月刊デラシネ通信 > サーカス&パフォーマンス > 神彰 > もうひとつの「虚業成れり」物語 > 最終回

もうひとつの「虚業成れり」物語

最終章 終わりのはじまり

 いま函館のはこだて写真図書館で「神彰とアートフレンド」展が開催されている(7月18日から9月17日まで)。7月17日に開かれた前夜祭に出席してきた。東京からアートフレンドの元社員の芦沢丸枝さん、山口五百さんが参加したほか、神さんの姪御さんの森邦子さん(神さんの長兄の娘さん)、入山伸子さん(神さんの長姉の娘さん)、函館商業時代の同級生、神さんと不思議な縁で結ばれた佐藤久子さん(神彰追跡レポート2『神彰・幻紀行−函館編』参照)も出席された。小さな集まりであったが、それだけ心に沁みる会となった。芦沢さんと山口さんとは取材させてもらって以来の再会であり、ふたりの姪御さんとは初めてお会いした。おふたりは、この展示会のことが新聞で報道されたあと、はこだて写真図書館に連絡をとり、この展示会のために貴重な資料(神さんが、満洲時代に長兄にあてて送ってきた絵手紙十数展やドンコサック合唱団函館公演の写真など)の提供を申し出たのだ。この資料は私も初めて見るもので、びっくりしたと同時に、本を出す前に会ってお話を聞けばよかったという後悔をすることにもなった。特に森邦子さんは、神さんが「北の家族」を出すときに、東京に呼ばれ、ずっと「北の家族」で働いていたというではないか。神さんが鎌倉に引っ込んでからもよく見舞いに訪れていたという。
 翌日18日芦沢さんと山口さんと一緒にまた立待岬の神さんのお墓をおまいりしてきた。道すがらおふたりから、神さんやアートフレンドの思い出話を聞かせてもらった。おふたりとも神さんと有吉さんの離婚について、当時の週刊誌でも書かれたように、あれは政略離婚で、ふたりとも愛し合い、別れる気持ちはなく、有吉さんに負債の請求がいかないためのものだったとおっしゃっていたのが、印象に残った。お墓には、まだ新しい花が供えられていた。誰が供えたものなのだろう。
 このあと山口さんと一緒に再びはこだて写真図書館を訪れた。昨日はまだ準備できていなかった会場展示は、ほぼ出来上がっていた。館長の津田さんが朝5時から作業をしたという。幼年時代の神さんのスナップ写真や、運転手を長年つとめていた竹中三雄氏が撮影した新婚時代の神さんと有吉さんのツーショットの写真など、いままで公開されなかった秘蔵の写真(『虚業成れり』に使いたかった!)が何点も展示されていた。目を引いたのは、神さんが満洲時代に邦子さんのお父さんにあてた絵手紙十数点である。これは色付きで一枚一枚にコメントがつけられている。よく保存していたものである。ちなみにこれをお持ちの長兄の肇さんは、百才でいまでも元気で函館で暮らしている。またドンコサック合唱団来日50周年ということもあって、ドンコサック東京公演のステージ写真や、函館公演の珍しいスナップ写真も展示されていた。この時ドンコサック合唱団に通訳として同行していた長谷川濬の顔も映っていた。そして二年前亡くなられた丸枝さんのお姉さん横岩長さんが保存していたアートフレンドが主催公演したパンフレット、「アートタイムス」、さらには神さんが「北の家族」時代に発行していた社内広報誌「北声」なども手に取って閲覧できる。こぢんまりとしているが、なかなか中味の濃い展示会になったのではないだろうか。津田さんの力が大きい。
 仕事の合間をぬって、強行スケジュールの中での函館訪問であったが、やはり行って良かった。そしてこれで神さんとアートフレンドを追う旅が終わったのだという実感がわいてきた。思えばいまから6年前に函館を訪れ、立待岬の神さんのお墓まいりしてから、私の神彰を追う旅が始まった。神さんの評伝『虚業成れり』を書き上げ、それから二年余り『もうひとつの虚業成れり』というこの連載を通じ、いろいろ余話を書き綴っていたのは、どこかで、まだ終わっていないという気持ちがあったからだろう。しかし旅の出発点となった函館でこうした展示会が開かれ、神さんやアートフレンドに縁のある方にお会いできたことで、この旅は終わった、そんな気持ちに自然になれた。

