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金倉孝子の部屋
キルギス共和国、ビシュケクとイスィク・クリ湖(後編)
2004年5月22日から5月31日

(前編)
 出発まで
 キルギスへ
 キルギス共和国のあらまし
 ビシュケク市
 ブラーナ遺跡
 カザフスタン国境の遊牧民たち

イスィク・クリ湖へ
チョルポン・アタの野外博物館
『七匹の雄牛』峡谷
ドゥンガン・イスラム寺院
アルティン・アラシャン峡谷
イスィク・クリ湖南岸
『帰国』


イスィク・クリ湖へ

 ビシュケクから200キロほど走ると、イスィク・クリ湖東岸の町バルィクチュイ(旧名はロシア風のルィバチエ、これなら私でも『漁師の』という意味だとわかる)に着きます。ここから、イスィク・クリ湖が始まるのですが、先の湖岸へ行く道路はゲートがあって料金を払わなくてはなりません。外国人は10ユーロ、キルギス人は1ユーロです。私たちは車もビシュケク・ナンバー、運転手はキルギス国籍ロシア人、助手席にはアジア顔の私ですから、支払ったのは1ユーロです。
 ちなみに、ソ連崩壊後のキルギスに残ったロシア人は、キルギス国籍を取らざるを得なかったそうです。ということは、ロシア国籍を失ったわけです。それで、ロシアへは、外国人としていかなければなりません。ビザは必要ないですが、滞在期間と滞在場所は自由ではないそうです。
 私が利用したのは、社長がロシア人の旅行会社だったので、運転手や事務員もみんなロシア人でしたし、その会社を通じて泊まったホテルもロシア人がサービスするホテルでした。ヴァロージャの知り合いもロシア人が多く、彼は自分の子供がキルギス人と結婚するのはあまり賛成ではないそうです。

 バルィクチュイを過ぎると、待望のイスィク・クリ湖が見えてきます。湖の美しさは、言うまでもありません。バイカルよりもっと明るい青色に見えるのはキルギスの太陽のせいでしょうか。その青いイスィク・クリ湖の対岸いっぱいに、雪をかぶった天山の山並がぎざぎざに広がっているのでした。南岸にも北岸にも天山支脈のアラ・トー(『まだらの山』という意味)が、迫っています。北岸がキュムゲイ・アラ・トー(背中を太陽に向ける)と言い、南岸がテレスケイ・アラ・トー(顔を太陽に向ける)と言うのだそうです。
 イスィク・クリ湖は面積6280平方キロメートル(茨城県より少し大きい)でアジアで6番目の大きさです。最大深度は700メートルで、アジアで3番目。海抜1600メートルにあるので、この大きさと深さと高さは、南米のチチカカ湖に次ぐと、案内書に書いてありました。流れ込む川は多いですが、流れ出る川はありません。ですから、塩湖です。

 運転手のヴァロージャは運転をしながら、ガイドをし、また私の質問にも答えます。私は、運転手が眠くならないように絶えず話し掛け、地図を見ながらナビをし、さらに素通りできないと言う絶景のところでは、せめて写真でもとリます。
 右にイスィク・クリ湖、その対岸に遠く『顔を太陽に向けている』山脈を見、左手にはすぐ近くに『背中を太陽に向けている』山脈を見ながら80キロほど走ると、チョルポン・アタ市に入ります。ここはリゾート地で、ヨーロッパ風のプライベート・ビーチもあるホテルが、ぼちぼち建ち始めています。昔のソ連風宿泊所(施設も悪くサービスも悪い、でも安いかもしれない)は、もう営業していないようです。新ホテルを建築中だったり、夏のシーズンにむけて修理中のホテルもあります。働いているのはキルギス人で、ヴァロージャによると、このように、観光業が地元の失業対策にもなるそうです。日干し煉瓦をせっせと作って売っても、あまり収入は増えないからと言っていました。

 旅行会社の案では、ここのリゾート・ホテル『ロハット』で2泊もすることになっていました。『暑い湖』と言う意味のイスィク・クリ湖でも、5月はまだ冷たくて、海水浴もできませんから、1泊、それも夕方に着いて、朝出発ということにしてもらいました。
 まだ、シーズンが始まっていないので、プライベート・ビーチにはあまり人がいません。イスィク・クリ湖に沈む太陽というのも見たかったのですが、位置が悪くて見えませんでした。太陽は高い山の端に沈み、すぐ暗くなってしまいました。『ロハット』は広い敷地内にあり木がたくさん植えられ、よく灌漑されていました。ちょうどライラックのシーズンで、紫や白の花が満開で、背後の天山山脈やイスィク・クリ湖とよい取り合わせでした。

