月刊デラシネ通信 > ロシア > 金倉孝子の部屋 > タイムィール半島、ドゥジンカ市からハータンガ村
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『不思議の国』タイムィール自治管区について どうしたらそこに行けるか
ノリリスク空港到着
世界で最北の自動車道と鉄道
ドゥジンカ市でのホームスティ
ドゥジンカ港
凍土帯での建築の不経済さ(と、思う)
ツンドラ体験
エレガントな公害都市ノリリスクからハータンガへ
ハータンガ区
ハータンガ村博物館
ハータンガ村を歩く(役場、病院、図書館)
村の郊外へピクニック 現地のグルメ
孫たちと親戚の若夫婦
トナカイ
『もっと田舎へ行って少数民族の生活や文化に触れる、魚釣り』へ出発
始めの『もっと田舎』
さらに『もっと田舎』体験
民族語女流作家のオグド・アクショーノワ
11日間の『日帰り旅行』
旅行の目的は
もう8年間も私が住むクラスノヤルスク地方の北に、エヴェンキ自治管区という自治体があります。さらに北にタイムィール(ドルガノ・ネネツ)自治管区があり、その先は北極です。タイムィール自治管区は面積が日本の2倍半ほどあり、人口は4万人あまりです。地図で見ると、タイムィール半島はユーラシア大陸の最も北にあり、半島の北端チェリュスキン岬は、北緯77度43分で、スカンジナビアや北米大陸の北端より緯度が高いです。そもそも、タイムィール自治管区全体が、北緯66度33分以上の北極圏内にあるのです。つまり、夏至の頃は太陽が沈まず、冬至の頃は太陽が上らないという不思議の国です。
いつか、できるだけ北へ行って、夜中の太陽でも見ながら何日か過ごしたいものだと夢見ていました。でも、タイムィールは観光地ではないどころか、ロシア連邦保安部(旧KGB)や国境警備隊の許可がないと近づけません。北極に向かう北の国境なので、多くの軍事基地が作られ国境警備隊が警備しています。さらに、半島にはロシア経済にとって重要なノリリスク・ニッケル銅鉱山があるため、ソ連時代から、住民と関係者以外は出入りできないことになっています。ちなみに人口20万余の鉱業都市ノリリスクは世界で最も北にある(北緯69度)都市で、タイムィールにあるのに、タイムィール自治管区(自治体)に属していなくて、クラスノヤルスク地方(自治体)に直属しています。クラスノヤルスク地方では人口88万のクラスノヤルスク市が一番大きいのですが、ノリリスク市が2番目です。
でも、最近は、外国からマンモスの研究者や、北極圏の動植物や人類学の研究者たちが訪れているだけでなく、北極点へ行くためのヘリコプターをタイムィールからチャーターする外国人旅行者もいるようです。私のような普通の旅行者も行けそうですが、やはり、担当機関の許可手続きが必要です。ロシア人でもタイムィール方面行きの飛行機のチケットは許可なしでは売ってもらえないのですから。
旅行会社が手続きを代行してくれるかもしれません。そこで、クラスノヤルスクのいくつかの旅行社にあたってみましたが、「タイムィールは扱っていない、どうしてそんなところに行くのですか、黒海の保養地や地中海など他にいいところがいっぱいありますよ」と言われてしまいました。でも、旅行会社はたくさんあります。
クラスノヤルスク地方をほぼまっすぐ南から北へ流れて、タイムィール自治管区内も通り、北極海に注ぐエニセイ川のクルーズは、外国人船客も受け入れています(そのクルーズは北緯69度のドゥジンカ市までしか行かない。私も一昨年クルーズしてみた)。そのクルーズを企画しているエニセイ旅行会社がそうした手続きができるはずだと思いつきました。
冬休みの冬至の前、「北極圏の夜とオーロラを見に行きたいのですが」と、その旅行会社にあたってみました。地図で見ると、ドゥジンカやノリリスクよりもっと北の、タイムィール半島の東側のラプテフ海(北極海の一部)に注ぐハータンガ川の右岸にハータンガ村(北緯72度)があります。それより北にも小さな村がありますが、定期便の飛行機は飛んでいないようです。ですから、その最北のハータンガへ行きたいと言いました。でも、その旅行社でも、「冬場は観光できるようなところはなく、外国人ツーリストを受け入れる機関も探せないから、個人旅行はとても難しい」と言われました。飛行機も冬は飛んだり飛ばなかったりでしょう。
