、2週間以上かかるそうです。ちなみに遊牧国キルギスでは、都会の外に出ると、馬が普通の交通機関です。車で牧夫が羊の群れを集める、なんてありえません。
 キルギスは、北東部のチュ−盆地、南西部のフェルガーナ盆地の他は、天山山脈の支脈が東西南北に走り、その合間を長短の急流が峡谷を作って流れます。大きな町は両盆地にあり、この国の大部分を占める山岳地帯には、その峡谷に沿って集落、または遊牧の基地があります。山岳地帯の集落へは険しい山の峠を越え、急流を渡っていかなければなりません。今のところ、車の通れるような道を作るより、馬を使うほうが経済的でしょう、自然破壊にもなりませんし。シルクロードやその枝道は、盆地伝いのいい道を通っています。

ビシュケク市

 ビシュケク市はチュー川盆地にあり暖かいので、木々や花々や果物野菜などは、シベリアのクラスノヤルスクより1ヶ月以上は早くできるばかりでなく、中央アジア産のネズの木や、クラスノヤルスクでは見かけたこともないような背の高いポプラや、シベリアにはない樫の木、桑の木などがあって町中が緑です。市場へ行くと赤や黒のさくらんぼ、杏、カザフりんごなどが売り台に山盛りになっています。やはり中央アジアです。シベリアからきた私は喜んでしまって、フルーツを食べ過ぎておなかの調子を悪くしてしまいました。
 ビシュケクは新しい町なので歴史的な建物はありません。『歴史的』と言えばレーニン像ぐらいが古い方に入るでしょう。しかし、新独立国キルギスは自分たちの国民性と、他の中央アジア諸国と違うという独自性、自分たちの歴史の古さなどを強調しなくてはならないので、市中心のアラ・トウ広場や樫の木公園には、キルギスの英雄(現代政治家も含めて)たちの像が並んでいます。
 市内見物で感心したのは、『マナス民族総合記念館』です。1995年に急遽、『英雄叙事物語マナス千年祭』のために建てられました。キルギス民族を強調した博物館です。千年と言っても『マナス』は口承文学ですから、年代ははっきりしていないはずです。でも、一応千年前と決めたのでしょう。
 「9、10世紀にキルギス民族は中央アジアのウイグル国家を破ってモンゴルから南シベリア、イスィク・クリ湖にかけてキルギス大帝国を建てたが、そのときのことが『マナス』に芸術的に物語られているのである」と現キルギス大統領が『私の心の中を去来した歴史』と言う本に書いています。1995年には国をあげての大祭日があったそうです。しかし、私が訪れた時『マナス総合記念館』は寂れていました。訪問者はいなくてガイドもいません。代わりにキルギス女性の番人が案内をしてくれました。
 「マナスっていったい誰なの」とキルギスに着いたばかりで何も知らない私が質問します。クラスノヤルスクの本屋にはマナスの本は見かけませんし、日本にいた時も、特に気がつきませんでした。
 「マナスというのはキルギス人の解放者よ」
 「キルギス人を、いったい誰から開放したの?」しかし、その職員は知らないそうです。
 「中国人からかもしれない。わからない。文字がなかったので、はっきりと歴史に残っていないから」とその職員の答えです。
 「キルギス側の歴史に残っていなくても、相手側か、第3者の歴史に残っているかもしれないでしょう」
 しかし、それ以上歴史問題で苦しまず、ユルタの中に入り、当時の勇士の衣装を身につけて写真を撮ったり、観光客らしく振舞いました。

 ビシュケクで見た主なものは、他には、国立歴史博物館です。また、市の郊外40キロのところにあるアル・アラチャ峡谷では、もっと近くで天山山脈が見られました。今回、峡谷は4ヶ所訪れましたが、初めに訪れたアラ・アルチャ峡谷は最も開けていました。つまり、面白くなかったです。その4つの峡谷が順番に面白くなっていったのでよかったです。

ブラーナ遺跡

 ビシュケクで2泊して、その次の日、ロシア人ヴァロージャの運転するドイツ製のかなりいい車の助手席に座り、チュ−盆地を東へ、イスィク・クリ湖の方へ出発しました。70キロほど行ったトクモク市の近くにブラーナ遺跡があります。これは10世紀から12世紀にかけて、天山からイリ川、アムダリアの東側までを支配したカラ・ハーン朝の首都ベラサグンの廃墟だそうです。カラ・ハーン朝はトルコ系イスラム王朝です。それで、ブラナ遺跡には回教寺院の塔や、霊廟、古墳の跡など残っています。古墳は完全に発掘されていないそうです。
 元44メートルあったブラナ塔は、ベラグサンが寂れた後、地震で上が崩れてしまいしたが、今24メートルくらいが残っています。観光客は上まで登れます。昔の回教徒もきっと手探りで登っていったかと思うような暗くて狭い螺旋階段を登ります。落ちたくなかったので、私も壁につかまりながら、壁を擦りながら(つまり手探りで)登っていきましたから、私の手のひらは粘土やレンガの粉で茶色くなりました。貴重な遺跡なのに、観光客が上る度に壁がやせていくでしょう。上に登り詰めると、塔の上から、チュー盆地の草原が四方に広がっているのが見渡せました。草原の終わったところには緑の山々、その向こうは白く雪をかぶった天山です。