チョルポン・アタの野外博物館

 次の日、朝食を終えるとヴァロージャが迎えに来てすぐ出発しました。チョルポン・アタ市の博物館は、ビシュケクの歴史博物館のミニチュア版のようでしたから、ガイドの説明は、私にとってロシア語の復習のようで、ちょうどよかったです。
 近くに石画のある野外博物館があるので、そこも見物コースに入っていました。あまり近くはなくて、車で北西の、つまり山の斜面をずっと登っていったところにあります。このチョルポン・アタ『野外』博物館を見るだけでも、キルギスまで苦労してきた甲斐があります。『野外』博物館ですから、展示物を『各地から集め』、館内ではなく館外に展示してあるのかと思っていましたが、ヴァロージャがでこぼこした道をどんどん登って行き、やっと、「つきましたよ」といって車を止めたところは博物館と言うより、広い『石畑』のようでした。というのは、『背中を太陽に向けている』山脈の斜面からイスィク・クリ湖の湖岸まで続く長く広い斜面(42ヘクタール)一面に、大小無数の石がごろごろ転がっています。このごろごろ転がっている石のうちの数千個に、古代人が描いた絵があるのです。その『石畑』の野外博物館には、囲いもなく、ですから入り口もなく、ただ『チョルポン・アタ石画』と書いた立て札が立っているだけです。入場料がいくらとも書いてありません。車から降りて立て札のところに立っていると、小さな男の子が寄ってきて、
 「僕がガイドです」と誇らしげに言います。
 「何歳なの?」
 「7歳です。でもガイドです」と言い張るので、その子に案内してもらうことにしました。

チョルポン・アタ野外博物館の石畑で。豆ガイドたち 「斜面の上の方にある石画から見て回る3時間コースと、近くにある石だけを見る45分コースのどちらにするか」と聞かれたので、45分コースにしました。見学が始まると、さらに少年が2人(10歳と7歳)と、少し大きめの女の子3人(13歳と14歳)がやってきて、6人でわれ先に石画の説明をするのでした。ここにある大小の石の4000個に古代人が打刻した石画が今でもかなりはっきりと見えます。描かれているのは角が螺旋状に曲がった山羊や、角が枝のように分かれている鹿、馬、獲物を追う犬、駱駝などです。年代は、紀元前2000年から紀元後にわたっていますが、紀元前8世紀から3世紀のスキタイ時代のものが多いそうです。
 「とんがり帽子をかぶった狩人も、この石には見えます」と10歳ガイドが帽子の形を強調します。キルギス人の祖先はとんがり帽子をかぶっていたからでした
 男の子や女の子たち(そのうち一人はロシア人)は、考古学的、歴史的に貴重な石の上をぴょんぴょん飛び石のように飛んで、描かれた線がはっきりしていて、見やすい石のところに案内します。私は貴重な石を踏まないように、一生懸命、彼らに追いつこうとしました。家畜の糞も踏まないようにしなければなりません。

 天山山脈にはさまれた盆地とも言えるイスィク・クリ湖周辺には、旧石器時代からの遺跡が多く残っています。湖面に沈んだ遺跡もあります。2003年に行われたドイツの学術団体との共同調査の報告書(チョルポン・アタの売店で売れ残りのようなのを高い値段で買った)によると湖周辺の、どこに、どんな石画群や、古代集落跡、古代碑文、古墳群、石彫像などがあるか、それらのうち、どれが歴史的価値が高いか、どれが保存状態が悪く早急に処置を取らなければならないと書いてあります。このチョルポン・アタ石画群も処置が必要と警告しています。近くに家が建ち始め、石が移動されたり、落書きされたりしているからです。

 野外博物館の中で太陽を打刻した石で囲まれたコーナーは、古代神殿跡、または天体観測所跡だそうです。中央の石に座って空を見上げると、本当に見晴らしがいいです。空ばかりではなく、目下に広がる青いイスィク・クリ湖と対岸の『顔を太陽に向けている』山脈の白い頂上も見えます。