それでは、夏至の頃の旅行ならどうだろうかと、半年後、また、同じ旅行社を訪れてみました。「可能だ」ということで、訪問地をドゥジンカ、ノリリスク、ハータンガにしてもらって、フライトのダイヤを見て日程を組んでもらいました。ここで難しいのは、ドゥジンカにもノリリスクにもハータンガにも旅行会社はないので、私を個人的に受け入れる機関を捜さなければならない、と言うことらしいのです。エニセイ旅行社はドゥジンカの市役所に電話して、市の文化委員会青少年ツーリズム・センター所長に、私の受け入れ責任者になるよう頼んでくれました。ハータンガ村のは、郷土博物館館長が、私の受け入れ責任者になることを引き受けました。つまり、この自治体の職員の人たちが、私の保証人となってくれたわけです。こうして保証人を立て、ロシア連邦保安部に申請をしてくれました。そして、出発の前日にファックスで『認可する』という印鑑の押された私の旅行日程表が送り返されてきて、やっと私の夢は実現できることになりました。ました。ただ、旅行会社に支払った金額は安くなかったです。クラスノヤルスクからノリリスク空港(そこからドゥジンカまでは、車で往復できる)までと、ノリリスクからハータンガタまで、ハータンガからクラスノヤルスクまでの3種類の飛行機のチケット代が、全部で約500ドル、ドゥジンカの3日間(ノリリスクも含めて)の滞在費と食費、観光費(車代を含む)が300ドル、ハータンガ村8日間も300ドル、旅行会社の手数料も300ドル、合計で1400ドルかかりました。
300ドルの手数料を受け取った旅行会社の人も、このファックスで送られてきた書類で、本当に、私が、クラスノヤルスクから、ノリリスク行きの飛行機への搭乗が許可されるものかどうか、心配だったらしく、6月22日朝早い出発だったのですが、見送りに来てくれ、搭乗手続きもやってくれました。ちょっとまだ問題があるようです。
クラスノヤルスクからノリリスク空港までは約1500キロの距離があり、小型ですが地方便にしては上等な飛行機で2時間ほどです。着陸すると、内務省職員が機内に入ってきて乗客一人一人のパスポートを調べ、問題がない乗客はタラップを降りていきます。私は、もちろん問題ありで、誰もいなくなった飛行機の座席に一人座ったままです。やがて、内務省の車に乗せられて、空港の一室に連れて行かれ、もう一度、書類が調べられて、やっと放免されました。
ドゥジンカでの私の保証人が、この空港まで迎えにきてくれているはずです。普通の乗客とは違う出口から出たので、私を見つけられないようでしたが、私の方から見つけました。ドゥジンカ市とノリリスク市は85キロほど離れていて、ノリリスク空港はその中間にあります。
『内地』からノリリスクへ行くには、ノリリスク空港への航空便かドゥジンカ港への船便のみです。ドゥジンカ港からはノリリスク鉱山のニッケルや銅を積出し、ノリリスク鉱山会社や住民の必要物資を受け入れます。港からノリリスク市までの85キロは陸送しなければなりませんが、それが、世界で最北の自動車道と鉄道です。しかし、陸送というのがツンドラ地帯では簡単ではありません。凍土帯のため地盤が不安定なので、舗装道路が沈んだり浮いたりしないように、下に数メートルの高さに砂利が敷いてあります。それでも道路がでこぼこしてスピードは全く出せません。道路と平行に走っている鉄道にいたっては、年に何度も修理しなければなりません。危険なので、今は貨物しか運んでいないそうです。以前は乗客も運んでいたのですが、85キロを走るのにまる1日もかかったそうです。タイムィール自治管区には、この他に自動車道路はありません。夏のツンドラと言うのは、地表近くの氷が少し融けるのですが、その水分は、気温が低いのであまり蒸発しませんし、地下は氷なので地面にしみ込みもしないで溜まっているという、一面の湿原と湖沼地です。冬はまた一面の氷原で、普通でも零下40度50度と気温が下がりますから、ツンドラとは普通では人間が住めるような所ではないです。少なくとも、大きな町や道路を作って住むようなところではないです。でも、そんなところに、スターリン時代、鉱山を開いて、鉱山労働者のための町や鉱物輸送のための港町を作り、鉱山と港を結ぶ道路や鉄道を敷き、ソ連経済発展に(むりやり)貢献させました。それらを作ったのは、無料の囚人労働力です。ですから、この辺のものはみんな『囚人の白骨の上に立っている』わけです。
空港まで出迎えてくれた保証人のルービナさん(ロシア人)と一緒に車でドゥジンカへ向かいました。車の窓から見える景色がツンドラです。途中そのツンドラに縞模様のレーダーが4基、高くそびえています。冷戦時代は緊張していたでしょうが、今はなんだか寂れた感じです(その方がいいですが)。さらにしばらく行くと、ツンドラの中、道路わきに、数軒の高層アパートが立ち並び暖房設備のパイプが通っている小さな町が見えました。遠くから見るとなかなか近代的な町ですが、ここには今は一人も住んでいません。近づくと廃墟なのがわかります。航空関係者(つまり空軍)が住んでいたそうです。
やっと許可を取って、遠くまで来たのですから、見えるものは何でもぱちぱち写真に撮っておきました。