 ブラーナ塔の横に小さな博物館があり、そこで買ったパンフレットによると、13世紀のモンゴル侵攻の時、他の中央アジアの町と違い、モンゴルとよい友好関係にあり、破壊されなかったばかりか、モンゴル語で『優良町』と名称を変更したくらいだそうです。また、パンフレットには、アラビア語でかかれた墓石の写真も載っていました。それまで、この地方はソグド人の文字からできた古代トルコ文字を使っていたのですが、カラ・ハーン朝の頃からイスラム文化が浸透し、文字もアラブ文字になったそうです。(前述の『教科書』)
 博物館の横の草の上に石彫像がたくさん立っています。これは、もともとここにあったものではなく、チュー川盆地の各地から集められたものだそうです。6世紀から10世紀頃のチュルク系人の墓石で、すべて男性の顔(ひげがあり剣を持つ)をしていました。中央アジアにイスラムが普及するとこのような墓石は立てなくなったそうです。
 石彫像や石柱は、クラスノヤルスク南部のハカシアにもたくさんあり、車で走ると、石柱群を見かけることがあります。でも、ここでのように、100基近くも一度に見たのは初めてです。

カザフスタン国境の遊牧民たち

 ブラーナ遺跡を出発してさらに東へ行きます。チュ−川を上流に向かって行くことになります。チュー川はカザフスタン共和国との国境にもなっています。つまり、川の向こう側に見えるのはカザフスタン共和国の村です。国境は人工的なものですから、昔から遊牧してきたキルギス人は、今でも国境を超えて遊牧ができます。でも、許可書が必要だそうです。川には数箇所橋がかかっていて、そこには、入国審査と税関が置かれています。特にそこを通らなくても、簡単に河を渡って国境越えができそうにも思いましたが。
 キルギス人は、カザフスタンから安いガソリンを買って密輸するそうです。

 チュ−川は、天山支脈からイスィク・クリ湖へ向けて流れてきて、イスィク・クリ湖まであと数キロと言うところで西に方向を変え、カザフスタンとの国境あたりでは、チュ−盆地を流れ、その先はカザフスタン国内を流れ、さらにその先のカザフスタンの半砂漠で干されて消えてしまいます。チュ−川からは、たくさんの用水が引かれ、おかげでチュー盆地で農耕ができます。牧草も豊かです。でも、7月8月になると、気温がもっと上がり、雨量も少ないので、牧草が枯れてしまい、牧畜はチュー盆地ではできなくなるそうです。それで、暑くなるにつれて、山に登ります。高度が上がると、気温が下がり雨量も多くなるので牧草も生えているわけです。このように、山国キルギスの遊牧は牧草を求めて垂直移動するわけです。
 キルギスは本当に遊牧民の国です。ウイグル人やウズベック人は農耕民だそうで、タジク人も山岳農耕民、トルクメン人は砂漠の半牧半農民族だそうです。

 「中央アジアの5つの新独立国の中では、キルギスが一番貧しいだろう、しかし、自分はキルギスが好きだ」、と、まだ、ソ連時代、イルクーツク州からビシュケクの工場に配置され、91年のキルギス独立化でも、ロシアに戻らなかった運転手ヴァロージャが言っていました。キルギスの独立後、ロシア人の割合は以前の半数の18%になりました。ロシア人の去った後には、キルギス人が住むことになったでしょう。
 18世紀、キルギスのロシア帝国への合体以来、ロシアの移民が建てた町は、『アレクサンドロフ』村とか『イワノフ』村とかロシア語風です。ロシア人が去って、キルギス人が住むようになると、キルギス風に村の名前を変えました。
 車中、助手席に座っていた私は、ビシュケクで買った地方ごとの詳しい地図を見て、
 「この先、5キロで次の村***(キルギス語)に着きますよ」などと言って『ナビゲーダー』役をしていたのですが、
 「その村は、昔●●●(ロシア語)と呼ばれていた。ロシア人の村だったのに。」と言います。「もちろん、ロシア人とキルギス人は一緒に住んでいることも多かったがね。」と付け加えていました。
日干し煉瓦を作っている。背景はイスィク・クリ湖 確かに家の建て方を見ると、ロシア風とキルギス風は違います。キルギス風の建物は日干し煉瓦で造られています。日干し煉瓦といえば、チグリスとユーフラテスの古代文明の人たちも、日干し煉瓦で作った家に住んでいたのではないでしょうか。この乾燥した国々では材料の粘土や藁はたくさんありますし、日干し煉瓦の家は夏は暑さを和らげてくれ、冬は暖かいのではないでしょうか。
 道の近くで若者が日干し煉瓦を作っていました。そばに山水がちょろちょろと流れていて、その水を引いてきて、この近くにいくらでもある粘土と雑草の葦(アシ)のわらを入れ、足でくちゃくちゃと混ぜています。その横には、もう型に入れたレンガや、型から出して山形に積んで干してある煉瓦もたくさんあります。一日で硬くなってしまうそうです。一つ一つの煉瓦がすごく重たかったです。もっと完全に乾燥したら、少しは軽くなるのでしょうか。


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