 全員のガイドにたっぷりとガイド料を払い、私とヴァロージャは次ぎのグリゴリエフ峡谷へ、出発しました。イスィク・クリ湖へ北岸や南岸の山々から多くの川が流れ込みますが、それらの川が自分の峡谷を作ります。峡谷にはたいてい、遊牧用の斜面の原っぱがあるようです。グリゴリエフ川峡谷には、勿忘草の原っぱがありました。小さな紫色の勿忘草が一面に咲き、原っぱは緑と紫のまだらに見え、そこをたくさんの羊の群れが泳いでいるのでした。
 車から降りて羊を触ろうとすると、みんな逃げていきます。馬に乗った牧夫が近づいてきて、
 「あの山羊なら触れるよ、慣れているから」と灰色の羊の群の端にいる白い仔山羊を指差していいました。でも、その仔山羊もやはり逃げていきました。ハイジのようなわけには行きません。羊たちは去り、また、一面の勿忘草畑が見えました。

『七匹の雄牛』峡谷

 イスィク・クリ湖の東の端にあるカラコル市に着いたのは夕方でした。ここは、天山山脈への登山者の基地です。ここで、装備を整え、登山に向けて出発するので、外国人(つまりヨーロッパ人)のアルピニストやトレッカーが泊まるホテルもあり、そこで登山用のジープを調達したり、ガイドを頼んだりすることができます。私が泊まったのはそんなホテルのひとつ『トルクメン・ホテル』で、前庭に軍用ジープのような悪路専用車が3台と、ロッククライミング練習用タワーがありました。さらに、去年日本の政府関係者が宿泊したそうで、その時のために建てたという茶室が中庭にありました。床の間もあり、横の空き地にはミニ竜安寺石庭もあって、なかなかそれらしく見えました。でも、床の間の生け花(ドライフラワー)がひっくり返り、茶釜も残骸に近く、障子らしいものも破れていました。注文すればコックが茶を立ててくれるそうです。でも、『トルクメン・ホテル』敷地内には、その日は私とヴァロージャ、それに、門を開けてくれたガードマンの他は誰もいませんでした。

 次の日は、午前中が『ジェーチ・オグス(七匹の雄牛)』峡谷へ、午後からプルジェワルスキー博物館へという予定です。
 『七匹の雄牛』峡谷へは、途中に『七匹の雄牛』村があり、2000メートルくらいの高度まで何とか車で登れる道があります。でも、迷子にならないように『七匹の雄牛』村でキルギス人の若者を同乗させて、道案内してもらいました。『七匹の雄牛』村には、高さが100メートル以上もの切り立った七個の巨大岩があるので、そう呼ばれています。その岩が赤色で縞模様があるので勇ましい雄牛に似ていないこともありません。遊牧の基地にもなっていて、キルギス人の移動式小屋もあります。そこでトイレを借りようとしたところ、ドアはなくて小さな男の子が数人いました。この辺は、もう、小さな子にはロシア語が通じないのか、「早く出て頂戴」とか「私が終わるまで、戻ってこないでね」といっても、わからないような顔をしていました。
トラックに乗って、『七匹の雄牛』峡谷へピクニックに行く地元の子供たち 峡谷を2000メートルも登ると、寒くなります。その分、白い天山山脈が近くなります。道の終わったところが、その名も『花の原』という勿忘草や、タンポポや、キンバイソウや、白や黄色や紫の名前も知らない花々が一面に咲いている斜面の原っぱです。高山植物でしょう。野生のチューリップもあって、球根を日本まで持って帰ろうと、根を掘っていったのですが、深くて届きませんでした。日本の高山にも、こんなに広くてきれいなお花畑があるかもしれません。でも、車で登れるうえ、自分たち以外に人がいないというのがいいです。少し離れたところに、山小屋が建っていました。最近できたものだそうで、管理人が出てきて、素泊まりは1泊200円だと言っていました。宿泊客は今のところ誰もいません。もっと離れたところの川向こうのお花畑には、地元の生徒たちがトラックの荷台に乗ってピクニックにきていました。

 その日の午後は予定通り、花の原から下りて、カラコルの郷土博物館、プルジェヴァルスキー博物館を見ました。プルジェヴァルスキーというのは、19世紀のロシアの学者、探検家で、道中のカラコル市で死亡しました。プルジェヴァルスキー記念公園の中に彼の墓と8メートルの立派な記念碑と博物館があります。カラコル市は、彼の死後、最近までプルジェヴァルスク市と呼ばれていました。つまり、彼はロシアにとって重要な探検家だったらしいです。でも、キルギス人にとっては、彼が探検する前からキルギスはあったのですから、町の名前にしておくほど、重要な人物とみなさなかったのか、元の名前に戻しました。

