石巻若宮丸漂流民の会
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「若宮丸のロシア漂流と異国体験」

2008.12.23

 ここに紹介するのは、2008年7月23日仙台ホテルで(社)東北経済倶楽部7月例会で行われた平川新氏の講演「「若宮丸のロシア漂流と異国体験」をまとめたもので、東北経済倶楽部「會報」(平成20年10月号)に掲載されたものです。
 この講演の橋渡しをした当会会長でもあり東北経済倶楽部会員でもある木村成忠氏より、「新しく会員になった人たちもいるし、ブラジルとの交流もはじまり、もう一度わかりやすく若宮丸漂流民の足跡を知ってもらううえで、この講演を会報でも紹介したい」ということで、転載することになりました。


「若宮丸のロシア漂流と異国体験」
東北大学東北アジア研究センター 教授 平川 新

 日本が鎖国から開国に踏み出して近代化への道を歩み始めたのは、1853年にアメリカのペリーが江戸湾の浦賀に来航して開国を要求したからだというのが、一般的な見方です。日本の社会科の教科書にもそのように載っています。しかし私は今日、ロシアがそのペリーより75年も前から商人や使節団を日本に派遣して通商を要求、しかもその陰では石巻から出帆して難破した若宮丸の漂流民もかかわり、ロシアなどの海外情報をわが国にもたらしたことを紹介したいと思います。

ロシアの東方進出

 ロシアの探検隊や軍隊は、政府の北方領土拡張政策により1600年前後にウラル山脈を越えてシベリアに入って来ます。それまでヨーロッパだけでしか活動していなかった商人もその後を追ってシベリアに入り、バイカル湖そばのイルクツークに一大都市を形成します。
 ロシアはその後、イルクツークを拠点にオホーツク、さらにカムチャツカを征服、太平洋を渡ってアリューシャン列島に到達します。これが1730年前後のことです。
 その際に活躍した探検隊の一つにスパンベルグ隊というのがありました。「カムチャツカを基地に日本への航路を開発せよ」というロシア皇帝の命を受け、日本に接近します。スパンベルグは日本への航海を三回試み、仙台湾沖にも現れます。しかし、約100隻の漁船に包囲されたため、びっくりして引き揚げてしまいます。
 こうして日本への航路が開かれ、探検隊が開いた道を商人たちが千島列島を南下します。ロシアが日本に接近した理由は、シベリアで捕った動物の毛皮をウラル山脈を越えてヨーロッパへ運ぶよりは、日本に持って来た方が輸送費が掛からない上、帰りには日本の穀物などの食料を買って戻ることができるからです。
 その先遣隊として、1778−79年に北海道・根室のノッカマップと厚岸に来航したのがシャリバンという商人です。このシャリバンこそが、日本に来て初めて日本人に通商を提案した最初のロシア人です。でも、シャリバンの場合は、まだ民間レベルでの来日でした。
 それから13年後の92年、今度はロシア政府の正式な遣日使節としてラクスマンが根室に来航、通商を要求します。その12年後の1804年には第2回遣日使節としてレザーノフが来日、長崎に入港します。