7月22日から3日間は、ドゥジンカ市に住む先住北方少数民族のひとつヌガンサン人の家庭にホームステイし、そこのディザールさん(ヌガンサン語で光と言う意味)と言う女性から、ヌガンサン人の伝統や習慣、祖先の事を教えてもらったり、ディザールさん執筆のヌガンサン語の初等読本を見せてもらったり、ディザールさんしか持っていないという古い時代の白黒ビデオフィルムを見せてもらったりしていました。ヌガンサン人の祖先は数千年前からこの地に住んでいた最も古い、最も北方の民族だと、ディザールさんが強調していました。その後、南から移動してきたツングース人(と彼女が言った)やサモイェード人と交流して、今のヌガンサン人ができ、タイムィール半島中部で広く野生トナカイの狩猟をして暮らしてきました。17世紀、ロシア人が来るようになると、伝染病の抵抗力のなかったヌガンサン人に天然痘などが広まったりして人口が減っていき、今では800人くらいしかいません。それも、両親のどちらかが非ヌガンサン人だったりします。ディザールさん自身父親はロシア人で、夫もロシア人です。超少数民族のヌガンサン人はもうお互いが近い親戚のようなものなので、結婚しない方がいいそうです。
エネツ人、ネネツ人、ドルガン人の人たちとは、ルービナさんのセンターでお茶会を開いてもらって知り合いました。私の会った少数民族の人たちはみんな年配の教育のある女性で、レニングラード民族大学やクラスノヤルスク教育大学出身者だったりして、民族語の辞書編集者でもあるそうです。少数民族の男性たちの方は、あまり教育を受けたがらないそうです。
さて、クラスノヤルスク市からエニセイ川に沿って下流へ2000キロほど行ったところにあるのがドゥジンカ港で、さらに、200キロほど北へ下ると、エニセイ湾へ出ます。エニセイ湾は、北極海の一部のカラ海に面しています。ですから、ドゥジンカ港はエニセイ川を通じてクラスノヤルスク市と結ばれ、北極海を通じてムルマンスクやアルハンゲリスクと結ばれるというシベリア北部の重要な港なので、冬でも営業をしています。大企業ノリリスク鉱山会社が港と船舶運行関係のすべてを経営しています。冬は、ムルマンスクから原子力砕氷船がやってきますが、『北洋航路号』などの原子力砕氷船は、世界中どの港からも寄港を断られているので、ロシアの国内輸送だけしているのだと、ルービナさんが言っていました。氷が張っていない今は、エニセイ川をさかのぼる河川艇、エニセイ川を下って北極海へ出る外洋船などの数隻が停泊しています。ドゥジンカ港は、毎年春先(つまり5月後半)の増水期には埠頭が水に浸かるので、クレーンなどの港湾施設は高台に上げておきます。多いときでは水位は20メートル以上も上がるそうです。私の訪れた6月後半は、まだ春なので、クレーンは高台にあり、埠頭の半分は水に浸かっていました。
ほんの1週間前にやっと緑の芽が出てきたそうです。北極圏の夏は短いので、植物たちは急いで芽を出し、急いで花をつけ、実を結び、枯れなければなりません。「10日間もここにいると周りの景色ががらりと変わりますよ」と言われましたが、私はドゥジンカには3日間しかいなくて、春らしくなる前に、もっと北のハータンガへ行きました。そこではまだ春先でした。
タイムィール半島の土地は凍土なので住宅建築は超困難です。昔の北方少数民族は、円錐形の組み立て移動式の住居チュムなどで暮らし、定住はしていませんでした。冬季だけ小さな集落で暮らしていました。でもドゥジンカは近代的自治体の行政中心地ですから、5階建て6階建てのアパートが幾つも建っています。どの家も、何本もの杭の上の、地面から1,2メートルも高いところに建っています。普通の土台で建てると、夏に家の下の凍土の表面が融けた時地面が下がり家が傾き、冬凍りついた時地面が上がりさらに家が傾きます。凍土の中深くまで杭を何本も打ち込み、その杭の上に家を立てれば、凍土地層が少し融けても家は傾きません。家の熱で凍土ができるだけ融けないように『縁の下』は囲ってあり、中はひんやりと冷たく氷が融けずにたまっています。杭をどのくらい深く地中に打ち込まなければならないのかは、家の高さ(つまり重さ)や、凍土の厚さ、その土地の地中の状態によって違うそうですが、数十メートルは打ち込むそうです。建築費の大部分は杭代に使われます。ドゥジンカの町づくりはとても高くつくわけです。ペレストロイカの後はほとんど新しい建物は作られず、人口も減っています。
住民の中でロシア人は、内地から働きにきた人が多く、帰る家を持っているので、北方特別地の賃金の高いところで十分稼いだ後、戻っていくそうです。ルービナさんも、ずっと住むつもりはないといっていました。ドゥジンカは積出港としての経済的意味しか今はなくなったので、それに関係しない内地からの出稼ぎ者は、戻っていき、人口は減っているのだそうです。「若い資本家が新知事になったからね、儲からないようなことはどんどん省いていくのよ」と、ルービナさんが言っていました。
旅行社が作ってくれた日程表の中にはツンドラ体験というのも入っていたので、ツンドラに詳しいニコライ先生という人と一緒に出かけました。ルービナさんの車にゴム長靴も忘れずに積み込みました。