ドゥンガン・イスラム寺院

カラコル市のドゥンガン人の中国風イスラム寺院 イスィック・クリ州の州都カラコル市には、ドゥンガン・イスラム寺院があります。ドゥンガンは、キルギスと国境を隔てた中国北西部に住むイスラム教の回族のロシア語読みだそうで、19世紀末、回族の一部がカラコルにやってきました。ドゥンガン人の立てたイスラム寺院は屋根の形も全く中国風です。
 イスラム教では具体物を寺院の中に描くのは禁止されているのですが、ドゥンガン人は、中国風にトラやユキヒョウや竜を描いたと、前述の『ドイツ学術団との共同調査報告書』に書いてあります。
 残念ながら、女性は内部に入れません。ドアの外側から身を乗り出して覗き込んでいると、イスラム教の若者がやってきて
 「どこから来たのか」と聞きます。「日本人なら漢字がわからないだろうか、自分が、そのデジカメで、内部の文字を撮ってくるから、読んでほしい」と言います。中国回族の書いた漢字が私に読めるかどうかわかりませんでしたが、撮って来てもらう事にしました。見てみると撮り方が悪かったのか、写りが悪くてさっぱりわかりませんでした。

 カラコル市2泊目はヤク・ホテルになりました。民家を改良して家族でやっているようなホテルで、着くなり、オーナーが
 「ここには日本人がよく泊まる。シミズさんと言う人は自分たち以上にキルギス語が上手だ、毎年来てくれる、タカシさんという人は・・・」と話し始め、そのうちオーナーのお母さんが出てきて
 「私、日本料理ができるの、お寿司なんかどう?」と言い出します。何と言う親日家ホテルでしょう。寿司用の海苔はシミズさんが持ってきてくれたそうです。わさびも持ってきてくれて、まだ少し残っているそうです。握り寿司では魚はどんなのが出るかわからないので、安全な巻き寿司にしてもらいました。
 かなり待って、出てきたお皿には、細長い海苔巻が5本切らずにのっていました。自分でナイフで輪切りにしようとしても、海苔が湿っていて切れません。手でちぎろうとしてもだめです。何とか食べてみると酢飯ではなく普通のご飯でした。
 「お味はいかが」、と先ほどに女性に聞かれるので、寿司は酢飯にするし、中に、(干瓢はないにしても)卵焼きとかきゅうりとかはさんで巻きますが、と言ったところ、
 「ご飯に酢を入れて出したら、タカシさんが食べなかったのよ」ということです。「タカシさん」もご苦労様でした。
 結局私は、その日、ヤク・ホテルに泊まらず、昨日のトルクメン・ホテルに戻りました。ヤク・ホテルは部屋は立派でしたが、バス・トイレが付いていなかったからです。

アルティン・アラシャン峡谷

 翌日、ヤク・ホテル専属のジープに乗り、ヤク・ホテル専属のガイドがついて、アルティン・アラシャン峡谷に出発しました。古くて見てくれも悪いジープでしたが、悪路用に改良してあるのか、石の突き出た砂利道だろうが、かなり深い水溜りだろうが、川が流れ込んでいる道だろうが、どんな道でもぐいぐいと進んでいきます。ジープには、運転手、運転手の友達の機械整備士、23歳のガイド兼コックのイーラ、19歳のガイドの青年イーゴリ、それに私とヴァロージャです。運転手はロシア人でしたが、機械整備士の方は、身なりはキルギス風、顔つきはスラブ系で、聞いたところ、いろいろと混血しているそうです。