漂流民を交渉手段に

 この2回の来日の際、ラクスマンの場合は、1782年に難破してアリューシャン列島に漂着した伊勢国(現三重県鈴鹿市)の大黒屋光太夫を連れて来ます。またレザーノフは、93年に石巻から出帆して難破、同じくアリューシャン列島に漂着した千石船「若宮丸」の漂流民4人を連れて来たのです。
なぜ漂流民を連れて来たのかですが、当時、日本は鎖国中です。「漂流民を送還します」というような理由を付けないと、とても入港できなかったからだと思います。また「漂流民を通商交渉の手駒に使える」という思惑もあったと思います。
 そこで、レザーノフが入港した長崎ですが「根室でなくどうして長崎だったのか」ということです。それは12年前にラクスマンが根室に入港した際、幕府から「次に来るときは長崎に入港しても良い」との入港許可証をもらっていたのです。だからレザーノフは長崎に入港したのです。
 関係者のこの10年ほどの研究で、ラクスマンが根室に来た当時の幕府の筆頭老中・松平定信は、ロシアがラクスマンのすぐ後に再び使節を長崎に派遣していたら、通商交渉に応じた可能性があったことが分かってきています。ですから、ロシアはラクスマンを派遣した次の年にでも使節を派遣していたら、あるいは日本はペリーよりもかなり前に開国した可能性があったのです。
 それが実現しなかったのは、ラクスマンの来日後に定信が失脚してしまったからです。レザーノフが長崎に入港した際、通詞から「どうしてもっと早く来なかったのか」と言われたということですが、それはそういう事情からです。
 若宮丸の漂流記の詳細は、仙台藩の蘭学者・大槻玄沢が著した「環海異聞」にも載っています。その経路と異国体験を話します。
 まず経路です。若宮丸は1793年11月に石巻を出帆、江戸に向かいます。乗組員は総勢16人でしたが、塩屋崎沖で暴風雨に遭って太平洋を漂流、翌年5月にアリューシャン列島の小島に漂着します。半年近くも太平洋の波にもまれていたわけですが、若宮丸は仙台領で収穫した大量の米を積んでいたので、餓死しなかったのです。

遭難、漂着そして移送

 漂着した直後に船頭の平兵衛が亡くなりますが、残り15人は島民に保護され、ロシア人に引き渡されます。当時、ロシア政府は日本接近を外交の目的の一つにしていました。そのため、日本との交渉に利用できる日本人漂流者を保護するよう、現地住民に指示していたのです。そういう事情で、漂流民はアリューシャン列島からオホーツク、ヤクーツクを経由してイルクツークに連れて行かれ、そこに滞在します。
 漂流民は政府から月に300枚の銅銭を支給されますが、それだけでは生活が楽でないので日雇いなどで稼いでいたようです。中には、ロシア正教の洗礼を受けて帰化すれば待遇が良くなるということで、入信した人もいました。
 彼らは彼らなりにロシアでの生き方を模索したようですが、ロシア政府も彼らを日本語学校の教師に採用するなどして活用しました。これは来るべき日本との交渉に備え、日本語ができるロシア人を育てておこうという考えからのようです。
 イルクツークで生活していていた15人の漂流民のうち2人は亡くなり、13人が生き延びました。その13人は1803年、レザーノフに連れられてペテルブルグへ行きます。レザーノフがロシア皇帝に出した「漂流民を連れて長崎に行き、日本政府と通商交渉をしたい」との提案が認められたためです。
 途中で3人が脱落、10人が皇帝に謁見、帰国の意思を聞かれます。帰国を希望したのは儀兵衛、太十郎、津太夫、左兵衛の4人で、あとの6人は残留を選択します。残留の理由は、洗礼を受けたので帰れない、結婚して子供もいた、病気で長旅には耐えられない――などです。

地球一周し長崎へ帰国

 帰国組は「ナジェジダ号」で大西洋を横断して南アメリカの南端を巡って南太平洋に抜け、ハワイを経てカムチャツカに入り、日本の太平洋岸沿いを南下して長崎に入りました。03年6月に出発、長崎に着いたのが04年9月です。1年4カ月の長旅でした。4人は、結果的に地球を一周して長崎に戻ってきたわけで、日本で初めて世界一周した人たちということです。
 長崎に着いた漂流民は「これで古里に帰れる」とワクワクしたと思います。しかし、通商交渉が目的のレザーノフは「ロシア皇帝の親書に日本の皇帝である将軍が明確な返答をしない限り、漂流民を下船させることはできない」と、漂流民の引き渡しを拒否したのです。
 ところが、その年の12月に漂流民の一人である太十郎が自殺を図るという事件が起きたのです。自殺の理由は「先に日本に帰国した大黒屋光太夫は獄舎に入れられている」との情報を、長崎の通詞あたりから聞かされて絶望した――ということですが、この情報は間違いでした。当時、大黒屋は幕府から御家人程度の生活費を支給され、自由に暮らしていたのです。ただ、伊勢への帰郷は足止めされていたので、それを「幽閉」と見られ、さらに「監獄に入れられている」と伝えられたようです。
 太十郎は幸い一命は取り留めましが、この自殺騒ぎにレザーノフが肝を冷やし、漂流民を引き渡すことにしました。ところが今度は江戸からの指示がないことを理由に日本側が受け取りを拒否したことなどから、彼らの上陸はさらに延びました。結局、彼らが上陸したのは翌年3月になりました。
 上陸した漂流民は長崎奉行所で半年間、踏み絵を踏ませられるなどの取り調べを受けた後、迎えに来た仙台藩士に引き渡され、江戸の仙台藩邸で藩主に謁見、石巻を出帆してから13年ぶりに仙台へ戻りました。
 先に紹介した「環海異聞」は、帰還した4人の漂流民のうちの3人から大槻玄沢が話を聞いてまとめたものです。大槻は、漂流民の情報を「いながらにしてロシアや外国の情報が入手できるほどの精度の高いもの」と絶賛しました。事実「環海異聞」には、大黒屋光太夫の漂流記「北槎聞略」(桂川甫周著)にも収録されていないような情報も盛り込まれています。