 もうひとつこんな気持ちになったのは、「アートタイムス」というアートフレンドが1959年から出していた機関誌を、リュニアル復刊させたことがあるかもしれない。取材中にこの「アートタイムス」を初めて見た時は、びっくりしたものである。アートフレンド友の会の会報なのだが、その中味の濃いこと濃いこと。アートフレンドが呼ぶアーティストの特集が中心なのだが、それだけでなく、アーティストを呼ぶために訪れた海外での旅行記やエッセイ、さらにはその時々のアート情報など、14頁の誌面に詰め込まれたその内容の豊富さには圧倒される。何よりも感心したのは、毎号表紙の裏に掲載されたフォト・エッセイである。プラハの街並みの写真に、カフカの小説の一節が、アート・ブレイキーの写真にはギンズバークの詩が、パリの石畳の写真にはランボーの詩の一節が付せられているのである。なんという素晴らしいセンスであろう。
 今回函館での展示会の開催が決まった時、プログラム代わりになるものをつくりたいと思った時に、真っ先に浮かんだのが、「アートタイムス」であった。これを復活させることで、アートフレンドの精神を伝えることができるのではないかと思ったのである。そしてこの時、同時に三月に会った大学四年生の横山泰史君の顔が目に浮かんだ。彼が授業で制作している雑誌の取材を受けたのだが、ロシアアヴァンギャルドにはまり、六〇年代や七○年代に生きたかったと言っていた彼には、今どきの若者とはちがう匂いがあった。なにより自分たちの雑誌をつくりたいという熱意があった。さっそく話を持ちかけると、すぐに乗ってきた。執筆者もすぐに思いついた。半谷史郎氏と大谷政和氏のふたりである。ふたりともクラッシック音楽の大ファン、そして『虚業成れり』を通じて知り合りメールのやりとりをしていた。半谷氏とは二度会った。彼は『虚業成れり』を読んで触発され、モスクワにあるアルヒーフを漁り、神彰とアートフレンドと当時のソ連文化省とのやりとりを克明に記録したたくさんの史料を発見したという。これらの史料を分析するなかで、日ソ交渉の知られざる一面を明らかにしたいというのだ。私の本が、こうした新たな研究のきっかけになったことがほんとうにうれしかった。半谷氏の研究の一部は『思想』七月号に発表されているが、さらにもっとアートフレンドとソ連の関係を掘り起こすものが、彼だったら書けるはずだ。ふたりからすぐに快諾のメールが届いた。
 デラシネのデスクをしている大野さんも巻き込み、アートタイムスの制作が始まる。大野さんと横山君と、編集会議と称し、野毛で飲みながら打合せをするのだが、結局何を打ち合わせたのかわからなくなるほど、飲み耽り、あとで何にを打ち合わせたのか、確認するありさまだった。アートフレンドの社員の人たちにさんざん聞かされた公演のタイトルをつけるための打合せや、独身者が会社に残って酒を酌み交わしたりした情景がなんどとなく目にうかんだりした。あの梁山泊のような雰囲気を、少しは追体験できたような気がした。
 7月から本業のため出張が続き、あとは横山君にすべてを丸投げ状態で任せるしかなかった。しかもなんとか前夜祭までには函館に届けてくれという無理なお願いまでしてしまった。いろいろハプニングもあり、まさに綱渡りの状態で完成にこぎつけてくれた。前夜祭の日に函館に着き、はこだて写真図書館で津田さんから「『アートタイムス2006』届いているよ、いいもの出来たね」といわれ、現物を手にした時はうれしかった。時間がない中、横山君をはじめ、デザインを担当した粟谷君が、ほんとうによくがんばってくれた。個人の力ではなく、執筆者も含め編集スタッフが共同でつくりあげた、そんな実感がしみじみと湧いてきた。せっかくこれだけのスタッフが集まったのだから、これだけで終わらす手はない、今回執筆してくれた半谷氏や大谷氏のように、気鋭の研究家もまだまだ周りにはいる。この雑誌を発行し続けていこう。すでにその決心は固まっていた。

 こうした作業を続けるなかで、神さんやアートフレンドがめざしていたものを、自分たちも追いかけることができるのではないか、その意味では、確かに今回の展示会は、私にとってひとつの旅の終わりではあるが、また新たなはじまりともなった気がする。
 自分も呼び屋、神さんやアートフレンドの血を引いていると勝手に思っている。その精神をひとりだけでなく、仲間たちと一緒に継いでいきたいと思う。必ずしも一流のアートを呼ぶだけでなく、心の中にある「幻」を追い続けること、それこそ私たちが受け継ぐアートフレンドスピリットではないだろうか。そしてそこから今度は私自身の「もうひとつの虚業成れり」が始まるのかもしれない。


連載目次へ デラシネ通信 Top 前へ
長谷川濬―彷徨える青鴉