鉛筆を立てたような天山モミとガイドたち 2,3時間ほど揺られていったところで、ジープは止まりました。目的地まで後7キロあるのですが、3月に起きた雪崩で道がふさがって、車は通行できないからです。雪崩の現場の直前までは、ジープで行けます。そこから、イーラ、イーゴリ、ヴァロージャ、私の4人は近道の山道を通って、目的地へ向かいます。いつも、車かバスで回るような楽な旅ばかりしてきた私には7キロの山道はちょっとした運動です。でも、キルギスまで来たのですから、天山のたとえ支脈の支脈にでも登って、アルピニストの気分を味わおうと思いました。
 途中の山の斜面には天山モミの細く高く尖った木々が、鉛筆を並べて立てたように生えていて、道のずっと下にはアラシャン川が白くあわ立って流れていきます。
 20キロ以上もある料理用燃料ボンベを背負ったイーラはもう千回も来たことがあると言って、軽々と先頭に立って歩いていきます。同じくボンベを背負ったイーゴリも、自分は5020メートルの山をほとんど特別な装置なしで登ったことがあると話しながら、私たちの後ろから登っていきます。時々馬に乗ったキルギス人が追い抜いていきます。

 キルギス人は農業にあまり従事しないので、イスィク・クリ湖南岸にある耕地を中国人に賃貸しすると言う話があるそうです。中国人は耕作が上手なので、キルギスは農産物が豊富になります。天山山脈の峠を越えれば、中国の新疆ウイグル自治区です。新疆ウイグル自治区は数年前まではウイグル人が多かったのですが、今は中国人が爆発的に増えたそうです。それで、新疆ウイグル地区の中国人は、さらにキルギスにも広がることができるのです。
 イスィック・クリ州の一部を中国人に賃貸しするという案に、イーラは反対ではないそうです。中国人が増えることになるけれども、それは、キルギスにロシア人以外の外国人が増えることで、イーラにとっては、その方がいいそうです。もし、揉め事があった時、裁判官も判事もキルギス人ですから、ロシア人に不利です。でも、中国人が増えるとキルギス人対ロシア人の関係も変わるからだそうです。

 アルティン・アラシャン峡谷にラドン湯が湧き出ているところがあり、そこに小屋を建てて入浴できるようになっています。そこは斜面の野原で、少し離れたところにヤク・ホテル専用宿泊小屋があります。
 着くとすぐにイーラが豪華な食事の準備を始めました。そのために担いできた燃料用ボンベがあります。

私を無視して通り過ぎる羊の群れ アルティン・アラシャン峡谷斜面野原の高度は2600メートルなので、かなり寒いです。天山モミももっと細くなり、小屋のある高地は一面牧草と高山植物の花畑です。キルギスでは普通の旅行者の回るような所はどこも、旅行者が来るようになるずっと前から遊牧地でした。アラシャンは川のほかに温泉まであるので、特級の遊牧地です。遠くや近くに、羊や山羊の大群が斜面を回っています。近くまで行ってみると「べぇーべぇー」とうるさいのでした。近づいて触ろうとすると逃げていきますから、先回りして、羊たちの進行方向にあたる場所にカメラを持って立っていました。牧羊犬に守られて羊の大群が私のほうへ襲ってきます。たいていは、私を無視して、私の横の草を食べながら先へ進んでいくのですが、中には、立ち止まってしげしげと私を見る羊もいて、よい被写体になってくれるのでした。羊の群のいるところより、高い斜面には山羊がいます。

5020メートル(に成長した)テント峰 この遊牧用高原は少し緩やかめの斜面になっていますが、周りは高い山々に囲まれた峡谷です。アラシャン川が流れてくる川上のほうにテント型の白くそびえる山が見えます。これが5020メートルの『テント峰』で、イーゴリがガイドとして踏破したことのある高峰だそうです。この山小屋は、『テント峰』やこの先の天山山脈へ登る基地です。アラシャン川は何千メートル級という山々から流れてきますし、その山の向こうにも、またもっと高い山々があります。ずいぶん高いところのすぐ近くまで来たものです。
 実は、山から下りて、地図を見たのですが、私たちのいた地点から、アルシャン川の上流方向に直線距離で20キロほどのところに4956メートルの高峰(これがたぶん『テント峰』)があります。地図ができてから後、実際の山が64メートル成長したのかもしれません。

 ラドン湯に、入浴しました。入浴小屋の管理人はロシア人です。外国人の入浴料は50ソム(150円と高い)でキルギス人は10ソムだそうです。アルシャン高原には、遠くのユルタ(移動式組み立て小屋)に住むキルギス人の牧夫の他は、私たちと、その管理人だけでした。
 イーラの作ったおいしい食事を食べたり、羊と遊んだり、高山植物に見とれたりしているうちに雨が降ってきました。小屋に入ってペチカにあたりお茶を飲みながら、山の話をして、そのうち暗くなったので、ろうそくを持って寝にいきました。私だけが客なので、2階のベッドのある部屋に寝袋を敷いてもらって寝ます。