ツンドラへ行くといっても、町から一歩外へ出れば、ツンドラです。でも、車で20キロほどは離れたところまで行きました。舗装道路の両側にツンドラが広がっています。別の言い方をするなら、ツンドラという湿原と湖沼地の中にドゥジンカとノリリスクという人工島があり、その間を道路が橋のようにかかっているわけです。私たちは道路の端に車を止め、ツンドラに入るために長靴を履きました。ルービナさんは車の番です。ニコライ先生は「ツンドラの匂いはいいな、久しぶりに来たな」と言ってタバコを吸いながら、先へ進みます。矮小の柳や、矮小のハンノキ、矮小の白樺が芽を出しています。バグーリニク(つつじの1種)の花はまだ咲いていません。これが一面に咲くと、いい匂いで頭がくらくらするそうです。コケや地衣類が分厚く生えていて、歩くとふわふわします。所々に融けた氷水がたまって、コケやビート(泥炭)の間で沼地になっています。そんなところを、ニコライ先生は沈みながらもずんずん進んでいくのですが、私は怖くて入れません。ためらっていると、ニコライ先生が、戻ってきて、「凍土帯の氷はまだそんなに溶けてはいない」、と近くに生ええているコケとその下の泥炭をどかして10センチほどの穴をあけ、底を触ってみています。「ほら、硬くて冷たいでしょう」というので、私も触ってみると、かちかちです。土をこすってみると本当に透明な氷の頭が見えてきました。これが有名な凍土なのかと、感心して何度も頭を撫でておきました。
底なし沼でないことがわかったので、ニコライさんの後について進んでいきました。もっと夏になると凍土がさらに溶けて、通行不能な沼地になるそうです。でも全部融けることはありません。(だから永久凍土地帯です)。夏、ツンドラが通行不能になるのは、沼地のせいばかりではなく、蚊やサシバエが巨大集団で襲ってきて、防御装置などがなければ、すきまなく刺されて死んでしまうからです。ですから、夏のツンドラを避け、野生トナカイも家畜のトナカイももっと北方か高山へ移動します。
ドゥジンカはツンドラ地帯の中でも南部ですが、まだ、所々に雪が残っています。特に斜面の北側に多いです。融けないうちに新しい雪が降ることも珍しくないそうです。
ドゥジンカ滞在中に、連邦保安部ドゥジンカ国境警備部へ出向き、次のハータンガへ行く許可書をもらってきました。それには8月31日まで有効、副司令官マトヴェエフ少佐と署名されています。ずいぶん長い間ハータンガ滞在が許可されているものです。
25日はドゥジンカを出発して、ノリリスクに向かいました。ニッケルや、銅精錬工場の煙突の煙は遠くから見えてきます。聞いてはいましたが、公害の状況は厳しいようです。近づくにつれて、醜い工場の建物や、パイプ、廃水池が見えてきます。しかし、郊外の一群の工場地帯を通り過ぎて、市街地に入ると、そこは一転してサンクト・ペテルブルグ風の町並みです。ごみごみしたドゥジンカ市とも大違いの洗練されたミニ都会です。でも、その日は風がなかったので、スモッグで、隣の建物もぼやけて見えるくらいでした。長居はしたくないと思いました。
歴史博物館も休みで、『ノリリスクで最初の家の記念館』というのだけを見学して、空港に直行し、ハータンガ行きの飛行機に乗り込みました。普通の搭乗手続きのほかに、迷彩服の職員がさらに許可書を調べます。
飛行機は、ロシアの地方便ではよく見かける小型のおんぼろ機体でしたが、ドゥジンカから800キロを1時間40分という普通の速度で飛び、無事ハータンガに到着しました。ハータンガ行きの乗客は、ドゥジンカなどの学校で学び、夏休みを過ごしに両親のところに帰る少数民族の生徒や学生たちが大部分です。ちなみに、ハータンガからの乗客は、夏期休暇を過ごしにクラスノヤルスク方面に帰るロシア人が大部分です。
空港に迎えてくれたのは、ここでホームステイすることになっているエヴドキヤ(ドルガン語ではオグドゥオ)・アクショーノワさんで、一面識もないのですが、すぐに私の方から見つけました。というのも、たった5500人の村ですから、飛行機内で知り合った人に、「博物館館長のエヴドキヤさんを見つけたら教えてね」と頼んでおいたのです。
北極海に突き出たタイミール半島の西側の海にはエニセイ川が流れ込み、東側にはハータンガ川が流れ込んでいます。半島の付け根にあるプトラナ高原から、大回りして北へ流れていくカトイ川と、北シベリア低地を北東に流れてきたヘタ川が、フタルェ・クレストィ村で合流してハータンガ川となります。長さは227キロですが、カトイ川とあわせると1636キロです。4000キロのエニセイより小さく、1870キロのヨーロッパ・ロシアのドン川と並ぶくらいですが、ツンドラ地帯の人口稀薄地帯を流れるので、ハータンガとその上流のヘタ川に沿って、7個の小さな村があるだけです。タイムィール半島の最北を除く東半分は、全部ハータンガ区で、人口は約9500人です。日本と同じほどの面積のハータンガ区には、その他に、パピガイ川のパピガイ村、ハータンガ湾のノヴォリブノエ村、センダスコ村、カトイ川のカヤク炭田村(最北の炭田)など数村があるだけです。区の行政中心地のハータンガ村だけが5500人も人口があり、ロシア人が半数以上を占めますが、他の村は数百人で、ノーヴァヤ村のほかは、ドルガン人の村です。ノーヴァヤ村はヌガンサン人が住んでいます。