「日本は四帝国の一つ」

 大槻は当時のわが国蘭学界の第一人者でしたが、漂流民からの情報を土台に数冊のロシア研究書を出版するなどしてロシア研究の第一人者になりました。帰還した漂流民はそのように大変貴重な歴史的、学問的な情報を提供したのですが、中でも注目されたのは「日本は世界の帝国」という情報でした。
 「環海異聞」には、帝国についてこう書いてあります。「インペラトリ(帝爵、帝号)の国は、世界中四カ所有り、一カ所の名は覚へ留めず、一つはオロシイスコス(魯西亜)、二つはヤツポンスコイ(日本)、三つはケタイスコス(支那)なりとぞ」。これは、漂流民は「ロシアでは『世界には4つの帝国があるが、そのうちの1つは日本』と言っています」と証言したということです。
 帝国の話は、大黒屋の情報を基に書かれた「北槎聞略」にも載っていますが、こちらは「帝号を称する国は世界にはアジアに四カ国、ヨーロッパに三カ国の計七カ国ある」とあり、日本はここにも入っています。
ロシアやヨーロッパでは、帝国は皇帝のいる国、王国は国王のいる国ということで、皇帝のいる国の方が格が上なのです。日本は天皇が宗教的皇帝、将軍が世俗的皇帝、大名が国王だと見なされていたのです。ですから、日本は王国であるイギリスやフランスより上位の、皇帝がいる帝国だということです。
 漂流民は、日本人が知らなかった「日本帝国」の情報をこのようにして持ち帰り、その後の日本の自己認識に大きな影響を与えることになるのです。水戸学の本家である水戸藩の9代藩主徳川斉昭の「外国ではわが国を帝国とあがめ尊び、恐怖致している」の言葉は、まさに漂流民がもたらした情報です。

 これまで話したように、若宮丸の漂流民は、私たちが考えていた以上に大きな歴史的な役割を果たしていたのです。
 そこで最後に、江戸時代の漂流事件について話します。この時代に生存、帰還した漂流事件は約320件に上りますが、実際はもっと多くの遭難事故があったと思います。そして多くの日本人があちこちに流され、漂着した国の大統領や国王に謁見しています。ですから、まだ解明されていない漂流事件や、漂流民の体験などを調査、掘り下げていけば、もっと重大な事実が浮かび上がってくるかもしれません。そうなれば、若宮丸の漂流民が果たした歴史的な位置やポジションは、さらに上昇すると思います。
 今日は大黒屋光太夫と若宮丸の漂流民について話しましたが、2つの漂流記のうちの大黒屋のケースは、大半の教科書に取り上げられています。しかし、同じような歴史的価値のある若宮丸の漂流記は、ほとんど掲載されていません。
 「これでは駄目だ」と2001年12月に「石巻若宮丸漂流民の会」(木村成忠会長)が発足、若宮丸漂流記を教科書に掲載させる運動を展開しています。私もその「漂流民の会」の一会員として若宮丸の乗組員の漂流と異国体験について今後も調査、研究を続け、若宮丸漂流民の評価アップと周知に努めていきたいと思っています。

(会報21号より転載)


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