イスィク・クリ湖南岸

 次の日はよい天気で、昨日来た道を通って、雪崩のあった場所までいくと、もう、ジープが私たちを待っていました。カラコル市へ戻る途中の村で、馬に蹄鉄を打っていました。馬が驚かないよう縛って、一本一本の足を持ち上げて、古くなった蹄鉄をはずし、余分の蹄、つまり爪を削り、新しい蹄鉄を打ち付けています。キルギス人の職人が
 「これはね、馬にとって必要なことなんだよ、馬はちっとも痛くないのだよ。お姉ちゃん、あんたが、爪にマニキュアを塗っておしゃれするようなもんだよ」と言いながら、太い釘を足に打ち付けているのでした。周りには、順番待ちの馬がつないであり、馬の持ち主たちが、仕事の様子を見ています。

 この日、ヴォロージャと私はイスィク・クリ湖の南岸を回り、夜までに、出発点のビシュケクに帰らなくてはなりません。南岸は北岸より集落が少なく、山は険しく、土壌は乾燥していますし、植物の成長できない粘土質の丘陵が続いています。

イスィク・クリ湖南岸のイスラム墓地と天山 村の近くには必ず村人の墓地があります。田舎ではロシア正教の墓地を見かけるのはまれで、たいていはイスラムです。小型モスクの霊廟が幾つも立ち並んでいます。一基に一人葬られているそうです。遠くに白い天山、近くには木も生えていないごつごつとした山々、崩れかかった霊廟もあるイスラムの墓地、さらに青いイスィク・クリ湖、これが、半日で通り過ぎた南岸の印象です。

 バルスコン川という川が、南岸の『顔を太陽に向けている』山脈から湖に流れてきます。バルスコン峡谷にカナダとの合弁で鉱物を発掘精製する工場があるそうです。しかし数年前、事故でシアン化物がバルスコン川に流れ出し、湖の魚が死んだり、住民にも死亡者が出たそうです。ヴォロージャや、イーラたちが話していましたが、全貌は報道されませんでした。バルスコン川はせき止められ、シアン化物は中和され、間にあわずに流れ出た物質は、今では、湖が自然の力で浄化してしまったそうです。

 そのバルスコン川を渡るとイスィク・クリ湖南岸も半分近く通り過ぎたことになります。そうして、イスィク・クリ湖に別れ、4日前に通ったチュー川盆地を今度は西進して、ビシュケクに暗くなる前に着き、ホテルで1泊した次の日の朝、空港へ向かいました。
 空港近くにはアメリカ軍の基地があります。ヴォロージャによると、以前、空港まで送迎したことのあるスウェーデン人旅行者が、基地のゲートの通行止めバーをくぐり抜けて写真を撮ろうとして、カメラを没収されたそうです。ヴァロージャは職業柄、私も含めていろいろな旅行者と付き合うわけです。私の次は、スイス人の考古学者夫婦の運転手をするそうです。

『帰国』

 ビシュケクの空港からロシアのノボシビルスク空港へ『帰国』し、空港からキルギス航空会社の無料バスサービスで鉄道の駅へ向かい、そこで、数時間の待ち時間を、ロシアにしてはとても清潔な駅の待合室で居眠りして過ごし、時刻どおり発車のクラスノヤルスク行きの寝台車に乗り、無事『自宅』に帰ってきました。

 『帰国』して、友達に「キルギスは・・・、キルギスの山は・・・、キルギスの歴史は・・・、」と熱心に話すものですから、「クラスノヤルスクには、『ロシア・キルギス友好協会』もあるから顔を出してみたら」、と言われたくらいです。そこに入会して、キルギスのことをもっと知りたいものです。
 ちなみに、エニセイ川中上流に残ったキルギス人と言われるハカシア人のハカシア共和国は、クラスノヤルスクの南部にロシア連邦の一自治体としてありますが、ハカシア人の人口の割合は13%ですし、大統領(つまり知事より少し自治権が強いらしい)はロシア人です。ハカシア人はキルギス人とお互いの言葉で話が通じるそうです。
 キルギスでたくさん本や地図を買ってきましたが、キルギス語の初等文法書と辞書を買ってこなかったのが残念です。これがあれば、せめて地名を訳せて、地図を見ていても面白いのですが。


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