オグドゥオさんは郷土博物館の館長ですが、私以外の訪問者もいないので、毎日、朝ごはんをゆっくり食べたあと、2人で鍵を開けて入りました。マンモスの牙、タイムィールの自然、少数民族の衣装や道具など、見るものはかなりありました。タイムィールには2千年前までジャコウウシが住んでいたのですが絶滅し、今ではグリーンランドとカナダのツンドラだけに住んでいます。1974年と75年、カナダのバンクス島(北緯74度)から、ハータンガ区の北、タイムィール湖東ビカーダ川流域(同緯度)に30匹のジャコウウシが空輸され、今では何百匹にも増えているそうですが、その様子のビデオが30巻もありました。
ハータンガへは、観光旅行で来たというより、できるだけ北へいってしばらく住んでみたいというのが目的ですから、郷土博物館の内容はこれで十分でした。マンモス博物館は閉館でした。展示物の冷凍マンモスがいないということです。
保証人のドルガン人の家に泊まったので、知り合ったのは大部分がドルガン人でした。ロシア人の多くは、夏期休暇で、クラスノヤルスクなどへ行っていますから、道を歩いても、アジア風の顔つきばかりです。ただ、ハータンガ区の区長とハータンガ村の村長はロシア人です。オグドゥオさんに連れられて、到着の翌日、ちゃんと挨拶に行ってきました。ついでに、隣村のフタルェ・クレストィへ行くためにモーターボートの調達も頼みました。私の旅行日程表に、『もっと田舎に行って少数民族の生活や文化に触れる、魚つり』と、書いてあります。タイムィールでは各集落は、湿原と湖沼地の中の陸の孤島で、陸路はありませんから、空路でなければ、川に沿ってボートで行くしかありませんが、燃料が高くて、個人的に調達したのでは、オグドゥオさんの配当分の300ドルが飛んでしまいます。トップの区長が「努力する」といったので実現するでしょう。
他に、病院の医師はほとんどロシア人です。滞在中、病院見学もさせてもらいました。オグドゥオさんが院長(ロシア人女医)に申し込んだとき「日本に帰って、ここの病院のことを悪く書かれたら困るのですが」とちょっと渋ったそうです。カナダ人が見学に来て、そんなことがあったそうです。でも、許可してくれたので、外科医のロシア人に案内されて見学しました。クラスノヤルスク医科大卒業で経験豊富な医者が、なぜ、北方僻地のハータンガ病院へ来たかというと、クラスノヤルスクの5倍の約1000ドルも給料が出るからだそうです。最近、娘さんが私大へ入って巨額な教育費がかかり、普通の医師の給料ではとても払いきれないのだそうです。ここは、もちろん医療設備の水準は高くはなく、緊急用手術でなければ、大きな手術はしなくて、設備のある病院へ送るそうです。ロシア人はクラスノヤルスクなどの病院に行くので、患者は現地人が多いです。アルコールを飲んだための事故も多いそうです。
ハータンガ村で博物館や病院の他に訪問するところというと、他に図書館ぐらいです。館長はロシア人でした。私が日本人だというので、1996年2月28日付現地の新聞の『日本人冒険家』という記事のコピーをくれました。よくそんな古いものがとってあったと驚いたところ、最近の北極ツーリズムについて調べているからだそうです。「日本人冒険家の大場満郎氏が、2度目の北極点踏破挑戦に、エニセイ湾のディクソンから北極海のスレドヌィ島に飛び、そこからスキーで出発した。去年は失敗し、凍傷で指先を切断するところだった」と書いてあります。
タイムィール半島のディクソンやハータンガは北極圏探検ツアーの基地でもあります。例えば、ここハータンガ飛行場はツンドラの中でも地盤のよいところを選んで造られ、かなり大型の飛行機でも離着陸でき、さらに、北極海用飛行機やヘリコプターもあり、専門のパイロットもいるそうです。ここでヘリコプターなどを調達し、北緯80度のセーヴェルナヤ・ゼムリャー諸島のスレドヌィ島の氷上基地に行き、そこからヘリコプターか、スキーで北極点に向かうのだそうです。91年以降、かなりのツーリスト・グループがハータンガ経由で極へ出発したが、最近は、客をスピッツベルゲン諸島にとられて、ここ2年間は、誰も来ていないと言っていました。ハータンガから北極点まで1956キロあるそうです。(1956年に館長が生まれた)
また、ハータンガ村郊外へ行けるところまで車で行き、そこでピクニックをしたりしました。しかし、郊外はどの方角へ行っても軍事基地(跡)ばかりがあるのでした。巨大な縞模様のレーダーが数台放置されたまま、まだ朽ちないでそびえています。赤く錆びた石油缶が延々と並んでいます。骨だけになっている何かの設備跡があります。雪が融けたので、ごみが目立ちます。しかし、そうした景色にもめげず、私たちオグドゥオさんや友達のドルガン人グループは、白い珊瑚のようなトナカイゴケのふわふわ生えたツンドラを沈みながら歩き、バグーリニクの匂いをかぎ、トナカイ肉の串刺しを焼いて食べました。
タイムィールの地元民族はトナカイの毛皮を着て、トナカイ皮のブーツを履き、トナカイの喉のところにある長い毛を撚って糸にして皮を縫い合わせ、トナカイの皮で移動式住宅の屋根を覆い、トナカイの引くそりで年中移動し(夏の湿原もトナカイぞりなら移動できる)、トナカイの肉を食べていました。他には、夏にやってくる渡り鳥のガンやカモ、年中タイムィールに生息している雷鳥を撃って食べていました。今でも、このあたりの村の少数民族の人たちは、食料に関しては、そうした自給自足に近い生活をしています。
私がホームスティしている間、牛肉や豚肉や鶏肉は一度も出ませんでした。トナカイ肉の他は、ハータンガ川で取れる生か塩漬けか燻製か油いためのチル(サケ科)やオームリ(マス科)などの魚です。トナカイのタンは珍味といわれ、脂肪分が多く柔らかいです。また、この辺では雷鳥(北極雷鳥またはアルプス雷鳥、日本では特別記念物かもしれない)は年中見かける鳥で、食用です。北極フクロウも渡りをせず、年中見かける鳥ですが(私は見なかった)、食用だとは聞きませんでした。渡り鳥のガン・カモ類は、普通は食用です。ところで、雷鳥は(罰があたるかもしれませんが)食べてみると、チキンと似た味ですが少し固めです。羽をむしってスープにする前に胃の中身をお皿に出しました。ツンドラの草や小さな石ころが出てきました。オグドゥオさんによると、雷鳥の胃の中からかなり高価な石が出てくることもあるそうです。
他の食べ物は、全部空輸されたものです。野菜や果物は、質が悪い上、目の玉が飛び出るくらい高いです。ドゥジンカでも、そうでした。牛乳がクラスノヤルスクの6倍もしたのです。でも、ハータンガではそもそも牛乳は売ってもいませんでした。トナカイの乳が利用できそうですが、ドルガン人に聞いたところ「飲まない、飲まない。とても濃いのが、ちょっとしか出ないからね」といっていました。トナカイの関節の軟骨が、赤ちゃんのおしゃぶりです。また、北方民族は、もともと穀物や野菜は食べない民族です。私のために、オートミールや米などを作ってくれましたが、オグドゥオさんの孫たちは食べたがりません。みんなでツンドラへ行くと、たくさんの苔桃などのベリーを摘んできます。これは去年の実で、冬の間雪の下で冷凍保存されていたわけです。やはり、みんな、生まれた土地で取れる物を好んで食べるようです。
この孫たちは両親のいるノリリスクから、夏休みに田舎で出暮らすために来ています。オグドゥオさんが孫にドルガン語で話すと、孫はそれを聞いて、ロシア語で答えます。
家には、その他、私と同じ飛行機でドゥジンカから来た親戚のマーシャという18歳の女の子も、始めの間同居していました。マーシャはドゥジンカの教育短大で学んでいるのですが、夏休みで帰ってきているのです。マーシャの家は、ハータンガの上流ヘタ川のさらに中流のカテルク村にあります。そこまで行く交通手段がないので、ひとまず、ハータンガの親戚の家で、迎えのモーターボートが来るまで待っているわけです。聞いてみると、1歳半の子供がいるそうです。カテルク村まで、モーターボートで8時間以上かかります。数日後、マーシャがもう待ちくたびれた頃、21歳の夫が迎えに来ました。ハータンガ村の店でたくさん買い物をして、帰りのモーターボートの燃料も入手して、帰っていきました。
ドルガン人は、早婚で多産です。女性は年の割には、ロシア人より若く見えます。
ハータンガで家畜のトナカイは見ませんでした。今はずっと北にあるハータンガ川下流のノヴォリブノエ村、センダスコ村、カシストィ村のほかはトナカイ遊牧をやっていません。ですから、ハータンガ村にはトナカイは一匹もいません。ソ連時代は、村々に、トナカイ遊牧コルホーズやソホーズがあり、生産物は国に買い上げてもらっていたそうです。ソ連崩壊後ソホーズなどがつぶれ、ハータンガ川上流の村々のドルガン人は、遊牧を止めて、野生トナカイなどの狩猟と漁労を生業にしているそうです。
タイムィールには、野生のトナカイが70万頭(別の資料によると110万頭)とたくさんいるので、家畜にしないで、狩猟したほうが簡単なのだそうです。野生トナカイは、冬は南に、夏は、蚊の大群を避けて、北、または高地へ大集団で移動します。途中、川や湖沼がたくさんあるので、そこを泳いで渡ります。そのときに銃で撃つのだそうです。撃たれて流れてきたのを川下にいる仲間が受け取ります。(別の狩の方法もあります)
オグドゥワさんの知り合いのノヴォリブノエ村にいるドルガン人は、始め、もとのコルホーズから50頭のトナカイをもらい受け、さらに、ヤクーチアから70頭も買って、120頭を連れて遊牧していたのですが、この冬、半分が狼に食べられたそうです。
さらに、家畜のトナカイを、野生のトナカイがさらっていくことも多いそうです。野生のトナカイと家畜のトナカイは色が違うそうです。
私の滞在中、ハータンガはほぼ毎日、5度という、普通の気温でした。モーターボートに乗ってハータンガ川の少し上流、フタルェ・クレストィ村へ『もっと田舎に行って少数民族の生活や文化に触れる、魚つり』をしに行った日も、5度でしたが、よく晴れて気持ちのよい日でした。北極圏内では、寒さを我慢するか、蚊の巨大大群を我慢するか、どちらかです。暖かい日が二三日続けば、蚊の大群が発生するでしょう。寒さを我慢した方がましです。ハータンガ区長が助力してくれてモーターボートが調達できたばかりでなく、フタルェ・クレストィ村のさらに上流のトーチカ(『点』という意味)に両親が住んでいるという、秘書課のマリアという女の子も同行させてくれました。ですから、マリアは、私の案内をするために、フタルェ・クレストィ村に出張することになり、同時に両親にも会えるわけです。
朝10時半頃、出発しました。真夜中の12時に出発しようが、いつだろうと1日中昼間なので、「暗くなるまでに帰らなくては」という問題はありません。
よく故障するモーターボートで、エンストなどした時は、海のように広いハータンガ川の上を漂いながら、運転の男性二人が長い間かけて修理するのでした。私はと言えば、ちょっと不安になって、「難破船みたいだわ」というと、同乗の4人が笑っていました。ハータンガ川は彼らにとって、自分の家の庭のようなものなのです。
フタルェ・クレストィ村は人口300人あまりで、住民の大部分はドルガン人でヌガンサン人も数人住んでいるそうです。スターリン時代強制移住させられたロシア系ドイツ人のおばあさんが一人、帰るところもないのでずっと残っていると、村役場の人が言っていました。ここにはマリアの両親は冬場だけ住みます。マリアの親戚の家や、学校、村役場など見せてもらいました。そのうち、村人が私の周りに集まってきたので、写真を撮らせてもらいました。私も入っていっしょに撮ってもらいました。後で写真を見てみると、私は村人と外観はぜんぜん変わっていません。ドルガン人の幼児にも蒙古斑があるそうです。
クラスノヤルスクで買っていった旅行案内書によると、この村が有名なのは、1996年タイムィール訪問中のWWF(世界野生生物基金)会長でイギリスのフィリップ殿下が、ここを訪れたそうです。村人も口々にそのことを言っていました。殿下の次に訪れた外国人が私なのでしょうか。
フタルェ・クレストィ村からさらに上流に行ったところがマリアの両親のいるトーチカ(点)です。ここで、トーチカというのはその家族が先祖代々から持っている猟場、狩場の根拠地だそうです。以前は、ボロックという、木の四角い枠組みにトナカイの皮を何枚も並べてかぶせて、そのままそりに乗せて、トナカイに引かせるという、移動式箱家に住んでいたのですが、今は定住の箱家に住んでいます。ちなみに、タイムィールの他の民族は、チュムという組み立て移動式住居で、数本の柱を円錐形に立てそれにトナカイ皮をかぶせて住んでいました。遊牧のため移動する時は解体します。住居や衣装などを見ると、民族がわかります。
マリアの両親は私たちを迎えるとすぐ、その日の朝、網で漁獲した魚を見せ、オームリとチィルの手ごろなのをめったに洗ったことのないような古板の上に載せ、すばやく鱗を剥いで、ここで唯一のかなり使い古されたような雑巾で手やナイフを拭ながら、あっという間に3枚におろし、古板に載せたまま、箱家の中のテーブルに置きました。一人一人の前には小さめの古板とナイフが置かれました。一応伝統的な生活をしているドルガン人が、トーチカで皿やフォークを使ったりはしません。ナイフで切って、指でつまんで食べます。しかし、生の川魚は寄生虫がいるということはないでしょうか。あまり衛生的な料理の仕方ともいえませんでした。この珍味の刺身を目の前にためらっていると、マリアや、マリアの両親、オグドゥオさんたちは、おいしそうにぱくぱく食べています。それで、私も小さく切って、食べてみると、さすがに鮮魚はおいしいです。菌や寄生虫は胃酸が殺してくれるかもしれません。満腹しては胃酸がよく働いてくれません。おいしかったですが、少なめに食べておきました。それにツンドラは寒くて有害菌や寄生虫は少ないでしょう。
このトーチカの周りのツンドラには雷鳥の巣があるらしく、何度も見かけました。体が白く目の周りだけ赤いのや、首まで黒いのや、もう生え変わって枯葉色の雷鳥が、私たちを巣から遠ざけるためか、わざと見えるように飛んでくれました。雷鳥が止まっていたあたりを探してみましたが、巣は見つかりませんでした。ずっと遠くに野生のトナカイの群れがいたので写真に撮ってみました(が、写っていませんでした)。トナカイの群れがハータンガ川を渡るかと持っていたのですが、反対の方向へ消えていきました。今年は、春が遅く、子供のトナカイがまだ泳げるほど成長していないからだろうと、マリアの両親が言っていました。
また、物置用ボロックからわざわざだしてくれたマリアの祖母のドルガン衣装を、試着させてもらいました。今は亡きマリアのおばあさんも、自分が愛用していた服を、はるか遠くから来た私なんかが着ているのを見てびっくりしていることでしょう。毛皮を縫いつけ伝統的な刺繍がしてあり、ボタンまでついています。ソ連軍の星印のや、何かの制服のボタンなどが大きさだけそろえて並んでいます。この辺では金属製ボタンは、貴重品だったのでしょう。
予定の魚釣りはしませんでした。この辺では川に網をはり、それに引っかかった魚を集めてくるだけです。網の目が太いのか大きな魚ばかりかかります。普通は1日1回網を見回りますが、この日は私のために2回見てくれました。小さなカヌーのようなボートにトナカイの皮を敷いて座ります。一人用ですから、私は岸辺で見ていました。
最後の日、ハータンガ区教育委員長のヴァレンチ―ナさん(ドルガン人)の家に行きました。区行政府の要職の大部分はロシア人が占めていますが、ヴァレンチ―ナさんはドルガン人の中では最も指導的な地位にいるそうです。オグドゥオさんより立派なマンションに住んでいました。ヴァレンチ―ナさんはノヴォリブノエ村出身で、同じ出身地の親戚の女性を養女にしていました。ノヴォリブノエ村と言えば、ドルガン人の最初の文学作家で、民族語の作品を始めて文字化した女流詩人のオグド・アクショーノワ(1936−1995)がいます。ドルガン語の辞書も編集したアクショーノワはノヴォリブノエ村で教師をしていました。今そこに妹が住んでいます。オクショーノワの『ドルガン語原文、日本語、ロシア語の3カ国対訳作品集(東京大学文学部言語学研究室発行)』という分厚い学術書を、私は、ドゥジンカ市文化部から頂いています。その本には、日本語訳はヤクート語とドルガン語専門の言語研究者の藤代節氏である、と書いてあります。ヴァレンチ―ナさんによると、数年前、その藤代節氏という方がノヴォリブノエ村に3週間滞在していたそうです。藤代節氏とヴァレンチ―ナのおばあさんはお互いにドルガン語で話していたそうです。私には、ドルガン語の辞書をくれました。4月にエヴェンキ自治管区を旅行した時はエヴェンキ人からエヴェンキ語の辞書をもらっています。どちらの言葉も私はまだ話せません。
北緯72度のハータンガ市では、6月22日の夏至の日の南中高度は41.5度(90−72+23.5)です。最も低くなる夜中の太陽の高度は、私の計算では12.5度(90−18×2−41.5)です。台所の窓からハータンガ川がよく見えたので、いつも家中が寝静まった後、何時間も台所のテーブルに座り、広いハータンガ川の上を西から東へ、北の青空の中を動いていく太陽の番をしながら『タイムィールの諸民族』というような本を読んだり、北極地方詳細地図帳のページを繰ったりして過ごしていました。12時、1時、2時と西日(北日)が差し込み明かりをつける必要はありません。こんなに明るいのに通りには誰もいません。起きているのは私と台所のゴキブリぐらいです。夜中の1時ごろ(サマータイム実施中なので)太陽は真北で一番低くなって、それからまただんだん高くなりながら、朝方に東の方に動きます。最後に見た夜中の太陽は7月2日で、夏至から10日過ぎていますから、最も低くなった時の高度は10度くらいです(90日で高度は23.5度下がる)。私はタイムィールへ11日間の旅行をしましたが、太陽が沈んで夜になることはなかったので、つまり、『日帰り』の旅行をしたということになります。ハータンガでは夏至の日をはさんで前後42日間、合計84日間は太陽が沈んで夜になることはないので、その間の旅行は、何日行っても『日帰り』旅行です。11月10日から2月1日までは太陽が昇らない北極夜が続くので、夜が明けないことになります。つまり、ハータンガは1年がたった200日間くらいしかありません。地球外の惑星に行ったような気になれます。
今回は観光旅行というより、田舎のおばあさんの家でしばらく過ごしてきたという感じでした。滞在中地元テレビ局からのインタビューで、「旅行の目的は」と聞かれた時は、「できるだけ北へ行ってしばらく住んでみる、北方少数民族の文化や伝統を知る。北方少数民族の人たちと知り合いになる。日本にはない北極圏の自然を味わう、たとえば、ツンドラを歩く、永久凍土に触る、ツンドラの動物や植物を見る。ハータンガで魚を釣る。夜中の太陽を見る。それから、トナカイに乗る、冷凍マンモスを見る」と答えました。最後の2つ以外は成就できました。
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